帰国して母国語で仕事をするようになり、1年以上経過してみてからなるほどなぁ、と思うことがあります。それは、同僚に対する「ここはこうしたほうがもっと成長できると思う」「この点はやめたほうがいいと思うんだけど」といった、相手に対するネガティブに捉えられかねない発言は控えがちなのは、ロシアでも日本でも同じ、ということ。
ロシアでは、日本と比べて人々は直接物事をはっきり話す傾向があるという事実があるのだから、部下のマネジャーから「あの子何とかしてほしいんですけど…」と聞くと、何となく腑に落ちない気持ちがありました。「なぜ日頃仲良くしゃべっているのにそういうことを直接伝えないの?友達なら相手のことを想っているのだから言ってあげるべきでは?」と回答していました。しかし、実ははっきりと相手に物事を言うのを避ける傾向があるのだということ。それって日本人でも一緒。結局、国が違えど皆一緒。
なぜなんだろう?と考えましたが、一つには、単に自分の意見を主張することは他人は関係のないこと、その一方で、相手について自分が考えることを伝えることは相手が関わってくること。自分の意見が原因で相手との関係に溝が生じてしまう可能性もある。だからこそ発言には慎重になるのでしょうか。(しかしながら、私の個人的な印象ですが、日本社会ではそもそも自分の意見や考えを主張することですら躊躇することもあります。「自分の主張をしたら相手がどう思うだろう…」「自分が先に決断をしたらどうだろう、相手はもしかしら逆の決定を望んでいるのではなかろうか…」と。日本人の思考回路はどうなっているのでしょうか…)
二つ目に考えられる点は、きっと母国語だからこそ、何をどのように言うと相手がどう感じるのか、それがはっきりと分かるからなのではなかろうかと、そんな風に考えています。この単語・フレーズを使ったら、このイントネーションで伝えたら、言葉には表れない雰囲気を感じる肌感覚など、母国語だからこそ感じ取ることができるものがあります。それらを自分ではっきりと掴めると、発言の際には言葉を発する前に自分の頭で考え、悩み、躊躇する。「なんではっきりとした物言いをするロシア人なのに、ロシア人同士だと遠慮しているのか・・・」という疑問に対する答えは、こんなところに理由があったのかも。相手に対する自分の考えを伝えることは、結局どこの国の人でも同じ難しさを感じるのだなぁ、と認識するようになりました。
ロシアにいる時には、日本人とロシア人、という一つの大きな国籍や文化の違いがあったことも重要な要素であったと思います。この壁があるからこそ、双方において「多少言葉の使い方が間違っていても仕方がない。相手に伝わればよい」(発言者)、「何となく発言が厳しいけれども、言葉が違うんだし仕方がないことなのかもしれない」(発言を聞く立場)といった心理的なバリアがあったのかもしれません。実際、自分自身もそんな風に(相手を否定するような発言は決して許されることではなく、そのような発言がないように注意を払っていましたが)「自分も母国語ではないので仕方がない、きっと自分の思いが伝わるだろう」と思って英語やロシア語で自分の発言を伝えていました。そう考えると、相手に対する自分の思いを率直に伝える際、日本人とロシア人という違いはポジティブな要素だったのかもしれません。相手のことを知りたいと思い、努力して学習して知れば知るほどに逆にそれがネックとなってしまい動けなくなってしまうこともある…。
ただ、何よりもクリアなのは、相手への評価を伝える・伝えない、それは本人次第。相手のことを想うからこそ相手のためになると思えることは、言葉とタイミングを慎重に選択しつつも伝えてゆく。それがあるべき形だと考えています。こちらが伝える内容を「面倒くさい奴だ、また言ってるよ。聞いていてあげればいつかは止む」なんて思いつつも、きっと将来に思い出してくれれば、自分の発言は決して無駄にはならなかったと想像の中で描きつつ…。