ロシアのユーモアがあれば仕事での苛立ちも吹き飛ぶ? / Does Russian funny humor take away your frustration at work?

モスクワで勤務していた時、素直にロシア人スタッフを見てすごいと思い、彼らに教わったことの主な3つと言えば以下が挙げられます。

  1. 為替に対する意識の高さ。自国の通貨を信頼せず、自分の資産状況やUSDやEURの為替情報に敏感であったと思う。もしかすると長期休暇を海外で過ごすことを楽しみにしているが故に、為替レートが自身の旅行資金に直結することから必然であったのかもしれない。ロシア国内だけで生活している人にとっては大きな影響はないのかもしれないけれど、為替の暴落により簡単に自分の資産価値が3分の1になってしまうようなことを経験すれば、誰しもそうなるのかも。
  2. 「何で日本人の会議はそんなに長いのでしょうか?」…本当にそう思いました。果たして自分が今費やしている時間は投資なのか、いやいやただの消費なのか…。スタッフはよく見ています。一方で、「やります!」と約束した仕事が終わっていないにも関わらず、終業時間になったので帰ってしまったスタッフのいない机を見た時には「頼むよ…もっと時間を上手に使って仕事できなかったのだろうか。終わらなかったらせめて報告してから帰ってくれないものか…」と思ったものです。
  3. ユーモアのセンス(Русский юмор)。これは本当に素晴らしい。毎日をたくましく生きているスタッフ。笑いたいときに大いに笑い、悲しい時には大いに涙を流し。そんなストレートの感情表現は時に疲れましたが、そんな素の様子で冗談を言い合ったりしてわいわいがやがやのコミュニケーションを見るのが好きでした。

多くのスタッフがあまりにも就業規則で定める始業時間から遅れて出社するため、ある時に「始業時間の9時には業務開始できるように余裕を持って出社を」というお触れを出して、遅刻した時にはその理由を書いて受付スタッフに提出してもらったことがありました。ここではどのような勤務シフトが相応しいのかという人事システムの議論には入らず、あくまで笑ってしまったユーモアの話です。ロシア生活時代の書類を整理している中で発見したもの。全ての用紙は残っていませんが、何よりもモデルとなるべき人事部門のスタッフがこうも毎日のように遅刻していたのかと。そして、その彼女の書いた理由は怒ることも忘れてしまう思わず笑ってしまう内容でした : )

以下は手元に残っているものから。

「寝ていたかったから寝てました!」

「時計を冬時間に変えるのを忘れていました。」

ちなみに、ロシアでは通年同じ時間を利用しており、2014年に基準となる時間を冬時間とする変更があった。2017年はすでに3年が経過している…ありえない…。

(参考)ロシア/モスクワの時差と現在時刻

「もう一度(遅刻の理由を)質問してきたら私は辞めます。」

この彼女の言葉を受けてこの報告用紙の運用を止めたわけではありませんが、この後の日付のものは残っておらず。結果的に時間も全体的に改善されましたのでこの用紙の運用も自然に消滅してゆきました。人事も試行錯誤の連続。頭を抱えて真面目に取り組んでいたのにこんな風に返ってくるとは。一本取られてしまいました : )

その後も彼女はいつも楽しそうに仕事をして、自分のキャリアステップのために次の会社に転職してゆきました。幸いにも良好な関係を保つことができていたので笑って楽しく読むことができましたが、文面だけで判断すると挑戦的なコメントとも言えそうです。人と人との関係は時として緊張が走ることもあるけれど、そんな時にもユーモアを通じて緊張ももみほぐせると良いですね。

母国語だからこそ相手に対する自分の気持ちを伝えづらい? / Is it difficult to convey your feelings to the other person because it is your mother tongue?

帰国して母国語で仕事をするようになり、1年以上経過してみてからなるほどなぁ、と思うことがあります。それは、同僚に対する「ここはこうしたほうがもっと成長できると思う」「この点はやめたほうがいいと思うんだけど」といった、相手に対するネガティブに捉えられかねない発言は控えがちなのは、ロシアでも日本でも同じ、ということ。

ロシアでは、日本と比べて人々は直接物事をはっきり話す傾向があるという事実があるのだから、部下のマネジャーから「あの子何とかしてほしいんですけど…」と聞くと、何となく腑に落ちない気持ちがありました。「なぜ日頃仲良くしゃべっているのにそういうことを直接伝えないの?友達なら相手のことを想っているのだから言ってあげるべきでは?」と回答していました。しかし、実ははっきりと相手に物事を言うのを避ける傾向があるのだということ。それって日本人でも一緒。結局、国が違えど皆一緒。

なぜなんだろう?と考えましたが、一つには、単に自分の意見を主張することは他人は関係のないこと、その一方で、相手について自分が考えることを伝えることは相手が関わってくること。自分の意見が原因で相手との関係に溝が生じてしまう可能性もある。だからこそ発言には慎重になるのでしょうか。(しかしながら、私の個人的な印象ですが、日本社会ではそもそも自分の意見や考えを主張することですら躊躇することもあります。「自分の主張をしたら相手がどう思うだろう…」「自分が先に決断をしたらどうだろう、相手はもしかしら逆の決定を望んでいるのではなかろうか…」と。日本人の思考回路はどうなっているのでしょうか…)

二つ目に考えられる点は、きっと母国語だからこそ、何をどのように言うと相手がどう感じるのか、それがはっきりと分かるからなのではなかろうかと、そんな風に考えています。この単語・フレーズを使ったら、このイントネーションで伝えたら、言葉には表れない雰囲気を感じる肌感覚など、母国語だからこそ感じ取ることができるものがあります。それらを自分ではっきりと掴めると、発言の際には言葉を発する前に自分の頭で考え、悩み、躊躇する。「なんではっきりとした物言いをするロシア人なのに、ロシア人同士だと遠慮しているのか・・・」という疑問に対する答えは、こんなところに理由があったのかも。相手に対する自分の考えを伝えることは、結局どこの国の人でも同じ難しさを感じるのだなぁ、と認識するようになりました。

ロシアにいる時には、日本人とロシア人、という一つの大きな国籍や文化の違いがあったことも重要な要素であったと思います。この壁があるからこそ、双方において「多少言葉の使い方が間違っていても仕方がない。相手に伝わればよい」(発言者)、「何となく発言が厳しいけれども、言葉が違うんだし仕方がないことなのかもしれない」(発言を聞く立場)といった心理的なバリアがあったのかもしれません。実際、自分自身もそんな風に(相手を否定するような発言は決して許されることではなく、そのような発言がないように注意を払っていましたが)「自分も母国語ではないので仕方がない、きっと自分の思いが伝わるだろう」と思って英語やロシア語で自分の発言を伝えていました。そう考えると、相手に対する自分の思いを率直に伝える際、日本人とロシア人という違いはポジティブな要素だったのかもしれません。相手のことを知りたいと思い、努力して学習して知れば知るほどに逆にそれがネックとなってしまい動けなくなってしまうこともある…。

ただ、何よりもクリアなのは、相手への評価を伝える・伝えない、それは本人次第。相手のことを想うからこそ相手のためになると思えることは、言葉とタイミングを慎重に選択しつつも伝えてゆく。それがあるべき形だと考えています。こちらが伝える内容を「面倒くさい奴だ、また言ってるよ。聞いていてあげればいつかは止む」なんて思いつつも、きっと将来に思い出してくれれば、自分の発言は決して無駄にはならなかったと想像の中で描きつつ…。

スタッフの採用決定、その前にもうワンステップを。/ One more step before deciding to hire staff.

ロシア人スタッフの採用を決定する際には、履歴書(CV / Resume)にある、その人が過去に勤務していた企業の同僚にコンタクトして、一緒に勤務していた彼らからの第三者の評価を得ること。これは欠かさずに行うことをお勧めしたいです。これは自分自身の失敗から得た反省点でもあり、他社に「なぜこちらに連絡してこなかったんだ…」という気持ちからでもあります。

特に、過去に勤務していた企業の中に日系企業があれば、ほとんどのモスクワにオフィスを構える日系企業が入会しているジャパンクラブにコンタクトリストがあるので、その企業に連絡してみる。たとえ面識がない人だとしても、知り合うきっかけにもなるし、聞くのは決して無駄なことではない、と思っています。

ロシアでは、大抵の場合、採用面接に来るスタッフは推薦状を用意しています。自社を退社する場合にも、良好な関係の下で退社するスタッフからは「将来のために必要となるかもしれないので、私の推薦状にサインをお願いします」といって、本人が作成してきたドラフトにサインをしたことが何度がありました。本来は私が内容を考えて書く必要があるのかもしれませんが、現実には本人自身が自分の行ってきた業務や能力を褒め上げる内容を書出し、それがあまりにも事実から外れていない内容であればサインをする、そんな流れでした。

クビにした人材が他の日系企業のマネジャーを務めていると人づてに耳にしたときにはただただ驚くばかり。どんなに口が達者で、履歴書には立派なことを書き上げ、MBAを取得しているからといって実際に仕事ができるか…それは別問題です。面談でも流暢な英語を話し、ロシアに来て間もない日本人駐在員にロシアビジネスを語り納得させ、私を雇えば必ず成果を出しますからご安心ください、と納得させ…いざ採用してみて、さあ仕事ぶりはどうか、と見ていたら、「ん?何か違わないか…でも、それは自分の勘違いだろうか」と自らを納得させようとして、気が付けば取り返しのつかないことに…。

まずはCV / Resumeでその人の経歴を判断し、能力をある程度確認したうえで面接に進むかを決定する。そして実際にロシア人スタッフの人事スタッフが面接で「OK、悪くない」と判断すれば、次のステップへ。英語で会話する時と母国語のロシア語でロシア人同士が会話するときの印象が大きく異なるケースも多々ありました。

さて、この人を真剣に雇用しようかという段階になると、本当にこの人で良いのだろうか、という迷いとの闘い。(厳密にいえば、迷った時点で採用を控えるべき、というのが人事の専門家のアドバイスかもしれません。実際のところ、絶対にこの人を取りたい、という人を採用できる場合は、非常に少ない、というのが事実ではないかと経験から感じています。その多くの理由は会社で出せる給与の条件に合わないケースがほとんどでした)でも、やっぱり「この人と一緒に働いてみたい。この人ならやってくれるのではないか。」という思いがあって次のステップがあるのは絶対です。もしかすると、今の会社の文化に合わないだろうかと思って採用してみたら、今は会社の中核人材になり、とっても貴重なメンバーになる人もいますし、会社が提示できる条件が決して本人の要求するレベルに達しないにも関わらず条件を飲んでくれたスタッフ。そのスタッフは本当に会社のために仕事を惜しまずにサポートしてくれて、休暇中でもチャットで対応方法を教えてくれたり。「私の携帯のバッテリーがなくなっちゃった!旦那の携帯で続けるから待ってね。」と言って、旦那さんの写真が入ったメッセンジャーアプリで会話を継続する何とも言えない違和感…(会社の社内情報をプライベートの携帯でやり取りしていたわけではありません、念のために。)、一方で3ヶ月間の試用期間中に騒ぎを起こし、そのまま去っていただくことになる人も。試用期間を終えるタイミングで契約を締結しないことを伝えると、会社の主要なデータを外付けハードディスクに全て移してしまい、スタッフが「XXXさん、大変です。彼女が会社のデータをすべて消去してしまって、サーバーからデータが消えています!」なんて慌てて状況の深刻さを伝えてきたこともありました。自分の仕事に自信を持っており、それでいてなぜ自分を採用しないのか、納得がいかない、という気持ちが背景にあったのだと思います。

採用は何度やっても難しい。見極める力が訓練されてきたと思いきや、毎回新たな課題と向き合い、失敗もすれば成功もする。もっともっと採用経験をこなせば掴めるのかもしれません。人事の本を読んで実践に移してみたり、経験者の話を参考にしてみたり。そんなことの繰り返しでした。もちろん、毎回ベストを尽くした結果です。

さて、本題に戻りますが、実際に一緒に働いたことがある人から聞く評価は貴重だと思います。日本での転職時の第三者からの客観的な評価をレビューすることはどれほど運用されているのか知りませんが、ロシアでは一般的と理解しています。それに、モスクワの日系企業のコミュニティは決して大きいものではありません。日系企業を好んで回るロシア人もいます。(他方で、日系企業では絶対に働きたくない、という人がいるのも事実)狭いコミュニティだからこそ、お互いに連絡を取り合って、日本企業を”カモにする”ジョーカー人材を引くことだけは避けたいものです。

現在日系企業に勤めていながらにして転職中であった人の勤め先に電話することはありませんでしたが、すでに退職した後であれば、その企業に問い合わせることは可能ですし、候補者が伝えてくれるコンタクト先がたとえその人のことを良いことしか言わないとしても、恐らく、一生懸命に、その人の課題を教えてくださいと言えば、言葉を選んででも伝えてくれるはず。ロシアでは、”お試し期間”が3ヶ月間(社長やマネジメント層であれば6か月間)与えられているからといっても雇用に関しては慎重に、慎重を重ねて慎重に判断を下すことの大切さをお伝えしたいです。

また、面接から得られる他社の状況はとても貴重でした。組織構造、会社のシステムは何を利用しているのか、それを目的に面接をしていたわけではないですが、管理部門とあっては悩みも組織の構造も似たようなものです。面接を通して得られる欧米系、ロシア企業の特徴も参考にする良い機会となっていました。単に人を採用する目的だけではなく、自分の会社の管理部門の在り方を客観的に観察するうえでも面接の時間は勉強となります。ぜひ、お勧めです。

人材採用時に感じる”何か”と折り合いをつけることの難しさ / Difficulty in reconciling with “something” that you feel when hiring new staff

採用活動をしていると、採用担当として「この子は頑張っている、ぜひ採用して仕事を通じて成長してもらう機会を与えたい」という気持ちが芽生えるのは自然のことと思います。ただし、面接の部屋に応募者が入ってきた時、面接の部屋に入った時に腰かけている応募者を見たときに”何か”を感じる時にはやっぱり”何か”理由があります。

ロシアでの勤務時代、色々な若い女の子たちがやってきて(管理部門には女性スタッフの応募が多いために自然と女性スタッフばかりでした)面接をしている中、面接で自己アピールする姿を見ると、「なんだか、今すぐには仕事を任せることが難しいかもしれないけれど、もし自分がここでこの女性に働く機会を与えれば、きっとこの子の将来にプラスとなるかもしれない。」と思うことがありました。なにもやましい気持ちはなく、純粋に職を得ようと頑張っている姿を見てそう思うのですが、会社は営利目的で成り立っていることをまず忘れないようにしたいと思います。

会社の規模が小さい間は、とにかく戦力となる人材が必要となる。頑張っている人たちにチャンスを与えることは必要だけど、それは今ではなくてもよいのかもしれない。会社としてしっかり基盤が整っているのであればまだしも、まだまだこれからという時には、しっかりと基盤を急いで整備しなければならない。小規模の会社にはそれなりの正解があります。これは日本でも全く同じと思いますが、日本と海外で違うのは、日本人である自分自身が就職希望者のロシア人と対峙すると、同じ日本では分かるであろう言葉以外の部分のものを判断から見落としてしまう可能性がある、ということ。ロシア人のベテラン社員からは「最終的な判断は日本人マネジメントだけではなく、私たちロシア人も判断させてください。」と言われていました。それは正しい意見であったと思います。実際、駐在員が中心となって採用を進め、周りのロシア人マネジャークラスの意見を求めずに採用を決めた場合の結論は、悪い人材を採用してしまったケースが多かった印象を持っています。

私が後から振り返って、採用を失敗してしまったなぁ…と反省するのは、”何か”がどことなく引っかかった人であったように思えます。面談ではそれほど気にならなかったけれども、後々見てゆくと感情のコントロールがうまくゆかずに周りと上手く溶け込めない人。面接でプレゼンをしてもらうのですが、どうも物悲しく疲れてしまっている人。その人曰く”知識も経験も十分にある”という自己中心的で、小さな会社なのに周りとのコミュニケーションを取らずに自分の世界にこもっている人。後で聞いたところでは、母親が連れてきた父親が3人変わっていて家庭の中で大変な思いをして人生を過ごしてきたということでした。彼女は人を信じる、ということが無かったように思えます、仲間というものから外れていていつも周りを信じることなく一人で何かと闘っていたような、そんな人でした。社内の新年パーティーの時には一人で寂しそうな姿で会場を後にしていった姿を今でも忘れられません。逆に彼女からすればいつも食事も抜きでずっと朝から晩まで仕事しかしていない私の姿を、寂しそうなかわいそうな人、と思われていた可能性は高いのですが。(余談ですが、私の職場の経理スタッフの女性たちは、前日に最後まで残って残業していた女性が翌日も一番に来て仕事をしていると、後からやってきた同僚は「エレーナ、なんでもういるの?まさかオフィスに泊まったの!?」なんて冗談を言い合って笑っていたものです)

ロシアで正社員採用の場合の試用期間は会社代表者、支社トップ、経理責任者といった重要なポジションのスタッフの場合は6か月、それ以外の一般社員の採用の際は3ヶ月。特に3か月の試用期間でその人の人間性やスキルを見極めることは困難です。当時の知り合いの会社では、3か月経過してからは豹変し、とんでもないことになってしまった、と嘆いていました。それでも、3か月間で”何か”違うな、と感じることは可能です。その時に大変悩ましいのは、「このスタッフはベストではないけれど、今ここでこのスタッフを採用しなければ人が足りない。でも、このスタッフを今採用すると、後で何かあった時には面倒なことになりそうだ…」その葛藤です。採用する場合には絶対に欲しい人材と出会うまでは採用してはいけない、という人事のアドバイス本を読んだことがあります。現実の世界では、小規模の会社では、頭では分かっていてもなかなか思い描くようにはいかないことも多々あるのが真実ではないでしょうか。

社員は、「退職します」と辞職願いを出してから2週間で会社を去る権利がある。会社側はこの突然の連絡を受けて、急いで採用活動を行う必要が生じる。そう簡単に人は決まらないものです。退職するスタッフとの関係が良好であれば、退職する時期をもう少し待ってもらったり、退職した後でもサポートしてもらったり。その後も電話で連絡取り合ったりして過去のことを尋ねるケースもありましたが、なかなかすべてのケースでそう順調にゆくとは限りません。小さな会社で人の数をぎりぎりで乗り切っている会社にとっては、突然の退職→大急ぎの採用活動→採用者が見つかるまでの欠員部分の仕事を他のスタッフの協力のもとでカバーする、これらの流れが毎回大変でした。

日頃からどれだけ仕事が属人的にならないことを避けられるか。会社のルールを整備し、文書化しておくこと。採用時には注意すべき点を漏らさずにステップを踏むこと。勤務しているスタッフとは良好な関係を築き、いざという時には協力してもらえること、人材紹介の会社と定期的な連絡を取り合い、良好な関係を保って自分の会社の雰囲気や必要とする人材を理解してもらう努力など。日頃からの総合的な努力が常に求められていることを、突然の”災害”が起こった時にどれだけ準備ができていたかを知ることになります。毎日一つ一つの自分が行う仕事にきちんと向き合ってゆくことの大切さを知る機会にもなると思います。こう伝えている私自身が出来ていたとはとても言えず…当時の反省点を共有し、どのように次にいかすことができるのか、同じ場面に遭遇する人にとって同じ失敗をしてもらいたくない、という気持ちです。やっぱり採用はとても難しい。

社内規定を従業員に浸透させることの難しさと対策 / How difficult to make employees to accept company regulations and how to solve it

ロシアの子会社で規定の整備をしていると、「規定を作ってもどうせ読まないから、そんなに一生懸命に規定を作って何か意味があるんでしょうか?」「規定を作ってもどうせ必要になれば読まずにこちらに聞いてくるんだから営業スタッフは本当に我々管理スタッフへの敬意が欠けている、ひどい!」という声をスタッフから一度ならず聞きました。正直な気持ちを言ってしまえば、現実的に起きていたことを見ると、彼らのコメントに私も同感です。ただ、それを言ってしまったら規定そのものが不要となってしまい、各ケースごとに上司の判断がすべてという事態に。数名程度の会社ではそれで回るとしても、何十人もの組織となってくると、育ちも考え方も価値観も異なる人たちが集まる中、自分の考える”普通”が他人の考える”非常識”であったり。やはり全員が同じルールに則って仕事をするための絶対的なルールが存在しているべきことは否定できません。

ロシアの法律では、法律で定められた規定の整備、それを従業員に対して書面の状態で従業員に通知すること、そしてその内容を確認・了承した意味で従業員からの署名受領が企業側の義務となっています。

(以下参照URL:Практикум по ТК РФ: чем отличается подпись от росписи)

https://www.klerk.ru/buh/articles/484916/

例えば、ロシア人従業員がよく”ペーヴェーテーエル”と呼ぶ、(ПВТР = Правила внутреннего трудового распорядка)。いわゆる就業規則に該当するもので、日本の規定でも定められるような、会社運営に必要なルール ー 就業時間、休暇、出張、従業員や雇用者の権利、懲戒処分など ー が記述されています。

(以下参照URL:Правила внутреннего трудового распорядка (ПВТР) – для чего они нужны и как их правильно составить?)

https://hr-portal.ru/article/pravila-vnutrennego-trudovogo-rasporyadka-pvtr-dlya-chego-oni-nuzhny-i-kak-ih-pravilno

その他にもロシア企業では、Правила по охране труда(アフラーナトゥルダーとよく言われます) ー 日本の労働安全衛生法に該当すると思われます ー という職場環境の整備義務を企業に課している規定では、職場環境を定期的に確認し、新しい従業員が入ってくるとそのスタッフへの教育を行い、書類にサインを受領する。そのリストの数を見るだけで圧倒される…業務に携われば携わるほどに、その要求される規定の多さ、その罰則規定の重さに嫌気が差してくる、というのが本音かもしれません。

これらはほんの一部ですが、ロシアでは署名をする機会が日本と比べて非常に多いのは間違いありません。さて、冒頭での部下からのコメントは、従業員がたとえサインをしても、それを守らないケースがあることが前提です。これを良い意味で捉えるならば、それだけ会社側としても従業員の一つ一つの犯す間違いを細かく管理していないことから従業員も自由を感じている、何かあっても後で教えてもらえれば良い(会社をなめている、といえばネガティブに聞こえますが)、という気持ちでいるのかもしれません。もし会社と従業員の関係がギクシャクしているならば、従業員は規定の隅々までしっかり読み、自分の行動一つ一つに真剣な注意を払うことになるでしょう、簡単にサインもしてくれないかもしれません。そうなると、規定を浸透させる、という点では効果がありますが、会社のビジネスを大きくするためにはマイナスだと思います。従業員を締め付けることから生まれるものにポジティブなものはありませんので…。

規定の浸透のための解決策に特別なものはない。

浸透させるための何か特別な解決策を私自身は見つけられませんでした。たどり着いた答えはいたってシンプル。何よりも規定の整備を完了させる(法律も変化しており、以前に整備していた規定だけでは要件を満たせていないケースも)。そして、”どうせ読まない”従業員のために、規定のサマリーを作成して提供する。小さな規模の会社であれば必要に応じて従業員向けの説明会を開催する。ここまでが管理部門に要求される義務。サマリーを読めば、従業員はとにかく必要な点を最短で把握できる。そして、その後も何度となく間違えるのであれば ー そしてそれが悪質で故意のものあれば ー 然るべき対処を取る(この時点ではすでに会社との関係も険悪なものになっている可能性あり)。

サマリーを提供しても聞いてくるスタッフがいる場合、それは管理部門への敬意が欠けているのは否めないと思います。こちらが一生懸命に相手のことを想って準備したのだから、受ける側の人間もその意向を感じて、自分たちでも規定を理解する努力が求められます。このレベルの教育は、それぞれのスタッフが所属する部門マネジャーの責任です。マネジャー自身には自ら規定を理解し、それを自部門に浸透させる努力が求められています。このように、管理部門とその先の部門マネジャーとの間での役割と責任分担を明らかにし、協働することでしか社内ルールの浸透は成功しないのでは…というのが私の考えです。試行錯誤しながらたどり着いた答えですが、恐らくこれは始めから存在していた世の中一般の公式でもあった…と思っています。営業と管理部門の間でお互いの仕事への理解、敬意が足りない、というのはどこにでもあるのではないでしょうか。そう考えると、一人の人間として相手を敬う。自分の行動に謙虚になる。最後はここにたどり着きます。

一方で、管理部門にふらっとやってきた営業スタッフが、「ねえ、教えてもらいたいんだけど…」と尋ねると、そこに会話が生まれ、女性スタッフから「ちょっとあんた何も読んでないの!ちゃんと規定に書いてあるじゃないの、ちゃんと読みなさいよ!ほんとダメなんだから。」と怒られて「ごめん、ごめん」といってお互いに笑いながらやり取りする。そんな様子を見るのも微笑ましいものがあります。規定整備を完璧にして、一切の不要なコミュニケーションは排除する、という効率を求める姿勢にも否定的です。バランスというのは本当に難しいものです。

さて、余談ですが以下のサイトに面白い記事がありました。コメントの主はПетр Ковшевой氏。この記事が書かれた当時、ロシアの国営原子力企業ロスアトムの人事の主要ポジションを務めていた方のようで、きっと人事の世界では発言力を持つ方だと推測しますが、「従業員にサインをさせたところで何の意味もない。大切なのは会社の文化がきっちりと従業員の心にまで響き、それが自然と従業員の行動に現れることが大切なんだ。そして、会社のトップマネジメント自身が自ら会社文化と会社モラルの重要性を認識し、言葉ではなく、行動によってそれを自ら示すことこそが最も効果的な従業員にルールを浸透するための方法だ!」ということでした。汚職のイメージが絶えないロシア企業が多い印象の中、このようなメッセージに出会い嬉しかったです。強い説得力があります。皆、それを分かっていてもそれが現実にすることがどれだけ難しいことか、という気持ちもある一方、成功に導くためのシンプルで基本的な原則であることを感じます。

(以下参照URL:Главное — суметь донести до персонала важность правил корпоративной этики!!!)

https://www.top-personal.ru/issue.html?3668

ロシアにいた時に検索していてよくヒットしたサイトと言えば、以下のようなものがあり利用する機会が多くありました。(あくまで個人的な感想ですが、ロシア固有のルールを理解するにあたっては、ー とりわけ人事や会計に関するもの ー 英文に翻訳されたものよりもロシア語そのもので読み取るほうが分かりやすいケースが多々あるということです。ロシア語読解が難しい方にとっては、英語で概要を掴んだあとは、ロシア人スタッフにロシア語キーワードも交えてもらい、上手に分かりやすい説明をしてもらう、というのが最善かもしれません。ロシア語文献を全てコピーしGoogle翻訳に貼付することも随分役立ちました)

・Awara

・Accoun+or

https://www.accountor.com/en/russia

ドアを通じて、その人の人となりが見えてくる /  Through the door, people can see who you are

登録しているロシアを代表する建築物を紹介しているYoutubeチャンネルに、モスクワで私が住んでいたアパートが紹介されていました。古い建物で、決して現代的でもなく配管の古さなど問題もありますが、こんな歴史的な建物に住む楽しみもモスクワ駐在ならではの経験だと思っています。

私の隣の家からは、出入りする度にドアのとてつもない音がします「ドカン!」「バタン!」。決して作りが悪くない集合住宅ですが、多少揺れます。あまりにもうるさいです。一体この人はどんな風に生活しているのだろう、と思います。他の階の住人にも同様の人がいるのか、音が響いてきます。それを感じれば、自分自身のドアを閉める音が周りにどれだけ響いているかを想像できると思うのですが。

とても困っているわけではないので何か批判する気持ちがあるわけではありませんが、そういったドアの開け閉め一つを取っても、この人は自分のことだけ良ければいいと思っていて行動がどのように周りに影響を与えているか考えてないのだろうか、いや考えられないのだろうか、なんて考えてしまいます。仕事にしてもサッカーにしても相手のことを考えずに自分のやりたいことをやりたいようにやっていたらまわりから嫌われてしまう。日頃の自分の行動を客観的に見ることの大切さ。大切です。その一つを取って周りの人間はその人を判断していますし、その判断はあながち間違っていないかもしれません。

最近ふと気が付いたのですが、日本ではドアを譲り合う機会がモスクワの時と比べて低い気がしています。日本のスーパーやショッピングモールは自動ドアの割合が高く、それ以外のものを見たことがありません。一方、モスクワのショッピングモールでは回転式の大なり小なりのドアが回っており、そこに人が順番に入り込んでゆくものが大半。住宅街にあるスーパーでは、常に引き戸です。そして、出てくる人、入る人が交互に譲り合って出入りしています。そのため、お店に入る時には常に出てくる人を優先する文化がありました。それに加えて、女性や年配の方にに対して譲る文化は根付いているようで、常にドアを通して相手に譲る意識を自然と植え付けられていた気がします。それでも、常にそうとは限らないのはモスクワでも同じ。妊娠していたロシア人の友人が地下鉄に乗っていたところ、目の前に若い人が座っているのに一向に席を譲ってくれなかったとのこと。それで、自ら「席を譲ってもらえませんか」と言って場所を開けてもらった、まったく今どきの子供は何なの?昔ならすぐに席を譲るのが当然だったのに、なんてちょっぴり怒っていましたが。

遅らく世代や住む場所も変わると日本とロシアも一般的に見られる人の様子に大差ないのではないかな、と思います。都心に近づくほど人も多くなり、生活リズムも速く、ストレスも多い世界。自己中心的になりがちになってしまい、そんな人と遭遇する機会が増えると、決して少なくないはずの善良な人の善行も見えにくくなってしまう。それで都心はひどい、と判断してしまいがち。モスクワから電車で2時間くらいの郊外に遊びに出かけた小さな町では、すれ違いざまに挨拶してくれたロシア人の少年たち。なんていいところなんだ、と思ってしまう。一つの行動がその人の人となりがおおよそ分かる、ということも正しいと思う一方で、必ずしもそうではない、ということも意識しなければな、と。

何だか最近は、隣の方のドア閉め方が優しくなった気がするのです。何をきっかけにして人は変わるのだろうか…。部下の評価をする時に上司が気を付けるべき評価エラーにもつながるものを感じました。

人事部が研修内容を決めて提供すべき、という前提への違和感 / Feeling of strangeness with fixed thinking that the Human Resources Department should decide and provide training content for employee

ロシアの小さな子会社にいても、日本の大企業にいても感じること。それは自分のスキルアップを無意識か意識してか分からないけれども他人任せにしがちな人が多いということ。

「会社は私たちをどんな風に成長させたいのかが分からない。」「会社は人材育成の方針を定めてそれに沿って私たちに必要なトレーニングを提供すべきだ。」そんな声をスタッフから受けていました。まったくその通りだと思います。一方で、よくよく考えてみると、本当にそれが正しいのだろうか?とも感じていました。残念ながら、モスクワで勤めていた会社の人事部はまだまだ発展段階で、会社が最低限提供すべきトレーニングの内容を検討し、制度として整備して試行錯誤しながら進めている段階でしたので、声を大にして上記の意見に反発することはできませんでした。

会社が小規模であれば、スタッフの教育を考えるよりも日本人のトップがいて、その下で家族的な雰囲気を醸し出しながら仲良く日々の仕事を回してゆく。そのような規模の会社もまだ多い印象でしたので、人材教育というものについて深く考える必要がある日系企業も少ないのかもしれません。私の知るところでは、とある会社はアウトソース会社を利用して社員向けの専用サイトを作成し、従業員は年間決められた予算内で用意された訓練を自分で選択できる制度であったり、ロシア企業では、全従業員は週に1時間を必ず自分のスキルアップのための時間に充てることが定められている会社もありました。1年間=52週=52時間は必ず何らかの訓練に費やすこととなっていました。人材育成用の専門部署があり、ちょっとした図書室もあれば、従業員の相談を受けられるような部屋が用意されていました。自分が教育を受けるだけではなく、その1時間を他の社員のためにノウハウを教える講習会を自ら設定することもできます。それによって自分自身の知識を整理して資料を作成し、人前でプレゼンするスキルの訓練となるだけでなく、参加者も同じ社内のスタッフから学習できる。社内人材を活用した良い人材育成制度だなぁ、と感じていました。内容によって得点もつくようで、きっとそのポイント数が評価や昇進の指標に利用されるのかもしれません。

さて、人事部は人に関しての専門家である一方、所詮は一つの部門です。何百人、何千人といる従業員のためにできることは限られています。増して、企業の人事部の皆が従業員全体のことを考えて人材教育を熱心に推し進める人だらけか、というと、きっとそんなことはないはずです。会社全体の必要不可欠な人材育成方針を定めるものの、各人の必要とするスキルアップを深く理解して探し出すことには限界があります、たとえアウトソースの専門家も利用した上でも。これは大小問わずにどの企業についても言えるのではないでしょうか。

上述のスタッフからのコメントについては、最低限のことすら提供できていなかった私たち人事スタッフの責任もあることは否定できませんが、果たして個人でも必要と思う訓練を自ら探して提案していただろうか、と振り返ると疑問です。また、スタッフへのアンケートを取ると要望として挙がってきた訓練内容は最低限の英語スキルの向上、エクセル操作方法の訓練といったもの。そういった内容を会社から提供されることを待っている必要があるのか?自分の業務上必要なことはその場で学び、業務の中で実際に試し、失敗し、修正して学習することで自然と身につくものでしょう…と思う自分がいるのも否定できません。

また、あなたの人生でしょ、自分の成長を考えているのであれば自分の興味のあることを自ら見つけてきて、それを会社の負担でできないのか交渉してみるなどのやり取りができるんじゃないのかな?と。こちらからお願いすると彼らも調べて持ってきます。そういったやり取りをする中でスタッフ自らの力も借りた人材育成制度を皆で作り上げてゆく、そんな形が理想なのかもしれません。

健全なのは各人が自分の成長のために自ら努力してそれを会社がサポートすること。本来、会社はスタッフの成長を引っ張る義務は無いはず。従業員のことを「人財」と表現することは私が新入社員の時代から研修でも、他社のウェブサイトを見ていても目にする言葉ですが、突き詰めてゆくと自分の人生、自分の成長、自分の将来は結局自分で責任を持つしかない。会社は決して期待するほどに自分の必要のすべてをカバーしてくれるわけではないのだから。

これは真実だ、と経験から確信していることは、人は本当に必要だと自分で納得しない限りどんなに学習しても習得できないということ。習得できても期待するほどには成果が出ない。しかし、もし本人がそのスキルを必要だと心から認識するとその成果は莫大なものとなる。言い換えると、会社がどんなに体系的な研修を提供しても多くの人にとっては意味の無いものであって、人事部としてやるべきことをやりました、という事実を積み重ねているだけに終わってしまうのかもしれません。個々の人の心の奥底にある引っかかりをいかに汲み出すか、これは本当に難しいことだと実感しています。

各人が気づいていないのであれば、各人の必要を上司が汲み取り、上司がその必要を人事部にフィードバックをする。と同時にスタッフ個人でも自分に必要だと思う研修内容を調査し、人事部に共有する。人事部は(組織である以上は各人の言う要望をすべて受け入れることは難しいために)一定のルールの中でそのスタッフに研修参加の機会を提供する。人事部が主体となるのではなくて、主体的な人たちを陰で支える。本来あるべき人財育成はきっとそんなスタイルなんだろうな、と思っています。

身近なところで人事業務に携わっている同僚からは「会社の教育制度に不平不満を述べる人に見られる傾向は、会社には色々な制度が用意されているにも関わらずそれらを調べずに、”人事部は何もしてくれない”と受動的な人が多い印象だ。」と聞きました。印象的な言葉です。

今の世の中、待っていても情報が入ってくる世の中、会社でも何となく仕事が回っている世界だとすると、いつの間にか受動的な人を世の中は創り上げてしまっているのでしょうか。人材育成は本当に本当に奥の深い仕事です。

残業の真逆の評価スタンダード / The opposite evaluation standard for overtime work

日本の企業で働いている方なら同じことを感じる方が多いと思います。遅くまで残って仕事をしていると上司からの評判がよい、他の人も残っているのだから自分ももう少しだけ残って仕事をしようか、という気持ちです。

残って仕事をしている ⇒ 頑張っている ⇒ 仕事に打ち込んでいる ⇒ 素晴らしい ⇒ 心象も高くなり評価もしたくなる

でも、こんな考え方もあります。

残ってやっている ⇒ 仕事の遂行能力がない ⇒ 仕事が出来ない人間 ⇒ 評価できない

どちらが正しいのでしょうか?— 恐らく、両方とも正解だと思います。実際、私たちは自分の能力のレベルに応じて毎日の仕事を一生懸命に果たそうと努力しています。その人のレベルで一生懸命に努力している。優秀な従業員を基準に全ての従業員を評価すべきではありませんし、優秀な従業員には相応の報酬や立場が与えられるべき。決して処理能力は決して高く無いけれども真摯に努力している人がいる。そのような姿勢は評価されるべきでしょうが仕事の遂行能力がない、ということも事実。現時点ではそれ相応の評価に留まっても仕方ないかもしれません。でも、その努力を継続する時、将来に大きく花開く可能性が十分あります。(その頑張りを絶やさずに継続できること。これこそが大きな能力でもあります)

さて、ロシアで勤務していた当時ですが、終業時間になると、ほぼ残業せずにさっと帰ってゆく経理部門で働く女性スタッフがいました。その女性スタッフの上司は彼女を高く評価していました。仕事が早くて間違いも少なく正確だと。毎日定時で仕事を終えて帰ってゆく彼女に、「もっとできることがあるのでは?」と言うと、

「いつまでも残って仕事をしているのは能力がない証拠だ。早く帰ることは何も悪いことではない。やることをきっちりやっているのだから。」という答えが返ってきました。

全くその通り。

となると、なぜ会社に来て、終業時間までオフィスにいなければいけないのか、そもそもの就業時間の定義にも直結してくるテーマかもしれません。どんなに仕事をこなしても帰れない…いつまでも残らざるを得ないとすれば、これは能力だけではなくて、仕事の業務分担そのものに何か理由があるのも確かでしょう。オフィスにいると、どんなに早く来ていても、周りがまだ仕事をしている中を一人で帰るにもぺこぺこして帰宅する雰囲気。昔ほどではないのでしょうが、今でもそのような雰囲気は残っている気がします。何となくこの時間帯になるとぞろぞろと人が立って帰宅し始める時間帯のラインがある気もします。不思議です。

日本に帰国してタイムカードでの勤務管理に戻り、毎月の給与明細を確認するようになり、こう思います。残業代は重要だと。残業代を日々の生活費の一部として考えている人は少なからずいるだろうなと。その一方で、残業代を無くすと人の働き方はどう変わるのだろう?という関心があります。残業代を目当てにしてしまうと、決して高くもない残業代を得るために二度と帰ってくることの無い自分の時間が失われてゆく、という考えもできます。自分の仕事を終えたら退社する。その分自分への投資のために時間を使うことが有効だ、という主張は理解できます。難しいのは、自分で「投資」をしたとしても、それが将来に確実な報いとして返ってくる保証が無いこと。そのために自分のエネルギーと時間を費やし続けることに疑念を抱いてしまうことだってある。いつもポジティブな意識を保つことはアニメ、ドラマ、映画のようにはいかないのが実世界。どうあっても、最終的には、自分の人生は誰も代わりをしてくれない。自分のものである、自分が納得できる人生を送りたい、そのことを第一にして会社や仕事と向き合うべ木であると今は信じています。そう考えると、日々の仕事へ向き合う姿勢や無用な残業を避けるために集中して仕事に入り込むようになります。いくら同僚とのコミュニケーションが大切だと言っても、生産性のない話を30分以上も続けて、それでいて残業申請をしている人を見ると、会社のお金を盗んでいるのでは、と思いたくもなります。別の言い方をすると、ロシアへ行く前にはいつも周りの帰宅を見計らって帰り支度をしていたような、かつてはそんな受動的な私でした。

ロシアで勤務していた時には、終業時間を過ぎてもなかなか仕事を終えずにパソコンに向かっている部下がいると「さあさあ、もうこんな時間だ、仕事終えて帰ろうよ。」と呼び掛けていましたが、「XXXさん、まだ仕事が終わっていないからダメです。これだけは終えてから帰ります。」そんな回答が来ると感動してしまいました。とりわけ、周りからはミスも多くて仕事が出来ない、と評価されていたスタッフからそんな反応が返ってくると、内心では「偉い、頑張ってくれ、そして周りを見返してくれ」と応援している自分がいました。短期的には評価されずとも、その頑張りがいつか花開く時が来るかもしれません。いや、来ないかもしれません。それは誰にも分かりません。だからこそ人というのは面白いものです。短期的には評価が低くても長期的に見れば努力が実り見違える人もいる。一方で短期的には優秀でも徐々に能力が衰えてゆく人もいる。努力をしているのだけれどいつまでたっても実らないひとも。残業一つをとっても評価が180度変わってくる。結論が無いのですが、人って奥が深い。その一言に尽きます。

仕事のスキル自体は周りと比べれば劣っているとしても、社内に緊張感が張り詰めている時にその雰囲気を和らげる能力を発揮し、難しい場面でも自ら進んで協力してくれる。そんなソフトスキルも含めたトータルでのその人の”能力”が正当に皆に評価されるとステキな会社になりますね。上述の周りの同僚からの評価が低い女性スタッフはそんな女性でした。

※私の知る限り、ほとんどの剤モスクワ日系企業は法律で認められている、Irregular working hoursシフトを採用しており、それは最低3日間以上の有給休暇を従業員に付与することで残業代の支払いを免除されています。ですから、従業員にとっても残業をする意義が日本に比べて全くありません。仕事はあくまで生活を支えるために資金を得るためのもの。仕事をあるべき場所に置いて、それ以上に家族との時間や自分の好きなことに費やり生活を充実させる — これが本来あるべき私たちの生活のはずだと思うのですがいかがでしょうか。

二度とやってこない情熱を駐在期間にぶつけてみて / Hit a passion for the job that never comes again during a period of working in Russia

いつも考えます、なぜ橋本氏は都構想計画にもう一度挑戦しようと思わないのだろう?って。もう一度トライすれば、初めは反対していた人たちの中から賛同者が生まれて、遂には実現する可能性があるかもしれないのに、と。

勝手に私は自分自身の気持ちに重ねて想像するのですが、もうあの情熱は二度とやってこない、自分の想いをかけて注いだ情熱が一度破れてしまった後、再度チャレンジする情熱を呼び起こすのは大変難しい。これが橋本氏が政治の道とは違う道を歩んでいる理由なのかな、と。チャレンジを行わない理由なのではないかと。

私も7年間、ロシアに駐在している間、会社に残る古い業務フローに疑問を呈し、ロシア人スタッフに促しながら一緒に改善に向かって進もうと努力しましたが、その結果は私自身が目指していた理想の結果には届かずに終わってしまいました。赴任したばかりの頃は、まず私自身が業務を把握することの忙しさ、そして、仕事へのやる気がない人、私のような新人を(立場上は私が上ですが)見下したような姿勢で接してきて会社をよりよくしてゆこうとする努力に協力の意思がないマネジャーたち。そんな彼らを入れ替えることから始まり。ようやく体制を整えた後、さぁ行くぞ、と先頭に立って提案を進めてゆくものの、変化に対する抵抗、今の現状に何も問題を感じない、というスタッフたち。会社の将来を考えると、この変革は今後も会社に残って仕事をしてゆくであろう本人たちのためになるはずなのに。

私自身は、橋本氏よりもずっとずっと小さな規模の中で会社の制度やスタッフのためになればと思いシステムや業務フローの変化にチャレンジしている。しかし認めてもらえない。本人達のメリットがあるはずだと自分では分かっていても本人たちの意見を尊重していると進まない。意見が割れる。自分の力の至らなさを感じると同時に民主主義のデメリットを感じる。

自由を人に与えることがはたしてよいことなのか?むしろ絶対的な権力のもとでの自由に従うのが正しいのでは、と。

多くの人は変化を嫌う。変革がきっと大切なんだろうと分かってはいても、新たなことへ順応する必要性に対する面倒な気持ち、現在の ー 決してベストではないけれども ー 特段問題もない状況を変えることへの反発、何か変革が必要であれば、私がいなくなってからにして、といった他人事の気持ち、そんなものが相まって、物事が進まない。

大多数の人々にとっての正しさは、マネジメントが考える正解とは異なる。彼らにとっての正解が正しいのであって、どんなに将来を見据えた構想や変化を聞いたところで、それは彼らにとっては正しいことではない。どんなに変えようと思っても変えられない限界がある。もしかするとそれは今ではなくて、10年先にようやく起こりうることなのかもしれません。

自分の想いが伝わらないことに苛立ちと虚無感を感じ、そして自分の中でかつて抱いていた変革への情熱が再び湧き上がることがない。だから、その「時」が過ぎてしまうと、再びチャレンジすることが難しく感じがられ、モチベーションも失われてしまう。モスクワを去る時に、お世話になっていた他社の方から「きっとXXXさんの熱意は現地のスタッフにもきっと伝わっているはずで、それは引き継がれてゆくでしょう」というい言葉をいただいた。そう思いたい。一生懸命にやることで味わった満足感と敗北感。この気持ちは貴重な財産です。そして、なぜ人々の気持ちも分かるようになった気がします。

会社を根本的に変革してゆく時期に民主主義は相応しくない。強力なパワーを持ったリーダーのもとに半ば強制的に全員を動かしてゆくこと。民主主義と独裁制の上手な使い分けが必要なのかもしれません。もし私自身が現地法人の社長になったらどんな風に会社を経営してゆくだろうか?そんなことを考える機会となりました。

人事評価とアピールと自分の軸 / Evaluation, Appeal and own motto

1年間の会計年度を終え、人事評価も終えてボーナス金額、昇格対象者を議論の上決定し、本人に伝えて契約書の更新を終えると、ホッと一息。この時期は一年のうちで最も神経を使う時間でもあります。評価が始まると、決まって「どうかこの人を上げてください、でないと辞めてしまうかもしれません、他社にゆかれて困ります」といった、こちらとしても確かに困る…という半ば脅しのようなものから、「なぜ私はきちんと評価されないのですか?私のマネージャーが悪い。私は正しく評価されていない」そんな直接の訴えが届くこと、あります。

アピールの大切さ

ロシア人スタッフに毎回言うことは、アピールの大切さ。評価者に対しては、評価者が陥りがちな判断ミスに気を付けるように、と評価ガイダンスで喚起していますが、やっぱり私たちは不完全な人間です。どうしても自分の感情に流されたり、直近で素晴らしい実績をあげただけで、その人の全てを必要以上にGreat、としてしまうような傾向があるものです。

寡黙で目立たずに黙々と仕事をこなしている人もいます。一方、仕事の成果物はそれほどでないにしても、陽気で上司の受けがよくいかにも仕事ができる雰囲気を醸し出している人もいます。実際の仕事の生産性で言えば寡黙な人であるにもかかわらず、結果として後者の人が高い評価を受ける。そんなことも事実です。

どれだけ評価者を訓練すると言っても限界があります。評価者には定期的に部下とコミュニケーションを取り、部下の仕事を把握して適切な判断を下せるように、との教えがあるものの評価者であるマネジャーも忙しく、評価について期中から会話できている部門は、残念ながらほとんど見かけません。隣同士の席で毎日会話できているから大丈夫なんていう誤った認識を持っているマネジャーが大半でしょうか。日常的に席で会話する内容と、部下の仕事を理解するための会話は異なります。もっと会議室に入ったり、二人で会話ができる場所に移動してじっくりと会話してもらいたいと感じます。これも結局は、自らの態度で示すしか方法はなく、少なくとも私自身の部門のマネジャーには同じ理解を持ってもらうべく地道な努力が続いています。

さて、寡黙に仕事をしているロシア人スタッフに伝えているのは、上司が適切に自分の仕事を見てくれていると思うことは誤りだということ。我々は人間なので間違いを犯します。だからこそその事実を踏まえて自分から仕事の成果をアピールすること。その大切さを説いています。「なぜ自分はこんなにも一生懸命にやっているのに見てくれないんだ?」ー 挨拶をしても、相手に聞こえなければ挨拶していないのと同じこと ― それと同じく、どんなに立派な仕事をしていても、それが相手に伝わらなければ、評価の対象とはならない。そんな現実があります。

仕事以外に自分の重要なことを持つことの大切さ

仕事が唯一の重要なものになってしまうと、自分の人事評価は会社や上司によって影響も受けるものです、上司の調子に合わせて自分自身を変えなければいけない、そんな苦しさがあります。仕事でこけてしまった時、自分を支えてくれるものがなくなります。

その点、私が一緒に働くロシア人スタッフは十分ほどに仕事以外に大切なのものを持っているようで、いつも勉強しているのはこちらです。もう少しやってくれてもいいんじゃないの…?と言いたくなる気持ちがあるのですが。

仕事以外のに没頭できる大切なことを持っていると、必然的に仕事も効率よくこなそうとしますし、仕事で何かがあっても、それ以外に自分自身を支えてくれる軸がある。精神的にも支えられる。といっても仕事で成果を出すにはそれなりの時間と労力を捧げることが必須。どちらも中途半端になってしまうと問題です。いまだにそのバランスの取り方が難しいなと感じます。きっと仕事と自分の仕事以外のこだわりを重ねてゆければゆけるほど、仕事もプライベートも充実できるはず。例えば、プログラミングやMicrosoft365が提供する様々なアプリケーションの学習にはまっている場合。仕事上会社の承認フローに手間がかかっているのであれば、学んだ知識を応用して仕事に使えます。仕事以外の時間に勉強をして、それを仕事の業務に落とし込んで検証ができる。「何やってるの?」と言われても、「いや、仕事のために必要なんですよ」と言える。学んだことを仕事でも生かして周りにも喜んでもらえる。そうなれば自分の趣味が仕事の一部となり、仕事自体もますます楽しくなる。良いこと尽くし。願わくは、仕事そのものと自分の趣味の境目が曖昧となってきて、自分自身が没頭してやることが結果としてお金をもたらしてくれる、そんな境地にたどり着ければ素晴らしいですね。たとえ、お菓子作りが趣味、というオフィス仕事とは全く関係のなさそうな趣味があるにしても、お菓子を会社のイベント振舞ったり、ギフトとしてプレゼントすることでみんなにとっても喜んでもらう、そんなロシア人スタッフもいます。みんなが美味しく食べている様子とそのスタッフ自身も笑顔満面の様子を見ると、こっちまで幸せな気分になってきます。

曖昧な人事制度の欠陥を指摘し続けても仕方がない

私はこう思います。欠陥ばかりを指摘するスタッフもいましたが、会社としてできる努力をしたうえで整備された制度であれば、そこに残る欠陥を指摘することに時間を費やすことが無駄でしょう、と。であればもっと自分のやりたいことに没頭できる、健全な時間と気持ちを持つのはどうですか?と。結果的にこのような人は仕事も人生も上手くいっていない傾向にあるのかなぁ、と漠然とながら感じています。

「SpecialistからSenior Specialistになるにはどうすればいいのか?」「Senior SpecialistからManagerになるには、何をどうすればよいのか具体的に説明してください。」- その気持ちは分かるのですが、そのために必要なCompetencyと次のポジションに求められているスキルを説明することはできます。しかし、これを継続すれば来年なれるのか?それとも2,3年後か?そういわれても断言できません。上にゆけばゆくほどポジションの数は減るので、昇格対象者は最終的には相対評価で数を絞る必要がある。なぜ私が昇格しないのか?それを考えてもお互いに理解し合うことは不可能です。サッカーのA代表も監督が代われば戦術も変わり、代表に呼ばれる人が変わることがあるのと同じように、会社の戦術も社長によって変わることもある。前の社長は良かった、悪かった、そんなことを議論すること自体空しい時間だと。

全員が努力しても、成功した、という世間の評価は得られませんが、自分自身の過去と振り返れば成功です。昨年の自らと比較して成長しているのですから。他人からの評価にあまりにもこだわっている人が多いのでしょうか…?もっと自分自身と向き合って、自分がどうしたいのか、真剣に考えたらどうですか?そのようにロシア人スタッフに伝えることしかできませんでした。その中で私は出世が一番大切です、となれば、出世するためにすべきことをすればよい。それが本人にとって重要なことなのですから。