水漏れ事件で階下の住民が早朝から押しかけてきた /Residents downstairs rushed to my room from early morning due to water leak

1930年に建築された建物が今でも十分住むに足る、という驚き。そして、内装は立派に装飾されているけれどもこうして水回りのパイプ類を目にすると、いかに建物が古く、修繕を重ねて今に至っているのだろうことが想像できます。

ついにロシアの洗礼 - アパート水漏れ。
モスクワで住んでいたアパートの建築は古く、1930年と聞いています。外見は立派な建築様式で天井も高い。しかし、中身はすっかりおんぼろです。そんなアパートでも修繕を繰り返しながら今も我々のために住居となってくれています。

何度か引っ越しを繰り返して3件目のアパートでしたが、この水漏れ事件が起こるまでの約2年間は何も問題なく過ごしてきました。

そして2020年2月8日(土)の朝7時。ドアのチャイムが鳴りました。眠くて無視していましたが止まることはなく。ドアの穴から外を覗くとご老人夫婦とおぼしき方が。ドアをあけると女性がご立腹の様子で、わめきながらずかずかと土足で私の部屋に入り、バスルームへと入ってゆきました。

どんなに私が悪いからと言っても、他人の家にことわりもなく勝手に入り込むのはどうかと思います。それはないでしょう、というのがぱっと頭に浮かんだ印象ですが怒りは最高潮に達しているようです。

「1月にも同じことがあったのよ。もうどうしてくれるの!?」

2020年の始め、私が日本へ帰国中に水漏れがあったようです。オーナーからメールが入っていて、水漏れがあったために部屋に入ったとの連絡があったことを思い出しました。

写真の通りすっかりわが部屋の水漏れが原因で侵食されている模様。それはないでしょう、というのは下の階の方のセリフかもしれません。思い返せば、金曜日の夜遅くに仕事から帰ってきた時、何かがポタポタと垂れる異常な雰囲気の音がしていたのですが、深夜で一週間の疲れも溜まっていて注意もせずに眠り込んでしまいました。翌朝になってこの女性の怒りはこれだったのか…と。

しばらくして修繕をする男性がやってきました。全体で1時間くらいだったでしょうか、無事に水の漏れも収まりました。アパートのオーナーは「1月のときに修理を担当したあの人が悪い。最後までちゃんと仕事をやらなかったに違いない」と。
怒り心頭の女性の旦那さんの会話を聞いていると、彼の奥さんはどうも裁判を始めることを考えている、という。けれでも、私はそこまでは考えていないから修繕にかかるコストを負担してくれればよいから、と。

私の思い込みで判断してはなりませんが、このような件で裁判を始めるケースはロシアの場合は決して不思議なことではないのかもしれません。私の友人も、全く同じようなケースで階下の人から訴えられ、弁護士を見つけて協議している、とのことでした。彼女はフルシチョフカと呼ばれる5階建ての古いアパートに住んでいて、いきなり古い水道管が破裂したとのこと。どうやら彼女の家の箇所が破裂したことで階下の家の家具に被害を与えてしまったのだとか。階下の人が怒っており、それなりの賠償をしなければいけないことになりそうだ、という。それでも堂々としていて、まあ仕方ないわ、と言っていました、なんともたくましい。

私の水漏れと言えば、保険適用をした結果無事に保険会社から補償されました。家は立派でも中身は古く、修繕をしながら長く使用してゆく。近隣住民との関係の大切さ。これはきっと日本と同じなのでしょうね。

自分とは異なる他人の価値観に敬意を払うこと、その難しさと格闘中。 / Respecting the values of others that are different from me, I am fighting to overcome difficulty.

日本に帰ってきて懐かしの友人たちと会話する時、ロシアで過ごした7年間は、同じ7年間といってもどれだけ見聞を広める機会となったことか。その充実していた時間を感じています。同じ場所で7年間大きな問題もなく、元気で幸せな生活を維持することもどれだけ大変なことかを考えれば、どちらの7年がすごいのかなんて比べることはできません。ただ、日本にいては決してできなかった、自分の知らない人たちや土地を訪れる機会があったこと。この点は大きな経験となっています。

チェルノブイリ原発事故のあったゴーストタウンを訪れて誰もいなくなったアパートの部屋の中や街の中を歩いたこと。ロシアがクリミアを武力で併合しウクライナの間で緊迫した情勢となって悲劇が起きたオデッサ、火事により40人近くが無くなったその現場を1週間後に訪れた時の緊迫した現場いの様子と一方で街の人々ののんびりとした様子のコントラストに驚いたこと。国際社会が認めないロシアが実効支配している地域で過ごした平和な時間、かつてロシアとの間で戦争が繰り広げられた場所を訪れて、現在のすっかり復興した街の平和な様子に驚いたことなど…思い出はたくさんあります。

ともすれば、7年間のそんな経験を経て戻ってきた日本で出会う、生まれてからずっと自らの生まれ育った街を旅行以外に出たことがない人、ずっと駐在を経験することなしに日本の企業文化の標準を当たり前と思って過ごしている方々の価値観を疑いたくなる瞬間があるのも確かです。

例えば、このパワーポイント、エクセルファイルをどれだけ完璧に仕上げることができるかが大切なんだ、これに魂を込めてやっているんだ!何かお願いする時には、決してこのベテラン女性スタッフの機嫌を損ねてはならない。何となく自分だけ違う行動をしていると、本人の自分は至って普通だけども、周りからは何となく白い目で見られている気がする。

自分にとっては決して重要とは思えないことにやたらとじっくりと時間をかける方、なぜこんなにも決断が遅いのだろう?何にそれほどまでに時間をかけるのだろう?なぜこれほどまでにコミュニケーションを重要視するのだろう、私にとってはそれほど重要ではないのに…

個人的には理解しがたいことがルールとして成り立っていること、そんなときに学ぶ教訓があります。

これがとてつもなく大切なことなんだと。そしてこれが難しい。

大企業では異なる価値観、LGBT、異なる信条に敬意を払うことを会社規定として定め、公表しているところが大半ではないでしょうか。実際に内部で働いてみると、我々も人間です。規則を頭で理解していても、心では自分の規則が自分をコントロールしています。規則は規則。でも実際は自分の価値観が自分の思いや行動を支配しています。
なんでこんな面倒なことを…一体何の価値があるんだ…?そういった内奥の自分自身が顔の表情や態度に表れてしまう。

自分自身の考える価値観とは異なる価値観に出会ったときに、素直に「そんな価値観もあるんだ、よし、やってみよう」と思えるか。

そんな行動一つが結果として相手への敬意にも繋がり、仕事をする上で円滑な関係を築くことができ、もしかすると自分自身の知らなかった大切なことを発見する機会になるかもしれません。まさに今の自分自身にとってこの点がチャレンジでもあります。

どんなに経験を積み重ねたとしてもゼロベースで接すること。相手にとって何が大切かを理解した上で発言し、行動すること。そんな行動が仕事をする上で役立っていることをこの1か月未満の中で感じる日々です。

…とはいっても、そもそも7年間足らずの海外で経験した価値観は、あくまで日本から見れば外国の価値観であり、日本には日本の価値観があり、私が現在、新鮮な視点で経験する価値観こそが日本のスタンダードなのだ。これが正解ですね、自分自身にできるところで上手に日本とモスクワで経験した価値観をミックスできるよう行動してゆきます。

日本の生産性の低さは日本の丁寧さと表裏一体 / Japan’s low productivity is closely tied to politeness of the way of Japanese conversation

日本に帰国してから早くも1か月が経過。生活のリズムも少しずつ慣れてきました。それにしてもこの雨、雨、雨。そして体にずっしりとくる湿気。モスクワの夏がどれほど快適であったかを感じています。身体が想像以上に疲れ、集中力が無くなってゆく。かといってずっとエアコンの元での生活は好きではない。適度にエアコンを使用しながらよいバランスを探しているところです。

そんな中、新しい職場で勤務し始めて約二週間が経過しました。
日本の生産性が低いといわれる所以の一つに、物事に明確な言い方を避けて、なるべく聞き手に察してもらうことを期待した会話の進め方、日本語の会話方法に問題があるのではないでしょうか。きっと多くの方がすでにこの点を指摘されているのでしょう、日増しにその思いは強くなっています。

何をしてもらいたいのか、その指示は分かるけれども、いつまでにやるべきか。具体的にどこまで掘り下げるべきか? たとえば、「締め切りはXX日までね」「了解。」その約束の期日の二日ほど前に「あれはまだできていないの?やっぱり早く欲しいんだよね」。あるいは、「この内容で関係者に依頼事項を出しておいてね。」その数日後には「やっぱりエクセルファイルを添付して、それに記入をお願いしたほうがよかったと思うんだよね…」

指示の仕方が悪い、そんなことを言うつもりはありません。「どのようなイメージのレポートが欲しいですか?」「なぜこのタイミングで急いでいるのですか?要求の背景にあることは何でしょうか?」そんな質問を部下の側からも上司にすることで、双方向のコミュニケーションとなり、そこで顕在化する課題や、新たに得られる情報が後々余分な労力と時間をセーブするのに役立つのではないでしょうか?あとは、上司の指示通りにではなく、自分自身でも深堀して考えてみる。自分なりにアレンジをしてみる。非常に多くの業務に忙殺されている中で、上司も人間ですから細かい指示、情報共有を一度で全てできないことだってあるはずです。部下から質問をしてゆくことで指示内容が洗練されて、より磨かれることだってあります。上司の責任は大きいですが、部下が上司をサポートする姿勢を自ら見せること、そうありたいと思います。ロシアで正社員が50人程の決して大きくない会社でしたが、部下を抱えながら指示を出している時に痛烈に自分の指示の限界、部下からの指摘の有難さを感じた経験があります。だからこそ、日本に帰ってきて自分自身が再び一社員として部下の立場になるときに、部下として上司のためにあるべき姿が分かったような気がしました。ロシアで、私の思っていたことと異なる結果が生じた時に部下に尋ねると「あなたの指示がこうだったから私はこうしたまでです。」という回答。振り返ればそれは決して否めないので私も部下を批判できないのですが、それでもやっぱり「ああしてくれていれば良かったのに…考えてくれなかったのかな…」という思いになったこと、ありました。

たとえばチーム内でもお互いにきっと直接言いたいことがあるのだろうけれども、黙っている。「ねえ、私の言いたいことは自分で悟ってね」という雰囲気。はっきりと物事を伝えることができればどんなに良いことか…?はっきりと伝えられない理由はおそらく、発言者の側にその言葉を発した時にその言葉が与える相手への強いインパクトを感じているから。そしてそれをなるべく避けたい。そうなると、短く話せばもっと分かりやすいのに、言葉を増やすと丁寧さの印象が増えるので言葉が多くしたくなる。言葉が多くなると一層伝わりにくくなる。相手の気持ちを考えるがゆえに言葉が増える。人格者でいることも — 決して悪いことではありませんが — 仕事を進める上では仕事の指示の理解を混乱させる要因となっているように感じます。丁寧にやろうとすればするほどにシンプルなものが複雑化するリスクをはらんでいる。面白くもあります。

会議では最後に「それでは何か質問ある方いらっしゃいますか?」…シーン…。「質問がないようなので、それでは終わります、ありがとうございました。」…しばらくして、会議に参加していた方々が立ち話をしています。「あの依頼事項は具体的には何を表しているんだろう?よく分からなかったんだよなぁ、わたしはこう思うんですよね…」一度となく会社で見る光景です。これも自分自身の質問が場の全員に関係の無いものだから他の人の時間をあえて取らないようにしよう、という気遣いに基づいているのだと思います。素晴らしいことだと思っています。一方で、意外にも自分の感じていることは他の多くの人も心の中で感じていることがあるのも事実かもしれません。そのような経験も一度ならずあります。そんなことも踏まえると、会議中に質問することこそが周りへの優しさでもあるのかもしれませんね。

仕事では、大切な特質である丁寧さが逆に機能してしまうことがある。

また、日本に戻ってきて、― 前から感じている点ですが ― ここでなぜ笑いが起こるの?と感じる場面が多々あります。なぜそこで笑うのか分からない、そして結論がうやむやになってしまう。振り返ると、あれっ、あの件って結果はどうなったんだけ?と。難しい課題になればなるほどに笑いが重要な役割を占めるのかもしれません、もしかするとはっきりとした結論が求められておらず、それはそれとして流しておくためにも笑いがあるのかもしれません…。笑いの難しさについて皆さんはどのように感じるでしょうか?

テレワークになってからは、同僚や部下、上司ととのコミュニケーションを取ることが大切にされており、定期的にMicrosoftのTeamsを利用して会話をする時間が設けられています。しかし、その会話が単に表面的なコミュニケーションに終わっていることはないでしょうか?冗談を言い合って、お互いに当たり障りのないことを言い合って時間を過ごす。笑いもあり柔らかい雰囲気を作ることはチームビルディングに大切なこと。確かにその通りですがが、真のコミュニケーションは、お互いに考えていることを正直に伝えあうこと。もっとお互いに本音で語り合う場が大切ではないかと思います。そうでなければ、ただ表面的にコミュニケーションを取っています、というだけの無駄な時間になってしまう恐れがあるかもしれません。

街中で立ち寄るコンビニで出会う土方の親方風の男性。同僚と会話する時の元気の良さ、明確な話し方。大きな声。何と分かりやすい。きっと日本人が~、日本語が~というステレオタイプの見方は誤っており、自分自身がいる環境で見聞きするもので語ってしまっている。

時として、曖昧さが生み出すプラスの副産物だってあるかもしれません。あらゆる方法に出会い、経験し、試しながら失敗と成功を味わい、それを自分自身のスキルとして身に付けるチャンスとしたいものです。

ロシア勤務の大雑把な総括、ロシアも日本も同じだ。 / Rough summary of work in Russia, there is no difference between Russia and Japan

自宅隔離の2週間を終えて、新たな職場での仕事が始まりました。生活の基盤を整えること、以前の仕事の引継ぎであったり新たな仕事に慣れること、荷物の整理など、多くのやるべきことが同時に降りかかり、落ち着いて物事を考えるゆとりがありませんでした。少しずつ自分のペースを取り戻してゆこうと調整中です。

さて、7年という年月は思っていた以上に自身に大きな影響を与えているようです。ロシアと日本のよさを融合してゆけたらと考えています。

ロシアでも日本でも女性が大切な業務を担っていることは明らか。モスクワではロシア人女性の部下と時に声を張り上げてやり合っていたのが、日本では言葉遣いにより気を付けながら女性にどれだけ上手に仕事をお願いして物事を滞りなく進めることができるか。そんな違いがあるのかもしれない?と感じています。

日本とは~こうである、他方ロシアは~こうです。とステレオタイプに語ってしまうことの誤り。私自身、気を付けていないとこのような論調で語ることがあり、気をつけなければと思っています。「モスクワは本当のロシアではない」という人もいます。私は周りの他社駐在員の方々と比べるとだいぶロシアの深い部分も含めて足を運んだほうだと思いますが、生活のベースはモスクワ。どうしてもモスクワでの生活を基準に「ロシアとは」を判断してしまいがちです。そうはいっても、日本からやってきて管理部門の駐在員として勤務する大半はモスクワ。このブログではモスクワを中心にして仕事に関する話を進めて問題はなさそうです。

思ったように働いてくれないことに対しても 文句を言わないことを学びました。よく考えると、現地スタッフは、例えば30歳という年齢でも20万円に満たないような安い月給で働いてくれている人は少なくありません。それでも言ったことはそれなりにやろうと努めてくれる。それ事実に感謝 すると自然と不平不満も消えてゆきます。

一般的に駐在員は外に送り出してもよいと判断され、仕事ができるであろうとみなされる優秀な人が選抜されていると思います。その駐在員の基準で 仕事を要求すれば彼らの仕事のレベルは駐在員からすれば物足りないでしょう。もちろん、イライラすることは実際に多々あります。まずは徹底的に自ら仕事をして、困っている現地スタッフの仕事を助けてあげて一緒に仕事をすることで信頼関係を築き上げて、ある程度の時期が来た時に、”強気”に出るのが良いのだろうと思います。「なんでこんな仕事を自分にさせるんだ?これは上司である自分の業務ではないでしょう、自分でやろうよ?」といいながら仕事を振ってゆく、というイメージ。

見ていると、現地スタッフの多くは、私たちが仕事の枠組みを作ってあげて、その中で絵をかいてね、というと描いてくれますが、キャンバスの大きさがどれくらいで、どんな絵に仕上げるべきか?ここまで考えられる人はいません。そもそも何が問題なのか?という問題の設定能力に努力が必要というか ある下書きの枠線をある程度書いてあげてから渡すことが求められています。(きっとこれはマネジメントの仕事であるので当たり前なのかもしれません)

 長年ロシアで仕事をしていると どうしても日本人とロシア人の間での ギャップを見聞きします。表面上はうまくやっていても裏ではお互いに悪口をいっています。それは決して辛辣なものではありません、よく日本でもあるように陰で相手を小馬鹿にしたような会話が大半です。これを見聞きする時にはとても残念だな、と感じます。ロシア人スタッフは大変合理的で、英語も上手で、自己プレゼンの上手さは日本人駐在員よりも高いと思っています。日本企業としてのやり方がおかしく思える点も多いです。私自身がそう感じるのですから。そんな中でも その日本のやり方もありなのでは、そんな風に理解してくれるロシア人スタッフが増えると素晴らしいと思います。また、そんな様子を見ながら可能な改善方法を上司や本社にフィードバックをしてゆくのも我々管理部門に勤める人間の仕事だと考えています。

日本に戻ってから勤務する中で感じること。それは、どこに行っても抱える課題は似通っているということ。「なぜこの人はこんなにやる気がないんだろう、あなたの業務でしょう?」「かつてはきっと目をキラキラと輝かせた新入社員でいたはずなのに、なぜ今はこれほどまでに新しい仕事へ取り組むことを嫌がるのだろう?」ー このようなモチベーションの問題。「何を言いたいのか分からない、やるべきなのかやらないべきなのか。」- 指示の曖昧さから来る現場の混乱(現場ではそのあと、やるべきだ、いや、あの口調からすればやらなくてよい、ということだ、といった空虚な時間が過ぎてゆく)「なんで初めにそれを言ってくれなかったんだ?」「いったいこのレポートはそのあと何にしようされるのか?なぜこれが必要なのか?」- 情報共有の低さ。「いつも一緒に仕事をしているけれども、彼が具体的にどんな仕事をしているのか分からない。」「(いきなりこのレポートを作成してね、と言われたけれど)どうやってこのレポートを作成すればよいのだろうか?」- 業務の文書化ができていないという問題。

組織が大きくなればなるほどに自分で分かっていても自分ではどうしようもない、変えられない現実がある。そこに悩みを抱えていても仕方がない。今できることは自分の行動を変えること。そこから何かが動いてくれればよし、動かなければそれも致し方なし。結局は自分がどうしたいのか、どうすべきなのか。目の前のことに自分ができることに取り掛かるしかないのだな、と。自分を軸に物事を取り扱ってゆけば、どんな困難な問題にぶつかっても、その結果が必ずしも成功する保証はありませんが、少なくともやってやる、という気持ちがまず湧いてくる。まずはその一歩を踏み台にして目の前の一歩一歩を着実に進めてゆくことが、気が付けば次の人たちに進むべき道を示すことにつながっている、そんな風に思いたいものです。

今はなんだか順調だなと思っているその時に想定外の 事件が発生したり、本社から新たなレポートの報告要請がきたり、いきなり原油価格が落ち込んでロシアルーブルが一気に暴落に向けて進んだり…本当に想定不可能なことが、必ずといってよいほど「今日はなんだかうまく進んでいるな…」という時に起こります。いかに定例的な作業を 現地スタッフに落とし込んでゆけるか、そして不測の事態や将来に備えて 自分の体と時間にゆとりを持たせておくことが出来るか、それが駐在員の務めのすべてかもしれません。そうは言っても現実的には、実務にも多くの時間を割く必要があります。

スタッフのスキルのレベルで悩むのであれば、いっそのこと、高い報酬を提示して優秀なスタッフを外部から雇えばよいではないか、と。私はきっとそれが一番早い解決策だと思います、それが簡単にできるのであれば…。私の勤務していたロシアの会社は決して大きな規模ではなく、勤務しているスタッフもお互いの待遇をある程度知っている、モスクワの労働市場と比べると我々の給与が他社と比べて低いという事実も周知している。そんなところに特別待遇の人間をいきなり引っ張ってくることができるのか?また、そんな待遇を、販管費の管理を厳しく行っている本社が容易に認めるのか?…複数の要素が関係しています。なかなか簡単ではありません。そんな中でもできることはある。そして、決してそのコト自体は難しいことではない。結局、難しくしているのは人間。そしてこの人間というのが仕事をする上では一番厄介なもの…そんな現実と闘いながらよりよい仕事をすべくみんな頑張っている。ロシアも日本も何も変わりがないですね。