物事を理解しあうために、お互いにどれだけ多くのコミュニケーションを取ることがいかに大切なことか、ということはよく周知の事実です。とりわけ、家族のとの深い会話は絶対に欠かすことはできません。
一方、日常業務においては言葉の多さ、会話の長さがどれだけ重要なことか、正直なところ私は非常に懐疑的です。仮に時間が十分にあったとしても、それに時間をかけたところで、そこから得られる結果に大きな差がないと考えるようになりました。
ロシアで勤務する中で、時間が最も重要で誰も取り返すことのできない資産であることをよく認識するに至りました。これも自明の事実ですが、頭では分かっていたとしても、それがきっちりと自らの中に根づいていなかったのだと思います。そして、仕事が人生にとって最も大切なことではない、ということも。そうはいっても仕事は生活してゆくためにお金を得る方法としてとても大切。そうなると、いかに仕事にかける時間を抑えることができるか?その密度を高めるしか方法はありません。
さて、そんなことを突き詰めて考えて行動してゆくと、仕事はむしろ言葉少なくても伝わることのほうが多いのではないかと。そして、仕事の多くの場面では、話し合いが決してそれほど必要ではないケースも多いのではないでしょうか?それにしてもいまだに会議に参加してその場で会話をすることで何をした気分になっている。情報交換も行いお互いの理解も深まったから大丈夫、なんて勘違いをしている人も多いのではと思われます。
どれだけ多くの参加者が話し合った内容を忘れていたり、自分なりの勝手な解釈で理解が分かれていたり、なんてことがいかによくあることか。会議のあと後日、「あのときこう言ったよね、あなたも賛成って言っていたよね」と言うと、「いやそんなことありません。あのときはこういう意味で発言しました。私は賛成とは言っていません」なんて反応がロシアでも日本でも珍しくないのではないでしょうか?あのときの時間は一体なんだったのか…と言いたくもなります。会議の議事録をまとめることは当たり前の解決策の一つですが、ちょっとした打ち合わせを含めたすべての会議の議事録を書くことは私はやりたくありません…
仕事でのコミュニケーションは重要ですから、一切言葉を交わすことなく判断はできません。物事をスピードを失わずに確実に判断し行動してゆかなければならないときに、少しずつ自分なりにやりかたを変えて試行錯誤をする日々で自分なりに学習をしてきました。
どれだけ多くの時間を一緒にすごしたからといって本当に理解しあっているともいえないようです。小さいころからずっと長く付き合ってきたとしても、それぞれの状況によって自分自身も相手も変化してゆきます。昔の調子で話をしても、お互いにそれぞれ違う人生を歩んでいるのでかつてのような密度の付き合いはできなくなっています。一方で、学生時代に半年ほどバックパッカーとして世界貧乏旅行をしていましたが、偶然にもグルジアの安宿で出会った人と、わずか数日だけ一緒に過ごしただけなのに、その後日本で再会して食事をして会話をして、まるでずっと昔からお互いに知り合いであったような気になる、そんな関係もありました。
そんなわけで今日のテーマ、言葉の多さがどれだけ重要なのか?少なくとも仕事においては必ずしも重要ではない。では時間の効果的な用い方とは一体?何の代わり映えもしないもので、すでに多くの方々がビジネス書で書いている内容と重複するものがほとんどかもしれません。次に書いてゆくことにします。