とある週末のタクシードライバーとの会話 / Conversation with taxi drivers on weekends

コロナウイルスにより外出制限が課せられてからというもの、私用での遠出は週に2回までに制限。毎回、事前に電子パスをオンラインで取得してから出かけています。外出制限がある状況でも我が家の周りではお構いなしにジョギング、サイクリング、散歩をする人々がいる中、果たしてどれだけの人が電子パスを取得してから外出しているのだろうか、という疑念は晴れません。そんな私も、ジムが一時的にクローズされてしまった現在、ほぼ毎日ジョギングをして気晴らしと運動不足を解消するようにしています。

遠出の際にタクシーを利用すると毎回ドライバーに電子パスの有無を確認されてから搭乗開始。今の状況をどう捉えているのか?毎回ドライバーに話しかけて意見を聞いてみるのですが、それがまた興味深い。

ドライバー其の一:

「みんな、”渋滞をなくしてくれ(モスクワの日常生活における渋滞は日本の比ではない)。街に人が多すぎる、自分だけものにさせてくれ”っていう結果がこれだよ。言った通りに願いが叶っているよ。」(そういって、全く渋滞の無い、誰も歩いていない通りを指さした)…自分だけが外を歩いてよい、という状況は残念ながら叶っていないけれど、ほんとにそう。これほど日常の大通りからこれほど車が減った光景をみたことは記憶にないです。

ドライバー其の二:

「今のこの状況は神様が我々人間に与えている試練だよ。神を信じる人にはこの試練を乗り越える動機があってきっと大丈夫、この先によい未来が待っているという希望を持っているから。そうでない人にとってはただただ辛いだけだな。」(神様は人間を不公平なく愛しているはずで、なぜ人間に試練をわざわざ与えないといけないのでしょう?)

ドライバー其の三(珍しく女性ドライバーに):

「今の世の中、人間は自分たちが本来いるべき立場を超えてしまった。その罰が今の現状よ。人はますます自分のことだけ考えて悪くなっていっている。今、自分たちの間違いを認識して反省する時期にきているのだわ。お金なんてどれだけたくさんあっても幸せには関係ないの、衣食住が整っている。それで満足しないといけないわ。」(本当にその通りだと思います)

ドライバー其の四

「人生、自分は生きている、というその現実を楽しまないと。しばらく旅行に行ってたんだけど、そこで人生を楽しまないといけない、ということを学んだんだ。コロナウイルスで苦しくてもそれをどう捉えるかは人それぞれ。苦しい苦しいと言っていれば辛くなってくるけれども、例えば太陽があって緑豊かなこの自然の恵みを見てみたらハッピーじゃない?(今日は天気悪いで嫌になりますよね、という問いかけに)いや、また太陽がでることを喜べるんだからこの天気だって悪いもんじゃないよ」(まだ20代と思われる若い男性、こんなに明るい姿勢で生活していれば、こんなコロナウイルスの現実も大したことではなさそうですね。素晴らしい)

仕事の遊び心を / Let’s have a sense of fun in the job

いつもであれば入口付近はいつもたくさんの人で溢れかえっているショッピングセンターの様子。あまりの人気の無さにコロナウイルスという見えない敵の恐ろしさを感じます。モスクワもようやく少しずつ正常化に向かって漸進しています。6月からは朝の時間に限って散歩ができるようになるとのこと。自宅隔離は引き続き6月半ばまで継続されるようです。それにしても、すでに今でも通りにでて川沿いを歩けば、規制も関係なく自由にサイクリング、ジョギングをしている人たちを見かけるのが普通となっている日常ではありますが。

仕事に遊び心を。今、ますます、とくに管理の仕事をする上で重要だな、と思います。
サッカー、バスケットボールは昔から好きで、よくYoutubeで観ています。

なぜ、世界的選手のプレイがあれだけ印象に残って、何度見ても最高なのか?ワクワクしてしまうのか?ただ点を決めるだけではなくて何か一ひねりある。人が想像しない方法でパスをだしたり、えっここからこのシュート?と思ったら決まってしまう。ボールを扱うタイミング、リズム感が他のプレイヤーと違う。一つの丸いボールを皆が平等に扱う、ディフェンスを抜くにも方向は左右、股下か頭上に限られているのに、こうも観ている人を魅了するのかと。

オフィスワークは実直で、間違いの無い堅実な仕事を要求されます、それができて当たり前。でも、それだけではおもしろくないなぁ、と。えっ?周りが想像しなかったやり方で周りの人たちにプラスの意味での驚きを与えられる、そんなちょっとした驚きを与えることで、数多くあるつまらない仕事(ほとんどの仕事と呼ばれる作業がどれだけつまらないこことか!それを人は仕事、と呼んでいる)を面白くする方法の一つかなと。

例えばクラシック音楽の演奏会。思うことは、演奏者は非常に情熱的に演奏しているのだけれど、聴衆は微動だにしない。演奏中に咳をするのもはばかれる。携帯の音ももってのほか。なぜあの演奏者の情熱を観客は一緒に共有できないのだろうか?素晴らしい演奏者がこれだけ存在する世の中で一体どうやって差別化してゆけばよいのだろう?今の世の中、技術レベルが似通っていれば、あとは外見のルックスや何らかの話題性を持っているかといった演奏技術とは関係のないところでで評価される、になるでしょうか。音楽の世界はよくわかりませんが、皆が一定のレベルにいってしまうと、正直なところ私には差がわかりません。音量のでかさ、音程の正確さ、演奏表現の仕方の違いなどあらゆる部分で違いますがどれも個性で素晴らしいはす…。言いたかったのは、それにしても演奏の中にもっと遊び心があってもよいのではないかなぁ…と思います。

数年前にいたスタッフにお土産としてスパイダーマンの靴下をもらったことがあります。あの目が吊り上がったスパイダーマンのキャラクタです。なぜならば、「XXXさんはいつもこんなしかめっ面をして仕事しているのでこれをどうぞ」と言われました。今でもいつも眉間に皺を寄せて画面とにらめっこしていることが多いので、気を付けなければ。

そもそも世の中に面白い仕事ばかりできる人は決して多くないはず。つまらないというならば面白くしてやろうじゃないの、という意気込みを持ちたいものです。面白きなき世の中を面白く。すべては自分の心構えでどうにでもなるもの。例えば社内の承認フロー。紙を使用せざるを得ない事情があるとしても、Microsoft365が提供するWork flowの自動化を使えば、紙を介したプロセスをカットした電子承認システムを作り出せる。うまくゆかずに悪戦苦闘する時間も多いですが、上手にフローが流れるときの喜びはやってみた者にしか分かりません。それを社内に展開してみんなに喜びを共有できればサプライズのプレゼントです。そんな遊び心をもって日常業務を改善してゆくことで、社内に遊び心を浸透させ、コロナウイルスによるストレスが溜まる日々の中にちょっとした喜びを提供できるのかな、と。

仕事を複雑にすることで、それを仕事と呼んでいる人、ただの作業としか言えない業務を仕事と考えている人。そんな人が多い今の世の中。仕事の本質を見失っているのではないかと言いたくもなる要求が飛び交う日常世界です。他方で、こんな日本にしてくれたのは戦後復興で一生懸命に日本の今を築いてくださった先輩方のおかげという皮肉も感じます。そんな過去の遺産で成り立っていた時代は終わり、混とんとした世界が待ち受けている現在。辛いことも多くありますが、そんな中でちょっとした遊び心を毎日の仕事に取り入れてゆきたいものです。

人事評価とアピールと自分の軸 / Evaluation, Appeal and own motto

1年間の会計年度を終え、人事評価も終えてボーナス金額、昇格対象者を議論の上決定し、本人に伝えて契約書の更新を終えると、ホッと一息。この時期は一年のうちで最も神経を使う時間でもあります。評価が始まると、決まって「どうかこの人を上げてください、でないと辞めてしまうかもしれません、他社にゆかれて困ります」といった、こちらとしても確かに困る…という半ば脅しのようなものから、「なぜ私はきちんと評価されないのですか?私のマネージャーが悪い。私は正しく評価されていない」そんな直接の訴えが届くこと、あります。

アピールの大切さ

ロシア人スタッフに毎回言うことは、アピールの大切さ。評価者に対しては、評価者が陥りがちな判断ミスに気を付けるように、と評価ガイダンスで喚起していますが、やっぱり私たちは不完全な人間です。どうしても自分の感情に流されたり、直近で素晴らしい実績をあげただけで、その人の全てを必要以上にGreat、としてしまうような傾向があるものです。

寡黙で目立たずに黙々と仕事をこなしている人もいます。一方、仕事の成果物はそれほどでないにしても、陽気で上司の受けがよくいかにも仕事ができる雰囲気を醸し出している人もいます。実際の仕事の生産性で言えば寡黙な人であるにもかかわらず、結果として後者の人が高い評価を受ける。そんなことも事実です。

どれだけ評価者を訓練すると言っても限界があります。評価者には定期的に部下とコミュニケーションを取り、部下の仕事を把握して適切な判断を下せるように、との教えがあるものの評価者であるマネジャーも忙しく、評価について期中から会話できている部門は、残念ながらほとんど見かけません。隣同士の席で毎日会話できているから大丈夫なんていう誤った認識を持っているマネジャーが大半でしょうか。日常的に席で会話する内容と、部下の仕事を理解するための会話は異なります。もっと会議室に入ったり、二人で会話ができる場所に移動してじっくりと会話してもらいたいと感じます。これも結局は、自らの態度で示すしか方法はなく、少なくとも私自身の部門のマネジャーには同じ理解を持ってもらうべく地道な努力が続いています。

さて、寡黙に仕事をしているロシア人スタッフに伝えているのは、上司が適切に自分の仕事を見てくれていると思うことは誤りだということ。我々は人間なので間違いを犯します。だからこそその事実を踏まえて自分から仕事の成果をアピールすること。その大切さを説いています。「なぜ自分はこんなにも一生懸命にやっているのに見てくれないんだ?」ー 挨拶をしても、相手に聞こえなければ挨拶していないのと同じこと ― それと同じく、どんなに立派な仕事をしていても、それが相手に伝わらなければ、評価の対象とはならない。そんな現実があります。

仕事以外に自分の重要なことを持つことの大切さ

仕事が唯一の重要なものになってしまうと、自分の人事評価は会社や上司によって影響も受けるものです、上司の調子に合わせて自分自身を変えなければいけない、そんな苦しさがあります。仕事でこけてしまった時、自分を支えてくれるものがなくなります。

その点、私が一緒に働くロシア人スタッフは十分ほどに仕事以外に大切なのものを持っているようで、いつも勉強しているのはこちらです。もう少しやってくれてもいいんじゃないの…?と言いたくなる気持ちがあるのですが。

仕事以外のに没頭できる大切なことを持っていると、必然的に仕事も効率よくこなそうとしますし、仕事で何かがあっても、それ以外に自分自身を支えてくれる軸がある。精神的にも支えられる。といっても仕事で成果を出すにはそれなりの時間と労力を捧げることが必須。どちらも中途半端になってしまうと問題です。いまだにそのバランスの取り方が難しいなと感じます。きっと仕事と自分の仕事以外のこだわりを重ねてゆければゆけるほど、仕事もプライベートも充実できるはず。例えば、プログラミングやMicrosoft365が提供する様々なアプリケーションの学習にはまっている場合。仕事上会社の承認フローに手間がかかっているのであれば、学んだ知識を応用して仕事に使えます。仕事以外の時間に勉強をして、それを仕事の業務に落とし込んで検証ができる。「何やってるの?」と言われても、「いや、仕事のために必要なんですよ」と言える。学んだことを仕事でも生かして周りにも喜んでもらえる。そうなれば自分の趣味が仕事の一部となり、仕事自体もますます楽しくなる。良いこと尽くし。願わくは、仕事そのものと自分の趣味の境目が曖昧となってきて、自分自身が没頭してやることが結果としてお金をもたらしてくれる、そんな境地にたどり着ければ素晴らしいですね。たとえ、お菓子作りが趣味、というオフィス仕事とは全く関係のなさそうな趣味があるにしても、お菓子を会社のイベント振舞ったり、ギフトとしてプレゼントすることでみんなにとっても喜んでもらう、そんなロシア人スタッフもいます。みんなが美味しく食べている様子とそのスタッフ自身も笑顔満面の様子を見ると、こっちまで幸せな気分になってきます。

曖昧な人事制度の欠陥を指摘し続けても仕方がない

私はこう思います。欠陥ばかりを指摘するスタッフもいましたが、会社としてできる努力をしたうえで整備された制度であれば、そこに残る欠陥を指摘することに時間を費やすことが無駄でしょう、と。であればもっと自分のやりたいことに没頭できる、健全な時間と気持ちを持つのはどうですか?と。結果的にこのような人は仕事も人生も上手くいっていない傾向にあるのかなぁ、と漠然とながら感じています。

「SpecialistからSenior Specialistになるにはどうすればいいのか?」「Senior SpecialistからManagerになるには、何をどうすればよいのか具体的に説明してください。」- その気持ちは分かるのですが、そのために必要なCompetencyと次のポジションに求められているスキルを説明することはできます。しかし、これを継続すれば来年なれるのか?それとも2,3年後か?そういわれても断言できません。上にゆけばゆくほどポジションの数は減るので、昇格対象者は最終的には相対評価で数を絞る必要がある。なぜ私が昇格しないのか?それを考えてもお互いに理解し合うことは不可能です。サッカーのA代表も監督が代われば戦術も変わり、代表に呼ばれる人が変わることがあるのと同じように、会社の戦術も社長によって変わることもある。前の社長は良かった、悪かった、そんなことを議論すること自体空しい時間だと。

全員が努力しても、成功した、という世間の評価は得られませんが、自分自身の過去と振り返れば成功です。昨年の自らと比較して成長しているのですから。他人からの評価にあまりにもこだわっている人が多いのでしょうか…?もっと自分自身と向き合って、自分がどうしたいのか、真剣に考えたらどうですか?そのようにロシア人スタッフに伝えることしかできませんでした。その中で私は出世が一番大切です、となれば、出世するためにすべきことをすればよい。それが本人にとって重要なことなのですから。

ロシアでは挑戦する人を白い目で見る傾向がある、というのは本当か / Is it true people in Russia is likely to look coldly at challengers

会社の研修を準備していてロシア人講師と研修のコーディネートをしてくれるロシア人のスタッフの方と会話をしていると、「ロシアでは挑戦する人を白い目でみる傾向がある、失敗したら「それみたことか」と。だから自分の決められた範囲のことをきっちりやって、それ以上のことに自ら進んで手を出さない傾向があるんです」とのことでした。

一方で会社での昇格の基準は、枠組みから飛び出ましょう、もっと自分の業務の幅を越えて上のレベルへの挑戦を継続しましょう、それを続けて成果を出していく人を会社は評価しますよ。という真逆のものです。

ところで、ロシア人のマネジャーの中には「昇格は、必ずしも枠から飛び出して行動する人を評価するのではなくて、今の仕事をきっちりこなす様子を見て次のポジションを与えよう、という判断があってもよいのでは?」という人もいます。なるほどなぁ、そういう考え方もあるな、と思ったことがあります。

ロシアでは挑戦者を白い目で見る傾向がある、というのは正しくないのだろう

さて、日本でもチャレンジする人を白い目で見る傾向があるでしょうか?率直に言えば、ロシアは~、日本は~と決めつけて語るのは間違っているように感じます。誰でも自らの中で何かをきっかけにチャレンジすることを止めてしまった人、他人の視点を意識して行動している人はどの国にもいます。そのような人が国によって多い、少ないの傾向があるのかは分かりません。私が冒頭の話を聞いて思ったことは、ロシアは日本と比べて個人主義が強いように感じるけれども、意外にも周りからの目線を気にして行動する傾向があるのだな、ということでした。とりわけ「失敗」とみなされることには敏感なのかもしれません。

そもそも失敗も長期的に捉えれば失敗ではない。将来に控えているゴールを見れば、今経験することは全てがゴールにつながっている。であれば人が失敗と言おうが自分にとっては”チャレンジした結果”であって失敗ではない。そう断言できる人は強いですね。そういった人には自らの強い意志があり、周りからどう見られようとも関係ない。ロシアのビジネス紙で取り上げられている成功者と言われる人の記事を読んでいると、逆境を乗り越えて、強い意志を持って行動し続けてきた人、そんな共通点があるように思えます。そして、それは日本でも同じのはず。

なぜこうも挑戦することを人は避ける傾向にあるのだろうか?
歳を取ればとるほどに失敗への恐れが強くなるように感じます。若い人たちに笑われたくない。自分は年上として、マネジメントとして下の人間を圧倒する結果を示さなければならない。そんなエゴがますます”大人”を臆病にさせるのかもしれません。

これを打ち破るためには、上司自らがお手本となって失敗し、率先して部下に笑われることではないか、笑っても良い土壌を作り出すことではないか、と思います。

年末の会社のイベントで大変な失敗をした尺八演奏。(詳しくはこちらのブログ記事をご参照「恥を恐れず、ロシア人スタッフに笑いを」)全く音も出ず、どうしようもなく笑いをこらえる、を越えて哀れな目で見つめているロシア人スタッフたち。少なくとも、私自身は新たなことにチャレンジをしてその結果をしっかりと得たこと。あのような状況で自分自身がどう振舞うのか、心の状態はどうなのか、といった経験を得られたこと。何よりも、日頃から言いたいことを言っている上司の自分が人前で恥をかく、敗者の姿を堂々と見せられたこと。この目的を達成できたことは成功でもあったと言えるのかもしれません。

カメレオンあるいはトラ、会社のトップはどちらになるべき? / Chameleon or Tiger: Which one a leader should become?

5月中旬の日曜日にでかけた大きなスーパーマーケット近くでの一コマ。後ろ姿のため見えませんが、マスクと手袋を着用して大きな買い物袋と共に家路についている様子でした。私の住む地域ではジョギング、サイクリング、散歩を楽しむ人たちもおり、マスクをつけていたりいなかったり。警察車両も見て見ぬふりか通り過ぎてゆく場合がほとんどです。5月初めの連休では、警察車両が一日に何度か「自宅に留まるように」との警告を通りを散歩している人たちに発しながら巡回していました。

部屋に溜め込んだ古い新聞を整理していて面白い記事を見つけました。

カメレオンかトラ、会社のマネジメントはどちらになるべきか。(by Steven Dekrey – ロシアを代表するビジネススクール”Skolkovo”のアカデミー理事会トップ https://embahs.skolkovo.ru/en/emba-hs/faculty/dekrey/)

Professional DynaMetric Programs( https://www.pdpglobal.com/)による有名な心理理論では、5つのリーダーシップが定義づけられていて、それぞれ動物に例えられている。トラ — 支配的、権威主義的なスタイル。クジャク — 交際好きで説得力のあるタイプ。フクロウ — 保守的で規則に沿って行動することを好む誠実的な人のスタイル。コアラ — 物静かで物事を教えてくれて支えてくれるスタイル。そして、カメレオン — 柔軟なリーダーシップで新しい経験のいつもオープンな人。

香港大学のMBAコースの学生は、教育開始前には29%の学生がトラを好み、わずか15%の学生だけがカメレオンを好ましく思っていたそうな。教育課程の後、その関係はすっかり変わり、わずか10%の学生だけが引き続きトラのスタイルを好む一方で、45%の学生がカメレオンを選択したそうです。

このトラのように支配的なスタイルのリーダーシップはロシアで広く見られ、多くの場合に効果的に機能しているように見受けられるが、しかしながら経験があり、強力な賢いリーダーがこの権威主義的なスタイルの罠にはまってしまうことも事実だとか。”Рыбы воды не видят” by Кай Хаммерих, Ричард Льюис (“Fish can’t see water” by Kai Hammerich & Richard D. Lewis)という本では、民族文化は会社の文化を創りもし、ダメにもする。その国で当たり前のように広がっているリーダーシップのスタイルをリーダーは理解せず、リーダーたちの自信がグローバルなその会社の成功を損なっていることを。まるで魚が水の存在に気が付かないのと同じように…

面白い例えです。私自身もモスクワに勤めていて思い当たる節があります。日本式で成功を重ねてモスクワにやってきて、同じ方法を適用したところで必ずしも上手くいくわけではない。前提となる土壌が異なっているのであれば、リーダーシップの正解も変わってくるはず。この方の記事では、360度評価は新たな視点を発見するために効果的であること、よく部下の話に耳を傾け、それぞれの部下にどのスタイルの形が合っているのかを探り実践してみること、自分自身には無い違うスタイルのリーダーシップのスタイルにチャレンジしてみること、権限を委譲すること、自らのリーダーシップの結果を分析して次につなげること。- これらが勧められていました。

良いリーダーシップとは?分かっていても出来ない現実

しかしながら、私がいつも感じるのは、我々はよいリーダーシップとは?そのためには何をすべきか? - ここに挙げられているように360度評価で自分を客観的に見つめる、部下に権限を委譲して仕事を任せてゆく、相手の話をよく聞く ― すでに答えを持っています。それなのに、それなのに、どうしてこれだけ同じアドバイスが繰り返されて、これだけ多くの人材教育会社が存在し、あらゆる教育コースが準備されているのか?これが不思議でなりません。それだけ人というのは、相当の覚悟やきっかけがない限り自らのリーダーシップの形を変えることは難しいのだろうと思っています。 私が見ていてもこのような傾向 - 客観的に自分の言動を振り返る時間を取り分けていない、自分で何事も把握していたい、判断したいという気持ちが強く委譲できない、相手の話を聞きたいと思っていても「OK,でもね…」と否定の言葉を続けてしまうなど ― を日頃から目にします。口では、権限移譲だ、ロシア人スタッフを成長させてゆくのが私たちの任務だ、と言いながら実態はかけ離れている。これもまたよく見受けられます。

カメレオン?トラ?どちらのリーダーシップがよいのか?答えは「そのどちらでもなくて、状況に応じてすべての5つのタイプを使い分けられるのが最強のリーダーシップ」これが最高の答えで、最高に難しい課題であり続けるに違いありません。

出所;Vedomosti 21.02.2018

カザフスタンの給与計算 in 2020 /Salary calculation in Kazakhstan 2020

カザフスタンの給与計算は複雑です。2020年からさらに込み入ったものとなりました。そして、それを分かりやすく説明してくれるウェブサイトの少ないこと。ロシア語が母国語でないから困難ではなく、いかに分かりやすく説明するかの視点が足りないからでは…と感じます。そんな中、ロシアでも同業他社に聞けばほとんど会社で導入されているロシアの会計システム「1C(ロシア語読み;アジンエス)」- カザフスタンでも幅広く導入されていると聞きます - をカザフスタンで展開しているのであろう企業のウェブサイトに比較的優しい内容のページを見つけました。この情報を参考にしながらExcelでカザフスタンの給与計算ファイルを作成してみました。

参考リンク

https://pro1c.kz/articles/trud-zarplata-kadry/kak-izmenilsya-raschet-zarabotnoy-platy-v-2020-godu/

(補足)カザフスタンでは2017年から雇用者は従業員の医療保険の負担が開始(ООСМС)。2020年からは従業員自身が医療用者は従業員の医療保険の負担が開始(ВОСМС)。2020年からは従業員自身が医療保険の負担が義務付けられたことで雇用者はこの費用を給与額から控除します。

その他参照情報

https://inbusiness.kz/ru/author_news/osobennosti-nachislenij-oosms-i-vosms-kak-izbezhat-shtrafov

ロシアの給与計算方法を紐解いてみると、きっと歴史的な何かがあるのだと想像します。カザフスタンについてもきっとこの計算式の裏には明確な根拠がある、きっと。ただ、今のところはまだそこまでたどり着いていません。何事もシンプルにするのが一番よいと考えるばかりですが…。

[経理教材] ”The Accounting Game Basic Accounting” / [Accounting textbook] ”The Accounting Game Basic Accounting”

きっと、管理の責任者としてロシアにやってくると、ロシア人スタッフに会計の基礎の基礎を教える必要を感じる場面に遭遇するはずです。

プロフィットアンドロス?バランスシートって?キャッシュフロー…?なにそれ?なんでこの3つの財務諸表を理解していなければならないの?自らの部門の数値に責任を持つためには、支払った前払金はなぜいまだに費用化されないのか、何をもって費用化されるのか?なぜ輸入する商品はお金の源なのか?なぜ黒字倒産というものが起こり得るのか(だからこそいくら売上を立てても売掛金の回収がされなければならない)? - このような基礎的な会計知識を共有していくことが大切だなぁ、とつくづく感じました。

残念ながら、ロシアの書店にでかけても何とまぁ、堅苦しい会計の教科書しか置いていないこと。こんな状況ではそりゃあ多くの人が会計の勉強を敬遠するのも分かります。翻ってみると、いかに日本では分かりやすく紐解いた会計のビジネス書がありふれていることの有難さ。今では少しずつですが、会計知識がゼロの人に向けた本も並ぶようになってきた印象はあります。しかし、会計の基礎的な内容を分かりやすく伝えているロシア語の本に出会ったことはまだありません。

そんな時にであった本”The Accounting Game Basic Accounting” - 男の子が夏休みにお手製のレモネードを作ってビジネスをする — この本をとても気に入っています。分かりやすい表現と可愛らしい図をもって、男の子のビジネスが徐々に成功し、それにつれてPLとBS、Cash Flowが発展してゆく様子をミニテストを交えながら教えてくれます。Profit and LossはMovieのよう。Balance sheetはカメラでその局面を切り取るスナップショットのようなもの - 的確な表現ですよね。

もう2年前くらいになるでしょうか、マネジャー向けにこの本をベースに6回のコースで始業時間前から勉強会を開いたことがありました。私自身、自らExcelでPL、BS、CFが連動するファイルを作成したことは、自分自身でもこの3つの財務諸表が連動して機能することのすばらしさを改めて実感する機会ともなりました。この作成したファイルを出席者に埋めてもらう。必要に応じて経理スタッフにロシア語で翻訳してもらう — 日本語で勉強するにしても難しい題材ですから、会計用語を英語で説明しそれをロシア人スタッフに理解してもらうことの難しさ — なかなか取っつきにくいテーマでありながらも一生懸命に、最後まで出席してくればロシア人スタッフに感謝の気持ちでいっぱいです。まだ浅い会社の歴史を利用して、過去の経済危機のときの会社の状況も踏まえながらオリジナルのテストを作成して、皆でその問題を解いて勉強会を終了しました。

残念ながら、私なりに本のオリジナルの内容に貪欲に補足的なことを追加してしまい、もっとシンプルにすべきであった、基礎の基礎を理解するためには補足的なことは不要であった、と反省しました。今は、第二弾として — 目標はシンプル、シンプル、そしてシンプルに — 子供用の積み木ブロックを購入したので、これをもってPL、BS、CFの関係性を目で見える形で参加者と一緒に作り上げてゆく形のAccounting academyコースをただいま準備中です。

私は、この本をインターネット上で発見し、日本に一時帰国した際に購入しました。その後、この本のタイトルを検索してゆくと、PDFファイルで無料で提供しているサイトもありました。果たして著作権に引っかからないのでしょうか…。

モスクワでの自宅隔離生活で考える世の中の不公平さ / Thinking about Unfairness in the world during quarantine and staying at home in Moscow

早朝。起きて家の周りを少し散歩しようと、住んでいるアパートの部屋を出て、エレベーターへ向かいます。到着を知らせる若干ヒステリックな甲高い音と共にその扉が開くとアルコールの匂いがプンプンしてくること、あります。明らかにお酒を飲んだ人が乗った後の匂いが閉じ込められていて、それが扉が開くと同時にぽわーっと開放されてゆくイメージ。家にいる時間も長くなり、お酒に溺れてしまう人もいるのではないかと。以前、まだコロナウイルスの蔓延が始まったばかりの頃に乗ったタクシーのドライバーが「こうなったらウォッカを飲むしかないなあ、ははは」と笑い飛ばしていたのを思い出します。あの頃はこれほどまでに長引くとは予想もしていませんでした。

毎日、体を動かすためにも、早朝にほんとにわずかですが家の周りを散歩し、晩にはその日と翌朝に必要な食料を買うために外出をして食料品店に出かけています。お店の前に佇む物乞いの人や、早朝や晩にゴミ箱をあさる人の数が気持ち増えた気がします。

以前私の友人が言っていました。「人の不公平はその生まれた家庭ですでに始まっている」と。生まれた家庭がどのような家庭であるかによって、既にその人はの人生はある程度決まってくるのだと。今、こうしてロシアに住んでいて、その言葉の正しさを感じています。這い上がることができない現実的に越えられないハードルが、恵まれた家庭に生まれてきた人との間に大きな差となって存在している。例えば、私の住むアパートオーナーのご家族はご両親のおかげでしょうか、中心部の立地のよい場所にご両親と、少なくとも2つのアパートを所有しています。そのうちの一つを私が借りています。きっと中心部から1時間ほど離れた場所であれば、この家賃で2か月は十分に暮らせます。社会的に成功している親がいるからといっても、その家庭内が崩壊していて、親子の関係がギクシャクしている家族、子供がゲームばかりして引きこもっている、高い学習塾に通っていても通うことに満足してその結果がついてこない子供、そんな家庭も見てきたので、社会的な成功=金銭的なゆとりがある ― に恵まれていることが常によい結果を生み出すわけではないようです。が、自分の将来に向けて投資ができる余裕の有無は大きな差だなぁ、と思うわけです。

私は本当に恵まれています。駐在員会社のお金で家賃を負担してもらっています、中心部に住んでいるのでかなりの良い値段ですが、その余った資金を自分への投資のために使用できるわけです。自宅隔離になってから、いくつか IT 機器を購入していますし、そこから恩恵と経験を得て、次はもっとこうすればよいだろう、そのためには何が必要だろうか、とさらに先を考えることができます。一方で、スタッフの給与からすれば、それよりもまずは必要な生活費に回そうと考えるかもしれません。

きっと人間の多様性というのは白人も黄色人種も黒人も、それぞれの肌の色、外見、文化などの比較できない違う価値観からなる美しさがあって、それが人間社会全体の美しさを生み出すはずなんでしょう。ところが、なぜだか人の欲が搾取を生み、不公平な世界を生み出し、結果的に肌の色による差別、住む地域での生活レベルの差といった不公平さは人間自ら作り出してしまったものだろうか、なんてことも感じます。砂漠は確かに美しいですし、アラビアンナイトの世界とかではラクダと砂漠は必須なのでしょうが、これほどまでに人が住めない不毛の土地が地上に必要なのか?と。

モスクワの平均給与は9万ルーブル(約13万円 13.05.2020時点)に満たない金額。この平均給与にしても感覚としては高いと思います。一般的に30歳を超えても10万ルーブル満たない給与の人は少なからずいる印象です。10万ルーブルいえば現時点の為替でいけばわずか14万6千円。それで一体自分の生活の野心的な将来を計画できるのか?自分の持ち家を購入できるのか?だからこそ夫婦共働きであったり、親親戚との強力な助け合いがあってこそ生活が成り立つと思います。だからこそとことん会社を利用して経験を蓄え、ビジネススキルを向上させて給与の高いところに転職できるよう目指しなさい、と言っていますが、それは各人の意思決定の問題であり、私は給与も最重要な点でありますが、それと同時にお金だけではない、この会社にいてよかった、会社に行きたい、と思えるような別の価値観をもっと充実させてゆきたいと思っています。といっても、とりわけ地方都市からモスクワに出てきた人は野心的な人が多いようです。モスクワではルームシェアをしていて、いつかは自分だけで住むアパートに住みたい、そう思うのは自然なこと。高い給与の提示を受けると転職してゆく人が一定数います。今も決して高くない給与で働いている地方から出てきたスタッフに尋ねると、親からの仕送りを生活費に回してモスクワの生活費の足しにしているとのことでした。

財政的にゆとりのある人は、余ったお金をより多くの自己投資に使う ― 多くの経験をし、多くのサービスを購入して評価ができる ― 余裕があり、その余裕を持っていない人々との差が広がる一方です。とてつもない財政的な余裕は必要なく、毎月の収入から少しでもそのような投資ができるようなゆとりがある、それだけでも十分だと思います。私は金銭的なゆとりを、おいしい食事ばかり考えることやブランド商品購入、立派な家具、使い切れない機能だらけの電化製品、最新のスマートフォンに費やす、そのような消費は浪費でしかないと考えているので、そのような、自分の将来の価値を増やしてくれるであろう投資に回すことは家計簿をつけてみればできるはずでしょうか。

今のコロナウイルスによる自宅隔離においては、家にインターネットと集中して勉強できる環境がある人もいれば、狭い部屋に複数の家族と住むことで自分の勉強スペースがなかったり、インターネットも自由に使うことができなかったり…明らかに各家庭の状況によって教育への影響も計り知れません。スタッフに「仕事の調子はどう?」と尋ねると、よくても通常の8割ぐらいの成果が出れば十分なくらいだと言っています、あるいははぐらかされてしまったり。 ―レスポンスはよいのでさぼっているわけではないと思っていますが ― 家では子供が騒ぎ仕事に集中がしづらい、アパートも決して広くない家庭が多いはず。その中に他の家族と暮らしていて彼らが会話していたり、テレビを見ていたり…そんな状況を考えると、8割くらいの生産性といわれても納得してしまいます。

世の中の不公正を是正するには一体何が何ができるのか?そんな逆境から這い上がってきた成功者が世の中に存在し、メディアにも取り上げられますが、その裏でどれだけ多くの人が泣いているか…そんな成功者は非常に稀な存在だと思います。普通、そんな苦しい生活が続いてしまうと幻滅的になります。そして、その現在から上がれない人が大勢いるのが当たり前ではないでしょうか。物乞いの人にお金をあげる、でもこの人の明日はどうなるのだろう?この人がそもそもこの状況に陥ってしまった経緯とここから一体どうして再び立ち上がる元気が出てくるのだろうか…?

おぎゃーっと生まれてきてからは、きっと誰しもが笑顔の赤ちゃんでいた時期があったはず。そんな時期がいつまでも長続きするような、そんな世界を ― たとえ一人一人の半径は小さいものですが - できることをしてゆく、それぐらいしかできることはないのかなぁ、との思いに暮れながら、今日も窓の外で日増しに成長している新緑を眺めながら家で過ごしています。

他人の時間への敬意 / respect for others’ time

新入社員の頃、本当に時間に対する意識が欠けていました。上司に報告するために作成した資料の説明。上司に質問されて堪えられない自分。その場で沈黙が流れる…。今思えば、そこで切り上げずに時間を取り続ける上司もどうだったのだろうか、と思ってしまうが、それだけ部下思いの上司であった、とも言えます、決して怒ることなく、いつも頭をポリポリとかきながら黙々と机に向かう仕事熱心な方でした。

上司も優しいので、なんと言われたか忘れたけれど、苦笑いしながら、頭をポリポリかきながら、「XXXさん、もう少し事前に準備できませんかねぇ…」そんなことを言われたことを覚えています。

その頃からずっと時間も経ち、自分が部下を持ってかの上司と同じ立場になったときにようやく気が付くあの時の上司の気持ち。自分ならどうするか?どうしたら一番時間を大切にした方法が選択できるか?その判断の繰り返しです。

会議。Outlookでデフォルトとなっているからか、大概1時間の会議招集を送ってくる人がいます。しかし、情報交換だけが目的であれば、30分の設定でよいのでは?と思ってしまいます。あるいは、そんなこと、メールで済む話でないの?
新入社員の頃の初々しい気持ちを今でも覚えています。初めて会社のメールアドレスが与えられて、パソコンを目の前にして机に座ったあの時。待てども一向に自分あてのメールがやってこない。受信ボックスは空っぽのまま。早くメールがこないだろうか…自分だって仕事をしたいのみ…。そしてようやく受け取ったメールに気持ちが高揚した瞬間。

今ではOutlookを立ち上げるたびに、はあ、こんなに着ている…と幻滅し、それから気を取り直していかに不要なメールを無視し、厳選した必要なメールだけ拾って回答してゆくかの作業。自分のやりたい仕事に集中するには早朝、スタッフが帰った後の夜、あるいは休日。それ以外は懐疑やら予定外の招集に呼び出されて対応しての繰り返し。
3月の終わりから始まった自宅隔離生活もすでに一か月半が経過。オフィスでは、皆と同じ場所に座って、騒ぎが起これば何が始まったのか聴き耳を立て、会計の締め状況がどうなっているのかスタッフの会話から把握し、人事のところでコソコソと話が始まれば私的なことなのか何か人事関係のことなのか注意が向き…そんな風に何となく全体を把握できる状況でした。今では一切何が行われているのか分からない。定期的にMicrosoft Teamで招集する会議やチャットで状況を把握しない限り、毎日の動きは分かりません。お互いへの信頼をベースに仕事を進めてゆかなければ不安や疑いによって関係が損なわれ、チームが崩壊してしまうでしょう。マネジメントの仕方も大きく見直しの時となっています。

さて、本題に戻ると - 会議室の予約時間が決まっているのだが、前の会議が15時に終わるから15時から次を入れましょう、とするとまずうまくいったためしがほとんどありません。大概の会議は延びます。その内容によりますが、ディスカッションの場合には時間内に終わることが少ない。会議の設定の方法については、前の会議の終了予定時間から30分は空けて次の会議予定を入れるといったゆとりを入れる工夫をしないと過密スケジュールとなってしまい対応ができなくなります。自分が上司であり、自分の指示に部下が従う必要ある、けれども、彼ら3,4人が私が来るのを待つ時間、それが15分とか馬鹿にできないほどの遅れになると、彼らの貴重な時間を奪っていることになります。確かに彼らは何かすごい責任を持った仕事をやっているわけではないかもしれない。それでも手元の仕事を切り上げて会議室にやってくる、その時間を失ってしまっているのは事実。せめて自分自身が前の会議にもでており、次の会議を別のスタッフと設定する場合には、一定のゆとりを設けること、そうすることで他人の時間への敬意を示したいです。

全体集会で、営業にのみ関係するテーマが熱くなって延々と個人的な質問をする人。コンサルティング会社の説明会で質問時間になると「私のビザは現在〇×△■な状態なんです、うちのスタッフに聞いたのですがよくわからなくて、教えてもらえませんか」そのやり取りがしばらく続くことも。個人的なことは自社で利用しているコンサルティング会社と個別に話し合ってください、というのが素直な気持ちです。銀行主催によるセミナーでの質問タイム。「今日のお話はありがとうございました。えー、私は自分のビジネス分野に従事してかれこれXX十年近く経ちます、それでもなかなかまだわかっていないことが多くてぜひアドバイスをいただければ嬉しいのですが…」といって質問が始まる。謙虚のつもりのようですが、全くもって不要な言葉ではないでしょうか。

他人の時間に敬意を払い、犠牲にしたくないからこそ自らの時間を多く費やして、資料やメールの準備に時間を取ってしまうこともありますが、それは決して正しいとは言えません。なんでもかんても考えすぎても今度は自分が動けなくなるのが危険、やっぱりどこか頭の中で客観的な目を自分の中に持っておいたほうがよいだろうと思っています。

「お前考えすぎだ、それ、その完成度で問題ない、とにかく早く送信してしまいなよ」そんな自分の声に「うん、そうだね」と胸の中で回答して送信ボタンを押してしまう。そんなやり取りを無言で行いながら、他人の時間への敬意と同時にスピードを意識して動く、そのやり取りとその検証結果の見直しが永遠に続いてゆきます。はっきり言えるのは、社内のメールに文法、言葉の使い方、てにをは、そのような点に過度に意識することはない、ということ。とにかく意味が通っているのであれば、何よりもスピードを最優先とすること。それこそが他人への敬意でもある、それを学びました。

お前の仕事に創造性はあるのか? / Do you have creativity in your job?

「お前の仕事に創造力はあるのか?」これを父親から聞かれたこと、今でもふとしたときに頭の中でこだましています。管理の仕事で創造力があるの? - どちらかと言うと決まった仕事をきっちりとこなす事が要求される管理。創造力はむしろ必要とされない、と考えるのが一般的かもしれません。

ラテラルシンキング - これはまさに今の管理の仕事に重要なことだと思っています。そもそも今の当り前に対して疑問を抱く。根本的に規制事実の確かさに疑いの目を向けて全く新たな価値観を提案する。これは営業やマーケティングのスタッフだけに求められるスキルではありません。

既存の事実に「なぜこれをする必要があるの?」「今行っているこの作業が本当に必要なの?」ロシア人のスタッフと仕事をしていて、このような問いかけができるスタッフが少ないなぁと感じる日々。与えられた仕事をきっちりとこなす。今行っている仕事の作業の中にある無駄を感じないのか、感じても変えようとしないのか継続して行い続けるスタッフ。隣に座って一緒に作業を見て、「なぜこうしないのかな?こうしたらもっと楽になるんじゃない?」と尋ねると、「このようにするように習ったから」と。前提が崩れても言われたことをやり続ける。「こうするように言われたから。」そう答えられると開いた口が塞がらない。この話は、物事の原理原則を発見する、という点とも重複すると思います。前提が崩れた時にその変化に伴って対応が出来るスキル。それを創造力というのか、原則主義で仕事をできる能力というのか。

今の時代、これまで当たり前と思っていたことが覆される時代。コロナウィルスの件で働き方改革がよく取り上げられる現在。企業としてのこれまでの会社としての在り方が問われています。それは今のロシアでも同様です。3月からずっと自宅隔離で仕事をしています。これまでは一定の時間帯にアパートを出発して出社する。決まったルーティンをこなして一日の仕事を始める。それを当たり前と思っていました。今では、理由もなき外出が罰則の対象になる当たり前。許される外出理由は、ゴミ捨て、100m圏内での犬の散歩、最寄りの食料品店、薬局へ出かけることに限られます。(実際、警察も厳密に取り締まっている様子はありません。一人で歩いている、ジョギングをしている人には注意がなされず、複数人で集っているところには車両から警告を発している。そんな光景を目にしています)こんな時だからこそ発揮できる創造力があるはずです。

ロジカルシンキングのスキルを持っているのはホワイトカラーには当たり前。今のホワイトカラーにはさらに次のステップとしてラテラルシンキングのスキルを身に着けることの重要さ。「XXXさん、あなたが去年、これをこのようにすることを指示しました。だから今もそうしています。」と言われると「去年はこういう前提があったのでこういう作業が正しかったのです。でも、今年に入って前提そのものが崩れました。ですから去年の正解を倣って今年も継続してもそれは誤りですよ。」- そのように答えざるをえません。

きっとこの悩みはロシアに限らず日本でもどこでも同じだと思います。既存の前提を疑いの目を持って評価できる、そんなスタッフをもっと育ててゆきたいと思う毎日です。