個人事業主とサラリーマン社長と会社経営 / Self-employed, non-owner president and going concern

7年間モスクワで仕事をしてきてから、7年ぶりに以前に働いていた街へ戻ってきました。かつて頻繁に通っていたお店やレストランが今も変わらずに経営していること。そのこと自体がとてもすごいことなんだ、と実感してます。

私が勤務していたモスクワのオフィスビル1Fに入っていたレストラン。少なくとも7年間の間に3回はお店の名前が変わっていたと記憶しています。入る客はきまぐれ。ただたくさんある場所の中でその日の気分や、たまたまそこにあるからという理由だけでやってくるもの。そんな中で長く経営を成立させること、そのこと自体を達成するための努力はいかばかりかと。本日見たロシアのニュースによれば、モスクワではコロナウィルスの感染拡がりにより再び自宅隔離の規制を強める方向へ、とありました(主に65歳以上をターゲットに)。さて、上記のレストラン、オフィスに勤める従業員の利用が主要な収入源であったとすると、きっと今頃すでに看板をたたんでいるのではないかと思ってしまいます。

サラリーマン。言いたい文句がたくさんあれども、有給休暇があり、私用があるときには早引きし、会社が保険の負担も負担してくれて福利厚生もある。そして毎月一定の給与が入ってくる。それだけでただただ感謝をする以外にありません。

私が、今住む街で、ときどき利用している個人経営のワインショップや自転車、喫茶店など。どれだけその規模が小さいとしても、そのお店を開き続けることの大変さを想像すると、経営そのものを存続させるという根幹の意味において、個人事業主の大変さはサラリーマンとして一国の海外販売会社の社長職の任務を果たすことよりもずっと重みのある仕事だと思うばかりです。その両方の立場を務めてみないことにはその大変さを理解することは非常に難しく、私にはそのどちらの経験もないが故に想像の範囲からでしか判断ができませんが、やっぱり個人事業主の抱える重さにはサラリーマンの大変さはかなわないと思います。サラリーマンとして勤める社長職にも私が知らない世界があり、非常に大きな重圧を抱えていることは間違いありません。ただし、何かあって経営が成り立たない状況に陥ったとしても親会社からの支えが必ずある、仮に責任を取らされる立場にあったとしても、個人で不正をしていない限り、収入が途絶える(給料が入ってこない)ことにはならない。その点での安心感は言葉で言い表せない大きな違いなのだと。

モスクワでの勤務生活は、達成感、やりがいはもちろんありますが、それと同時に心身共に疲れてしまった、という気持ちも本心です。当時抱えていた仕事の責任と疲れは半端ないものだと感じていましたが、今現在、生活の時間にゆとりの部分も出てきて、客観的に物事を観察する中で感じることが今日の内容です。

大会社に勤めていて収入も立派で、仕事の内容も世界を相手に大きな仕事をしていて、周りから見れば申し分のないキャリアを歩んでいる自信満々の人。そんな人が街中で偉そうに歩く姿があるかもしれません(勝手な想像です)。しかし、実際に自分自身のサラリーマンという立場。その収入や自分自身の携わっている仕事のすべてが、その会社に所属しているが故にもたらされるものである。それを実に実感するとき、人は謙虚になるものではないのかなぁ、と思うのですがどうでしょうか?

その一方で、それを分かっているからこそ、安定という立場にいるが故にもっとチャレンジする気概を持っていなければ、とも感じています。それがどれだけ難しいことか、ということも年を取るごとに感じているのですが…やっぱり人間は環境に流されてしまう。弱い生き物です。ともすると、自分が思っていたほどに成長していない自分自身にがっかりしたり、週末に早起きして「あれとこれを午前中にやってしまうぞ」と思っていながら起きたらすでに時計は10時を回っている、そんなことを繰り返して落ち込んでしまう、やる気が無くなってしまう、そんなことの繰り返しかもしれません。

日本人の中には、常に自分を「だめだ、こんなんじゃ、もっとやらないと、でも自分はできていない…」そんな風に自己評価する人が多い…?そんなことを感じる場面に出くわすことが多い気がしてます。しかし、あまりに多くのことが前から降りかかってくる今の世の中は流れの強い川のよう。その中に立って、流されないように足を踏ん張って立ち続けている、それだけで十分に成長している証なのかもしれませんね。そう思えば、日々成長しなければならないというプレッシャーを感じる今の世の中をもっとみんな気を楽に毎日を過ごせるのではないでしょうか?

着実に、こつこつと、続けましょう、それが大きな成長へ / Let’s continue making effort steadily and steadily, it will become big growth

夏に度々お邪魔していたモスクワ郊外のダーチャに滞在するロシア人の家族から木の実、キノコの収穫写真が届きました。コロナウィルスによる外出規制が春に始まってからすでに約半年が経ちますが、ほとんどダーチャで過ごしたようです。感染リスクを避けるためにも、郊外で静かに森の傍で新鮮な空気と共に過ごすのが健康にも一番よいのかもしれませんね。少なくとも夏だけは日本の過酷な夏を抜け出してモスクワで夏を過ごしたいと思うばかりです。

モスクワで勤務していてロシア人スタッフと一緒に働く中で感じたのは、毎日の一つずつの業務改善や、勉強を継続してゆくことをないがしろにして(あるいは過小評価してなのか、単に意識していないだけなのか)何か大きなことをやろうとしていること、そんな意識を持っているスタッフが多いなぁ、と感じていました。

昔、新入社員の頃に受けた研修で聞いた「複利成長」。毎日の1%の努力を1年間続けるとどれだけすごい成長になるのか、そんなテーマを聞いたことがあります。毎日の1%の複利成長を1年間続けると次第に大きな曲線を描いて1年後にはとてつもなく大きく成長できている、という。我々は人間なので、1年間そんな簡単に上手くゆく保証もなく、どうしてもダメな時もあります。だからそんな複利成長に固執する気はないのですが、少なくとも日々の生活の中で何か1つでも新しいことをしよう、この業務を改善してみよう、とか。商品をロシアに輸入する時に関係するこの法律はどんな内容なのか、法務スタッフに任せきりにするのでなくて概要を説明したウェブサイトを見て勉強してみようとか。自分の責任範囲以外のことにも気をとめて手を出してみる。隣の人に尋ねてみる、そんなちょっとしたことがゆくゆくは大きな成長につながるのではないでしょうか。

と、そんなことをスタッフに口をすっぱくして言っていたのですが、果たして届いていたのだろうか…当時は目に見えるところでは実感はありませんでした。我々も何年も経ってから「あっ、これはあの時に上司が言っていたことだ」、「これって親に注意されていたよなあ」ということもあったりしませんか?そんな風に、誰かの心の片隅に言葉が残っていて、いつの日にか将来に「あっ、あのときXXXさんが言っていたことってこういうことなのか。」そんな時が来てくれたらと想像しています。

毎日の継続について。例えば部屋の掃除。一気にできたら気持ちがよい、やってしまいたい。が、そうであっても、掃除にそこまで時間をかけられない。であれば、今日はこの部分。明日はあの部分、といったように掃除する部分を細切れにしてゆくと、数日後には着実にきれいになっている。きっと初日は掃除をしだすと他の部分にも手を付けたくなる衝動に駆られるかもしれません。でもそれを始めてしまうと他の予定にも影響が出てしまう。そんな衝動を我慢して少しずつ、かつ着々と。大概、金曜日になると、何か仕事で途中のものがあっても「週末もあるから何とかカバーできるだろう。今日は未完成でもいいや。」そう思っていると失敗します。仕事は仕事時間内にやり切ること。それに最大限に集中すること。週末は結局プライベートのことにも時間を割く必要がでてきますし、気が付くと時間があっという間に経っていて思っていたように未完成の仕事に費やせる時間がわずかであった。そんな経験を何度もして失敗してきました。

仕事も課題があれば、まず何をすべきかの筋道を立てて分解してから着手する。一方ずつやり遂げる。今日やると決めた部分までは着実に完了させてゆく執着力。そんなことの繰り返しが結果的に大きな結果を生み出すための積み重ねになるのだろう、自分自身の経験を通してもそう感じています。

仕事の”忙しさ”の中身をよく吟味することの大切さ / The importance of carefully examining the contents of the “busyness” of work

7年間、我武者羅に働いたモスクワでの生活。朝早くから夜遅くまで。土日もオフィスに行ったり、家で、またはカフェで仕事をしたり。そんな生活を過ごしていると自分自身の仕事を客観的に観察する余裕がなくなっていました。一体この経験がどのように自分の成長につながっているのか?その仕事の内容は本当に自分の成長の糧になったのだろうか?そういった振り返りが大切だと思います。どんなに忙しいからって自分が成長しているとは限らない。忙しくしている自分自身に”酔ってしまう”人もいるかもしれません。

今は日本に帰ってきて、ロシアの子会社をはじめとした世界中の販売子会社の数値をまとめ、分析しながら広い視点で仕事ができる、かつ、余裕をもって仕事ができることのありがたさを深く感じています。現場で苦悩した日々を経験したからこそ、それをどれだけ今現地で苦労している仲間に還元できるかが、みんなから感謝されることをしてゆくこと、それが自分自身の評価の尺度ではないかと思います。する必要のない苦悩は誰も経験しなくてよい、そう強く思います。限られた時間なのだから、もっと楽しいこと、人のためになるようなことに時間を使うべき。であれば自分自身の経験や知見を少しでも周りに分かち合いたい。

私の7年間は、ただただあちこちに飛び火する火消しに奔走していた日々。時として火事になりかけてお叱りを受ける。ようやく落ち着いて仕事が回りだしたと思ったらスタッフが退職してしまい自分自身がカバーに入らざるをえない。なかなか良い人材に巡り合えない採用活動の繰り返し。業務改革に取り組むぞ、と意気込んでいたら突然の税務署からの大量の書類提出要求。意味の分からない法制度の変更により対応に追われる…忙しさを経験することから得られることだってあります。今振り返ってみれば、自分自身がどこまでできるのだろうか、自分の強いところ・弱いところは何だろうか、そんな風に自分自身を吟味するよい経験でした。しかし、繰り返される火消し。それは組織としての在り方に何らかの問題があった、ということを認めるしかありません。今は次の世代の人たちが次のステップに向かって漸進しているとのこと。私が勤務していたロシアの会社の今後に期待しています。

モスクワで感じた不要物のリサイクルシステムの素晴らしさ / The great recycling system of unnecessary stuff that I felt in Moscow

日本に帰国して不便を感じることの中に、ゴミ収集日が決まっていること、そしてごみの分別ルールが厳密なことが挙げられます。ずっと日本で生まれ育ってきたので、それが当たり前のはずなので、それが当たり前と言われれば不便を感じないと思いますが、モスクワでの生活を経て戻ってくると、やっぱりこのシステムに不便を感じることはあります。
不要な生ごみやプラスチックごみを収集日まで自宅で管理し続けることは嫌なものです。缶詰の回収日の少なさや、可燃物の収集日を考えたうえで冷蔵庫の中身と相談する必要もありそうです。

ロシアでは、コロナウィルスの感染が始まってから不要な外出が禁止となり、外出が許可される理由の一つにゴミ捨てがありました。ゴミを毎日捨てる口実で外出しながら少し散歩もしつつ。

モスクワのゴミの処分は至ってシンプル。いらないものは何でもアパート近くにある収集場所のプラスチック箱に投げ込むだけ。電化製品でも何でもお構いなしに置いてゆきます。そんなロシアのごみ分別ルールは、違う問題があります。まったく分別ルールが整備されていない(現在は整えられつつある)、人々がそんなルールを守らない。なんでもかんでも大きなプラスチックのゴミ収集箱に放り投げる。人が処分する方法も豪快であれば、ゴミ収集車も豪快。

2019年1月より「ゴミ改革」と言われるごみ収集のルール変更があったようですが、生活している中で、大きく変わったことは感じませんでした。今思えば、通りに分別用のゴミ箱が設置されたり、ゴミ収集のプラスチックケースには分別ルールが記載され、生ごみとビン類を分けるなど、図でそれぞれのケースに入れるべきものが示されるなどの変化を感じました。


https://www.orix.co.jp/grp/move_on/entry/2019/08/09/100000

https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/01/bcf822c7dfd0a11d.html

どんなに個人的に環境に配慮して分別しても、最後に収集される場所は一つの場所にいく。だから分別しても意味がない、なんていう冗談もよく聞くことがありました。私の見たロシアではまだまだゴミ改革はこれから…そんな印象が残っています。

今回お伝えしたいモスクワで見かけたリサイクルシステムの素晴らしさ。それは、不要なものをあえて見えるところに置いておく。そうすると、しばらく経つと誰かがそれを持ってゆく。お互いに助け合いの精神が働いているのかもしれません。廃棄する側もわざわざ処分業者をアレンジすることも必要ありません。また、夜遅くにはゴミをあさっている人が見られます。人々が処分した不要物を物色しているようです。丁寧に並べられた女性用の靴、不要となったと思われる洋服、そんなものが置いてあります。翌朝にはそれらが無くなっているのを見ると、きっと次にゴミを捨てに来た人か、夜中にゴミを漁っていた人か、誰かがもっていったのでしょう。私も引っ越しの際には、不要となった冬用のコート、洋服、靴といったものを見えやすいところに置いてきました。やっぱり翌日にはなくなっています。誰かに引き継がれて役立っているいいなぁ、そんな風に思っています。