Gill先生逝去。英語学習だけでない、もっと何か大きなことを教わりました。/ Teacher Gill passed away. I learned something much more than just English from her.

Gill先生逝去。こんなショッキングなニュースが。

こんな年齢の重ね方ができる人生が送れたらどんなに素晴らしいことだろう、と思える理想的な方。この方の動画を見ていると英語を教えることを心から楽しんでいる様子、教える相手をリスペクトしている様子が伝わってきます。

もちろん、Youtubeだけで知るこの方の印象と実際のご本人とのギャップがどれだけ存在するのかは分からないけれど、仮に実際にお会いできていたとしたらきっとその裏表の無い性格に感銘を受けたのではないかなと思っています。もう今の世界ではお会いすることはできませんが…

何歳になっても自分の好きなことに携わって喜びを見つけて生きる。その内面からの喜びは必ず外面に出てくる、一人で道を歩いているときにもその顔は生き生きとしている(街中で見かける人の中にはどんよりと、希望の無い顔で歩いている方が多いことか。そう言っている自分の顔はどうなんだ、という声も聞こえてきますが…)。Gill先生を見ていてそう感じました。

効果的な英語学習だけを考えた時、このGill先生のチャンネルよりもずっと良いものがあることに間違いありません。このGill先生の動画を通して学ぶもの、それは英語をしっかりと学習することよりも、自分の好きなことを行うことの楽しさ、好きなことを行っていると内面からにじみ出てくる幸福感。この方のそんな様子から醸し出されるものを受け取ってこちらも元気をもらう。単なる英語学習というよりもっと大きな何かを得られる、そんなチャンネルでもあると思っています。

さて、自分のことを観察してみると、年を重ねるごとに打ち込めるものを見つけることって難しくなってきているような気がしています。そんな中でも自分が全く知らない世界のものを友人に勧めてもらった時にまずやってみること。それが思わぬ方向に自分の関心を引き出してくれるということ。自分では全く知らない世界であり接点もなかった世界であっても実際に挑戦してみるとハマることがあるんだなあ。そんな新鮮な発見が最近ありました。

それなりの年数を仕事に費やしてきた経験から言えること — 仕事は常に楽しくて仕方がないとはとても言えない — ということ。むしろ、随分と回り道をしつつもある程度自分で仕事の内容が理解できたとき、ふと「あっ、そういうことか」「おっ、これはすごい。」自分のやっていることがそんな風に面白くなってくる瞬間がある。その瞬間がいつ来るのかが分からないので苦しいのだけれど、その瞬間があるとやっぱり良いですね。自分がやっていることの意味合いも分かってくる。それはある程度年数を重ねてみなければ到達できないこと。自分が思ってもみなかった分野で見つかることもある。だから人から勧められたものに挑戦してみることって損はない。

ずっと昔に受けた研修で、MUST、CAN、WANTの三つの輪の重なりをどれだけ広げることができるかの大切さを学びました。仕事はMUSTの部分が大きくて与えられた仕事を果たす義務がある。自分のWANTは仕事のMUSTにとってあまり重要ではないことが多い。WANTを行うためには自分のCANを広げるしかない。そしてMUSTの部分と重なってくると仕事も楽しくなってくるはず。でもMUSTが多すぎて忙しすぎてCANとWANTにかける時間がないという袋小路。そんな葛藤の中で模索しながらMUSTの部分の中にどれだけ自分のWANTとか、MUSTの中に楽しいという気持ちを重ねてゆけるか…。きっとGill先生も長い人生の中でそんな場面がきっとあったはず。それを経験してきたからこそのあの笑顔があるのかな、と思っています。

視点を広げて自分の問題の小ささを知る / Broaden your perspective and realize how small your problems are

今も戦争が続くウクライナ東部。ウクライナの友人からドネツク地方で救助ボランティア活動を行っている人のメッセージを受け取りました。

「私たちの目標は、避難を希望する意思を持つ人たち全員を避難させること。多くの人たちは公共交通機関を利用し、危険な地区から自分たちで避難するための時間があります。それでも、時には間近に爆発や銃撃の音が迫ってきた最後の最後に避難を決断する人たちもいます。そんな時には公共の交通機関はそんな危険な前線に行くことはなく、私たちが彼らのために出かけて行って避難させることにします。避難に必要となる費用は何とかなったとしても、予想外に発生するコストもあります。例えば急いで薬を購入しなきゃいけない、避難の途上で温かい食事を取ること、緊急でどうしても必要な物品を購入しなければならない…」

こんなメッセージを読んで考えること。それは仕事で何かに追われていて深夜まで取り組まなければいけない必要が生じるとしても、少なくとも家がある、寝るところがある、食事がある、命を取られることはない。人の置かれている状況と比べて自分の方が優れている、という考え方ではなくて、何というか、ウクライナで命を危険を冒して今もこの瞬間にも逃れている人たちのことをイメージすると、自分の置かれている“当たり前のように感じてしまう”状況がどれだけ恵まれているのか、ということ。

それを毎日考えてみると、仕事で抱える不満や思わず言いたくなること、そういったものが自然と収まっていく効果があることを感じています。

Duolingo 550日継続学習を振り返ってみて / Reviewing to learn Russian for 550 days on Duolingo.

先日、Duolingoの学習記録が550日を経過しました。年を重ねるにつれてマンネリ化してしまいそうになる日々の中で外国語の学習は続いている、ということ自体が外国語の学習が好きなんだろうなあ、と実感させてくれます。その一方で自己満足で終わってしまっていないのか?とも思います。現在継続的に学習しているのはロシア語、ウクライナ語、中国語。この時点で感じることを率直に振り返ってみることに。

中国語

このお盆の夏休みの間に家族で泊まった旅館で出会った中国人の若い男性。旅館のスタッフとして夕食時に給仕してくれました。「私はすこし中国語を話せます。」と中国語でワンフレーズだけ言ってみると、「すごーい!」と喜んでくれました。伝わった!その嬉しさは外国語を話していて得られる喜びの一つ。その一泊二日の小旅行からの帰りのこと、高速道路の休憩所にあるコンビニで出会った中国人旅行者と思われる10名くらいのグループ。中国語だけ話す彼ら vs 日本語と”OK, OK”だけで応対する店員の女性。それでも何とか意思疎通が成り立っているようでした。時々聞こえてくる数字は聞き取れても会話の内容はまったく理解できず。悲しい…。「旅行で来ているのですか?」というフレーズを中国語の文法を理解した上で組み立てる能力がありませんでした。携帯電話を取り出し、DeepLにフレーズを打ち込んで話しかけてみると、”Yes, yes”という返事。継続して学習していてもこれか…と。旅行、来ている、質問文の最後に付ける文字。きっとこうだろうな、と部分的に理解できていても自信を持ってフレーズを組み立てる力の無さ。Duolingoで単にレッスンをクリアしているだけでは身に付かない足りないものがこの場面に表れたのかな、と思っています。

それでも毎日継続していると何か意識の中に変化がありそうです。例えば、街中の案内板を見るとそこには併記されている中国語での説明。その字を見て自分がどれくらい発音できるかな、と文字の綴りをたどってみたり。ショッピングモールでアナウンスされる中国語での放送を聞くと何を言っているのかな?と推測したり。Duolingoで中国語を学習し始めたきっかけはほんのちょっとしたこと。出張で新幹線に乗っていたとき、電車の乗り換えに困っていた中国人男性と全く会話できずに残念な思いをしたこと。中国人の友人がいるわけでもないけれども、何だか続いている。ふと考えると、自分の生活圏にある中華料理店、餃子屋さん。そんなところにいくと中国人の方がいる。実は身近なところには会おうと思えば会える場所に中国人が。「この前買った餃子美味しかったよ!」そんな片言でも中国語で言えれば会話が楽しくなります。相手もきっと喜んでくれるに違いない。そんなちょっとした片言から始まる交流や楽しみは生活自体を楽しくしてくれる要素になっています。

ウクライナ語

ウクライナ語を勉強する動機と言えば、定期的に連絡を取っているウクライナに住む友人の存在が大きいです。彼とはロシア語でやり取りしていますが、その彼の友人たちの多くはウクライナ人で、彼らの話すロシア語は多少ウクライナ語化していたり、純粋なウクライナ語でビデオレターを送ってくれたり。ウクライナのことを純粋にもっと知りたいと思います。”ウクライナ”という国名の由来についてWikipediaが教えてくれています(Wikipedia -ウクライナ)。

そんなちょっとした知識を知るだけでも言葉って面白いなぁ…と。「ウクライナ語はロシア語と似ているし、ウクライナ人はロシア語も分かるのでウクライナ語を敢えて勉強する必要はないよ!」と友人に言われるけれど、確かにウクライナ語を学ぶメリットは(例えばもっと世界中で話されているスペイン語を学習するそれと比べて)それほど多くないのかもしれないけれど、でも自分の中でもっと知りたい、という気持ちがあるなら学ばない理由はない。Duolingoでレッスンをこなしてゆくと — 実際にロシア語と似ているので — それほど悩むことなく次のステップに進んでゆけます。しかし、動詞や名詞などの語尾が変化する規則は勉強しなければ分かりません。ただウクライナ語に慣れているだけ。それが今の状態です。体系的に学ばなければ次のレベルに進むことは困難。そんなレベルにいます。

ロシア語

最後にロシア語学習について。どうやら現時点でDuolingのロシア語コースを全てクリアしたようです。(参照リンク:Duolingodata

一番レベルが進んでいるこの学習をしていて最近気が付いたことがあります。(理解が正しければ)DuolingoのコースはSection3、Unit39まで。ここまで来ると、明らかにリスニングのスピードと質が共に上がっていて、より発音がネイティブに近い印象です。もっと上に行くとより本物志向が強くなるのだろうか?この先はどうなるのだろう?と楽しみにしていましたがDuolingoが提供しているレッスンがこれ以上ないのであれば残念です。Duolingo学習でこの段階までくると、次にNHKラジオ講座の応用編を積極的に利用することは一つの良い選択ではないかな、と。レベルの高いロシア語を学習するに留まらず、ネイティブの方が話す生きたロシア語のイントネーションを学ぶことができる。それが無料で提供されているという奇跡。活用しない理由は無さそうです。Почему нет?(パチェムーネェトゥ) = Why not?

やはり以前からの印象と変わらないのは、Duolingoだけでは正しい言葉使いにはなれないのだろうと。例:Duolingoでロシア語を学ぶ場合には(注:Duolingoのロシア語コースは英語版のみ)、You told (あなたは言った)をロシア語に変換する時、英語には存在しない”彼”あるいは”彼女” — Он сказал(彼は言った)、 Она сказала(彼女は言った)— の区別が出来ていないといけません。Duolingoのレッスンを進めるにあたってはただ単に正解、不正解だけのレッスンをクリアしてポイントをゲットするだけになってしまう危険がありそうです。(答え合わせをする時には、DuolingoはきちんとHe told / She toldと表示してくれます。ですので厳密に言えばDuolingoのレッスンを通してもHeなのかSheなのかの区別ができます。ここで伝えたいのはある程度の文法基礎学習を行い、頭で理解した上でDuolingoの課題をクリアしてゆくことの大切さです。そうでないと応用力がつかないのかな、と個人的に感じてます。)

その観点からすると、ロシア語の文法を一通り学習した人がDuolingoでロシア語学習をする効果は他の言語よりも大きいのかもしれません。

トルストイ「人生論」を読んで / Reading Tolstoy’s “On Life”

ずっと本棚に埋もれていた小ぶりの文庫、「人生論」トルストイ著(米川和夫訳、角川文庫)を読んでみた。

«О ЖИЗНИ». 1886 / Лев Толстой

1886年~1887年にかけて完成されたこの本。いつどこで購入したのかも覚えていないんだけど、その時にはきっと純粋に「長編のイメージしかない、あのトルストイが人生を語っている本があるのか(驚き)。それも決して長くないのであれば読んでみようか」というのりで買ったに違いない。気が付けば、この本は確実に10年以上も読まずに埋もれていて、一度も開くこともなく、度重なる引っ越しの度に段ボールと引っ越し先の書棚の中との往復を繰り返してきて、ようやくついにここに完読されるに至ったのではある。

難しい本ではあるけれど、『人生論』トルストイ、そのタイトルのインパクトの大きさもあって、また自分自身もそれなりに人生を重ねてきた今だからこそ感じるものがあるのか、最後まで止まることなく完読。あとがきにもある通り、この本は「愛の一語につきる。…人間は、肉体と肉体にやどる動物的な意識を理性に従属させること、いいかえれば、自我を否定して愛に生きることによって…死の恐怖からも救われる」らしい。

トルストイの考えは強くキリスト教の教えに根差していると思われるが「人生とは、人を幸福にする愛ー神と隣人に対する愛にほかならない」。

分かりやすくまとめてみると、自分の幸せのことだけを願って生きる動物的な自我を捨てて、他人の幸せとなることを行って生きてゆく理性の意識に目覚めること。この理性の意識を知るときに人は本当の幸せ、人生の本当の意味を見つけることができる。そして、他人の幸福=自分の幸福と考えられる、言い換えると自分よりももっと他人を愛することが出来るようになれば死ぬという恐怖心からも解放される。なぜなら、自分の死というものによって他人の幸せが壊れるわけではない。むしろ自分の命の犠牲によって他人の幸福はもっと高まることもある。そんなわけで死というものに対する恐怖心もなくなるのだ、そんな崇高なことをトルストイはここで述べているようなのである。

理性に目覚める過程の表現がまた面白かった。

「俺は幸福になりたい。そのためには、他人がみんな、このおれを愛しさえすればいいのだ。ところが、みんなはただ自分自身だけを愛しているのだから…どうすることもできない。」すると理性の意識が語り掛けてくる。「(お前が幸福になりたいのであれば)すべての人が自分自身よりももっともっとお前を愛すのを望んでいるだろう?…この望みがかなえられるような状態はただ一つしなかい。…それは、全ての人が他人の幸福のために生き、自分自身よりもいっそう他人を愛すような状態。そのとき、はじめて、すべてのものがすべてのものによって愛されるようになるだろう。」

ところで、この本の中に出てくる表現、「現代の人々はスペンサーとか、ヘルムホルツとか、そういったような人たちの新しい気のきいた警句なら知らないのを恥とするくせに」。そう、この著書が書かれていた”現代”の社会思想を形作っていた新進気鋭の人たちが生きていた時代。当時の人々がこれらの人たちの言葉をどんな風に捉えていたのかと想像すると何だか不思議だ。当時はインターネットも無かったので、”どうやらイギリスやドイツにはこんな人間がいて、こんな新しい考えを発表したらしいぞ、ふむふむ、そんなことよりも人生にはもっと大切な本質があるのにそれを人々は流行の考えに流されておってけしからん。ぶつぶつ…」なんてトルストイはぼやいていたのだろうか。人生論という哲学的な話をする本の中にぽろぽろと出てくる、当時の最新科学の世界をリードする科学者の名前が出てきて、トルストイがそんな人たちの科学の生命を解明しようするアプローチが間違っていると批判する文脈、ちょっぴり当時の世界観に入れたような気がしてほっこりしてしまった。

この本の内容をまとめるにあたって何と言ったら良いのだろう…トルストイという人間が考えていた人生の目的を知ることができること。人のために生きることこそが人生の喜びであり目的である。そう信じれること。人間万歳?

自分自身の周りに広がる現実を見つめれば、実際、自分の周りにいる人たちのために自分の出来ることをすること、それは幸せを感じる瞬間。見返りを求めていないけれど、相手の喜ぶ顔があり自分の行動がその人のために役立っていると感じれるから。そして、相手も愛を動機をとして私自身のためにしてくれていることを感じる、そのお互いの”愛”があってこそ成り立つ一人ひとりの周りに広がる理想の世界。でも何故なんだろう、それが国といった大きな単位になった時にはどうもそう簡単にはいかないようだ。

トルストイからすれば、今の祖国ロシアを筆頭に世界の国々はみんな自分の自我だけで生きる動物的なものに成り下がってしまっていると思うのかも。国際法で定められた国境は関係ない。ただ欲しいから、かつてはロシアの領土であったのだから侵略する、人間は常に発展してきたはずなのに、やっていることって動物レベル?それってトルストイが思い描いていた本来の人間のあるべき姿から遠く離れてしまっている?世界が破滅を迎えて初めて自分たちの愚かさに気が付くのか、そこまで行き着く前にキリストのような人物が現れて、人間に理性の意識を生み、再び人間たらしめることができるのだろうか?

暗いニュースが飛び込んでくる毎日の生活の中で、人間という生き物への明るい希望を持ち続けていたトルストイの魂のこもった思いが詰まった本。今、ふと立ち止まってじっくり読んでみる価値はあるのかもしれません。こうして記事をまとめている中で何度も本をめくっていると、「愛」という言葉が持つ深い重みについてじっくり思い起こす時間ともなりました。

[ロシア法律]裁判所を訪問する人たちの裁判所における規則 / [Russian law] Court rules for people visiting the court

今回は、最近のロシア法律のアップデートについてのニュースをチェックしていて、ロシアにはこんな規則があるのか…という興味から調べてみた内容を書いたものです。以下のリンク先の記事をベースにしています。

Совет судей утвердил Типовые правила пребывания посетителей в судах с учетом замечаний Минюста (advgazeta.ru)

裁判官評議会は法務省の意見を考慮し、「裁判所を訪問する人たちの裁判所における規則」を承認した、という。裁判所にやってくる人たちの服装を含めて、裁判所での然るべき振る舞いを定めた規則が制定され、この中には総則、裁判所への訪問者の入場の組織、セキュリティ対策、裁判所を訪れる人の責任、裁判所への立ち入りを禁止する物品のリスト例の4つのセクションから成り立っているようです。

果たして日本の裁判所での振る舞いを定めた規定はというと…インターネットで裁判所のウェブサイトを検索してみたものの、以下のように注意を促すものが存在するのみかな、と思われます。きっと今のところはこのレベルのガイダンスで十分なのかもしれません。

見学・傍聴案内 | 裁判所 (courts.go.jp)

ふむ、ロシアでは何でこんな規則が制定されたのだろう?規則というのは何らかの理由があって整備されてゆく、というのが一般的と思うのですが、この規則もそのようです。詳細は下記のリンク先にある記事に経緯が説明されていました。

https://www.advgazeta.ru/diskussii/ugolovnoe-delo-v-otnoshenii-lidii-golodovich/

2018年7月、サンクトペテルブルクのネフスキー地方裁判所において、弁護士のリディア・ゴロドヴィッチ氏が民事事件の証人を入廷させようとしたものの拒否されました。この証人は半ズボンをはいていて、「裁判所における行動規準」によるとその服装が相応しくないことからでした。この弁護士は証人を中に入れる許可を得るため、弁護士は裁判所議長の応接室に押し掛け、そこで秘書が非常ボタンを押したために弁護士は手錠をかけられ、警察署に連行されたということです。結果として、権威を代表する人に対する暴行の罪、あるいは暴行をするという脅しに対する刑事事件の罪で起訴されて有罪となり、20万ルーブルの罰金支払いを命じられる、という結果になっています。

この2018年時点では、裁判所での服装に関しては規則として制定されていなかったため、この事件を経て今回の規則策定の検討が始まったことは確かのようです。そして、この規則は裁判官と裁判所職員の身辺の安全を向上させるなど、司法に関する体制と安全を確保するために作成されました。

この規則の中では、裁判所庁舎への入館を拒否する根拠が明確に説明されていて、特に身だしなみが公衆衛生の要件を満たしていない人、スポーツやビーチ用の服や靴を履いている人、膝より上のショートパンツを履いている人、人間の尊厳を傷つけるような服や靴を履いている人、社会や裁判所に対する明らかな敬意の欠如を示すような服や靴を履いている人、本人を特定できないような服装をしている人がその対象となっています。

広大なロシアでは地域によって気候も異なることから一律にルール化することは難しい要素もあるのかもしれません。(例えば、暑い夏の期間、多くの市民が夏の普段着(短パンや薄手のTシャツなど)で裁判所に来るロシア南部地方)

記事の中には興味深いコメントがありました。

”弁護士のマルティン・ザルバビャン氏は、法廷における行動規則の問題に対する統一的なアプローチを開発することは、非常に重要かつ意義深い取り組みであると指摘しています。「裁判所訪問者の適切な行動について話すのであれば、そのようなルールは普遍的かつ統一的であるべきです。統一されたルールは、裁判所の公の秩序を乱すことを防ぐだけでなく、司法が行われる場所での振る舞いに関する透明性は、市民の権利を保障する一種の保証となるからである。劇場がハンガーから始まるのであれば、司法制度は裁判所組織と訴訟手続き遂行のためのルール確立から始まるのです」と弁護士は言う。”

ハンガーから始まる - ロシアでの劇場に入れば、必ずГардероб(読み:ガルデェローブ、意味:クローク)があります。冬になると顕著ですが、来場者は必ずそこで上着を預かってもらいます。係員は預かった上着をハンガーに(フックにかけることも)かけて番号のついた預かり札を渡して…と、この光景が繰り返されています。それは徹底されたルール。それと同じように司法制度も普遍的なルールをそろえて始めるべきである、と。

余談ですが、ロシアで生活してみて良い印象を持ったことの一つに上着の取り扱いがありました。カジュアルなカフェやレストランは別ですが、どのオフィスでも一般的なレストランでも、必ず入口のすぐそばには上着をかけるコーナーがありました。ロシア人の友人の家にお邪魔した時も玄関を入ったらすぐの場所に必ず上着を置く場所がある。靴を脱いで部屋の中に入るのも然り、外と中とで区別していることは衛生的にも、マナーとしてもきっと良いことなのではなかろうか、と。また、ずっと以前にアメリカに住むウクライナ出身の方のところに遊び出かけたときに印象的だったのは、「アメリカの友人を家に招く時には、(靴を脱ぐことをお願いしていても)どうしてもそのルールを理解せずに家の中に土足のまま入ってきてしまう人がいる…。その場で言えない時には仕方がないので我慢して、後で部屋の中を掃除するしかないです…。」ということでした。文化が異なる背景を持つ人たちが共に生活することにはこんなところにも難しさが生じるのだな、という気づきを得た経験でした。

自分の好きを大切に。若宮正子さんの講演会を聞いて / Cherish what you love. From Masako Wakamiya’s lecture

プログラミングの勉強をちょこちょこしている中で知った世界最高齢のプログラマー若宮正子さん。私の住む街に本物がやってくる、ということでご本人から直接話を聞くことができるこんなチャンスは滅多にあるものではない!ということで出かけてきました。

講演会では撮影、録音は禁止だったのでメモだけとなりましたが、内容はYoutubeでも見聞きすることができる内容と概ね同じもの。そうはいっても、生の姿を直接見て、生の声を直接聞いてその熱意を感じることはYoutubeでは体験できないこと。とっても貴重な経験となりました。インタビュー記事にもありましたが、各地の講演会には一人で出かけてゆくそうです。実際に講演の後には一人でタクシーに飛び乗って帰ってゆく姿をみると、元気なおばあちゃんなんだなぁ、と。これだけすごい方だからこそ日本中で引っ張りだこであり、政府主催会議の有識者メンバーをも務める立場なのですが、面白かったのは、政府から有識者としてメンバーに招待されたときのエピソード。会議メンバーに連なる周りの方々の経歴は錚々たるもので、〇〇大学教授、経団連の〇〇など。「高卒の私が有識者メンバーなんていいんでしょうか?」と尋ねると、担当の方の答えは「時代が変われば有識者の定義も変わるのです」と。本当にそうだなって。自分が今行っていることが周りから見れば頓珍漢なものとしても、後から時代が付いてくるっていうことも。そして、学歴なんか関係ない。年齢を重ねても勉強し続けること。周りに振り回されず、自分の信じることを大切にこつこつと継続してゆくこと。きっとそれが将来に繋がる、自らモデルケースとなった若宮正子さんのように。

私がお聞きした内容もこのYoutubeに出てくるものと概ね同じ内容。各地の講演会では基本的なベースは同じ資料を利用していて、その時々で異なるものを差し替えているのかもしれません。

込み入った言い方をせず、シンプルで分かりやすい言葉がとっても良かった。聴衆の私たちの心にすっと入ってくる。メモした内容のいくつかを抜粋すると、

  • これから大切なのは”意地悪なお嫁さん”になることよ。(なんでも親のためにスマホを操作してあげることは本人のためにならない。むしろ本人にやらせることが本人のためになる、という意味で)
  • 短絡的な正解を求めない。
  • ベストではなくベター
  • 取り越し苦労をしない
  • 100点主義✖
  • 自分の考えを人に押し付けない
  • 頭を自立させる。=自分の頭で考える。人が言っているからではない。
  • 自分の好きを大切に。(私は特にこの言葉が気に入りました)
  • 携帯電話は万能電動小箱
  • AIとの付き合い方は、機長=自分。副操縦士=AI

常に新しいことにオープンで好奇心旺盛。まずはやってみることの大切さを説いている若宮さん。人生って年を重ねるほどに面白くもつまらなくもするのは自分次第。そんなことを生き方で示してくださっているのだろうなぁと思って聞いていました。

ふと後ろの方に座って講演会を聞いていて気になったこと。そしてこれは勝手な自分の思い込みかもしれないけれど。インターネットで調べてみると他の方々が述べているように、良い話を聞いても実際に行動する人は全体の20~25%くらい、そして継続できる人は4~5%くらいだとか。この数値の信憑性を証明する文献を見つけることができなかったのだけれど、ここで大切なことは実際に実践する人や継続できる人がどれだけ少ないかということ。会場から時折起こる笑いは、単に面白い話を聞けた、あるいは88歳にもなる高齢のおばあちゃんがこんなにも頑張っているんだ、という温かい笑いであってそこには88歳になっても学び続ける若宮さんの姿勢に対する倣いたいという気持ちがあるのかなぁ、と思えてきました。この会場に来るという選択をした時点でこの会場にいる方々の行動力は素晴らしいことだけれど、ただただ良い話を聞いたな、こんな年齢になってまで各地を飛び回っていてすごいな、もしそんなところで終わってしまっているとすれば勿体ない。会社の中でも退職の年齢が近くなってもまだまだ仕事や新しいことを学ぼうとする姿勢を持ち成長し続ける人っていうのは少ないように思えます。実際に私もこんな偉そうことを書いているけれど、成長し続けることがどれだけ大変なことか!そんな世界だからこそ常に学ぶことを楽しむ若宮さんの姿が光ります。果たしてそういう自分自身はどうなのか?…そんなことを思い巡らしながらちょっぴり冷や汗もかきつつ今このようにしてブログに書いています。自分の好きを大切に。成長しよう、ではなくて自分の好きなことを大切に、日々こつこつと継続してゆく。ふと気が付くと若宮さんのようになれるはず。そんな自然体でいようと思います。

ロシアのユーモアがあれば仕事での苛立ちも吹き飛ぶ? / Does Russian funny humor take away your frustration at work?

モスクワで勤務していた時、素直にロシア人スタッフを見てすごいと思い、彼らに教わったことの主な3つと言えば以下が挙げられます。

  1. 為替に対する意識の高さ。自国の通貨を信頼せず、自分の資産状況やUSDやEURの為替情報に敏感であったと思う。もしかすると長期休暇を海外で過ごすことを楽しみにしているが故に、為替レートが自身の旅行資金に直結することから必然であったのかもしれない。ロシア国内だけで生活している人にとっては大きな影響はないのかもしれないけれど、為替の暴落により簡単に自分の資産価値が3分の1になってしまうようなことを経験すれば、誰しもそうなるのかも。
  2. 「何で日本人の会議はそんなに長いのでしょうか?」…本当にそう思いました。果たして自分が今費やしている時間は投資なのか、いやいやただの消費なのか…。スタッフはよく見ています。一方で、「やります!」と約束した仕事が終わっていないにも関わらず、終業時間になったので帰ってしまったスタッフのいない机を見た時には「頼むよ…もっと時間を上手に使って仕事できなかったのだろうか。終わらなかったらせめて報告してから帰ってくれないものか…」と思ったものです。
  3. ユーモアのセンス(Русский юмор)。これは本当に素晴らしい。毎日をたくましく生きているスタッフ。笑いたいときに大いに笑い、悲しい時には大いに涙を流し。そんなストレートの感情表現は時に疲れましたが、そんな素の様子で冗談を言い合ったりしてわいわいがやがやのコミュニケーションを見るのが好きでした。

多くのスタッフがあまりにも就業規則で定める始業時間から遅れて出社するため、ある時に「始業時間の9時には業務開始できるように余裕を持って出社を」というお触れを出して、遅刻した時にはその理由を書いて受付スタッフに提出してもらったことがありました。ここではどのような勤務シフトが相応しいのかという人事システムの議論には入らず、あくまで笑ってしまったユーモアの話です。ロシア生活時代の書類を整理している中で発見したもの。全ての用紙は残っていませんが、何よりもモデルとなるべき人事部門のスタッフがこうも毎日のように遅刻していたのかと。そして、その彼女の書いた理由は怒ることも忘れてしまう思わず笑ってしまう内容でした : )

以下は手元に残っているものから。

「寝ていたかったから寝てました!」

「時計を冬時間に変えるのを忘れていました。」

ちなみに、ロシアでは通年同じ時間を利用しており、2014年に基準となる時間を冬時間とする変更があった。2017年はすでに3年が経過している…ありえない…。

(参考)ロシア/モスクワの時差と現在時刻

「もう一度(遅刻の理由を)質問してきたら私は辞めます。」

この彼女の言葉を受けてこの報告用紙の運用を止めたわけではありませんが、この後の日付のものは残っておらず。結果的に時間も全体的に改善されましたのでこの用紙の運用も自然に消滅してゆきました。人事も試行錯誤の連続。頭を抱えて真面目に取り組んでいたのにこんな風に返ってくるとは。一本取られてしまいました : )

その後も彼女はいつも楽しそうに仕事をして、自分のキャリアステップのために次の会社に転職してゆきました。幸いにも良好な関係を保つことができていたので笑って楽しく読むことができましたが、文面だけで判断すると挑戦的なコメントとも言えそうです。人と人との関係は時として緊張が走ることもあるけれど、そんな時にもユーモアを通じて緊張ももみほぐせると良いですね。

自分の持つすべてのものに感謝を。(ジャッキーチェン) / Jackie Chan’s words of wisdom – Нужно ценить все, что у тебя есть.

外国語を勉強する時、心に取っておきたい言葉を今勉強している言葉で覚えてみることも役立つかもしれません。

例えば、ウクライナに住む友人が送ってくれたジャッキーチェン(Джеки Чан)の言葉。短いフレーズですので繰り返し練習することできっと覚えることができそうです。その結果、この言葉が自分自身をポジティブな気持ちにしてくれることはもちろんのこと、ロシア語の単語、単語の変化やリズムを学ぶことができると思います。この短いフレーズの中に込められた意味も噛みしめながら、ウクライナで戦争が行われている今の世界に住むからこそ一層この言葉の重みを感じることができるのではないでしょうか。

Джеки, доволен ли ты своей жизнью?

Знаете, я как-то услышал очень мудрые слова:

Твоя сложная работа – мечта каждого безработного.

Твой непослушный ребенок – мечта каждого бездетного.

Твой маленький дом – мечта каждого бездомного.

Твой небольшой капитал – мечта каждого должника.

Твое неважное здоровье – мечта каждого больного неизлечимой болезнью.

То, что Всевышний скрывает твои грехи от глаз людей – мечта каждого опозоренного своими грехами.

Твое спокойствие в сердце, твой спокойный сон, твоя доступная еда – мечта каждого, у кого в стране война.

Нужно ценить все, что у тебя есть. Ведь никто не знает, что произойдет с тобой завтра.

(日本語訳)

ジャッキー、あなたは自分の人生に満足していますか? (という問いに対してジャッキーチェンが以下のように答えました。)

以前にとても素晴らしい格言を聞いたことがあります:

あなたが抱えているやっかいな仕事は、仕事を失ってしまったすべての人にとっての夢。

あなたの言うことを聞かない子供は、子供を持てないすべての人にとっての夢。

あなたが持っている小さな家は、家すら無いすべてのホームレスにとっての夢。

あなたの持つわずかな資産は、負債を抱えているすべての人にとっての夢。

あなたにとって当たり前の健康は、不治の病にかかっているすべての病人にとっての夢。

あなたの罪を神様が他人の目から隠してくれるのは、自分の過ちによって恥ずかしい思いをしているすべての人にとっての夢。

あなたの心の平安、安らかな眠り、何でもない食事は、自分の住む国に戦争があるすべての人にとっての夢。

自分の持つものすべてに感謝しないと。明日、あなたに何が起こるかは誰にも分からないのだから。

「安定」それがどれだけ貴重で重要なものか。/ “Stability” how precious and important it is.

モスクワで勤務しているときの採用活動において、応募者に志望動機を尋ねてみると頻度高く返ってくる言葉がありました。「日系企業は安定しているから。」とのこと。そのことを上司と会話すると、「いや安定しないでしょう、ビジネスの先行きなんて実際にどうなるか誰にもわからないんだから…なんでこうも安定、安定というのだろうね…」と苦笑い。また、賃金の交渉の段階になって手取り額について交渉するときには、— これはあくまで私の経験上に基づく感覚ですが — ボーナスがおよそ何か月分は支払い見込みです、それも含めて月平均でこのくらいは保証できます。と伝えても、志望者は実際に幾ら保証されるのか(ボーナスは会社の業績次第でカットされる可能性もあるので信じられないということだろう)を特に意識していることを感じました。ロシア人の人事スタッフにその点を応募者に対して丁寧に説明してもらい、納得してくれたスタッフが会社の一員として加わってくれました。

今現在、ほぼ毎日のように連絡を取り合っている友人がウクライナに住んでいます。モスクワで知り合い、後に彼はキエフに移住。ロシアとの戦争が始まってからはキエフを逃れてウクライナ西部フメリニーツキー地区に逃れています。その彼と一緒にウクライナ国内で避難生活を強いられている人たちへのサポートを自分たちのできる範囲で行っています。その友人から入ってくる情報は大変な状況の中で何とか毎日を過ごしている人たちの様子です。毎日決まった時間に起きて、食べて、仕事して、また食べて。リラックスした時間を過ごし、風呂に入り眠りにつく。そして目が覚めたら再び翌日がくる…。そんな当たり前のことがどれだけ貴重なことなのかを考える機会になっています。

聞いた話によれば、爆撃により8歳のとても可愛らしい息子さんを亡くしたお父さんもいます。薬の高騰で財政的な苦しさ、大好きだったロシア語を学校で教えて26年、ずっと続けてきたものの戦争でロシア語の仕事を失い無職になってしまった女性。ガスが止まってしまったので差し入れを行ったガスコンロで調理を行う家の様子。生まれ育った思い出の詰まったアパートが今では無残な形に変わり果てた故郷。マリウーポリから脱出したのちキエフへ、そして海外に避難したものの現地の生活に馴染むことができずに再びキエフに戻った女性。空襲警報が鳴り始めて非難するための一番安全な地下鉄駅までは15分かかるとか。精神的に疲れ果ててしまう生活を強いられている女性。知る限りの情報から彼らの日々の生活を想像するだけでも、それらがどれだけ辛いものであるか。少なくとも想像することはできます。

安定、という言葉の響きはネガティブに捉えることもできるかもしれません。成長がない、変化がない、と言った感じで。当時モスクワで働いていた時には、とにかく新しいことにチャレンジするように、自らその姿勢を見せることが良い評価を得るために必要な要素だ、という点を私は強調しすぎていたかもしれません。物流部門で働く若い女性スタッフは毎日の商品の出荷手配に追われ、ミスなく確実に客先へ届けるために働いている。安定した仕事の質を保つことが大切であり、そのこと自体が高い評価に値する仕事である。IT化も満足に出来ていない状況の中、チャレンジしたくてもチャレンジする余裕がない。そんな中でチャレンジが足りない、なんて言われてしまうとそれはもうがっかりだろう…評価面談の時に彼女がぼろぼろと泣いてしまった時、ようやくその気持ちを理解できた気がしました。

安定という言葉の意味をじっくりと考えてみると、安定 — 心に安心が得られるしっかりとした土台 — があるからこそ次に向かうゆとりや力がが得られるのだろう。他方、そこに安寧としてしまいチャレンジすることを止めてしまう人もいるのは事実ですが。

以下のリンクは上記の友人が教えてくれたロシア軍による攻撃の動画です。彼の住む街の郊外に降ってきたという。突如として静寂を破る爆発の音。果たしてこんなものが家の近くに落ちたとしたら誰が平静でいられるのだろうか…まるで広島・長崎に投下された原子爆弾を思い起こさせるようなキノコ雲。

自分の境遇は人それぞれで生まれた瞬間にすでに決まっているものもある。文句を言いたいことはいくらでも見つかる。人と比べて自分の立場を意識することを推奨するわけではないけれど、自分自身が得ている今の安定(少なくとも空襲警報が突如として鳴り響くことはない)を生かさない手はない。意味もなくYoutubeを見たり、見終わったあとに一体今の時間は何だったのだろう…と思ってしまうテレビ番組に多くの時間を捧げることに意味があるだろうか。(それができる環境にあるということ自体がどれだけ幸せなことか!)

今年の元日。金融の世界で大いに名を馳せた山崎元氏、大江英樹氏の死去。これもまた2024年のスタートとしては北陸の地震、羽田空港での日本航空と海上保安庁の機体衝突事故と並んで衝撃的なニュースとなりました。大江氏による未投稿となっていた言葉が日経新聞に掲載されていましたが(マネーのまなびの水先案内人 追悼・大江英樹氏の遺稿)、そこには”自分が病気になり、一時は死を意識したこともあったが、その時に考えたことは「結局、人生の最後に残るのはお金ではなく、思い出しかないんだな」と。”ということでした。果たして2024年を振り返ったときにどんな思い出が心の中に残っているだろう。世界の様子を見ると事態が益々混乱してゆく様子しか見えてきませんが、コントロールが可能な自分について言えば、着実に成長した別の自分が2025年を迎えていることを願いたいものです。ロシア語は需要が無くなれど、語学に触れることは大好きです。生涯学習のテーマとして、限られた時間ではありますが毎日勉強してゆきます。

さて、どんなに苦しくても、いや苦しいことがあるからこそやっぱり冗談は大切。笑うと楽しくなるもの。ウクライナの友人から時々送られてくる笑える動画は一体どこから見つけてくるのでしょう。日々そんな動画でも見て笑ってみるとどんなに今は辛い状況にいる人たちも少しは明日への元気をもらえるのかもしれません。

Мама читает книгу анекдотов. Приходит маленькая дочка и спрашивает;(お母さんがアネクドート(滑稽な小話、Russian joke)の本を読んでいます。幼い娘がやってきて尋ねます。)

– Мама, а где ответы?(ママ、どこに答えがあるの?)

– Какие ответы?(何の答え?)

– Ну ответы к анекдотам.(ええっとね、アネクドートの答え。)

– Зачем к анекдотам ответы?(どうしてアネクドートに答えが必要なの?)

Мама, ну как ты не понимаешь? А если не знаешь, где надо смеяться?(ママ、じゃあどうやってアネクドートを理解できるの?もし答えを知らなかったら、どこで笑っていいのか分からないじゃない。)

まさに私の気持ちを代弁してくれている会話。これもロシアで購入した小話集から取り出した会話例です。

ロシアで食事をしていると大抵耳にするアネクドート(小話)。これを100%理解できるようになれば、あなたはすでに完全にロシア人。アネクドートを理解するには言葉の使いまわしを理解したり、ニュースで見聞きする世間の情報に通じていないといけないため高難度と思います。悔しいですが、皆が笑った後に丁寧に説明してもらってようやく理解できる、そんなことばかりでした。今でも覚えているけれど、昔にサンクトペテルブルクの語学学校でロシア語を習っていた時に先生が話してくれた小話:

ある夜、突然に電話がかかってきてこう尋ねました。

「もしもし、車のタイヤが欲しいですか?」

「いえ、必要ないです。(自分の車には4つのタイヤがすでに付いているので。)」

「わかりました。」といって電話が切れました。

翌日…、出かけるために自分の車のところにいくと、4つのタイヤが無くなっていたとさ。

という、そんなお話。ロシア語で聞くとこれまた面白く。”欲しい”という言葉をどう捉えるかでこうも話が何倍にも面白おかしくなる、言葉って面白いです。

Бедность за порог / 貧困ラインを越えて

ここ最近、過去にファイルしていたロシア記事を整理していて見つけた興味深い記事の紹介です。情報元は2020年1月17日発行のРоссйская газета(直訳:ロシア新聞)に掲載されていた記事。2020年1月15日にプーチン大統領が行った年次教書演説に関するもので、これはすでに4年前のもの。今更…という声が聞こえてきそうですが、昨今の日本で議論されていることと似通った点を感じたのでした。なお、できる限り調べたものの一部誤訳の可能性もある点をご了承いただければ幸いです。

なお、大統領の年次教書演説の概要はJETROのサイトに分かりやすくまとめられていましたのでそちらをご参照することをお勧めいたします。

https://www.jetro.go.jp/biznews/2020/01/0738c2bc42877464.html

この年のプーチン大統領の演説での重点課題の一つとして、国民の実質所得の停滞に向けた解決策が挙げられていました。2020年1月1日から、一人当たりの所得が最低生活費を下回る世帯に対して、3歳から7歳の児童に毎月給付金を支払うことを提案。これには、ロシアという国を持続させるためにも人口の維持を支える政策が重要であることが演説の内容からも伺えます。

Послание Путина Федеральному собранию. Главное

«Судьба России и ее историческая перспектива зависят от того, сколько нас будет. Сегодня нас почти 147 млн человек. Но мы вступили в очень сложный демографический период — семьи сейчас создает малочисленное население девяностых годов. И показатель снова падает. Суммарный коэффициент рождаемости (количество детей, рожденных одной женщиной. — РБК) составил, по предварительной оценке, 1,5. Для нашей страны этого мало. Для сравнения: столько же было в 1943 году, то есть во время Великой Отечественной войны. Существующие сейчас негативные прогнозы не могут нас не настораживать. Наша обязанность — к середине наступающего десятилетия обеспечить устойчивый рост населения».

「ロシアの運命とその歴史的展望は、私たちの人口の数がどうなるかにかかっている。現在、私たちの人口はおよそ1億4700万人近くいる。しかし、私たちは人口統計上非常に困難な時代に突入した。家庭は今、90年代の少ない人口を生み出している。そして、その指標は再び低下している。合計特殊出生率(1人の女性から生まれる子供の数、RBC)は、事前の推計では1.5であった。これはわが国にとって十分ではない。比較すると、1943年つまり大祖国戦争中も同じ水準であった。今存在しているネガティブな予測を私たちは憂慮せざるを得ない。我々がすべきことは今後10年の半ばまでに持続可能な人口増加を確保することである。」

ロシア大統領直轄の経済評議会メンバーである経済専門家グループ責任者、エフセイ・グルヴィッチ氏によれば「貧困人口のかなりの部分が数人の子供を持つシングルマザーであり、手当を支払うことは出生率を上向きに促す可能性がある。」という説明からも給付金の支払いがロシアという国家存続に繋がる重要な施策であることが理解できます。

現在の任期の初めに、プーチン大統領は2024年までに貧困レベルを半減するという目標を設定したものの、実際にその実現は当初予定のようにはいっていないようです。

関連記事:”Кудрин допустил снижение уровня бедности вдвое раньше 2030 года”

演説の前日、国会議員のグループは、収入が最低賃金の2分の1未満の個人に対して所得税を免除する提案を提案。この案について、会計検査院のアレクセイ・クドリン長官(当時)は、個人所得税の支払いを取り消す代わりに補助金の支給により貧困層の人々をサポートすることを提案した。「とても低い給与に対する課税を低くすることは貧しい人々にとって直接に価値を感じられないものですが(もちろん、いかなる課税の削減は誰からも歓迎されますが)、この場合、貧困との闘いについて話しているのであれば、私は家族の一人当たりの所得に基づく補助金と、それに基づく適切な補助金の配分がより効果的であると考えています。」

⇒ 今年、日本でも低所得世帯への給付金が支給されますが、所得税の減税か補助金の支払いか効果的な方法は何か、という点についての議論やどの国でも同じように議論が交わされているようです。

Rosstat(ロシア政府の統計機関)によると、2019年には賃金の最低と最高の差が13倍に縮小した。 2013 年にはこの比率は 15.8 倍、2009 年には 14.7 倍でした。労働に対する報酬の不平等の縮小は、最低賃金、公務員の給与の引き上げ、および一連の産業の発展の結果です。専門家は賃金の格差が更に縮小することを予測している、とのこと。

公式統計によると、現在、賃金格差が最も高いのは養殖業(28.8倍)、科学活動(19.3倍)、IT(17.6倍)で、最も低いのは自動車生産(7.1倍)と繊維製造業(7.2倍)である。モスクワでは、最も賃金の高い労働者の10パーセントが33万7,800ルーブルを受け取り、最も賃金の低い労働者の10パーセントが2万6,000ルーブル。その差は16.4倍である。最低賃金(11.2千ルーブル)を労働者の1.2%が受け取り、最大給与(50万ルーブル超)は0.1%。最大の割合の従業員は33.9千〜4万ルーブルの給与を受け取ります (9.7パーセント)、5万〜6万ルーブル(8%) および 60千~75千 ルーブル(7.4パーセント)と続きます。

VTsIOM(”全ロシア世論調査センター”。ロシアで最も古く、最もよく知られた世論調査会社) によると、現在、国民の 14 パーセントが現在の経済状況に満足しているという。

回答者の半数以上 (61%) が「平均的」、4 分の 1 が「悪い」と評価しています。ロシア人の回答者のうち52%が自国の経済状況を「平均的」、29%が「非常に悪い」と考えており、14%が状況は改善したとのこと。

「個々人の経済状況に関しては、国民の 78 パーセントが自分自身は貧困層の人間だとは思っていない、という結果が出ている。これを「主観的貧困」というのだ。

と締めくくられていました。

⇒ これは皮肉のこもった表現に思えてならず苦笑いしてしまいますが…”主観的貧困”とは、自分自身が貧困に陥っていて困っている、という主観的な意見に基づく貧困だと理解しています。それを、「私は貧しい人間ではない。」という主観的”非”貧困の答えをもってそれを主観的貧困であると断言し、それが国民の78%にも上る…これをどのように捉えてよいのかは分かりません。富が上位の一握りの人々に偏り、大半の人々は苦しい生活を送っているのだとすれば、必ずしもこの記事の作者の意図するところは外れていないのかもしれません。

⇒ 言い換えれば、自分の現在の最低レベルであったとしてもあるもので満足している、ロシア人の素晴らしい特質なのかもしれません。明らかに西側諸国、日本にはモノが溢れています。モノを手に入れてあまり長続きすることのない幸福感を味わうのか、モノがなくても今あるものから幸福感を味わうことができるのか?人の幸福感はそれぞれ異なるため優劣をつけることはできませんが、金曜日ともなればモスクワ郊外に向かう車列の渋滞や電車の人々。ダーチャで週末を家族やペットとゆっくり過ごし、家庭菜園や家の手入れを楽しむ。そして再び元気を得て月曜からの仕事に戻る…そんな素朴な時間の過ごし方の中に、これまでとは違う幸福感の在り方も知ることができたモスクワでの生活でした。

参考資料:貧困から社会的排除へ 指標の開発と現状