過剰品質の日本、そのジレンマとその美学 / Japanese Over-quality, its dilemma and its aesthetics

6月上旬にモスクワから帰国して実家で2週間隔離生活をしている時、久しぶりに両親とも過ごす時間が増えて懐かしい話や仕事の話をすることが多くありました。

その中で面白いな、と思った話があります。父親は機械の設計をしています。たとえば、ペットボトルのボトルにプラスチックのパッケージを貼ったり、薬品や文房具の小箱を組み立てられる、そんな工場の生産ラインの中に位置する機械の設計をしています。ラベルを1分間にどれだけ正確に多く貼り付けられるか、箱を組み立てられるか、スピードと正確性とそれを達成するための製造コストとの闘いのようです。

面白いのは、日本で相手にするお客さんは、どんな小さなしわであっても欠陥品とみなされてしまうそうです。となると、そのしわが発生しない方法を解決すべく、さらに時間と労力をかけて解決策を考える。それだけ機械の生産コストも高くなる。製造工程で、しわの発生が許されない、それは日本の価値観からすれば当たり前のように思えます。

例えば中国などのアジアのライバル会社が2,000万円で製作できるものが、日本では2,X00万円する。そうすると価格面で勝てない。そしてそこまでの高品質をアジアのお客さんは求めていないという。高品質を追求することは大切だけど、お客さんはそこまで気にしない。そのジレンマに陥っている気もします。

一方で、ロシアでは日本車が目に見えない部分にまでこだわって丁寧に製造しているか、車を分解したときにその仕事の丁寧さに感動した、という絶賛の言葉をビジネスパートナーからいただいたこともありました。

今の仕事でも同様で、たとえば仕事でエクセルファイルを利用して作成するレポート類について。罫線がどこかでちょっとしたところで縦一本欠けていたり、破線の種類が隣同士で異なっていることに気が付いたとき。自分では気持ち悪いので一つ一つのシートで問題がないかを確認する。この資料を受け取る人は、印刷をしない限りそこまで気にしない可能性が高い。今はテレワークになっていっそう紙に印刷する機会が減りました。きっと多少の線の統一がなくても問題ないはず、とおもいつつも、一方では自分自身はそこまでやらないと納得できない、やりたいんだ、という気持ちが湧いてくる。そんな部分に時間を割いていると他の仕事が溜まることに。

資料の受け手がどう感じるかを想像しながら、”もっと見栄えをよくしなければ”、とか、”もし罫線を気にせずに提出すれば、だれかはきっと私のことを「細かい部分に気が付かない奴だ」というマイナス評価をするだろうなぁ”、なんてことを別の自分がつぶやいている。

この資料は、どこまで詳細を気にして作成すべきなのか…一律の正解がないので難しいところですが、「お客さんはそこまでの高品質を気にしていない」「お客さんはそこまで気にしない」という点は、仕事の本質を見失わないためにも面白い観点だな、と感じました。相手のことを常に意識するが故の日本の美学と言えるのでしょうか。悪く言ってしまえば、独りよがりの美学なのかもしれませんが、こんな美学こそが世界に誇る日本という独特のイメージや文化を作り上げるのに役立っているのかもしれないですね。

最近入った回転ずし店でみかけたプラスチックボトルの醤油。特別な構造になっているために、ボトルをかたむけても醤油が一気に出てこないようです。ボトルに小さな空気穴が施されており、きっとそれが機能しているのでしょうか。私は、このボトルは醤油が一気に出てしまうことを防ぐ画期的なものです!とでも言うかのようにその機能が強調されている醤油のボトルをみて、「誰がそこまで気にするのだろう?そこにこだわる人がどれだけいるのだろうか?」というのが初めて見たときに素直に感じた気持ちです。もっとシンプルなボトルの構造にして、原価を下げてお客さんに提供できるほうがお客さんに喜ばれるのではないだろうか、とも思ったり。モスクワでは、いまだにガラス瓶にはいった醤油が店頭に並んでいます。昔ながらの懐かしいガラス製の醤油。それはそれで雰囲気があってよいのではないでしょうか?

レビュー:43インチのパソコン用モニターを購入しました(LG43UN700-B) / Product Review: LG 43UN700-B

日本に帰国してから、以前より気になっていた43インチのパソコンモニターをついに購入しました。モスクワで勤務していた間、Dell34インチのワイド型モニターを使用していたものの、もう一回り大きいものが欲しいと思うようになりました。現在、主な荷物は未だ日本に届かず船で送った荷物たちが届くのを待っています。現在はテレワークもあり、自宅のIT環境を整えるべく、その一環として気になっていた43インチを購入しました。モスクワにいる間に調べてゆくうちに43インチ型のモニターがあると知り、いつか試したいと思っていたものがついに実現。

Amazon: https://amzn.to/37ldbnL

購入したサイトhttps://shop.tsukumo.co.jp/goods/0401129676013/

私用のパソコンをTsukumo製を利用していることもあり、たまたまたどり着いたこのウェブサイトですが、プライベート用としても利用しているTsukumo社の公式オンラインショップということで安心して購入。このモニターを購入した時にトラブルがあり、私は偶然に見つけたTsukumo社のサイトから購入しましたが、基本的にどのお店で購入しても同じものだと思います。私の経験からすれば、電化製品は新品を購入することが結果的に正解ではないかと。帰国して幾つか購入した中古品の電化製品がありましたが、返品が続いたことがあり時間と労力の消費となったことが教訓となっています。

さて、このモニターについてはYou tubeを見ても、43インチ型のモニターに関して情報が少なく、購入前から得られる情報が少なかったことは不安を感じつつ購入。結論として、資料の全体像を把握すること、リモートワークで資料を共有して会議する場面では有効です。他方で、エクセルで細かい作業を行う場合を想定すると43インチモニターは決して使いやすいものではない、日常の作業用としては、27インチ~34インチ程度の大きさが適切な大きさなのではないかと感じています。

LG 43UN700-B 4K PCモニター [42.5型 /ワイド /4K(3840×2160)][42.5インチ 液晶ディスプレイ][43UN700B]

良い点

・画面が大きいので全体像をつかみやすい。Teamsで会議をするときに映し出される資料が見やすいことは購入してよかったと感じる大きなポイントです

・スピーカーの音声の質が高い。Youtubeも大きな画面と高音質で楽しめます。

・画質は画面の肌理が細かくてきれいに見える

・リモコンが付いていて操作しやるい

悪い点

・画面が大きく、画面も平面のため、画面の端に広がるファイルの中身確認に苦労する(視線を端から端に移すために首を動かす頻度が高くなります)

・上記ともつながりますが、モニターの適切な設置場所に困ります。通常の机の上に置く場合、使いにくいのではと思われます。今はキャスター付きの棚の上に置いて、用途に応じて向きを変えたり、近づけたり遠ざけたり、そんな風に使用しています

・私の仕事用パソコンのスペックの問題かもしれませんが、43インチのモニターにつなげて仕事をすると、エクセルの動きが遅くなり場合によっては勝手に落ちてしまうことも。画面が大きすぎてデータ処理に負担が生じている、なんてことがあるのでしょうか

今は、メインの仕事部屋とは別の部屋にこのモニターを置き、在宅勤務の時には頭を切り替えるタイミングでこのモニターを接続して仕事を数時間行う。そして再びメインの仕事場で別の作業を行う。そんな利用方法に落ち着いています。一人で在宅勤務をする上で決してなくてはならないお勧めのモニターであるか、と聞かれると、そんなことはないですよ、という答えになりますが、用途によっては1台あれば有効活用できる。そんなモニターです。

二度とやってこない情熱を駐在期間にぶつけてみて / Hit a passion for the job that never comes again during a period of working in Russia

いつも考えます、なぜ橋本氏は都構想計画にもう一度挑戦しようと思わないのだろう?って。もう一度トライすれば、初めは反対していた人たちの中から賛同者が生まれて、遂には実現する可能性があるかもしれないのに、と。

勝手に私は自分自身の気持ちに重ねて想像するのですが、もうあの情熱は二度とやってこない、自分の想いをかけて注いだ情熱が一度破れてしまった後、再度チャレンジする情熱を呼び起こすのは大変難しい。これが橋本氏が政治の道とは違う道を歩んでいる理由なのかな、と。チャレンジを行わない理由なのではないかと。

私も7年間、ロシアに駐在している間、会社に残る古い業務フローに疑問を呈し、ロシア人スタッフに促しながら一緒に改善に向かって進もうと努力しましたが、その結果は私自身が目指していた理想の結果には届かずに終わってしまいました。赴任したばかりの頃は、まず私自身が業務を把握することの忙しさ、そして、仕事へのやる気がない人、私のような新人を(立場上は私が上ですが)見下したような姿勢で接してきて会社をよりよくしてゆこうとする努力に協力の意思がないマネジャーたち。そんな彼らを入れ替えることから始まり。ようやく体制を整えた後、さぁ行くぞ、と先頭に立って提案を進めてゆくものの、変化に対する抵抗、今の現状に何も問題を感じない、というスタッフたち。会社の将来を考えると、この変革は今後も会社に残って仕事をしてゆくであろう本人たちのためになるはずなのに。

私自身は、橋本氏よりもずっとずっと小さな規模の中で会社の制度やスタッフのためになればと思いシステムや業務フローの変化にチャレンジしている。しかし認めてもらえない。本人達のメリットがあるはずだと自分では分かっていても本人たちの意見を尊重していると進まない。意見が割れる。自分の力の至らなさを感じると同時に民主主義のデメリットを感じる。

自由を人に与えることがはたしてよいことなのか?むしろ絶対的な権力のもとでの自由に従うのが正しいのでは、と。

多くの人は変化を嫌う。変革がきっと大切なんだろうと分かってはいても、新たなことへ順応する必要性に対する面倒な気持ち、現在の ー 決してベストではないけれども ー 特段問題もない状況を変えることへの反発、何か変革が必要であれば、私がいなくなってからにして、といった他人事の気持ち、そんなものが相まって、物事が進まない。

大多数の人々にとっての正しさは、マネジメントが考える正解とは異なる。彼らにとっての正解が正しいのであって、どんなに将来を見据えた構想や変化を聞いたところで、それは彼らにとっては正しいことではない。どんなに変えようと思っても変えられない限界がある。もしかするとそれは今ではなくて、10年先にようやく起こりうることなのかもしれません。

自分の想いが伝わらないことに苛立ちと虚無感を感じ、そして自分の中でかつて抱いていた変革への情熱が再び湧き上がることがない。だから、その「時」が過ぎてしまうと、再びチャレンジすることが難しく感じがられ、モチベーションも失われてしまう。モスクワを去る時に、お世話になっていた他社の方から「きっとXXXさんの熱意は現地のスタッフにもきっと伝わっているはずで、それは引き継がれてゆくでしょう」というい言葉をいただいた。そう思いたい。一生懸命にやることで味わった満足感と敗北感。この気持ちは貴重な財産です。そして、なぜ人々の気持ちも分かるようになった気がします。

会社を根本的に変革してゆく時期に民主主義は相応しくない。強力なパワーを持ったリーダーのもとに半ば強制的に全員を動かしてゆくこと。民主主義と独裁制の上手な使い分けが必要なのかもしれません。もし私自身が現地法人の社長になったらどんな風に会社を経営してゆくだろうか?そんなことを考える機会となりました。