本来、仕事というのは簡単。/ Originally, the job should be easy.

今週木曜日、19時前にモスクワ川を眺めて。

今回の記事でも、誤解を恐れずに言えば、本来、仕事というのは簡単。そう考えています。ただし、お客さんの心を読むこと、コントロールすることは出来るわけがなく、そればっかりは最高難易度の仕事です。

とりわけ、会社の管理に関する業務は自らでコントロールできる割合が高い故に、問題解決できる確率も高いはずです。その意味で、仕事は簡単。

…のはずですが、ところがそうはいかない。なぜ?!いつも自らの思いと現実との大きな乖離に悶々としつつも、そのギャップにある人間という生き物について深く考えてしまいます。

一人ひとりが、同じ会社で働く仲間として同じゴールを目指している。お互いにそれを分かっているはず。なのに、一人ひとりにエゴがあったり、どうしても他人よりも自分が(自分の課が)上の立場にいたい、有利になりたい、一言何か言わなければ気がすまない。何か文句を言わなければ納得しない。結局、物事の結論がまとまらない、先に進まない、いらいらする。お互いに険悪になる。そんなことが皆さんの周りでもないでしょうか?私は何度も経験してきました。その度に、「なぜこの人はこんな考え方をするのだろう?何か昔に経験してきたこと、家庭での環境が彼・彼女の考えを形成するのに影響を与えたのだろうか?」と考えることあります。

ただただみんなが、一言いいたいことを我慢して、”今回は彼・彼女の言うことを聞いてあげよう”、”思うことはあるけれども、会社全体のことを考えて提案してくれているのだろうから支えてあげよう”、(年齢が上であれば)”私もそんな時代があったなぁ、私にできるアドバイスを言葉巧みに伝えるけれど、彼・彼女のよい経験になるに違いないのだから、言われた通りに従ってあげよう”など、そんな風に優しく、謙虚にいることができれば、やっぱり仕事は簡単に進むはずだと思うのです。いかに人間という生き物が難しいか…イライラするのを通り越して、ただただ感心してしまいます。

街を歩いていて、弱い犬ほどよく吠える。そう思います。人間社会も同じではないでしょうか?能力があまり高くないスタッフほどやたらと些細なことに口を出してくる、文句を言う。会社という組織にいる以上、そんなスタッフの声もあからさまに無視をすることはできず、会社全体にとっての、その状況での最善な回答を導き出す。悔しいですが、毎回自分で考えている物語のようにはいきません。それでも、自らの目指す方向に持ってゆくためには、日頃から可能なところで仕事では”あえて負けておく”ことの大切さ。それによって、こちらが譲れない決定の時には、相手に認めてもらえる関係を築いておくこと。結局のところ、将来を見据えた一日一日の行動が重要であることを学んでいます。本当のWin-winな関係というのは、日頃のLose-winの回数をどれだけ積み重ねて、相手を尊重しているかを示すことにあるのだと思っています。

”仕事はどうでもよい” / “What’s the reason to worry about your job so much?”

つい先日、赤の広場すぐ横にあるボリショイ劇場にでかけてオペラを観てきました。芸術にはさっぱり疎い私に、部下たちが「一度はボリショイ劇場に行ってくださいな」と、プレゼントしてくれたボリショイ劇場のチケット。とても有難く貴重な時間を満喫しました。私の席をステージから遠い後ろの席に座っていたおばあちゃんに譲ってあげると、何度も「ありがとう」とお礼を言われ、何だかとてもよいことをした気分になりました。素晴らしい劇場でおばあちゃんも私もそれぞれ幸せな気分に。

仕事について。

どこか俯瞰的に見て、誤解を恐れずにはっきりと言うと、「仕事はどうでもよい。」という観点を持っておくのは重要だなぁ、と。

仕事のためにウツとならず、最悪の場合自殺まで考えるようなことにならないためにも。部下にも上手に働いてもらい、逆にやる気になってくれて、仕事がむしろうまく回ることも期待できます(すべての場合にうまくゆく保証はないのですが)。また、”どうでもよい”と言っても、このバランスが非常に重要で、これはいい加減に仕事をしてもよい、というのとは決して違います。

いつも自分の仕事は完璧に、納得のゆくまできっちりと詰めたい。そんな気持ちがあります。資料作りも文章も納得のゆくまでこだわりたい。そのためにはいくらでも時間と労力をかける覚悟はある。この心意気が非常に重要だ、ということに間違いありません。一方で、何かしらの問題が降りかかってくる毎日の中で自分のペースで仕事はできない。どうしても自分の持ち時間と処理能力の限界にぶつかります。それでもあえて妥協せずに完璧さを目指すのであればできることは限られます。

プライベートを犠牲にして仕事にとことん時間を費やす。ひたすら自らの処理能力を高め、IT機器・ソフトウェアなどの処理スピードを高めてくれるアイテムへの投資をする。 ― 確実に遅かれ早かれ限界にぶつかります。なぜならば、ここに関わっている人間はわずか、私ひとり。そして、悪いことに、この自分の要求するレベルを周りのロシア人スタッフに強要し始めると、軋轢が生じます。ほとんど人はそんな完璧さをすべての仕事に求めていませんし、おそらく必要ないのだと思っています。

日本の芸術、工業製品の素晴らしさは細部にとことんこだわっていること。人の目にふれないところまでも。それは誇るべきことですが、仕事は芸術品とは異なり、外してはいけない仕事と、多少物足りない点があってもとにもかくにも進めるべきものがあります。その判断をするのがマネジメントの責任ですが、日常生活の多くでぶつかる問題の多くは、スピード重視。「あなたの完璧さなど求めていません。とにかく早く決断してください。進めてください、明確な指示を出してください。」と一つ一つの課題がまるで言っているかのようです。

どこかにもう一人の自分を常に持ち、自らを客観的に見ることの大切さ。そのもう一人に「どうでもええやないか。」と言わせることでバランスを保つ。どうでもいい、だからこそ楽をしたい(その分、自らはもっと大切で重要な仕事に時間を割く)。そのためにはロシア人の部下にとことんお願いする。「頼みますよ、お願い。あなたの助け無しにはどうにもならないんだよ」と、上手く甘えることができるほうがずっと完璧主義よりも良い結果につながっています。

仕事の結果だけではなく、ロシア人部下とのよい関係も築けるというおまけつき。

「仕事はどうでもよい。」 ― 誤解を恐れずに、改めてはっきりとこの言葉の持つ重要性を強調したいです。

休日に皆でせっせとペリメニを作る / Being busy to prepare pelimeni all together

日曜日、ロシア人の友人宅でせっせとペリメニを手作りしました。ペリメニは水餃子のようなイメージ。もともとはシベリア地方発祥だそうで、昔は(今も?)シベリアでは冬になると多くの家庭でペリメニを作ってはそのまま外に置いておき、自然の寒さで冷凍保存していたそうな。外は冷凍庫よりも寒いであろうシベリアならではの発想ですね。そして、皆で協力し合って作り、その過程で色々な困難にもぶつかるのですが、最後は皆で仲良くご馳走になる。お店で買うペリメニなんかよりずっと美味しい。また一つ、ロシアでの良い思い出が積み重なりました。

サワークリーム(スメタナ)を付けてご馳走になります。

ブログを書くことの効果 / The benefit of writing blog

ブログは、徒歩とオートバイの間、自転車に乗っている、そんなイメージです。(オートバイと車は私にとっては自分の理解の範疇を超えている、とてもじゃないけど自分でいじれないという意味で同じカテゴリーに入ってます)自分で全ての部品をいじることができる、理解ができる。そしてかつ自分の力加減次第で十分なスピードも出せるし、ゆっくりとしたスピードも保てる。そんな自転車のような感覚です。

1.スピード

サラリーマンとして働くうえで、学生時代のように自分のやりたいことだけを中心に考えていればよいわけではなく、仕事の比重も大きくなります。とにかく時間がない。でも勉強のための時間は削りたくない。

私はノートの自分の手で書いてゆくのが大好きです。ノートで書いていると、後で振り返った時に、コーヒーをこぼしてしまったページだったり、意味もなく描いていた絵があったり、その瞬間を思い起こすことが楽しくもあります。そんな効果がノートにありますが、やっぱり時間がない。大学3年生の頃に挑戦した半年間のバックパッカーの時代から初めて日記をつけ始めました。それがただの日記から徐々に自分の考えを書き連ねる内容へと変わり、毎日ではないのですが今もずっと続いてます。大学時代も受験勉強のためにひたすらノートに英単語を書き連ねていました。手で書く作業が歩くことだとすると、ブログは自転車です。パソコンを利用することで、適度なスピードを持った有効な方法です。

今は声で話して音声入力をする機材も出ていますが、いつの日か自分の頭の中で考えたことばが電気信号に変換されて、それが自動的にパソコンに打ち込めることが標準化される時代がくるはず。そうなると、文字入力のスピードは自転車からオートバイクラスへ段階があがるのでしょう。次の「頭に刻み込む」ためのプロセスにはキーボードで打ち込む作業が重要と思うため、このプロセスをカットすることに今は素直に賛成はできないのですが。スピードアップが単純にインターネットで検索すると、言語化することに成功した実験結果の論文情報に行き着きました。https://www.nature.com/articles/s41586-019-1119-1.epdf?referrer_access_token=9I4rzoGIXyG4jlZvowH8UdRgN0jAjWel9jnR3ZoTv0PrAYuou8HGBumf5856SOeMP3yatwCdGGdYG2as4_NZVyrw8XnCtlEIm6RmcqHvH201iTWornZCuAPh_aluHS_XyXjOqd7sNLJ8_-xHRh4x4gUWOgNG6EJtZIJyN227giD5RzTFYLuxiavKCXiqUIhuY8Jih2DF6PKf1AfHyfqsu7FBI0bG8V1WBHuq_Jx5Jxraf1ZUsmhUNpPoGmeeBOMb&tracking_referrer=www.nhk.or.jp

2.頭に刻み込む

手を使って書くことは、やり方を間違えさえしなければとても大切です。

大学受験の勉強時代、上記の通りひたすら小さな字で英単語をノートに書き連ねてました。それを見た同級生からは「そんな書いて覚えられるの?」なんて笑われて茶化されたこともありました。正直に申すと、その友人の言う通り、書いた労力のほどにはあまり覚えていなかった、というのが事実です。おそらく、当時は自身もなく、プレッシャーに負けないために、ただただ書くことしかできなかったのではないだろうかと。

パソコンで文字を打つとき、大切なのは頭の中で入力するフレーズを語りながら、リズムを持って入力してゆくこと、まるで楽器を演奏しているかのように。すべてのことに言えますが、一つ一つの自分の行動を意識して行うことでそれが脳に刺激となって残るのだと感じます。周りに迷惑でなければ、声に出すことで耳からの刺激も伝わりますし、使えば使うほどに頭に刻み込まれる確率が高まるのだと思います。

私が考えるに、手で書く効果は、適度なスピードで手を動かし、その過程の中で頭に刻み込まれる時間が他のプロセスと比べて多くとれることにあるのではないだろうかと。その点、パソコンは、例えば「あいうえお」とキーボードを打ち込むと、5回打てば完了。手で書いてもそれほど時間はかかりませんが、一つ一つ書くのにパソコンよりも時間は必要です。パソコンはそれだけ意識せずに書いてしまう可能性が高いのかもしれません。だからこそ、ただ時間をセーブしたいがゆえに、どれだけ早く入力できるかに意識を捕らわれてしまうのではなく、意識して頭の中で自分が書いているこの内容を反芻すること。そして脳に刺激を与えながらキーボードを打ち込むことで記憶への定着が高まるのではないかと、それがブログを書く意味で勉強した内容が頭に入ってくる効果を実感しています。

それでもやっぱりノート

それでも、ノートに書くことは、それ以外の貴重な達成感があるので一概にノートを捨て去ることはできません。自分の書いたノートが積もり重なっているのを見て、自分史ができていることに満足を感じること(ただノートの数量を増やすことが目的とならないように注意が必要です。定期的に中身の見直しをしてこそ、ノートに記録する意味があるはずです)。また、利き手とは反対の手で記述することで、両手を使うことができるように練習となり、それが脳への刺激にもなっている。そう思っているのでやっぱりノートは自分にとってとても大切です。

ロシア語(英語)での会議で気をつけるべき誤解 / Be careful to misunderstand in the meeting organized by Russian colleagues, in Russian language

時々、業務の関係でロシア人のための、ロシア人による、ロシア語でのビジネスミーティングに出席する機会があります。その際の注意点です。わが身への自戒も込めて。

・年齢

・声の落ち着き

・外国語

・流暢な説明、多くの情報をちりばめた説明

これは大きなバイアス要因となりうるので注意が必要と思います。外国人で自分自身より年齢が上で貫禄がある。これだけで、この人は自分よりも人生経験も仕事経験も私よりもすごいので、この方の発言内容は信頼できるに違いない、と勘違いしてしまう危険があります。実は頓珍漢なことを話しているだけで内容はたいしたことがないケースもあります。

冷静に話す人、低い声で。低い声で話すことは、安定感を相手に与えるので勧められていますが、その話す内容をよく聞くことが必要です。声の音質から感じられる落ち着きにだまされることがないように注意が求められます。

外国語。ロシア語を母国語とする人に私たち日本人が勝てるわけがありません。ロシアという場でロシア語で話される。そのことに対して自動的に、この人の言っていることはよく分からないけれども、よく分からないからこそ、とにかく頷いて、信じたくなる。そんな思いにかられてしまうことがあります。

たくさん話す人は結果としてポイントを分かっていない人が多い気がします。それで?何がいいたいの?と。物事の本質、要点を分かっている人の話は的を射た説明ができるがゆえに話の最初の部分で言いたいことを把握できます。一方で、話が長い人は、自分でも何を言っているのか分からなくなっているのでしょう、話せば話すほどに自らを苦しめるのですが、どのように話を終えてよいのか自身でも分からなくなってしまっているのでしょう。

最後に、ロシア人の面々の前でロシア語(英語)で皆の前で発言するときの大切なことについて。心臓のドキドキ、バクバクが止まりません。いかに通常通りの声の質で話すことができるか?完璧な言葉で話せるわけがありません。大切なのはとにかくしっかりと話すこと。相手に理解してもらえるように言葉を選んでゆっくりと相手に伝わるように話すこと。そんな一つ一つの経験、こんないい歳をしたおっさんがこの年齢にになってロシア人の前で失敗して苦笑いされたり、恥ずかしい気持ちにもなるのですが、いつまでも失敗してでも挑戦してゆくこと。これが年齢を重ねる歳をとるほどに一層大切になってくるなぁ、と感じます。失敗すると、やっぱり嫌な気持ちになり、なにくそ、と思わないわけがありませんが。

でも失敗する、ということは挑戦していることの証拠でもあるので、その時々に感じる感情、思いを大切にしてゆきたい、そう思います。

いつまでも素直でいたいものです / Being always acceptable and flexible

人の成長にもっとも大切な要素は一体何だろう、とロシア人の部下と働いていていつもいつもどこでも考えてしまいます。

素直さ。

これが全てではないか、と。そして、細かいこだわりを持たないこと。これも素直さと繋がっているのだろうと。こだわりを持てば持つほどに自分と周りを苦しめる。自分と異なる価値観を持つ他人の見方を許容できる素直さ。

人にアドバイスされて言われたとおりにやってみる。すぐにやってみる。余計なことを考えずにやってみる。それが出来る人がどれだけ少ないことか。私も年を重ねるにつれてそうなりつつあるなぁ・・・と、時に振り返ってふと思うことがあります。己として、絶対に譲ってはならない芯を持つことは必要ですが、どのレベルでのこだわりなのか。自分として強いこだわりを持つものの、そのこだわりがどれだけ高い次元のものか?マネジメントを担う人間にはその高さが求められているのかもしれない、と。

オフィスの棚を入れ替えたい。そんな意見が部門から届きました。どんなデザイン、どんな大きさにしようか?そんなことでも女の子たちは細かいデザインの違い、サイズ、色にこだわって議論している様子を見て、う~ん・・・自分だったら違うかなぁ、という思いもよぎるのですが、本人たちが納得して購入する、それで仮に失敗してもたいした金額ではなければ、またやり直せばよい。そこに私自身の色やデザインの好みを強く主張する必要はないんだなぁ、と。たとえ自分の家ではこだわりがあるとしてもです。そこにあるべきマネジメントとしてのこだわりは、一人でも多くのスタッフは自由に自分の意見を発言し、議論をして自らで決めてゆくこと。会社の決定の中で、自身の主張が同僚との議論の間で考慮されていることを実感すること、なのかもしれません。

繰り返しになりますが、私ももちろん、人は年齢を重ねるほどに、自分のこだわりが強くなり、素直さを持つことが難しくなってゆくのが自然だと思います。以前にはすんなりと従っていたのに、次第に自分も“賢く”なってきたと感じ、自分のこだわりも増えて、それを他人にも強要し始める。まずい兆候です。

いつまでもどんなことでも受け入れられる素直さを持っておくためには、こだわりをもたないことは非常にプラスだな、と。どんなものでも受け入れられるので、進めてくれる相手から喜ばれるし、自分も新しいことを経験できる。良いことだらけです。

レストランでも、メニューを見ても何に決めてよいのか分からない時。サービススタッフに、「あなたのお薦めは何ですか?」と聞くと、「私はこれをおすすめです!」そう返ってくれば、喜んで「OK!ではそれを持ってきて」。そうすれば相手も喜ぶし、なぜ相手がこのお店でこれを薦めてくれるのか(結果のよしあしに関わらず)分かるものです。

スタッフの中には、経験を積んできて私が何もあなたから教えてもらうことはない、と考えているのか、どれだけアドバイスをしても聞き入れない部下がいます。目の前でノートにすべき仕事をメモしているのに、しばらくして進捗確認をすると全く進んでいない。しまいには” don’t know”ときます。本当の馬鹿なのか(いや決してそうではなさそう)、よほど喧嘩を売っているのか(これも違う)、私自身を単に気に入らずに分かっていてもやらないのか(口論になることは一週間に亜何度かありますが、だからといって決して私を嫌って何もしないわけではない)・・・。人はどんなに言っても変わらない。手を常に差し伸べる努力は欠かしてはならないものの、どこかのタイミングでその手を引っ込める時期があること。この決断が必要なことも感じています。

素直さの大切さを説いたノウハウ本が幾つも世の中には存在すると思われますが、果たしてどれだけの人が口では他人に「さあ素直に、謙虚にいましょう」と発言しても、実際の行動にそれが現れているだろうか ― そう考えると疑問が湧いてくるものです。これだけ世間に同じ内容のノウハウ本がありとあらゆる国に存在するということは、つまりそれだけ需要が絶えないわけなので・・・。いかに頭の中では知識として素直でいることの大切さを理解していても、心に到達していないことか。

素直でいること。簡単なようで非常に難しい、でも自分次第ですね。

仕事で両手を正しく使用することの大切さ / The importance of using both hands at work

モスクワ川遊覧船から見るモスクワの街の光景。 21:00出発、23:30に出発点に戻るコースで船上で夕食を楽しみつつゆったりとした時間を過ごした晩でした。

ロシア人スタッフの働きぶりを見ていて、両手を正しく使用できていないなぁ、ということが気になって仕方がありません。主にパソコンのマウスとキーボードの使用方法のことです。IT読み書き知識以前に、基礎の基礎として両手をキーボードの上に置くこと。これ大切です。そして、片手をキーボード、もう片方をマウスの上に、という基本スタイルは誤りだ、ということを認識する必要があります。パソコンの技術的な向上は、まずはこの基本姿勢ができてから。

たまたま書棚にあった「計算力を強くする」著:鍵本 聡氏の本の中に興味深い記述がありました。

計算間違いをしそうな学生の具体的なイメージ・・・左手(右手)を使わない学生・・・計算・・・は、頭と体を同時に使った作業・・・頭だけでなく、体の状態も大切なのです。・・・これはあくまで筆者の経験で書いていますが、左手をノートの上に置くことを実行させるだけで、計算力が格段に向上する学生が何人もいます。鉛筆を持っているほうの手だけでなく、反対側の手が大切なのです。

これは仕事のスタイルとして、両手をキーボードの上に置くことを基本姿勢とすることと同じことだと思います。 学校の勉強でも、ペンを持っている反対の手に消しゴムを持ち、必要に応じて使い分ける。経理スタッフは、ペンを持つ反対の手で電卓を叩いて計算する。両手で書くことができるようにすること。両手があるのだから、両手を効果的に使用する。そんなことを実践中です。両手を使用することで脳のよい訓練にもなっているのではなかろうか、と感じています、明確な根拠を示すことができないのですが、私自身の経験から述べると、仕事のアイディアがどんどん浮かんできたり、業務の生産性が上がっている。そんな風に思う場面が増えました。

ショートカットとマウスを適切に使用する

マウスを使う意味とショートカットの活用方法の境を理解した上で、双方を上手に使用できること。(マウスなしですべてキーボードとタッチパッドで処理する、という考え、マウスに頼ってばかりの操作方法の双方が誤りです)そして、両手を使うことで仕事にリズムが生まれます。

楽器を演奏するように、キーボードのタイピングにはリズムがあります。私が考えるに、このリズムを途切れさせないこと、このリズムに”音楽性”を持たせることが大切なのではないかと。マウスを使って悠長に対角線上に矢印を移動して画面をとじたりメニュを一つ一つ探す、こうなるとこのリズムが崩れます。

ショートカットを使用することはこのリズムを維持するのに重要ですし、その合間に入ってくるマウス操作のゆるさが緩急を生んでいる(はず)。

以前勤務していた経理スタッフの女性に「ショートカットを覚えるのは大切だよ。」と言うと、以前に韓国企業での勤務経験もあった彼女曰く、「東洋の人はショートカットにこだわるけれど(決して嫌味ではなく、笑いながらです)私にはそれほど必要ではありません。時間内で業務を終えられているし」とのこと。実際残業もなく仕事を処理していました。

時間に対する意識の仕方が考えと行動を変える第一歩

どんなに私の考えを伝えても、スタッフ全員に強制することはできないので、少しずつスタッフと会話して、IT読み書き力が上がってゆくのを眺めているところです。何よりも、自分の持っている、二度と戻ってくることのない「時間」に対する意識の度合いが人の行動を大きく変えるのだ、ということを今とても実感しているところです。1秒でも、とは言いませんが、今このときに1分あればどれだけ多くのことを成し遂げられるのだろうか、いかにこの無駄な作業を終えられるだろうか、たとえ業務量が多いとしても、どれだけ残業をせずに仕事を確実に終えらセルことができるのだろうか、そんなことを真に意識することから行動が変わってくる。そんなことを言ってもロシア人スタッフの多くには理解してもらえないのですが・・・。毎日、どんなに忙しくてもきっちりと1時間のランチタイムを取り、大きな声で笑う声が聞こえてくるのを微笑ましく見ながら、一体どっちが幸せなのだろう・・・?と自己吟味する毎日です。

ロシア人部下のマネジャーの権限を飛び越えて自ら全てを掌握したいと思うとき、我慢です。/ Patience – when you want to get full control of everything jumping over the responsibility of Russian managers

郊外に向かう列車の中で、民族衣装を着た高齢の女性が突然大きな音で音楽を流し、カラオケを始めました。くるくる回る踊り付きです。思わず車両に乗っているみんなも笑顔になるほかありません。こんな年配でもこんなにも活力があって、少しでも生活の足しにしようとお金を稼いでいる。こんな女性の姿を見て、どれだけ一生懸命に日々を生きているのだろうか、と考えずにはいられませんでした。

部門責任者として各課の業務に責任を持つ者としては、各スタッフの働きぶり、仕事の進捗状況がとても気になるものです。どうしてもやってしまう過ちは、各課のロシア人マネジャーを飛び越えて末端の部下と業務進捗を直接確認し、指示を出してしまうことです。会社規模も小さいがゆえすべてが見えること、自ら動いて指示を出すことが安心でもあるゆえ、課にはマネジャーがいることが分かっていてもその上に立つ者として、マネジャーの気持ちを考えずに行動してしまいかねない。そんな過ちをしばしば犯してしまいました。

課のマネジャーからすると、「私の部下なのに、なぜXXXさんは私に言わずに直接指示をするのかしら?私のことを信用していないのだろうか」と。マネジャーと私の間の関係の雲行きが怪しくなる瞬間です。

課のマネジャーとの会議で「じゃあ、あとは課の中で話し合って報告してね」「はい、分かりました」と。そう言ったあとで、よかれと思ってその課全体にマネジャーにお願いした内容を改めて私がメールで書き出します。そうすると「さっきは私に部下と話し合って報告してね、と言って合意したのに、なぜXXXさんは私の部下にも含めてメールをだすのかしら?」とマネジャーは疑問を持ってしまいます。

今年春にあったことです。スペシャリストの女性スタッフの給与昇給とポジションタイトルを変更することになりました。課のマネジャーには、この女性に給与とポジションの変更を一緒に伝えよう、と予め会話をしていました。このスペシャリストの女性はアウトソース契約であるため、彼女のポジションタイトルが変更すること自体、社内の人事に大きな影響を与えるものではありません。アウトソース、という認識が強く、私自身が深く考えていなかったことが原因ですが、彼女が私の席に別の用事でやってきた時に「ちょっと時間ある?話したいことがあるんだ」といって彼女と会議室に行き、待遇の変更を伝えました。課のマネジャーと私のスケジュールの調整がなかなか出来ず、頭の中では「はやくスペシャリストの彼女に待遇変更を連絡しないと、しなければ」という焦りの気持ちもありました。そんな時に彼女と話す機会が生まれ、咄嗟に「ちょっと時間ある?話したいことがあるんだ」となったわけです。それを後から知ったマネジャーは激怒。

「あなたは私との約束を裏切った。あなたは私が同席のもとで彼女に待遇の変更を伝えると約束したじゃないの。そんなことをする人だなんて思わなかった。失望しました」とのメール。「申し訳なかった、今さっきの話だから、まだやり直せる。もう一度あなたも入れて面談をさせて」と。「今更そんなことやっても無駄。あなたがすべて伝えてしまったのだから、今になって私が同席して同じ内容を繰り返しても意味がない。ひどすぎる」と続きます。あとはごめん、もう一度面談を設定しようよ、と言っても頑なに「あなたはすべてを台無しにした。」と返ってきます。マネジャーの彼女としては、自身の評価によってスペシャリストの彼女の昇給とポジション変更が叶ったことを本人の前で伝えてもらいたかったようです。そして、いくらアウトソース契約だからといって、マネジャーにとっては毎日接している部下で、日々自らが彼女の成長のために教育をしている身です。そんな彼女にとっては自らの提言によりマネジメントからの承諾を経て、自分の部下が昇給し、ポジションタイトルも上がることを大変誇りに思っている。それを伝える貴重な機会に自分が不在であった、自分に約束したことが反故にされたこと。それに深い失望を覚えたようです。マネジャーの彼女の気持ちを汲み取っていなかったことをその日は深く反省しました。

そのあとしばらくその彼女とのコミュニケーションが途絶えたのはご想像の通りです。後日、マネジャーの彼女からメールが届きました。「もし本当に先日のことを申し訳なかったと思っているのであれば、今日、ぜひ一緒に彼女に再度伝える場を設定しましょう」と。しっかりとマネジャーの彼女に絞られてしまいました。「今日の面談はどうだった?」と聞いたら「Не плохо(ネ、プローハ)悪くなかったわよ」と合格点をいただきました。これでも一応部門のトップなんですけど…と内心思ったのですが、人によってこの考えは千差万別とは思いますが、私は時に部下のマネジャーから怒られること、いじられること、そんなスキを与えることも円滑に部門を束ねるために必要な点なのだろうな、と考えているところです。

「日本人と仕事をするのは疲れる!」/ “Really feel tired of working with Japanese!”

モスクワ中心街の高層ビル群、Moscow Cityの85階にあるレストラン”Ruski”(ロシア料理店)からのモスクワ市街の眺め。世界が小さく見えます。自分の悩み事もちっぽけに見えてくる?写真左手に見える塔とその周りの広場は第二次世界大戦の勝利を記念して作られた”Victory Park”です。お気に入りの場所のひとつとなっています。

「日本人と仕事をするのは疲れる!」

これがずばりロシア人スタッフの本音ではないでしょうか。毎日ロシア人スタッフと働いていて、彼らの反応を見ていてそんな気がします。

我々日本人にとっては当たり前のような資料作りも「分かりました。」・・・その表情をみると、“まったく面倒くさいこと要求してくるな。分かったよ、上司だし・・・聞いておくか”なんて様子がちらっと見えることも。ロシア語には、”Ладно”という、何度となくロシア人スタッフから聞くスバラシイ言葉があります。 あまり賛成ではないんだけど、まあ分かりました、という消極的な賛成の言葉です。(Дадно = Если кто-то говорит ладно (уж), значит, он сначала на что-то не соглашался, а затем решил (или был вынужден) согласиться. )

エクセル資料は、作成後は必ず印刷範囲に収まっていることを確認すること。不要なシートは除くこと。罫線のデザインがばらばらなのはダメ。フォント・文字の大きさが違うから直して。分かった、問題は分かったので、もっとこの問題を含めて全体像が分かるようなロジカルに説明した説明資料を持ってきて、など。「このような小さなことにどれだけ注意を払えるかで、その人の仕事に対する姿勢が分かる。だから小さなことに気を配ることが大切なんだ」との信念を曲げずにロシア人スタッフと余計にこじれます。これは大筋では真実であると私は考えていますが、実は正しくもあり正しくないのだろうな、と今では思ってます。

ロシアに長く住み、ロシア人スタッフと勤務していて、ロシアから学ぶことが多くあります。日本とロシアのどちらが正しい、というわけではありません。ロシアにあって日本にないもの、それが今の日本で必要とされているものではなかろうか、と。ロシアも然り。ロシア人、お願いだからもっと日本のよさを学んでくれ!と毎日一度は心の中で叫ぶのです。「日本はすばらしい。トイレがきれいだ、ウォッシュレットが最高だ」なんてことはどうでもよいので、仕事に対する取り組み方も学んでくれ・・・と。

細かいことに注意を払うからこそ、日本の美しい工業製品、芸術が生まれる。細かいことに注意を払うからこそ一つ一つの行動が慎重になり、会社の稟議にも時間を要する。でも、その行動の結果は想定内に収まる可能性が高くなる。そして、それが日本全国の各レベルで機能しているので、結果として“安定した”国家が生まれる。そんな”安定”にロシア人は魅力を感じる。そんな“安定した”日系企業で働きたい、というロシア人。 通貨暴落を何度か経験している国であり、”安定”という言葉が存在しない(?)ロシア。面談に来るロシア人の中には、絶対にロシア企業で金mしたくない、と言い張る 人も少なくありません。

一方、ロシアでは細かいことよりももっと大きなことに目を向ける。(宇宙に船を飛ばせる国であり、そのためには非常に精密さが求められるはずなので、ロシア人は細かいことがだめだ、という偏見の目で判断することは控えます)。細かいことは気にしない。問題が発生したときに何とかしましょう、という意識を感じます。悪く言えば、すこぶる雑です。他方、相手のことを考えず、自分のことを優先に考える傾向、はっきりと自己主張できる強さ、感情を自然に表せること。これらは、決して良いとは言えませんが、結果がどうであれ物事を前に動かすためにはプラスです。

今後はますます、日本人が自然と培ってきた特質が大切になると感じるようになりました。それは、「他人がどう考えているか、他人にどうすれば喜んでもらえるのだろうか。」という他者のことを考えられることです。相手とのコミュニケーションの中で、相手の心の中を読み取る能力、それに合わせて自分自身の対応を変えてゆける力、相手と自分の相違をどの着地点で決着させるかを見極める。これは本当に大切です。これはマニュアルとして記載して後任者に渡しても人に引き継げる能力ではなく、成功・失敗の経験を踏まえて自らに培ってゆくしかないのだろうと。

他人のことを配慮できる能力 ― 日本人が誇るべき特質の一つ ― は違う見方をすれば、他人からどうみられるか気にして行動できなくなる、という消極的な捉え方もできます。私自身、この考えに強く縛られていました。というか、それすらも感じずにずっと長く日本で生きてきました。長年働いてきました。しかし、この考えが自らを勝手に縛っていることに気が付いたのは、ロシアで働いている中でのことです。

人の目が行き届かない部分でも妥協せずに細かい点を意識する。だからこそ今の日本がある。それにロシア人も羨望の目を向ける。しかし、実際に自らやれと言われるとそれは別。「私は見てるだけで十分!私はなんだかんだ言ってもロシア式の雑さが好きだ!」というのも本音なのかもしれません。

日本人にしてもロシア人にしても、自らの強み・弱みを理解した上で他者の良さを素直に受け入れて自らを変えてゆける、成長してゆける人。そんな人材がもっともっと増えてゆくことを会社の従業員に期待するばかりです。

今年初のダーチャにて束の間の休息をとる。/ Taking a momentary rest in Dacha.

モスクワ中心の住まいから地下鉄、電車を乗り継いで約2時間半。この日曜日は友人のダーチャでゆっくり過ごしてきました。ダーチャについては多くのウェブサイトがその良さを説明しているので説明の必要はありません。

ただただ、本当に癒されます。

私はただのゲストですので、実際にダーチャを所有し建屋や敷地を整備する時間とお金は一体どれだけかかるのか…想像ができませんが、モスクワに住んで日々忙しく過ごしていると、どうしてこれだけダーチャの文化がモスクワの人々に根差しているのかがよく理解できます。

わずか一日でしたが、帰りの電車に乗り込む21時半まで、とてもゆったりとした日曜日を過ごすことができました。あとは写真にこの一日を語ってもらいます。

Электричкаと呼ばれる重々しいロシアの郊外列車で目的の駅に到着。人の流れ乗って通りへ向かいます。
ビニールハウスの家庭菜園。トマトが生っていました。
早速お昼からバーベキューです。トマト、ナス、パプリカをしっかり火で焦がします。あとで水につけて焦げを取り出すと中はしっかりジューシーな果肉があつあつの状態となっていました。これをしっかり混ぜてお肉と一緒にご馳走になりました。
こんがりと焼けて、ほくほくのお肉たち。
青空のもと、心地よい風を浴びながら、今朝森で採ってきたというキノコのスープ、モスクワ市内から持参してきたウィスキーとワインと一緒にランチの時間です。
ご近所のダーチャ。見るからに古い木造建ての家屋ですが、とても大事に手入れがされている様子が感じられました。このお宅のお庭にお邪魔させていただき…
洋梨を広い集め…
小麦粉、砂糖を混ぜ合わせたものと順に重ね合わせてオーブンへ。すっかり美味しそうにこんがりと焼け上がりました。調理方法はとてもシンプル。そして、とてもおいしく。
しばらくゆっくりした後は、森へ散歩へ。
こんな立派なキノコたちが森の至るところにすくすくと生えていました。森の地面の一面にはっている緑の草たちは非常に柔らかく、フワフワとしていてまるでカーペットのよう。
森から出て、ダーチャに戻る頃にはこんなにきれいな夕日が。目でみる夕日はもっともっと大きく見えたのですが、写真ではどうしてもその雄大さは伝わらないことが残念です。