サンクトペテルブルクで開催のビジネスフォーラム、Synergy Global Forum 2019にやってきました。/ Business forum: Synergy Global Forum 2019 in Saint Petersburg

262,000 m2, 68,000人収容可能なGazprom arenaにて、Synergy Global Forum 2019が開催されています。日本でもほとんどこのような会場に出かけたことがないため比較感がないのですが、圧倒的なスケール。それと音響のうるささで頭が痛くなりました。

ただいまサンクトペテルブルクです。

https://synergyglobal.ru/

ここに来て、Synergy Global Forum 2019(Oct 4th Fri, Oct 5th, Sat)に出席しています。人材開発の分野での世界的な第一人者、ロシアで現在注目されている、いわゆるビジネスで成功していると言われる著名な方々が出る大規模なイベントとあって関心がありました。今回の会場で聞ける話が会社の今後の人材教育にも役立てるはず、と思っています。

そしてなによりも、これだけの人たちを生で、本物を見ること。リアルな声を聞くこと(残念ながらマイク経由だけど)、これだけの大きな会場で、これだけ多くの観客を前にしてどのようにプレゼンするか?身振り手振りは?とても勉強になります。

どうしても聴きたかった方 ― 私が日頃会社従業員の人材開発を本、雑誌、インターネットで勉強していると嫌でも(?)目にする、耳に入ってくる著名な方々はこちら。この分野を専門にされているビジネスパーソンにとってはきっと大変尊敬されている方々だと思っています。

Marshall Goldsmith (Маршалл Голдсмит)

Ichak Adizes(Ицхак Адизес) イスラエル系アメリカ人のビジネスコンサルタント

Michael Porter (Майкл Портер) アメリカの経済学者

更新されたプログラムに掲載されていなかったため、残念ながら出席キャンセルとなったのだろうか、と思ってあきらめていたのですが、Ichak Adizes氏の話を戻りに会場に戻るとマイケル・ポーター氏が精力的なプレゼンを行っていました。わずか5分足らずしか目にすることが出来ず・・・。残念です。

Andrey Trubnikov (Андрей Трубников)日本でも有名となったNatura Sibericaの創業者(残念ながら聴く事はできませんでした。プログラム通りに会場に出かけたのですがずっと別の人たちがプレゼンをしており、周りに聞いてもいったい彼が出てくるのか分からない、と。私もメイン会場でIchak Adizes氏の話を聴くために席を立ちました)

実際、会場が大変大きいこともあるのか、メイン会場の空席が目立ちました。人が少なくて話し手としてはさみしいな、と。でも、通路に立っている人も多かったですし、サブ会場などにも多くの人が詰め掛けていたので、トータルでいけばかなりの多くの人が実際には会場にいたのかもしれません。

一番の注目はアーノルド・シュワツェネッガー(Arnold Schwarzenegger)氏の参加でしょう。このイベントまでインターネットで街中でもシュワちゃんの顔写真付きのイベント広告が目に入ってきました。初日には、シュワちゃんとの、個別の写真撮影セッションがPlatinumチケット購入者向けにあったようです。そのお値段は500,000RUB!(82万円:直近の為替レートにて) ― このたった2日間のイベントで、このような写真撮影の特典のためだけにこの金額を出せる人たちはすでに世の中一般で言われる成功者。自己啓発とかそっちのけでただ有名人を見るためだけ、あるいはイベント関係者との関係もあって来ているのかもしれません。

今朝インターネットで検索すると(Yandex)、どうやら体調不良があったようで早々とシュワちゃんが会場を後にしたと。それについてチケット購入者からインターネット上でこの写真撮影セッションがあまりにも短く、Platinumチケット購入者からシュワちゃんと写真を取れなかったことに不満が出ている。イベント開催者がそれに対して「すべては予定通りに行われた。その会場で実際はどうであったのか、よく理解するよう十分努力します。」とのありがちな公式な見解が出されている、そんなニュースを目にしました。

あれだけのイベントで、あらゆる個性豊かな夫々の成功者の調整をしてコントロールすることの難しさ。私なんか、会社のわずか数十人程度のイベントでも各プレゼンテーターの時間管理に一苦労しています。ですので、このような大規模なイベントのの苦労は想像に絶します。

たしかに、メイン会場以外の場所では、そもそもサブ会場の案内も付いておらず、会場案内のスタッフも把握していないようで開催者側も至らない点があるなぁ、と。一方で、話し手の飛行機の都合もあってプログラム変更が急遽その場で行われたり、延々と話し続けるスピーカーが止まらず、かつ聴衆も「もっともっと!」あおるために、プログラムとまったく合わずに話が進展していました。いやあ、無茶苦茶な。それでも、みんな文句を言いつつも、この不測の事態に堂々と返している進行役のスタッフもすごい。尊敬します。暗に、プログラム通りに物事が進まないのは当たり前、そんな認識がロシア人の中に根差しているのでは?と思ってしまいました。もしそうだとすると、少なくともビジネスの世界においてそれは改善されるべきですね。長年ロシアにいると、そういう考えに自分自身も染まっている危険があって恐ろしくもあります。

ただ聞いたことをここに書くだけではなく、一つ一つの話を自分の中で整理しながら書いてゆくべく、少しずつ今後の記事にして残してゆきます。

ベテランのロシア人スタッフを見て感じるかっこいい年齢の重ね方 / how to become attractive with ages – thinking it from working with Russian colleagues

同じ会社で同じスタッフと長年勤務していると、ふとした瞬間に「老けたな~」とふと思うときがあります。そういっている自分も人のことを言えないのですが・・・

そもそも、ロシア人は日本人よりも見た目が大人っぽく、年上に見えますが、それを別にしても久々に再会したとき、朝にふと見たときに感じる、あっ、老けたなぁ・・・という瞬間。それも、いやあ、このまま老けていったらどんな将来が待っているのだろうか、大丈夫かな・・・と思うときと、自分もこうなりたいな、という年齢の重ね方。よい老け方とよくない老け方の違いって何だろう。かっこよい、クールな歳の取り方、というのでしょうか。

これはどこに行っても、どの国に行っても同じの真理と思いますが、今ここでこうしてロシア人スタッフと共に働いて感じること、日本でのことも振り返って感じる魅力のある年齢の重ね方を書いてみました。

仕事の約束を守る。そして必要なスピードを保てること

いたって当たり前のことですが、仕事としてこれは基礎の基礎。これが根本的になっていないスタッフがいます、お願いだから改善して、と言いたい。いや、言い過ぎるほど言ってます。ロジカルシンキングできっちり毎回課題を整理して資料にまとめて、なんて言いませんが、ただ単に、やるといったことはやる。それも時間をかけすぎずに一つ一つクリアすること。みんな苦しい中やっている。文句も言いたい。でもそれは皆同じ。言い訳はほどほどに、とにかく「やります」と合意したらやりましょう、と。そして、最低限の処理スピードが必須です。きっちり仕事をやってくれるとしても、あまりにも丁寧すぎたり、各々の仕事の重要度を考えずにどれにも同じように丁寧にアプローチしているのは問題です(もちろん自分自身も評価される側。毎日がチャレンジです)年齢の重ね方と直接関係がないようですが、まずはこれが基本の基本だと考えています。

素直、謙虚

仕事もできるようになってくると、素直に周りのことを聞くことが難しくなるケースがあります。それでも周りの意見をよく聞くこと。その中で自分の主張を相手への批判することなしに上手に織り込んでゆくことの難しさと大切さ。問題が起こったときに正直に自分の非を認めることができる強さ。その状況で最善解を見つけるために駆け回ってくれる。これができているベテランのスタッフを見ていると素晴らしいな、と思うばかりです。

柔軟さ

素直、謙虚とも繋がりますが、歳をとって衰えてゆき、若い人にかなわなくなる中、柔軟でいられることは重要な要素だと感じます。これも素直でないとできないことです。自らの主張と合わなくてもどんな意見、決定にも自分自身を合わせられる柔軟さ。会社の組織にいるとすべてが思った通りにはゆかず、どこかでそんな納得のゆかないことがあります。それでも柔軟でいることの大切さを学んでいます。柔軟に何でも受け入れる許容度があるからこそ、自らの価値観だけにとどまらず、新しいことも率先して受け入れ、取り組めるゆとりを持つ。周りにも柔らかいあたり方。

好奇心

柔軟に新しいことを取り入れてゆくには、自分の知らないことに対する興味を示す好奇心が必要。年齢を重ねるほどになかなか自分のスタンダードから逸脱する勇気と行動力がなくなるのを感じるようになりました。それにはエネルギーが必要です。それを継続できているロシア人スタッフをみると尊敬するばかりです。私も負けていられません。日本に一時帰国して入った牛丼のお店。出張で一時的に訪問した本社の食堂。一人でもくもくと死んだ顔で食事をせっせと口に無機質に運んでいる人たちを見て、この人たちは一体何のために食事をしているのだろうか、生きる目的があるのだろうか・・・なんて大げさに考えてしまいました。ロシア人スタッフは毎日楽しそうに大声で笑いながら、どんなに忙しくても食事の時間を大切にしている。そんな姿を見習いたいものです。

信用レベルを上げること

信用を持つことの大切さ。日頃から仕事で築き上げてきた経験があって、周りに実績を認めてもらい、素直で謙虚な人柄で周りからも好かれている。そうすると、自分の意見を相手に聞いてもらえる高いレベルの信用が得られます。相手にたとえ認めてもらえないとしても謙虚に受け止めて次の案をもってゆく。たとえ自分自身に全権限があって、全てを決定できるとしても他人と働く以上、自らの意見を完全に通すことは無理。どこかしらで相手の主張も織り込んで決定することがよい決断です。そして一層信用のレベルが上がってゆきます。

人間なのでミスをします。私も少なくない失敗を繰り返しています。やるべき仕事を漏らしてしまうこともあります。だからこそ、日頃の信用をどこまで持っているかが重要です。銀行はその人の信用レベルに応じてクレジットカードの利用制限額を設定します。この金額レベルをどれだけ上げることができるか?信用がなければ大きな借入れもできませんし、結果的に購入できるモノも限られる。管理される範囲が大きい。なぜならば信頼されていないから。 全く仕事も同じことが言えますね。一方で信用レベルが高いスタッフは自由にさせていても結果をもってきますし、本人も満足、雇用者としても満足。素晴らしい関係性です。

このような上記のサイクルが回りだす人は、仕事も周りの人間関係も円滑となり、自信が生まれ、それが行動にも現れているように感じられます。そんなベテラン社員の年齢の重ね方に私自身も憧れと目標を抱いて毎日歳を少しずつ取っている、いや、どっしりと重ねているところです。

会社のコスト削減と職場の衛生管理のさじ加減 / The delicate balance between cost-saving and hygienic management

とある、いたって庶民的なスーパーマーケットにて。野菜は自分で袋に詰めて重さを計測し、計測器から自動で出力されるラベルを袋に貼り付けてレジに持ってゆきます。トマトでも異なる種類が隣同士に置いており、こちらも分からなくなることがあります。レジでは何も言われずに通してくれますし、また、レジで測ってくれるお店では、「このトマトはどっち?」と客であるこちらに尋ねてきて、こちらが戻って確認してくることも少なくありません。なんともこのあたりのいい加減さが好きです。

コストを削減しようとすると、使い捨てのカップやフォーク、スプーンなどが目に付くものです。メンテナンスも不要で、使用後はゴミ箱へ。衛生的にもよく、決して悪くありません。しかし、毎日、従業員がプラスティックのカップを取り、ウォーターサーバーから水をぐいっと飲み、そのまま捨てる。ランチタイムにフォーク、スプーンが使用されては捨てられてゆく。それらが一日に繰り返される光景を目にし、ゴミ箱がプラスティックの山になってゆくのを見るのは切ないものです。そんなわけで全て購入停止。カップはマイカップを持参すること。フォーク、ナイフ類は会社で備品とし、それを皆で利用すること。そんな取り決めとなりました。必要なときのためにプラスティック製品を保管していますが、方針を変えると、それはそれとして上手くゆくようです。

直接関係のない話しですが、昔、大学の教授が言っていたこんな言葉が頭に残っています。「ロシアは一周遅れで世界の先を行っている。」

例として挙げられていたのが、ビンに入った牛乳。世界的に紙が主流になっている中、ロシアでは(教授の時代はソ連?)ビンがいまだに残っていたとか。その後世界が環境に意識を向け始めてリサイクルのビンに目を向け始めたとき、ソ連ではすでに一周遅れで世界に先駆けてビンが主流であった、ということでした。皮肉なのでしょうが面白いですね。

今回テーマにあげるのはペーパータオルナプキン。これも決して高いものではありませんが、毎月それなりの金額と量を購入して利用しています。ロシアに来て感じたのは、紙の文化。日本では会社でも家庭でも布製の布巾で台を拭き、洗って再利用するケースがあります。新入社員の頃、勤務していたオフィスでは毎朝ベテランの女性が布巾で全員の机を拭いてくれていた文化があったのを思い出します。小学生の頃には、学校では必ずハンカチとティッシュを持参するように、と教育を受けて育ったものです(あくまで私の経験に基づくものですが)。各家庭や状況によるので判断はできませんが、机の上を掃除する、というのは外部委託先の掃除担当者が行い、我々のようなオフィススタッフの行う仕事ではない、という意識もあるのでしょうか、オフィス内に机を拭くための布は、掃除道具を入れた部屋に収納されており、何かさっと拭く必要がある場合には何でもペーパータオルです。

ロシアの家庭でも紙ナプキン必ずといってもよいくらい備え付けてあるのではないでしょうか。はて、私が日本にいた時にこれほど紙ナプキンを購入したものだろうか?と振り返っても購入した記憶がほとんどありません。会社でも何かと会社の紙ナプキンを使用して洗った手を拭くことに抵抗を感じていました。自分のハンカチを利用すれば紙の消費を押さえることができるので、会社のコスト削減につながると思うからです。

ところが、インターネットで衛生に関するテーマでハンカチやペーパータオル、ハンドドライヤーに関する記事を読んでゆくと、ペーパータオルが一番衛生的だという。よく考えてみると、ハンカチは使用した後、塗れたままでポケットに突っ込み、またあとでそのハンカチを使用する。傍から見ればハンカチを持参していて素晴らしいと思えるかもしれないけれど、衛生面でみたらばい菌が繁殖しつつあるハンカチで洗った手を汚している行為とも言える。そんな観点からみれば、一度だけ使用して捨てるペーパータオルは一番清潔感がある。― そんなことを今になって認識して、自分自身の長年の固定観念の怖さ、当たり前のことでもハンカチがよいのだ、と思い込んでいるとそれを疑わずに調べることをしない怖さを感じました。そして、コスト削減と職場での衛生維持のバランスの取り方、その単純に数値化できない難しさに思いを巡らしたテーマでした。

[ロシア経理書類]Акт сверки(Akt Sverki) 違算照合表 / Reconciliation statement

今も新しい建物が次々と建設中の高層ビル群のモスクワシティ横にひっそりと小さくたたずむ5階建てのアパート、通称«Хрущевки» 。この新旧のコントラストが目を引きます。1958年~1985年にかけて建築された、計画を推し進めた当時のフルシチョフ書記長の名前に由来しており、けシンプルで簡便的に建設できる住宅不足を解決するために建設されたアパートで、今でもモスクワを歩いていると色々な場所で出会います。

ロシアでの経理書類の一つとして、Акт сверки(Akt Sverki)と呼ばれる、違算照合表が存在します。

(出所)https://yandex.ru/imagesより

上記のサンプル写真にあるように、取引先との取引・お金のやり取り(Продажа = 売上(Sales)、Оплата = 支払い(Payment))を日付に沿って並べて行き、テーブル一番下の段に、違算の金額を記載します。このサンプルの場合、4,262.3RUBの支払いが残っていることが分かります。また、本来は、右側にはこの書類を受領した会社が会計システム内のデータと照合して、この金額で合意するのか、あるいは違う認識でいるのかを数値・コメントを記載し、署名と社印を押印した後に相手に返却します。

ロシアの法律では、企業は年に1度、必ず財務諸表の作成、報告が義務付けられており、その数値を確証するためにも取引先との取引残高の内容証明が必要となります。実質のところ、法人税の申告が四半期別に要求されること、取引銀行からも四半期別に財務諸表の提供を要求されること、このような事情もあるために、年に1度しか財務諸表を確認しない、という企業はほぼ皆無だと思われます。また、上記の理由もあるため、取引先とAkt Sverkiのやり取りをするのは、各企業の事情にもよりますが、主に四半期別、というのが一般的のようです。

参考URL:https://www.audit-it.ru/terms/accounting/sverka_raschetov.html

本来、仕事というのは簡単。/ Originally, the job should be easy.

今週木曜日、19時前にモスクワ川を眺めて。

今回の記事でも、誤解を恐れずに言えば、本来、仕事というのは簡単。そう考えています。ただし、お客さんの心を読むこと、コントロールすることは出来るわけがなく、そればっかりは最高難易度の仕事です。

とりわけ、会社の管理に関する業務は自らでコントロールできる割合が高い故に、問題解決できる確率も高いはずです。その意味で、仕事は簡単。

…のはずですが、ところがそうはいかない。なぜ?!いつも自らの思いと現実との大きな乖離に悶々としつつも、そのギャップにある人間という生き物について深く考えてしまいます。

一人ひとりが、同じ会社で働く仲間として同じゴールを目指している。お互いにそれを分かっているはず。なのに、一人ひとりにエゴがあったり、どうしても他人よりも自分が(自分の課が)上の立場にいたい、有利になりたい、一言何か言わなければ気がすまない。何か文句を言わなければ納得しない。結局、物事の結論がまとまらない、先に進まない、いらいらする。お互いに険悪になる。そんなことが皆さんの周りでもないでしょうか?私は何度も経験してきました。その度に、「なぜこの人はこんな考え方をするのだろう?何か昔に経験してきたこと、家庭での環境が彼・彼女の考えを形成するのに影響を与えたのだろうか?」と考えることあります。

ただただみんなが、一言いいたいことを我慢して、”今回は彼・彼女の言うことを聞いてあげよう”、”思うことはあるけれども、会社全体のことを考えて提案してくれているのだろうから支えてあげよう”、(年齢が上であれば)”私もそんな時代があったなぁ、私にできるアドバイスを言葉巧みに伝えるけれど、彼・彼女のよい経験になるに違いないのだから、言われた通りに従ってあげよう”など、そんな風に優しく、謙虚にいることができれば、やっぱり仕事は簡単に進むはずだと思うのです。いかに人間という生き物が難しいか…イライラするのを通り越して、ただただ感心してしまいます。

街を歩いていて、弱い犬ほどよく吠える。そう思います。人間社会も同じではないでしょうか?能力があまり高くないスタッフほどやたらと些細なことに口を出してくる、文句を言う。会社という組織にいる以上、そんなスタッフの声もあからさまに無視をすることはできず、会社全体にとっての、その状況での最善な回答を導き出す。悔しいですが、毎回自分で考えている物語のようにはいきません。それでも、自らの目指す方向に持ってゆくためには、日頃から可能なところで仕事では”あえて負けておく”ことの大切さ。それによって、こちらが譲れない決定の時には、相手に認めてもらえる関係を築いておくこと。結局のところ、将来を見据えた一日一日の行動が重要であることを学んでいます。本当のWin-winな関係というのは、日頃のLose-winの回数をどれだけ積み重ねて、相手を尊重しているかを示すことにあるのだと思っています。

”仕事はどうでもよい” / “What’s the reason to worry about your job so much?”

つい先日、赤の広場すぐ横にあるボリショイ劇場にでかけてオペラを観てきました。芸術にはさっぱり疎い私に、部下たちが「一度はボリショイ劇場に行ってくださいな」と、プレゼントしてくれたボリショイ劇場のチケット。とても有難く貴重な時間を満喫しました。私の席をステージから遠い後ろの席に座っていたおばあちゃんに譲ってあげると、何度も「ありがとう」とお礼を言われ、何だかとてもよいことをした気分になりました。素晴らしい劇場でおばあちゃんも私もそれぞれ幸せな気分に。

仕事について。

どこか俯瞰的に見て、誤解を恐れずにはっきりと言うと、「仕事はどうでもよい。」という観点を持っておくのは重要だなぁ、と。

仕事のためにウツとならず、最悪の場合自殺まで考えるようなことにならないためにも。部下にも上手に働いてもらい、逆にやる気になってくれて、仕事がむしろうまく回ることも期待できます(すべての場合にうまくゆく保証はないのですが)。また、”どうでもよい”と言っても、このバランスが非常に重要で、これはいい加減に仕事をしてもよい、というのとは決して違います。

いつも自分の仕事は完璧に、納得のゆくまできっちりと詰めたい。そんな気持ちがあります。資料作りも文章も納得のゆくまでこだわりたい。そのためにはいくらでも時間と労力をかける覚悟はある。この心意気が非常に重要だ、ということに間違いありません。一方で、何かしらの問題が降りかかってくる毎日の中で自分のペースで仕事はできない。どうしても自分の持ち時間と処理能力の限界にぶつかります。それでもあえて妥協せずに完璧さを目指すのであればできることは限られます。

プライベートを犠牲にして仕事にとことん時間を費やす。ひたすら自らの処理能力を高め、IT機器・ソフトウェアなどの処理スピードを高めてくれるアイテムへの投資をする。 ― 確実に遅かれ早かれ限界にぶつかります。なぜならば、ここに関わっている人間はわずか、私ひとり。そして、悪いことに、この自分の要求するレベルを周りのロシア人スタッフに強要し始めると、軋轢が生じます。ほとんど人はそんな完璧さをすべての仕事に求めていませんし、おそらく必要ないのだと思っています。

日本の芸術、工業製品の素晴らしさは細部にとことんこだわっていること。人の目にふれないところまでも。それは誇るべきことですが、仕事は芸術品とは異なり、外してはいけない仕事と、多少物足りない点があってもとにもかくにも進めるべきものがあります。その判断をするのがマネジメントの責任ですが、日常生活の多くでぶつかる問題の多くは、スピード重視。「あなたの完璧さなど求めていません。とにかく早く決断してください。進めてください、明確な指示を出してください。」と一つ一つの課題がまるで言っているかのようです。

どこかにもう一人の自分を常に持ち、自らを客観的に見ることの大切さ。そのもう一人に「どうでもええやないか。」と言わせることでバランスを保つ。どうでもいい、だからこそ楽をしたい(その分、自らはもっと大切で重要な仕事に時間を割く)。そのためにはロシア人の部下にとことんお願いする。「頼みますよ、お願い。あなたの助け無しにはどうにもならないんだよ」と、上手く甘えることができるほうがずっと完璧主義よりも良い結果につながっています。

仕事の結果だけではなく、ロシア人部下とのよい関係も築けるというおまけつき。

「仕事はどうでもよい。」 ― 誤解を恐れずに、改めてはっきりとこの言葉の持つ重要性を強調したいです。

休日に皆でせっせとペリメニを作る / Being busy to prepare pelimeni all together

日曜日、ロシア人の友人宅でせっせとペリメニを手作りしました。ペリメニは水餃子のようなイメージ。もともとはシベリア地方発祥だそうで、昔は(今も?)シベリアでは冬になると多くの家庭でペリメニを作ってはそのまま外に置いておき、自然の寒さで冷凍保存していたそうな。外は冷凍庫よりも寒いであろうシベリアならではの発想ですね。そして、皆で協力し合って作り、その過程で色々な困難にもぶつかるのですが、最後は皆で仲良くご馳走になる。お店で買うペリメニなんかよりずっと美味しい。また一つ、ロシアでの良い思い出が積み重なりました。

サワークリーム(スメタナ)を付けてご馳走になります。

ブログを書くことの効果 / The benefit of writing blog

ブログは、徒歩とオートバイの間、自転車に乗っている、そんなイメージです。(オートバイと車は私にとっては自分の理解の範疇を超えている、とてもじゃないけど自分でいじれないという意味で同じカテゴリーに入ってます)自分で全ての部品をいじることができる、理解ができる。そしてかつ自分の力加減次第で十分なスピードも出せるし、ゆっくりとしたスピードも保てる。そんな自転車のような感覚です。

1.スピード

サラリーマンとして働くうえで、学生時代のように自分のやりたいことだけを中心に考えていればよいわけではなく、仕事の比重も大きくなります。とにかく時間がない。でも勉強のための時間は削りたくない。

私はノートの自分の手で書いてゆくのが大好きです。ノートで書いていると、後で振り返った時に、コーヒーをこぼしてしまったページだったり、意味もなく描いていた絵があったり、その瞬間を思い起こすことが楽しくもあります。そんな効果がノートにありますが、やっぱり時間がない。大学3年生の頃に挑戦した半年間のバックパッカーの時代から初めて日記をつけ始めました。それがただの日記から徐々に自分の考えを書き連ねる内容へと変わり、毎日ではないのですが今もずっと続いてます。大学時代も受験勉強のためにひたすらノートに英単語を書き連ねていました。手で書く作業が歩くことだとすると、ブログは自転車です。パソコンを利用することで、適度なスピードを持った有効な方法です。

今は声で話して音声入力をする機材も出ていますが、いつの日か自分の頭の中で考えたことばが電気信号に変換されて、それが自動的にパソコンに打ち込めることが標準化される時代がくるはず。そうなると、文字入力のスピードは自転車からオートバイクラスへ段階があがるのでしょう。次の「頭に刻み込む」ためのプロセスにはキーボードで打ち込む作業が重要と思うため、このプロセスをカットすることに今は素直に賛成はできないのですが。スピードアップが単純にインターネットで検索すると、言語化することに成功した実験結果の論文情報に行き着きました。https://www.nature.com/articles/s41586-019-1119-1.epdf?referrer_access_token=9I4rzoGIXyG4jlZvowH8UdRgN0jAjWel9jnR3ZoTv0PrAYuou8HGBumf5856SOeMP3yatwCdGGdYG2as4_NZVyrw8XnCtlEIm6RmcqHvH201iTWornZCuAPh_aluHS_XyXjOqd7sNLJ8_-xHRh4x4gUWOgNG6EJtZIJyN227giD5RzTFYLuxiavKCXiqUIhuY8Jih2DF6PKf1AfHyfqsu7FBI0bG8V1WBHuq_Jx5Jxraf1ZUsmhUNpPoGmeeBOMb&tracking_referrer=www.nhk.or.jp

2.頭に刻み込む

手を使って書くことは、やり方を間違えさえしなければとても大切です。

大学受験の勉強時代、上記の通りひたすら小さな字で英単語をノートに書き連ねてました。それを見た同級生からは「そんな書いて覚えられるの?」なんて笑われて茶化されたこともありました。正直に申すと、その友人の言う通り、書いた労力のほどにはあまり覚えていなかった、というのが事実です。おそらく、当時は自身もなく、プレッシャーに負けないために、ただただ書くことしかできなかったのではないだろうかと。

パソコンで文字を打つとき、大切なのは頭の中で入力するフレーズを語りながら、リズムを持って入力してゆくこと、まるで楽器を演奏しているかのように。すべてのことに言えますが、一つ一つの自分の行動を意識して行うことでそれが脳に刺激となって残るのだと感じます。周りに迷惑でなければ、声に出すことで耳からの刺激も伝わりますし、使えば使うほどに頭に刻み込まれる確率が高まるのだと思います。

私が考えるに、手で書く効果は、適度なスピードで手を動かし、その過程の中で頭に刻み込まれる時間が他のプロセスと比べて多くとれることにあるのではないだろうかと。その点、パソコンは、例えば「あいうえお」とキーボードを打ち込むと、5回打てば完了。手で書いてもそれほど時間はかかりませんが、一つ一つ書くのにパソコンよりも時間は必要です。パソコンはそれだけ意識せずに書いてしまう可能性が高いのかもしれません。だからこそ、ただ時間をセーブしたいがゆえに、どれだけ早く入力できるかに意識を捕らわれてしまうのではなく、意識して頭の中で自分が書いているこの内容を反芻すること。そして脳に刺激を与えながらキーボードを打ち込むことで記憶への定着が高まるのではないかと、それがブログを書く意味で勉強した内容が頭に入ってくる効果を実感しています。

それでもやっぱりノート

それでも、ノートに書くことは、それ以外の貴重な達成感があるので一概にノートを捨て去ることはできません。自分の書いたノートが積もり重なっているのを見て、自分史ができていることに満足を感じること(ただノートの数量を増やすことが目的とならないように注意が必要です。定期的に中身の見直しをしてこそ、ノートに記録する意味があるはずです)。また、利き手とは反対の手で記述することで、両手を使うことができるように練習となり、それが脳への刺激にもなっている。そう思っているのでやっぱりノートは自分にとってとても大切です。

ロシア語(英語)での会議で気をつけるべき誤解 / Be careful to misunderstand in the meeting organized by Russian colleagues, in Russian language

時々、業務の関係でロシア人のための、ロシア人による、ロシア語でのビジネスミーティングに出席する機会があります。その際の注意点です。わが身への自戒も込めて。

・年齢

・声の落ち着き

・外国語

・流暢な説明、多くの情報をちりばめた説明

これは大きなバイアス要因となりうるので注意が必要と思います。外国人で自分自身より年齢が上で貫禄がある。これだけで、この人は自分よりも人生経験も仕事経験も私よりもすごいので、この方の発言内容は信頼できるに違いない、と勘違いしてしまう危険があります。実は頓珍漢なことを話しているだけで内容はたいしたことがないケースもあります。

冷静に話す人、低い声で。低い声で話すことは、安定感を相手に与えるので勧められていますが、その話す内容をよく聞くことが必要です。声の音質から感じられる落ち着きにだまされることがないように注意が求められます。

外国語。ロシア語を母国語とする人に私たち日本人が勝てるわけがありません。ロシアという場でロシア語で話される。そのことに対して自動的に、この人の言っていることはよく分からないけれども、よく分からないからこそ、とにかく頷いて、信じたくなる。そんな思いにかられてしまうことがあります。

たくさん話す人は結果としてポイントを分かっていない人が多い気がします。それで?何がいいたいの?と。物事の本質、要点を分かっている人の話は的を射た説明ができるがゆえに話の最初の部分で言いたいことを把握できます。一方で、話が長い人は、自分でも何を言っているのか分からなくなっているのでしょう、話せば話すほどに自らを苦しめるのですが、どのように話を終えてよいのか自身でも分からなくなってしまっているのでしょう。

最後に、ロシア人の面々の前でロシア語(英語)で皆の前で発言するときの大切なことについて。心臓のドキドキ、バクバクが止まりません。いかに通常通りの声の質で話すことができるか?完璧な言葉で話せるわけがありません。大切なのはとにかくしっかりと話すこと。相手に理解してもらえるように言葉を選んでゆっくりと相手に伝わるように話すこと。そんな一つ一つの経験、こんないい歳をしたおっさんがこの年齢にになってロシア人の前で失敗して苦笑いされたり、恥ずかしい気持ちにもなるのですが、いつまでも失敗してでも挑戦してゆくこと。これが年齢を重ねる歳をとるほどに一層大切になってくるなぁ、と感じます。失敗すると、やっぱり嫌な気持ちになり、なにくそ、と思わないわけがありませんが。

でも失敗する、ということは挑戦していることの証拠でもあるので、その時々に感じる感情、思いを大切にしてゆきたい、そう思います。

いつまでも素直でいたいものです / Being always acceptable and flexible

人の成長にもっとも大切な要素は一体何だろう、とロシア人の部下と働いていていつもいつもどこでも考えてしまいます。

素直さ。

これが全てではないか、と。そして、細かいこだわりを持たないこと。これも素直さと繋がっているのだろうと。こだわりを持てば持つほどに自分と周りを苦しめる。自分と異なる価値観を持つ他人の見方を許容できる素直さ。

人にアドバイスされて言われたとおりにやってみる。すぐにやってみる。余計なことを考えずにやってみる。それが出来る人がどれだけ少ないことか。私も年を重ねるにつれてそうなりつつあるなぁ・・・と、時に振り返ってふと思うことがあります。己として、絶対に譲ってはならない芯を持つことは必要ですが、どのレベルでのこだわりなのか。自分として強いこだわりを持つものの、そのこだわりがどれだけ高い次元のものか?マネジメントを担う人間にはその高さが求められているのかもしれない、と。

オフィスの棚を入れ替えたい。そんな意見が部門から届きました。どんなデザイン、どんな大きさにしようか?そんなことでも女の子たちは細かいデザインの違い、サイズ、色にこだわって議論している様子を見て、う~ん・・・自分だったら違うかなぁ、という思いもよぎるのですが、本人たちが納得して購入する、それで仮に失敗してもたいした金額ではなければ、またやり直せばよい。そこに私自身の色やデザインの好みを強く主張する必要はないんだなぁ、と。たとえ自分の家ではこだわりがあるとしてもです。そこにあるべきマネジメントとしてのこだわりは、一人でも多くのスタッフは自由に自分の意見を発言し、議論をして自らで決めてゆくこと。会社の決定の中で、自身の主張が同僚との議論の間で考慮されていることを実感すること、なのかもしれません。

繰り返しになりますが、私ももちろん、人は年齢を重ねるほどに、自分のこだわりが強くなり、素直さを持つことが難しくなってゆくのが自然だと思います。以前にはすんなりと従っていたのに、次第に自分も“賢く”なってきたと感じ、自分のこだわりも増えて、それを他人にも強要し始める。まずい兆候です。

いつまでもどんなことでも受け入れられる素直さを持っておくためには、こだわりをもたないことは非常にプラスだな、と。どんなものでも受け入れられるので、進めてくれる相手から喜ばれるし、自分も新しいことを経験できる。良いことだらけです。

レストランでも、メニューを見ても何に決めてよいのか分からない時。サービススタッフに、「あなたのお薦めは何ですか?」と聞くと、「私はこれをおすすめです!」そう返ってくれば、喜んで「OK!ではそれを持ってきて」。そうすれば相手も喜ぶし、なぜ相手がこのお店でこれを薦めてくれるのか(結果のよしあしに関わらず)分かるものです。

スタッフの中には、経験を積んできて私が何もあなたから教えてもらうことはない、と考えているのか、どれだけアドバイスをしても聞き入れない部下がいます。目の前でノートにすべき仕事をメモしているのに、しばらくして進捗確認をすると全く進んでいない。しまいには” don’t know”ときます。本当の馬鹿なのか(いや決してそうではなさそう)、よほど喧嘩を売っているのか(これも違う)、私自身を単に気に入らずに分かっていてもやらないのか(口論になることは一週間に亜何度かありますが、だからといって決して私を嫌って何もしないわけではない)・・・。人はどんなに言っても変わらない。手を常に差し伸べる努力は欠かしてはならないものの、どこかのタイミングでその手を引っ込める時期があること。この決断が必要なことも感じています。

素直さの大切さを説いたノウハウ本が幾つも世の中には存在すると思われますが、果たしてどれだけの人が口では他人に「さあ素直に、謙虚にいましょう」と発言しても、実際の行動にそれが現れているだろうか ― そう考えると疑問が湧いてくるものです。これだけ世間に同じ内容のノウハウ本がありとあらゆる国に存在するということは、つまりそれだけ需要が絶えないわけなので・・・。いかに頭の中では知識として素直でいることの大切さを理解していても、心に到達していないことか。

素直でいること。簡単なようで非常に難しい、でも自分次第ですね。