人材へのトレーニングは本当に必要なのか? / Does Company really need training for employees?

これはその会社のレベル、置かれている状況によって答えが異なる…というのが正解でしょうか?会社でこれまで受けた研修は私にとっては一つ一つに収穫があったので意味がある、というのは間違いないです。ただ、人事部は体系的に入社XX年目研修、新任課長研修などの定例的に組織された、決まったレールに則って企画される研修後に、その効果の振り返りを行うべきでしょう。大半の人は、その場の雰囲気を楽しみ、その中で語られることをなるほどなるほど、と聞いて、何だか賢くなったように感じる…が、後になるとその気持ちも忘れてしまう…そんなもの。人事部がどのように人材教育を計画しているのか私には分かりませんが、これまで参加してきた研修は、いずれも研修後のフォローが無く、ただ参加しただけ、という印象でした。むしろ、研修の一番の目的と効果は、同期の仲間と久々に会って近況を報告しあうことなのではないか、と思ってしまいます。研修の中身は忘れてしまったとしても共に語り合ったことは覚えている、という。

あまりアイコンタクトもしない、積極的な姿勢がない講師の方でムムム・・・と想った研修がかつてありました。こんな講師もいるのかぁ…と思っていた二日間の研修。その最後に「私の経験から言えることは…何事も自分で判断した決定について、その判断した理由をきちんと自分で語れるようにしておくことが大切だ、ということです…。」という言葉は一生忘れません。毎日と言ってよいくらい、決断するときにこの言葉を思い起こします。

ロシアにいるために参加できず、その代わりに受け取ったDVD録画で代理参加した研修内容で語っていた講師の言葉、「人は何を言うかではなく、誰が言うか、が重要だ。」「自分のやりたいこと(Want)と、会社のやるべき仕事(Must)を近づけてゆく努力と行動をすること。」これも響いています。

研修、というのは1日から数日間詰め込んでも、結果としてほとんどのことを覚えていない人が大半。そんなものなのかもしれません。そして、人事部の目標として研修を開催することが目的化していないだろうか?というのはいつも念頭においておくべきだと感じています。私自身、ロシアに来てから初めて人事の仕事に従事し、今では主にその仕事に時間を費やしているのですが、ロシア人スタッフに対する研修プログラムを考える時に悩みに悩みます。(率直に部下から「こんな忙しい時期になんでそんなことを、人事の目標達成のために開催するだけでしょう?」と言われてしまいました。

研修とは、日常とは異なる場で、忙しい日常の中から隔離された場所で、日頃時間を取って考えることができないテーマについて時間を取って考え、お互いに意見を発言し、客観的に自分を振り返る。かつ、日頃仕事ではお互いに交流が少ないスタッフ同士がコーヒーブレイクやランチの時間を含めて一緒に語り合う場。それを提供できれば成功なんだろうか、という、前半にも書いた結論にたどり着きました。

みな、なぜ?という疑問が自分で起こらない限り、どんなに会社が教育しても意味がないと感じます。研修で心に残る言葉は、日頃からそのことを考えているからこそ引っかかる。考えていない人にとっては「そうなんだぁ。」程度で終わってしまう。会社として何としてもこの研修によってスタッフを成長させなければダメなんだ、成長しない人間は許さない、なんていう独りよがりの期待は逆効果ですし、そんなことに労力をかける必要もないのでしょう。

そのようなわけで、スタッフにとって必要だと思われる研修テーマを一生懸命考えて準備して提供をすることは必須ですが、その一方で、誤解を恐れずにいうと、その結果にまったく期待もしていません。わたしの人生ではなく、それぞれの人生、価値観に依存することもあるので、人事として考えた効果が決して想定した通りには上がらない。むしろそれが普通なのでしょう。これぐらい覚めていないと余計にギクシャクしてしまう気がする。それが今の私の至った結論です。

面白いことに、例えば、時間の効率化を必要としていない人に対して仕事の効率化の研修を企画しても意味がない、ということ。なぜこれだけExcelのショートカットを覚えなければいけないのか?それはそれだけカバーしなければならない業務が多いから。でも業務量もスキルも低いスペシャリストのレベルで、彼・彼女が特に何も不自由なく自身の仕事をカバーできているとすれば、なぜわざわざそんなショートカットを覚える必要があるのか?と言われてしまいます。そうです、決してショートカットを覚える必要がない、という彼らの理論も正しいです。

そして何よりも、自分自身で意欲のある人間は、人事部による研修制度などなくとも勝手に自ら教材を探し出し、自分の負担でどんどん勉強し成長してゆく、という事実。

それ以外の人々にとっては、成長する、というその必要性がなければ「なぜ?」という疑問がわかず、その疑問がわく人も実は全員ではない、という事実。期待をしすぎることは結局自分の独りよがりのわがままであって自己中心的な考え方なのだろうと、繰り返しになりますがそのように考えるに至りました。

採用コストと研修コストの費用対効果についても考えさせられる要素です。この点は採用に関する記事で後日書きたいところですが、この点については世の中の人事部のスタッフであれば必読書ではないかと思うGoogle人事の方による「Work Rules!!」(by Laszlo Bock)が考えるよい題材となりました。

外国語習得のための秘訣(ロシア語に限らず) / Tips for learning a foreign language(Not only Russian language)

私は英語とロシア語を例にとってしか語れませんが、外国語を習得するにあたって大切なことはなんだろうか?と考えてみると、いくつかの要素があると考えています。

先日、出張者を連れて赤の広場のすぐ近くにあるお土産屋さんに入ったところ、女性のアジア風の顔をした女性がすぐに近づいてきて、私たちが中国人ではないと悟ったのか、大変流暢な英語で「何をお探しですか?」と話しかけてきました。後でその場にいた複数の女性店員に聞いてみると、ウズベキスタンやキルギス出身の方々で4,5か国語を操る、とのこと。中国語を含む大変多くの中国人観光客がいるために、お土産屋さんも中国語を話すスタッフを常駐させているようです。対応も親切で、彼らにチップを払うべきなのか…いやでもロシアでは不要なはず?…初めてこのようなお土産屋さんに入ったこともあり、分からなくなってしまいました、結果として、お礼を丁寧に伝えてからその場を後にしてきました。

正直に認めざるをえませんが、私自身には彼女たちのように幾つもの言語を操る能力はありません。いや、能力は誰しもが持っていると考えていますが、絶対的に複数の言語と接する時間を日常生活で小さい頃より持っていたであろう彼女と比べて、通常の日本の環境で育った日本人であるならば、私たちにはそのような絶対的な時間数で劣っているわけです。そして、今は言語学習に費やせる時間も限られています。

言葉に対する拒否反応をどれだけ下げることができるか

その言語を見た時に、「うわっ、見たくない。」— この気持ちをどれだけ低くできるかが重要だと考えています。英語でさえ、英語のWebsiteを見たり、ロシア人スタッフとの英語でのメールやり取りを読むだけでも「うわっ、見たくない。」、そう皆さんは思うことがないでしょうか?正直なところ、私はあります。やはり慣れ親しんだ母国語が一番楽ですし、その言葉の裏にあるニュアンスも感じ取ることができます。そうはいっても英語は避けて通れません。私は、毎日その言語に触れることでしか自分自身の拒絶度合を緩和することはできないと思います。

ituneを見ると、いくらでも無料でBBC、CNN、NYTimesといったニュースリソースを入手して聴くことができますし、ウェブサイトでも記事を読むことができます。

ロシア語について言えば、私はロシアのビジネスニュース紙であるRBK、Vedomostiを購読していますが、全ての内容を分からないにしても、毎日目を通すことでロシア語に対する拒否反応を確実に下げることができます。定期的に目にする単語を調べることでロシア語の語彙力も上がることはもちろんのこと、今のロシアでどのような話題が熱いのか、日本で報道されているロシア関連のニュースとの温度差を感じることができますし、日本のメディアのロシアに関するニュースについて 客観的な視点で 観察することができます。

長年、学生時代から英語を学習してきたにも関わらずなぜこうも英語の上達が遅いのか — 結局のところ、目的が無い中、かつ日常的に英語を使用する環境にいない日本で言語の勉強をしても、よっぽどの強い意志力が無ければ上達する可能性が低い、と考えていますが — 疑問に思う点でもあります。ロシアで勤務する中で感じるのは、やはり日本人というのは外国語が得意ではない人が多い、これだけ英語を学習してきたにも関わらず話せる人は決して多くないのだなぁ、という印象を持ちます。そんな中で、英語やロシア語で直接情報を取ることができる能力を持つことができるのであれば、それは非常に高いスキルであることは間違いありません。ロシア語で書かれているロシアの情報がどれだけ多いことか…。英語と比較してもそれは比べものになりません。間違いなく、ロシアにいると英語やロシア語を学ぶ動機づけが高くなります。

ひたする真似る

街行く人の会話を耳にしてそのままボソボソと自分で真似して話してみる。地下鉄の中で聞こえる会話を自分で真似してみる。そのリズムとアクセント、身振りも含めて真似してみる。「あ~なるほど、この表現はこんな時に使うんだな。よくこのフレーズを会社のロシア人スタッフが使っていたなぁ、きっとこんな状況でも使えるのか、この言葉はきっと汚い言葉なんだろうなぁ。」など、街を歩いているだけでもその場がロシア語の訓練場所です。

街の広告をよく見てみよう

街を歩く中で見かける広告も大変重要な語学学習教材です。短いフレーズでキャッチフレーズを並べている街の広告。考えぬかれた言葉が用いられています。それを利用しない手はありません。ロシア語には語尾が6つに変化する格変化、かつ男性形・女性形・中性形のパターンも存在し、複雑な気がしますし、日本人にとってはきっと完璧に理解することは難しいに違いありません。それでも、街で見かける広告を見て、その格変化を眺めるだけでも文法の学習に役立つと感じています。韻を踏んだ言葉遊びの愉快さも学び取れます。

(外国語を習得したければ、その国の彼女、彼氏を作るのが一番早い - よく聞く話です。これは真実だと思いますが、ポイントは相手のことをもっとよく知りたい、会話したい、という言語を学習する動機が高まるがゆえにそれだけ多く勉強して(Input)会話する(Output)サイクルが活発になるからだと思います。彼女、彼氏を作る以外にも言語学習への高い意欲とそれを利用する機会があるのであれば同じように高い効果が見込めるはずでしょうか)

とある土曜日に出会ったモスクワのタクシードライバーとの深い会話 / Conversation with a Taxi driver on Saturday in Moscow

この前の 日曜日に利用したタクシーにて、出会った運転手との会話が非常に深いテーマとなりました。なかなかこんなことを語り合える人に出会えることは少ないのではないかと思って、記録に留めておくべく会話したことを思いめぐらしながら書いています。

今年の冬は、ようやく先週からマイナス気温が続く冬らしい光景になったばかりで雪もまったく降っていない、不思議な冬。「今のモスクワの冬は、誰にも予想がつかないよ。」との話をよく耳にすることが多い気がします。

さて、運転手は40代半ばくらいだろうか、私が携帯のアプリで地図上で指定した住所の位置が間違ってしまい、電話で謝りつつ正しい住所へ来てもらいました。

「ごめんなさい、間違えてしまって。」「なになに、まったく問題ない、大丈夫だ」- そして出発。

走り出して数分くらいだろうか、「今日はよい天気ですね、ようやく冬らしくなりました。」という話をすると、少し沈黙が続きます。あれ?どうもさっきは陽気な感じで話を容易に始められそうだな、と思ったのだけれど若干とっつきにくい様子だろうか。ー すると、「雪があればもっとよいんだがね。雪があれば暖かく感じるんだ」という回答が帰ってきました。

そのうち、「モスクワはどうですか、私は長いことモスクワで仕事していて変化をみていますが、モスクワは良くなったと思いますか?」と尋ねると、(大概は、街はきれいになっても生活は一向によくならない、という文句を言う運転手がほとんどなのですが)

「街は良くなっているけれども、ガソリンも地下鉄もバスもどれもこれもが値上がりしている気がするよ。生活コストが高くつくようになってしまった。・・・ただし、すべてはその人の見方次第。何事も前向きな気持ちで物事に接すれば前向きな結果が返ってくるし、逆に何でも批判的に接しているとそれが自分に返ってくるんだ。」ー なかなかこんな前向きな回答を発言できる人はそういないのではないでしょうか。

「私たち日本人は、どうも我慢強いのだけれども、ストレスを内側に溜め込んでしまう傾向があるように感じています。その一方で、ロシア人は外に怒りを発散することが自然で、それだけ上手にストレスを外に発散できているのではないでしょうか?この点、私たちも見倣う必要があるのかもしれない。」と言うと、

「確かに我慢しすぎるのはよくないけれど、それを周りに発散してその人はOK。でもそれによって生じる周りの問題はどうだ?わめいて、それによって君の怒りを ぶつけられた人がまた次の人に向かって同じことをする。それが回りまわって自分に返ってくるんじゃないか?同じ物事に我々が出会ったとして、その状況は変わらないとしても、自分の今の行動次第でその先に起こる将来を変えることができるんだ。あなたが怒りをぶつけたい。それでも、それを自分のところでそのネガティブな行動をストップさせる。そうすると、それによって次の人が招いていたであろう行動をストップさせることができる。それによって将来を変えることができたことになるんだ。」 ― この言葉は深いです。本当にその通りだと思います。

「本当にそうですね、そして、頭の中で分かっていてもどれだけそれを行動に移すことが難しいことか…。深いです。皆がそのように行動していれば世の中はきっと良くなるに違いありませんよね。」そんなことが車の中での一貫したテーマでした。

今自分が行動を変えることで、その先で待ち受ける結果を変えることができる。自分の行動を受ける相手が私自身の行動によって行動を変えてくれる。つまり私が変えることができる。自分自身がどのように行動するか。

「確かに深いテーマだけど、いたってシンプルだろう?」

ほんとにそう。いたってシンプル。けれども、いかにこのシンプルなことを自分の行動に移すことが難しいことか、それを私自身も含めて毎日身の回りを観察する中で感じています。

聞いてみると、27年間、大学の公開講座に通って講義を聞いており、自分自身で聞いたことを振り返って熟考しているようです。

ロシアでの仕事における夏時間と冬時間の上手な付き合い方 / Tips getting along with Summer and Winter time for work in Russia

夏はより大規模な仕事を、多少負荷がかかっても堂々と。たとえば、細かいストレスを感じる会社ルールの見直し、整備や古い会社設備のリノベーションなど。日光も多く、人の気分もおおらか。冬は寒く、日光も減り、心なしかオフィス内のスタッフも少しのことでぴりぴりしてしまうように感じます。精神的に負担がかかる仕事は、とりわけネガティブな感情を生み出しかねない後ろ向きの仕事は冬の到来までに可能な限り片づけておくこと。これは年間の仕事計画を考えるにあたって重要なことではないかなぁ、と実感しています。

また、冬になるとロシア人スタッフの病欠が増えることも事実です。2週間病欠でいなくなる、ということも決して珍しいことではありません。身体が弱い人が多い気がします。また、子供が病気になってしまい、共働きであることから夫婦のいずれかが子供のケアをしなければならない。そのために休暇を取るケースも見られます。以下参照URL先に病欠を取る場合のルールを説明した動画が掲載されています(ロシア語)。病欠になったスタッフは、病院にでかけ医師に診断してもらい、一定の日数を経た後に再度医師に診てもらった上で仕事に復帰してよいかの判断をしてもらう。そして専用の用紙を発行してもらい、それを会社の人事部に提出する、というのが一般的な流れです。

ロシア人の友人に「この時期になると、ロシア人スタッフがよく病欠で休むんだよなぁ」と話したところ、「日本人はロシア人と比べて良いものを食べているから身体が丈夫なんだ。ロシア人の食べているものは品質が悪く、その影響ですぐに病気になるんだ。」― 当たっている部分もあるかもしれません。それもあってロシアでは日本の食事が人気ですし、ロシアの食料品店でも健康志向の 食品が増えています。実際の売れ行きは分かりませんが、需要が無ければ増えないと思われますので、恐らく多くの人々がそれらの商品を購入しているのでしょう。病欠の話を聞くと、ー これも一度ならず発生するのですが、病欠の完了日を聞いており、その翌日から出社してくることを想定していたら、「医師の判断であと数日病欠が延期tなりましたのでもう少しお休みします。」…あります。-少ない人数で仕事を回しており、複数のプロジェクト(各部門の年間の達成目標)を抱えてその管理を担う私の立場としてはため息が出ること、あります。私の部下で病欠しているスタッフは働きぶりもしっかりしている人たちでずる休みすることはないようですので、このがっかり感をぶつける術もありませんが、病欠が起こることにより計画の変更を余儀なくされることは予め想定しておくこと。これは私の実体験からお伝えしたい点です。

スタッフからは「北欧では夏と冬とで日照時間が違うこともあって勤務時間の長さを調整している企業がある、うちもそうしないのか?」と尋ねられます。今の私が勤務する会社では季節別の勤務時間の変更に対応できるほど会社が成熟しているわけではありませんが、あらゆる可能性は考える価値があると思っています。私はまずはフレッスク勤務が第一歩であると考えていますが、その実現については、各企業の相手とするビジネスパートナーとの関係でどうしても相手の勤務時間に合わせる必要があること、トップマネジメントからのロシア人社員に対する信頼と社員の勤務実績と結果のコントロールバランスなどの要素を慎重に検討してゆかなければならず、そう簡単にはゆかなそうです。

なお、ロシアでは病欠をとると、その分ほぼ確実に収入が減ります。一定の分は法律により補填が保証されていますが、計算ロジックを見ると病欠にならないほうがよさそうです。

  • 100%が保証される場合…累計8年以上(同一企業である必要はなし)の勤務経験がある場合。
  • 80% — 5-8 年
  • 60% — 5 лет未満

病欠の間の給与計算にはルールがあります。過去2年間の収入額総額を730で割り(つまりカレンダー日数)、一日当たりの日当を計算し、それに病欠日数を掛けたものが支払われる、という計算です。この過去2年間の収入総額には基準額があり、毎年変動するので確認が必要です。この基準額に満たない収入額の場合は実際の本人の収入額を利用する。基準額を超える場合には同基準額を利用する、となっています。そのため、いずれにしても労働者にとっては収入が減る結果となります。しかし、具体的に把握しているわけではありませんが、この収入減を補填する制度(例えば、年間の病欠10日間までは会社が本人が本来出社していれば受け取っていた額を保証するなど)を取っている企業は少なからずあるように思われます。

参考URL

http://rabotnik-info.ru/bolnichnyj/

仕事もコミュニケーションもシンプルに(日本語の使い方について思うこと)/ Make job and communication simple (thinking about the way of communication in Japanese)

日曜日の朝、マクドナルドで休憩中の路上の清掃スタッフ。背中からほっと一息ついている様子がうかがえて微笑ましくなりました。

日本を長いこと離れて、ロシアに住み、客観的に日本語を観察し、ロシア人とも会話する中で日本語表現について考えることが多くなりました。

~したいと思います。
よく見ることが多いYoutubeのチャンネルにしても、日本人の会議の場面でも、何度も、どこでも「~したいと思います」というフレーズをよく耳にします。「思う」、とは、~である、と発言者本人が断定はしないけれども、そう考えていますよ。ということであって、100%それを実行するか分かっていない場合ではないだろうか、と”思っている”のですが、どうでしょうか?
今、一般的に使用されている「~したいと思います。」というのは、それを100%実行する前のの場面です。この場合は、シンプルに「~をしてゆきます。」とはっきり述べるのが正しいのではないだろうか、と私は”思います。”

ちょっと、
ねえ、ちょっとちょっと、の声をかけるときのちょっとではなくて、少し何か違うんだよね、とか何か納得できないんだよな・・・、このちょっとねぇ…、でもありません。あまり意味もなく、言葉の間と間の沈黙を埋めるために使われるときのちょっと。そんな風に利用される機会が増えているのではないだろう。この”ちょっと”の意味が分からないです。

~だと……

言葉の語尾が曖昧になる傾向があるのではないか、と感じます。最後まではっきり言い切ることを避ける人が多い気がしています。その分相手の言いたいこと、その人の言いたいことの確信度合を慮る必要が生じます。

日本語について考える中で、こう感じています — 言葉を少しでも多く表現することで丁寧の度合が増すのだろうか、と。そして断定を極力避ける。だから比較的日本語のメールは長くなるのかなあ、かつ何を言いたいのか分かりづらいのだ、とも。

日本の慣習ならではの、相手の気持ちを考えるが故の”考えすぎ”

ビジネスメールでは、「了解です。」で済むのに、これだと冷たく聞こえるから、
「了解です。ご苦労さまです。」だったり「かしこまりました。ありがとうございます。」

しまいには、「了解です、ご連絡に感謝いたします。またよろしくお願いいたします。」であったり、「かしこまりました。ご回答いたありがとうございました。次回も何卒よろしくお願いいたします。」徐々に長くなってゆく。そして、ありがとうございました、なのか、感謝いたします、がよいのか…考え出してしまう…

ロシア人スタッフのメールやり取りを見ていると、”Thank you”に”Thank you!” とExclamation markをつける。この”!”マークが多いなぁ、という印象です。これで受信者が少しは好意的に受け止めてくれるのであれば”!”をつけるのもありかもしれませんね。ただ、”!”に惑わされて、実際に本人のロシア人スタッフのところに行くと、面倒な顔で対応されることがあります。!が付いているといって騙されてはいけません。

メールという無機質な媒体でコミュニケーションをとるが故の人間の苦労。面倒なものが作り出されてしまいました。人間は科学の力で世界をどんどん便利にしていっているはずなのに、世の中をどんどん複雑にしていっているように感じてなりません。それに加えて、仕事を複雑化することが好きな社員がいるからたまったものではありません。仕事もコミュニケーションもシンプルに。

アジャイルと業務プロセス改革と人のエゴ / Agile, Business process improvement and human egoism

出張にやてきた情報システム部のスタッフの方と会話をしていて、

・最近のシステム開発の傾向はアジャイル。少しずつ開発をして確認してはバグを見つけて調整する

・世の中のトレンドが変わってしまう今の世界、自社のシステムを作り込んでしまうのは危険。むしろいつでも切り替えがきくようにできる限り購入したシステムの標準機能をできるかぎり変えないように。そして自社のフローを標準に近づけることを考えるべき

という点を学習しました。とても深い、重要な点だと素直に感じました。Agile、というタイトルがついた本をロシアでも見かけます。インターネットで調べてみると何年も前から使われているようです、知りませんでした…。

会社全体の社内の業務プロセスを管理する立場として感じること、それは現状の会社の業務プロセスをできる限り変えずに維持しようとする人々が大半であることです。倉庫業者を変える時、会計システム(私たちが使用しているのはロシアのシステム1C(ロシア語読みでアヂンエス、英語ではワンシーと呼ばれます)のバージョンを更新する時、必ず現状の運用とのギャップが生まれ、それにどう対処するのか…どの会社でも同じ問題に直面しているに違いありません。私には正直なところ、この問題に対する明快な答えがありません。ただただ感じるのは、これまでの業務プロセスを整備し、問題を抱えながらも一生懸命にメンテナンスをしてきた人、大変な負荷を抱えつつもエクセルファイルで立派なデータ資料を作成し、それを発展させていた人がいる。そういった人たちのこれまでの努力を簡単に否定してしまうことがないように気を付けなければならない。システムを導入することによって、あたかも、これまで我々がいかに無駄に仕事をしていたのか、とスタッフの能力を否定してしまうかのような発言をしてはならない。一人ひとりの気持ちを感じ取る心を持っていること、理解していることを示す態度は重要であろう、と。

個人の能力について、これには思うところがあります。また別の機会に書きたいと考えています。誰もが可能性を秘めた能力を持っているか?私はこの見方には今では否定した考えを持っています。残念ながら人にはそれぞれの限界がある。その限界の中で人は自分なりに努力しなければならない。それが真実ではないでしょうか。

さて、アジャイルと自らの会社の業務プロセスを変えること。いずれもそれを困難とする理由は、各人のエゴ、要らないプライド。ではないだろうかと思うに至りました。きっと経験の豊かな方々、すでに人材教育の世界では当たり前のこととして語られているのでしょうが、私自身はこれを実務の中で自らそれを否定すべく取り組み一生懸命やってきた、その結果の挫折から、エゴという問題の難しさ、それを取り除くことは絶対に無理であること、それをしっかり、ずっしりと身体に染み渡るように学習しました。

各人それぞれが会社全体としてのゴールを理解している。そのためには、自分の過去に築いてきた努力、功績を忘れなければならない、それは分かっている。でもダメだ…あたかも自分が否定されているかのようだ…。だからアジャイルで小さく変化、周りへの影響をチェックする。アジャイルはシステムそのものの開発だけではない。その周りにいる人たちへの影響も確認する作業。会社の業務プロセスを変えること。これはエゴの塊との闘い。こういった時に役立つのがどれだけ日頃から一人でも多くの人間の信頼を得ているか、ではないでしょうか。どんなに正しいことを言っていて、結果を出していても、「この人はほんと凄い人だけど、どうしても好きになれないんだよな…。」そう思われてしまうと、どれほど業務の変革目的が正しくても、そのプロセスは不要な苦難を伴う道となってしまうのでしょう…。

昔、入社してばかりの新人として働き始めた数か月目に、営業活動の実習の一環で付いた先輩女性にカフェに座っているときに言われた言葉 ―「どんなにその人のことが嫌だとしても、自分から関係を切ってはいけないよ。」その言葉をいまでも思い起こします。

ロシアでのストレスをユーモアの心で吹き飛ばそう / Let’s release stress from work and life in Russia with sense of humor

ロシアに住んでいると、仕事も生活も日本のようにはいかずストレスが溜まることが多いのではないでしょうか。一方の日本では、異なる種類のストレスがあるために総合的にみると同じなのかもしれませんが…。

日本人はアジア人であり、黄色人種なんだ、ということをロシアで実感します。ファッション雑誌などの影響を受けて育った我々は、色白かそうではないか、眼が大きいか小さいか、二重か一重か、背が高いか低いか、顔が小さいか小さくないか…そんなことに自然と意識を向けてしまう傾向があるように感じていますが、自分の生まれた民族性を否定してしまう考え方を同じ日本人から聞くと首をかしげてしまいます。

ロシアでは、私たちは中央アジア人と間違われる可能性があり、その中央アジア人は、一般的にロシア人からよく思われていない傾向があるために友人からも時に「嫌なことにあってない?大丈夫?」と心配されます。実際にあるか、というと、露骨に嫌なことはないものの、場面場面を振り返ってみると小さなレベルでは気にならない程度ですが、それなりに出会っているのかもしれません。

最近思うのは、”自分が外国人で、アジア人だからこんなことをされるんだ、なにくそ。”という考えは誤りだな、ということ。モスクワに住むのはほとんどがロシア人と周辺国の人々。その中にわずかな比率で私たち日本人がいる。ここに自分がいてもいなくても日常的に発生する嫌なことが起こり、たまたまその場面に出くわした時に「差別だ!」と思うのか、「こんなことが起こるんだな、それにぶつかってしまっただけ、まぁ、仕方ないや」と思えるか。

今日、食料品店のレジの列に並んでました。2つのレジが動いています。4,5人が列に並んでいます。と、そこへやってきた店員が3つ目のレジを開き、「どうぞ」と列に向かって声をかけます。すると、その3つ目のレジのすぐ前に立っていた女性が、「いいですか?」と言って、籠を置き会計が始まりました。その女性の前に並んでいたおばあちゃんはすごい怪訝な顔でその様子を見ています。本来であればそのおばあちゃんが先にレジで会計を開始できるはずなのに…。レジの店員も本来なら「いや、列の先頭に並んでいた方からお願いします」と言えばよいものを。こんなちょっとした嫌なことは日常茶飯事です。差別どころか、中央アジア人ではないだろうと服装などから察してか、逆に優先してくれる方も時として出会います。嫌なことだけではなく、良い出来事も記憶に留めておきたいものです。

自転車で通勤していたとある朝。前にいた交通警察官に待ったをかけられて自転車をストップ、罰金を払うことに。

「ドキュメント(=パスポートを見せなさい)。」

「(今走っているところは)車道なので自転車で走ってはだめだ。歩道を走らないといかん。」

「いや、歩道は歩行者のためだと思って、あえて車道を走っているんだ。」

「いや、あかん。Zberbank(ロシアの最大銀行)で罰金250RUBを払ってもらうから。今書類を準備するから待っていなさい。」

「今日は勘弁してくださいよ…知らなかったんです。次からしませんから!」

「いや、だめだ。」

「250RUB。ディスカウント付きの250RUBですよね?」

「そうだ、お前よく知っているな。 ディスカウント付きの250RUB だ。」

「以前にも罰金をくらったことがあるんです…。」

「20日以内に支払えば250RUB、それを超えてから払ったら500RUBだ。これでも、君によくしてやってるんだ、本来自転車の場合の罰金は800RUB!それのディスカウントでも400RUBかかるのに、そこを250RUBにしてあげてるんだからありがたく思いなさい。」

「…。え~ほんまですか~…まあ分かりましたよ、ありがとうございます。」

罰金でディスカウント付。この表現が思わず笑ってしまいます。以前にも横断歩道ではない場所の車道を横断したところ、警察に止められて罰金を支払ったことがありました。その時にも”ディスカウント付き”と言われたのを思い出しました。

朝の忙しい時間に5分ほど時間を取られてしまい、かつ罰金ということでイライラしてしまうものですが、こういう時に取り乱しても何もよいことはなく。笑顔で笑いながら会話を楽しめたのは、我ながら成長したなあ…と。

「ところで、お前はどこで働いているんだ?ん、日系企業?もし秘密ではなければ給料はいくらぐらいだ?教えてくれ。」

「いや~モスクワの平均くらいですよ。」なんて言って曖昧に答えました。いやあ、一般的にこの場で給料はいくらだ?なんて聞かないでしょう…。

「どうも~、さようなら。」「お~またな~」という雰囲気で、それでもこちらはそのまましばらく車道を走ってオフィスに向かいました。

ロシアでは苦しいこともユーモアで笑い飛ばす。そんな心構えでいることはかなり重要です。笑いのネタになって笑いを提供してあげる。それができるようになれば相当無敵のロシア駐在員です。そんな無敵となるべく心の沸点と闘う毎日。

カティンの森を訪れて人間について考えた… / Thinking of the human beings when visiting Katin forest

カティンの森事件(約22,000人ほど ― 正確な数字は不明 ― のポーランド人捕虜がソヴィエト政府によって殺害され、この場所に埋められた) ― 誰もが学生時代の世界史授業で学んだことがあるはずです。11月3日(日曜日)にモスクワからカティンの森へ日帰りで出かけてきました。まさか学生時代には自らここに行けることになるとは想像もしなかった…。まずモスクワから西へ約400 kmに位置するスモレンスクへ。ベラルーシ国境へはわずか80 kmの距離です。モスクワからここまで電車で快速列車で約4時間。さらにスモレンスク中心から西へ約20kmの位置にメモリアル・カティンがあります。

わずか23RUBの乗り合いタクシーに乗って猛スピードで走りぬけて20分も経たなかったでしょうか、あっという間に終着駅に到着しました。そこは人通りがなければ廃墟といっても信じてしまうような場所…このような場所に人が住んでいるのか…と。乗り合わせたタクシーは目的地の手前までしか行かないルートでしたので、そこから徒歩で30分くらいかけてうっそうと白樺が生い茂った森へ徐々に到着しました。

正面のメインゲートではなく携帯電話で示された裏通りに入り、誰もいない一本道を一人でしばらく歩いてゆきます。天気も悪く、風に揺られた高々とそびえたつ白樺がときどき、ギギギギギ…ともウウウウウとも聞こえるような音を不気味に立てています。ガサガサ、と左手で音が急にし振り向くと犬が。一気に遠くに走ってゆきます。視線を上げるとその先には一人の年配の男性が動きもせずにずっとこちらを向いているのが分かります。犬と散歩中のようでした。なぜこんなところに人が…いや、相手も同じことを考えているだろうか…。そして相手は犬の動きに合わせて再び前を向き、こちらに背を向けて歩き出しました。こういうのは苦手ですね…誰もいない中を二人の人間がお互いの距離感を意識しながら歩調を合わせる。どんなにゆっくり歩こうにも相手のほうが遅いため、その距離が縮まります。もうこれ以上無言ではいられない、静寂の中で何も言わずに素通りはできない。そこで「こんにちは」と声をかけると、最初は無表情ながらも会話が始まり、こちらがなぜこの道を歩いているのかを説明すると、「道を教えてあげるから途中まで一緒に来なさい」と、途中までガイドしていただけることになりました。そして当時の歴史を語ってくれました。ロシアの人にとってはあまり触れたくない負の歴史でしょうか。こちらから何か感想を言うわけでもなくずっとその方のお話を聞いていました。「Это наша история…(これは我々の歴史だからな…)」と感慨深く発言していたのが印象深く残っています。この場所で約80年間に凄惨な事件が起こっていたのか、当時の状況をこの森はずっと見ていたのだろうか…ただただ考えてしまいました。まして毎日のようにモスクワの煌びやかな世界だけを見て生活していると、生きることの根本的な何か…を忘れてしまいます。犬は楽しそうに我々の周りを駆け回っています。男性に話しかけるやいなや、人懐っこく「おいおい、その人の邪魔するんじゃないぞ」というご主人の声をなんのその、こちらにぶつかってきました。なんだかんだと気が付けば49年もここに住んでいる。サンクトペテルブルクから100km北にいった町で生まれ、ここには建設労働者としてやってきてすっかり土地の人になってしまった。静かで空気もよい、この場所が大変気に入っているよ。とのことでした。短い時間の中の会話を楽しんでから、私の目的としていた入り口にたどり着き、そこで握手をしてお別れ。

敷地の中にはわずかな訪問者だけで、時折この場所を一人で貸し切っているのではと錯覚するような時間も何度かありました。そのおかげで静寂の中で一層、「人間って一体…なんなのだろう?」そう考える時間が生まれました。カトリック、正教会、ユダヤ教、イスラム教のエンブレムが並ぶ碑を見て考えてしまう、宗教って一体なんだろう。いずれも同じ神様を崇拝しているはずなのになぜ?疑問は消えません。犠牲となった方の中には正教の祭司と思われる人の写真もありました。神という名のもとでお互いに殺し合い、ただ政治のために善人が犠牲になったのだ、と。ここまで歴史を見ていても、ではなぜこのようなことが起こるのか?人は考えることを止めてしまっている気がします。どのように考えているのか不思議なので、ロシア人に尋ねてみるのですが、自分なりの答えを見つけて、それ以上深く考えないようにしている、そんな気がします。ロシア人を観察していても、神というものが形骸化している。神を信じているとは言っても、その存在の実態を感じない中で、教会に行きあの荘厳な雰囲気に酔っている…。そして、生活も国の経済も一向によくならない。毎日をただ楽しもう、と。

時々、人というのは生きていることのほうがずっとつらいこともある、と感じることも時にあります。病んでいる、というわけではなく、スモレンスクの町中でも苦しそうな顔をしてたどたどしく歩くおばあちゃん、足を引きずりながら歩いているおじいちゃんの顔を見てその思いが強まりました。それでも当時何も知らずにこの場所で殺害された人たちのことを思うと、その無念さは想像を超えるものがあります。今日、この場を歩き、一つ一つの見る場所を訪れ、足を止めて観察する中で、命の大切さについて考えさせられる時間となりました。ロシア人にとっては自国の負の歴史を目のあたりにする場ですが、このような歴史教育がどれだけ大切か考えさせられます。子供を連れて歩いている親子連れや若いカップルの姿。そんな人たちはどんなことを考えてこの場所を跡にしていったのでしょうか…。定期的にこのような場所を訪れることで当時のことを想像し、自分自身の今のあり方を客観的に見つめてみる。そんな時間が貴重です。

相手のことを想っているからこそ素直にフィードバックを。 / Being honest to provide feedback to Russian colleagues because we are taking care of each other

10月はじめに出かけたサンクトペテルブルクで子供たちによるバレー「白鳥の湖」を鑑賞しました。当日たまたま見つけたチケットで、約4,000円ほど。正直なところ、本物とは程遠いレベルでこれだけお金をとるのはどうかと…音楽の演奏レベルも決してよいとは言えないレベル…。途中で席をたちました。ほとんど中国人観光客で占められた客席。演奏前の「携帯電話での撮影禁止」アナウンスもしっかりロシア語、英語だけではなく、中国語で流されていました。といってもごらんのとおり、客席には私のこの写真も含めてビデオ撮影している人も何人も見られます。この禁止ルールは根本から考えて変えたほうがよいのではないか、と思ってしまいます。撮影を禁止するのではなく、逆に撮影をしてもらって世の中に広めてもらうことに利用すること、撮影してはいけない理由が何か他にあるのであればそれを説明し、その対策を取った人には撮影許可する(たとえばライトが邪魔になるのであれば、ライトが絶対につかないように設定を確認させ、それから開演するなど)、といった方法のほうが賢いのでは…と後ろから携帯ユーザーと、それをライトで注意する会場スタッフのバトルを見ながら考えてしまいました。みんな撮影したいです。

相手のことを想っているからこそ、素直に相手に直接フィードバックをする。当たり前のことがなかなか難しくてできない。それは世界共通のことかもしれません。

ロシア人スタッフとの定期的なミーティング ― 1週間に1度の定期的な頻度を保つようにしています ― を行っていると、話の内容がとある特定の人間であったり、とある課全体についての不平不満が聞かれることが幾度とあります。

「試用期間中の —(特定の人物)はひどい。みんな彼女のことをよく思っていません。採用活動を続けてもっとよい 別の人を採用するべきです。XXXさん(わたし)は表面的に彼女のよいところしか見ていないから、もっと周りのの意見を聞いて採用する、しないを判断したほうがよいです。 」

「— 課のみんなはひどい。ディーラーとのコミュニケーションのやり方も分かっていないし、私が手取り足取り教えてあげないといけない。あそこのマネジャーは一体どうしているのかしら。」

そのような感想を率直に伝えてくれることはとてもうれしいことです。わたしにそれを話しても大丈夫、と思ってくれているだろうから…一方で、それを伝えられたわたしは、逆に試されているのかもしれません。わたしに伝えてくれたスタッフはわたしにとって大切な戦力です。その人の信頼を失わないためにもその意見に従うべきなのか。いや、ぶれずにわたし自身の考えを貫くのか。

もちろん後者を選択しますが、その場合でもこのコメントを伝えてくれた本人に対して、相手の感想に感謝を示しつつ、それでもわたしがどう考えているのかを丁寧に説明することの大切さ。それは私自身の課題であって、以前は過度に感情的になってしまって気まずい空気を作り出してしまったこともありますが、どれだけ感情を抑えて、相手の意見を汲み取りながら自分の意見を伝えてゆくこと ― これは決してマニュアル化できないもので、経験を通して、そのケースごとに、その相手ごとに自分の言動を変えてゆけるスキルを培ってゆくことでしか得られないものと考えてます ― そんなことを反省しながら身に着けてゆく終わり無き途上にいます。

さて、そんな感想を言ってくれる人に伝えていることは ― 先週は同じ日に立て続けにこのような面談が連なったもので、素直に相手に私の思いを吐露しました ―

「なぜ、私に言って自分から本人に言わないの?相手のことを想っているのであれば、言葉を選んで率直に伝えることが本当に大切なことなんじゃないの?それが愛でしょう?」ということです。

必ず相手にとって大切と思えることがあれば、必ず私の思いを本人に言葉を選んで伝えること。これをいつまでも守り行ってゆこうと決めています。相手のことを想っているのだから相手にそれを言わずにいたら、それは私の責任に跳ね返ってくる。そのロシア人スタッフがひどい言動を改めずに他社に転職してゆく、その転職後の会社で引き続き相応しくない言動を改めないならば、「一体前の会社ではどんな教育をしていたのか…なんて会社だ…」と言われてしまうかもしれません。(言動を改めるのは本人次第なのでわたしにそれを強制する力はなく、あくまで指摘し続けることしかできませんが、それが自分にできることの最大限なのかな、と考えています。それでも変わらないことについて悩み苦しんだこともありましたが、それは自分を苦しめるだけで意味を成さない。それを実体験で噛み締めました)

伝え方には悩みます。どんな言葉を選んだらよいのだろうか、もしこういってこんな反応が返ってきたどうやって切り換えそうか。自分の想定している言葉が相手の人格否定となってしまうことはないだろうか…帰りの家路では「今にもメールで伝えてしまいたい」という苦々しい思いもありつつ、いや、そんなことしたら過去の二の舞だ。今日は我慢して、明日に直接伝えよう。こんな風に伝えたら本人に響くだろうか、など考えたりしながら。(考えていてもほとんどのケースで自分の予想していたように進むことはなく、その場での切り返し方を実際にその場で学んでゆくことが最善の勉強題材でしょう)

あとは、自らも周りからフィードバックを自然と得られる関係と雰囲気作りを心がけること。相手が何もいわなくとも顔の表情、振る舞いや空気から自らの至らない点を感じ取ろうと努めること。それも大切なことなのではないだろうか、と考えています。日本の文化で育ってきたわたしたちは、これはロシア人と比べて容易にしやすいのではないでしょうか。答えのない人事マネジメント。このやり方がよいのだ、と思ったことが、違うケースではひっくりかえされる。再び違う方法を模索する。この繰り返し。難しくもあり嫌になることもありますが、とてつもなく深い分野でいつも考えに耽ってしまいます。しまいには人間って一体どんな生き物なのだろう…と。

さて、私の気持ちを吐露した二人のロシア人スタッフからは「う~ん…」という納得とも拒否とも言えない反応が返ってきたのみで明確な答えは聞けませんでした。何か考えるきっかけになればよいなぁ、そしてロシア人スタッフ同士の中でお互いに、相手のことを想った温かみのある日常的なフィードバックをする文化が根付くこと、それを願っています。

ロシアで自分自身を客観的に観察し続けることの大切さ / The importance of continuing to observe yourself objectively in Russia

昨日、ついに本格的な冬が雪と共に始まりました。道行く人は、帽子、手袋を着用してすっかりみんな冬の装いになっています。厚手のコートに切り替えが必要です。通りにしばらく動かずに立っていると体の芯が冷え込んで震えてしまいます。

ロシアで駐在員として勤務する上で重要な点の一つに、自分自身をいつも客観的に観察し続けること。これが挙げられるのではないだろうか…と感じています。

ロシアに進出している日系企業は規模も小さく、各社で働く私たち日本人の人数も限られます。そして、日本人は大概重要なポジションを担っています。となると、どうしても部下のロシア人スタッフからの、私たちの相応しくない言動について直接指摘を受けるケースが少なくなります。私の経験上 — ロシアに限らずどの国でもそうだと思いますが — 私たちに対する評価は、彼らだけ食事や飲みに出かけている場所で、職場の中でも日本人がいないところで日々なされているわけです。わずか数人の、同じ本社から派遣されてきた日本人。その下に多くのロシア人の部下。日本人同士で指摘しない限り、なおさら自分の行動の正すべき点について注意をしてくれる人が限りなくゼロに近づきます。会社の中では自分の決定が多くの場合通ってしまう(その分責任も発生しますが)。部下もそれに従う。よく考えれば恐ろしいことです。日本にいる時には、上の人から(正しい、正しくないは別としても)何らかの指摘を受けていたのに今はそれがほとんどない。同僚が周りに多くいて何となく比較できる対象がいたのに今はそれがない。間違ってしまうと、「周りは自分の言うことを聞いていればよい、自分の意見が正しいのだ。」となってしまう可能性もあるのではないでしょうか。

社内のロシア人スタッフにしても、どうしても自分自身が仕事のノウハウを共有し、ロシア人スタッフもそれを受け入れる場面が多くなり、ロシア人スタッフと自分自身を単純に比較することは難しく感じます。(もちろん、ロシア人スタッフには、仕事だけではないとても優れた要素が備わっています。カラオケが上手、ダンスがうまい、会社のイベントでは常に率先して盛り上げてくれる。お菓子を作らせたら最高。お客さん向けのレストランの候補地をお願いしたら期待以上にアレンジしてくれる。そういった仕事以外での彼らのすばらしさには脱帽します。ただただその才能を羨ましく感じます。)

また、こちらから真摯に意見を聞きにいかない限り、相手も素直に気持ちを打ち明けてくれません。(それを打ち明けられてグサグサッっと感じることもあるのですが…。)他社の日本人と交流して自らを客観視することも可能ですが、他社の方々とのお付き合いはどうしても業務以外になってしまうのでお互いに相手の仕事について深くは理解はできない。そもそも日本人コミュニティの数も限られています。取引先のロシア企業には確実に比較対象となる方々いますが、それでも定期的に、かつ仕事に関してどっぷりと彼らの仕事ぶりを観察できるチャンスもないわけで、やっぱりできることは限られます。

やはり、自分自身で自らの言動を客観的に観察し、評価し続ける姿勢がとても重要であろうと信じています。

自らの行動、考え方があるべき原則からずれていないだろうか?長いことロシアで勤務するうちにロシアのやり方に傾倒して、日本のスタンダードを小馬鹿にしてしまっていないだろうか?自分は自分。これでいいのだ、と変に開き直ってしまっていないだろうか?自分自身に対するロシア人スタッフの評価を何とか得ようという努力を続けているだろうか?(たとえ本人が口にしてくれなくても、彼らの振る舞いから理解しようと努力しているだろうか?)

そういった自問自答を日々繰り返すことが欠かせないのだろう、と。

日本にいれば意識せずとも、自分自身がとてもかなわないレベルの方々が目に入ってくる。それがロシアにいると途絶えてしまう。そんなロシアの環境で、自分の能力を勘違いせず、どれだけ自分自身のレベルが広い世間と比べた時にまだまだなのか、を知ること。そうしていると、自然と日頃から謙虚でいられるのではないだろうか…それをロシア人スタッフにも訴えながら自分に言い聞かせているところです。