ロシアでの仕事における夏時間と冬時間の上手な付き合い方 / Tips getting along with Summer and Winter time for work in Russia

夏はより大規模な仕事を、多少負荷がかかっても堂々と。たとえば、細かいストレスを感じる会社ルールの見直し、整備や古い会社設備のリノベーションなど。日光も多く、人の気分もおおらか。冬は寒く、日光も減り、心なしかオフィス内のスタッフも少しのことでぴりぴりしてしまうように感じます。精神的に負担がかかる仕事は、とりわけネガティブな感情を生み出しかねない後ろ向きの仕事は冬の到来までに可能な限り片づけておくこと。これは年間の仕事計画を考えるにあたって重要なことではないかなぁ、と実感しています。

また、冬になるとロシア人スタッフの病欠が増えることも事実です。2週間病欠でいなくなる、ということも決して珍しいことではありません。身体が弱い人が多い気がします。また、子供が病気になってしまい、共働きであることから夫婦のいずれかが子供のケアをしなければならない。そのために休暇を取るケースも見られます。以下参照URL先に病欠を取る場合のルールを説明した動画が掲載されています(ロシア語)。病欠になったスタッフは、病院にでかけ医師に診断してもらい、一定の日数を経た後に再度医師に診てもらった上で仕事に復帰してよいかの判断をしてもらう。そして専用の用紙を発行してもらい、それを会社の人事部に提出する、というのが一般的な流れです。

ロシア人の友人に「この時期になると、ロシア人スタッフがよく病欠で休むんだよなぁ」と話したところ、「日本人はロシア人と比べて良いものを食べているから身体が丈夫なんだ。ロシア人の食べているものは品質が悪く、その影響ですぐに病気になるんだ。」― 当たっている部分もあるかもしれません。それもあってロシアでは日本の食事が人気ですし、ロシアの食料品店でも健康志向の 食品が増えています。実際の売れ行きは分かりませんが、需要が無ければ増えないと思われますので、恐らく多くの人々がそれらの商品を購入しているのでしょう。病欠の話を聞くと、ー これも一度ならず発生するのですが、病欠の完了日を聞いており、その翌日から出社してくることを想定していたら、「医師の判断であと数日病欠が延期tなりましたのでもう少しお休みします。」…あります。-少ない人数で仕事を回しており、複数のプロジェクト(各部門の年間の達成目標)を抱えてその管理を担う私の立場としてはため息が出ること、あります。私の部下で病欠しているスタッフは働きぶりもしっかりしている人たちでずる休みすることはないようですので、このがっかり感をぶつける術もありませんが、病欠が起こることにより計画の変更を余儀なくされることは予め想定しておくこと。これは私の実体験からお伝えしたい点です。

スタッフからは「北欧では夏と冬とで日照時間が違うこともあって勤務時間の長さを調整している企業がある、うちもそうしないのか?」と尋ねられます。今の私が勤務する会社では季節別の勤務時間の変更に対応できるほど会社が成熟しているわけではありませんが、あらゆる可能性は考える価値があると思っています。私はまずはフレッスク勤務が第一歩であると考えていますが、その実現については、各企業の相手とするビジネスパートナーとの関係でどうしても相手の勤務時間に合わせる必要があること、トップマネジメントからのロシア人社員に対する信頼と社員の勤務実績と結果のコントロールバランスなどの要素を慎重に検討してゆかなければならず、そう簡単にはゆかなそうです。

なお、ロシアでは病欠をとると、その分ほぼ確実に収入が減ります。一定の分は法律により補填が保証されていますが、計算ロジックを見ると病欠にならないほうがよさそうです。

  • 100%が保証される場合…累計8年以上(同一企業である必要はなし)の勤務経験がある場合。
  • 80% — 5-8 年
  • 60% — 5 лет未満

病欠の間の給与計算にはルールがあります。過去2年間の収入額総額を730で割り(つまりカレンダー日数)、一日当たりの日当を計算し、それに病欠日数を掛けたものが支払われる、という計算です。この過去2年間の収入総額には基準額があり、毎年変動するので確認が必要です。この基準額に満たない収入額の場合は実際の本人の収入額を利用する。基準額を超える場合には同基準額を利用する、となっています。そのため、いずれにしても労働者にとっては収入が減る結果となります。しかし、具体的に把握しているわけではありませんが、この収入減を補填する制度(例えば、年間の病欠10日間までは会社が本人が本来出社していれば受け取っていた額を保証するなど)を取っている企業は少なからずあるように思われます。

参考URL

http://rabotnik-info.ru/bolnichnyj/

仕事もコミュニケーションもシンプルに(日本語の使い方について思うこと)/ Make job and communication simple (thinking about the way of communication in Japanese)

日曜日の朝、マクドナルドで休憩中の路上の清掃スタッフ。背中からほっと一息ついている様子がうかがえて微笑ましくなりました。

日本を長いこと離れて、ロシアに住み、客観的に日本語を観察し、ロシア人とも会話する中で日本語表現について考えることが多くなりました。

~したいと思います。
よく見ることが多いYoutubeのチャンネルにしても、日本人の会議の場面でも、何度も、どこでも「~したいと思います」というフレーズをよく耳にします。「思う」、とは、~である、と発言者本人が断定はしないけれども、そう考えていますよ。ということであって、100%それを実行するか分かっていない場合ではないだろうか、と”思っている”のですが、どうでしょうか?
今、一般的に使用されている「~したいと思います。」というのは、それを100%実行する前のの場面です。この場合は、シンプルに「~をしてゆきます。」とはっきり述べるのが正しいのではないだろうか、と私は”思います。”

ちょっと、
ねえ、ちょっとちょっと、の声をかけるときのちょっとではなくて、少し何か違うんだよね、とか何か納得できないんだよな・・・、このちょっとねぇ…、でもありません。あまり意味もなく、言葉の間と間の沈黙を埋めるために使われるときのちょっと。そんな風に利用される機会が増えているのではないだろう。この”ちょっと”の意味が分からないです。

~だと……

言葉の語尾が曖昧になる傾向があるのではないか、と感じます。最後まではっきり言い切ることを避ける人が多い気がしています。その分相手の言いたいこと、その人の言いたいことの確信度合を慮る必要が生じます。

日本語について考える中で、こう感じています — 言葉を少しでも多く表現することで丁寧の度合が増すのだろうか、と。そして断定を極力避ける。だから比較的日本語のメールは長くなるのかなあ、かつ何を言いたいのか分かりづらいのだ、とも。

日本の慣習ならではの、相手の気持ちを考えるが故の”考えすぎ”

ビジネスメールでは、「了解です。」で済むのに、これだと冷たく聞こえるから、
「了解です。ご苦労さまです。」だったり「かしこまりました。ありがとうございます。」

しまいには、「了解です、ご連絡に感謝いたします。またよろしくお願いいたします。」であったり、「かしこまりました。ご回答いたありがとうございました。次回も何卒よろしくお願いいたします。」徐々に長くなってゆく。そして、ありがとうございました、なのか、感謝いたします、がよいのか…考え出してしまう…

ロシア人スタッフのメールやり取りを見ていると、”Thank you”に”Thank you!” とExclamation markをつける。この”!”マークが多いなぁ、という印象です。これで受信者が少しは好意的に受け止めてくれるのであれば”!”をつけるのもありかもしれませんね。ただ、”!”に惑わされて、実際に本人のロシア人スタッフのところに行くと、面倒な顔で対応されることがあります。!が付いているといって騙されてはいけません。

メールという無機質な媒体でコミュニケーションをとるが故の人間の苦労。面倒なものが作り出されてしまいました。人間は科学の力で世界をどんどん便利にしていっているはずなのに、世の中をどんどん複雑にしていっているように感じてなりません。それに加えて、仕事を複雑化することが好きな社員がいるからたまったものではありません。仕事もコミュニケーションもシンプルに。

アジャイルと業務プロセス改革と人のエゴ / Agile, Business process improvement and human egoism

出張にやてきた情報システム部のスタッフの方と会話をしていて、

・最近のシステム開発の傾向はアジャイル。少しずつ開発をして確認してはバグを見つけて調整する

・世の中のトレンドが変わってしまう今の世界、自社のシステムを作り込んでしまうのは危険。むしろいつでも切り替えがきくようにできる限り購入したシステムの標準機能をできるかぎり変えないように。そして自社のフローを標準に近づけることを考えるべき

という点を学習しました。とても深い、重要な点だと素直に感じました。Agile、というタイトルがついた本をロシアでも見かけます。インターネットで調べてみると何年も前から使われているようです、知りませんでした…。

会社全体の社内の業務プロセスを管理する立場として感じること、それは現状の会社の業務プロセスをできる限り変えずに維持しようとする人々が大半であることです。倉庫業者を変える時、会計システム(私たちが使用しているのはロシアのシステム1C(ロシア語読みでアヂンエス、英語ではワンシーと呼ばれます)のバージョンを更新する時、必ず現状の運用とのギャップが生まれ、それにどう対処するのか…どの会社でも同じ問題に直面しているに違いありません。私には正直なところ、この問題に対する明快な答えがありません。ただただ感じるのは、これまでの業務プロセスを整備し、問題を抱えながらも一生懸命にメンテナンスをしてきた人、大変な負荷を抱えつつもエクセルファイルで立派なデータ資料を作成し、それを発展させていた人がいる。そういった人たちのこれまでの努力を簡単に否定してしまうことがないように気を付けなければならない。システムを導入することによって、あたかも、これまで我々がいかに無駄に仕事をしていたのか、とスタッフの能力を否定してしまうかのような発言をしてはならない。一人ひとりの気持ちを感じ取る心を持っていること、理解していることを示す態度は重要であろう、と。

個人の能力について、これには思うところがあります。また別の機会に書きたいと考えています。誰もが可能性を秘めた能力を持っているか?私はこの見方には今では否定した考えを持っています。残念ながら人にはそれぞれの限界がある。その限界の中で人は自分なりに努力しなければならない。それが真実ではないでしょうか。

さて、アジャイルと自らの会社の業務プロセスを変えること。いずれもそれを困難とする理由は、各人のエゴ、要らないプライド。ではないだろうかと思うに至りました。きっと経験の豊かな方々、すでに人材教育の世界では当たり前のこととして語られているのでしょうが、私自身はこれを実務の中で自らそれを否定すべく取り組み一生懸命やってきた、その結果の挫折から、エゴという問題の難しさ、それを取り除くことは絶対に無理であること、それをしっかり、ずっしりと身体に染み渡るように学習しました。

各人それぞれが会社全体としてのゴールを理解している。そのためには、自分の過去に築いてきた努力、功績を忘れなければならない、それは分かっている。でもダメだ…あたかも自分が否定されているかのようだ…。だからアジャイルで小さく変化、周りへの影響をチェックする。アジャイルはシステムそのものの開発だけではない。その周りにいる人たちへの影響も確認する作業。会社の業務プロセスを変えること。これはエゴの塊との闘い。こういった時に役立つのがどれだけ日頃から一人でも多くの人間の信頼を得ているか、ではないでしょうか。どんなに正しいことを言っていて、結果を出していても、「この人はほんと凄い人だけど、どうしても好きになれないんだよな…。」そう思われてしまうと、どれほど業務の変革目的が正しくても、そのプロセスは不要な苦難を伴う道となってしまうのでしょう…。

昔、入社してばかりの新人として働き始めた数か月目に、営業活動の実習の一環で付いた先輩女性にカフェに座っているときに言われた言葉 ―「どんなにその人のことが嫌だとしても、自分から関係を切ってはいけないよ。」その言葉をいまでも思い起こします。

ロシアでのストレスをユーモアの心で吹き飛ばそう / Let’s release stress from work and life in Russia with sense of humor

ロシアに住んでいると、仕事も生活も日本のようにはいかずストレスが溜まることが多いのではないでしょうか。一方の日本では、異なる種類のストレスがあるために総合的にみると同じなのかもしれませんが…。

日本人はアジア人であり、黄色人種なんだ、ということをロシアで実感します。ファッション雑誌などの影響を受けて育った我々は、色白かそうではないか、眼が大きいか小さいか、二重か一重か、背が高いか低いか、顔が小さいか小さくないか…そんなことに自然と意識を向けてしまう傾向があるように感じていますが、自分の生まれた民族性を否定してしまう考え方を同じ日本人から聞くと首をかしげてしまいます。

ロシアでは、私たちは中央アジア人と間違われる可能性があり、その中央アジア人は、一般的にロシア人からよく思われていない傾向があるために友人からも時に「嫌なことにあってない?大丈夫?」と心配されます。実際にあるか、というと、露骨に嫌なことはないものの、場面場面を振り返ってみると小さなレベルでは気にならない程度ですが、それなりに出会っているのかもしれません。

最近思うのは、”自分が外国人で、アジア人だからこんなことをされるんだ、なにくそ。”という考えは誤りだな、ということ。モスクワに住むのはほとんどがロシア人と周辺国の人々。その中にわずかな比率で私たち日本人がいる。ここに自分がいてもいなくても日常的に発生する嫌なことが起こり、たまたまその場面に出くわした時に「差別だ!」と思うのか、「こんなことが起こるんだな、それにぶつかってしまっただけ、まぁ、仕方ないや」と思えるか。

今日、食料品店のレジの列に並んでました。2つのレジが動いています。4,5人が列に並んでいます。と、そこへやってきた店員が3つ目のレジを開き、「どうぞ」と列に向かって声をかけます。すると、その3つ目のレジのすぐ前に立っていた女性が、「いいですか?」と言って、籠を置き会計が始まりました。その女性の前に並んでいたおばあちゃんはすごい怪訝な顔でその様子を見ています。本来であればそのおばあちゃんが先にレジで会計を開始できるはずなのに…。レジの店員も本来なら「いや、列の先頭に並んでいた方からお願いします」と言えばよいものを。こんなちょっとした嫌なことは日常茶飯事です。差別どころか、中央アジア人ではないだろうと服装などから察してか、逆に優先してくれる方も時として出会います。嫌なことだけではなく、良い出来事も記憶に留めておきたいものです。

自転車で通勤していたとある朝。前にいた交通警察官に待ったをかけられて自転車をストップ、罰金を払うことに。

「ドキュメント(=パスポートを見せなさい)。」

「(今走っているところは)車道なので自転車で走ってはだめだ。歩道を走らないといかん。」

「いや、歩道は歩行者のためだと思って、あえて車道を走っているんだ。」

「いや、あかん。Zberbank(ロシアの最大銀行)で罰金250RUBを払ってもらうから。今書類を準備するから待っていなさい。」

「今日は勘弁してくださいよ…知らなかったんです。次からしませんから!」

「いや、だめだ。」

「250RUB。ディスカウント付きの250RUBですよね?」

「そうだ、お前よく知っているな。 ディスカウント付きの250RUB だ。」

「以前にも罰金をくらったことがあるんです…。」

「20日以内に支払えば250RUB、それを超えてから払ったら500RUBだ。これでも、君によくしてやってるんだ、本来自転車の場合の罰金は800RUB!それのディスカウントでも400RUBかかるのに、そこを250RUBにしてあげてるんだからありがたく思いなさい。」

「…。え~ほんまですか~…まあ分かりましたよ、ありがとうございます。」

罰金でディスカウント付。この表現が思わず笑ってしまいます。以前にも横断歩道ではない場所の車道を横断したところ、警察に止められて罰金を支払ったことがありました。その時にも”ディスカウント付き”と言われたのを思い出しました。

朝の忙しい時間に5分ほど時間を取られてしまい、かつ罰金ということでイライラしてしまうものですが、こういう時に取り乱しても何もよいことはなく。笑顔で笑いながら会話を楽しめたのは、我ながら成長したなあ…と。

「ところで、お前はどこで働いているんだ?ん、日系企業?もし秘密ではなければ給料はいくらぐらいだ?教えてくれ。」

「いや~モスクワの平均くらいですよ。」なんて言って曖昧に答えました。いやあ、一般的にこの場で給料はいくらだ?なんて聞かないでしょう…。

「どうも~、さようなら。」「お~またな~」という雰囲気で、それでもこちらはそのまましばらく車道を走ってオフィスに向かいました。

ロシアでは苦しいこともユーモアで笑い飛ばす。そんな心構えでいることはかなり重要です。笑いのネタになって笑いを提供してあげる。それができるようになれば相当無敵のロシア駐在員です。そんな無敵となるべく心の沸点と闘う毎日。

カティンの森を訪れて人間について考えた… / Thinking of the human beings when visiting Katin forest

カティンの森事件(約22,000人ほど ― 正確な数字は不明 ― のポーランド人捕虜がソヴィエト政府によって殺害され、この場所に埋められた) ― 誰もが学生時代の世界史授業で学んだことがあるはずです。11月3日(日曜日)にモスクワからカティンの森へ日帰りで出かけてきました。まさか学生時代には自らここに行けることになるとは想像もしなかった…。まずモスクワから西へ約400 kmに位置するスモレンスクへ。ベラルーシ国境へはわずか80 kmの距離です。モスクワからここまで電車で快速列車で約4時間。さらにスモレンスク中心から西へ約20kmの位置にメモリアル・カティンがあります。

わずか23RUBの乗り合いタクシーに乗って猛スピードで走りぬけて20分も経たなかったでしょうか、あっという間に終着駅に到着しました。そこは人通りがなければ廃墟といっても信じてしまうような場所…このような場所に人が住んでいるのか…と。乗り合わせたタクシーは目的地の手前までしか行かないルートでしたので、そこから徒歩で30分くらいかけてうっそうと白樺が生い茂った森へ徐々に到着しました。

正面のメインゲートではなく携帯電話で示された裏通りに入り、誰もいない一本道を一人でしばらく歩いてゆきます。天気も悪く、風に揺られた高々とそびえたつ白樺がときどき、ギギギギギ…ともウウウウウとも聞こえるような音を不気味に立てています。ガサガサ、と左手で音が急にし振り向くと犬が。一気に遠くに走ってゆきます。視線を上げるとその先には一人の年配の男性が動きもせずにずっとこちらを向いているのが分かります。犬と散歩中のようでした。なぜこんなところに人が…いや、相手も同じことを考えているだろうか…。そして相手は犬の動きに合わせて再び前を向き、こちらに背を向けて歩き出しました。こういうのは苦手ですね…誰もいない中を二人の人間がお互いの距離感を意識しながら歩調を合わせる。どんなにゆっくり歩こうにも相手のほうが遅いため、その距離が縮まります。もうこれ以上無言ではいられない、静寂の中で何も言わずに素通りはできない。そこで「こんにちは」と声をかけると、最初は無表情ながらも会話が始まり、こちらがなぜこの道を歩いているのかを説明すると、「道を教えてあげるから途中まで一緒に来なさい」と、途中までガイドしていただけることになりました。そして当時の歴史を語ってくれました。ロシアの人にとってはあまり触れたくない負の歴史でしょうか。こちらから何か感想を言うわけでもなくずっとその方のお話を聞いていました。「Это наша история…(これは我々の歴史だからな…)」と感慨深く発言していたのが印象深く残っています。この場所で約80年間に凄惨な事件が起こっていたのか、当時の状況をこの森はずっと見ていたのだろうか…ただただ考えてしまいました。まして毎日のようにモスクワの煌びやかな世界だけを見て生活していると、生きることの根本的な何か…を忘れてしまいます。犬は楽しそうに我々の周りを駆け回っています。男性に話しかけるやいなや、人懐っこく「おいおい、その人の邪魔するんじゃないぞ」というご主人の声をなんのその、こちらにぶつかってきました。なんだかんだと気が付けば49年もここに住んでいる。サンクトペテルブルクから100km北にいった町で生まれ、ここには建設労働者としてやってきてすっかり土地の人になってしまった。静かで空気もよい、この場所が大変気に入っているよ。とのことでした。短い時間の中の会話を楽しんでから、私の目的としていた入り口にたどり着き、そこで握手をしてお別れ。

敷地の中にはわずかな訪問者だけで、時折この場所を一人で貸し切っているのではと錯覚するような時間も何度かありました。そのおかげで静寂の中で一層、「人間って一体…なんなのだろう?」そう考える時間が生まれました。カトリック、正教会、ユダヤ教、イスラム教のエンブレムが並ぶ碑を見て考えてしまう、宗教って一体なんだろう。いずれも同じ神様を崇拝しているはずなのになぜ?疑問は消えません。犠牲となった方の中には正教の祭司と思われる人の写真もありました。神という名のもとでお互いに殺し合い、ただ政治のために善人が犠牲になったのだ、と。ここまで歴史を見ていても、ではなぜこのようなことが起こるのか?人は考えることを止めてしまっている気がします。どのように考えているのか不思議なので、ロシア人に尋ねてみるのですが、自分なりの答えを見つけて、それ以上深く考えないようにしている、そんな気がします。ロシア人を観察していても、神というものが形骸化している。神を信じているとは言っても、その存在の実態を感じない中で、教会に行きあの荘厳な雰囲気に酔っている…。そして、生活も国の経済も一向によくならない。毎日をただ楽しもう、と。

時々、人というのは生きていることのほうがずっとつらいこともある、と感じることも時にあります。病んでいる、というわけではなく、スモレンスクの町中でも苦しそうな顔をしてたどたどしく歩くおばあちゃん、足を引きずりながら歩いているおじいちゃんの顔を見てその思いが強まりました。それでも当時何も知らずにこの場所で殺害された人たちのことを思うと、その無念さは想像を超えるものがあります。今日、この場を歩き、一つ一つの見る場所を訪れ、足を止めて観察する中で、命の大切さについて考えさせられる時間となりました。ロシア人にとっては自国の負の歴史を目のあたりにする場ですが、このような歴史教育がどれだけ大切か考えさせられます。子供を連れて歩いている親子連れや若いカップルの姿。そんな人たちはどんなことを考えてこの場所を跡にしていったのでしょうか…。定期的にこのような場所を訪れることで当時のことを想像し、自分自身の今のあり方を客観的に見つめてみる。そんな時間が貴重です。

相手のことを想っているからこそ素直にフィードバックを。 / Being honest to provide feedback to Russian colleagues because we are taking care of each other

10月はじめに出かけたサンクトペテルブルクで子供たちによるバレー「白鳥の湖」を鑑賞しました。当日たまたま見つけたチケットで、約4,000円ほど。正直なところ、本物とは程遠いレベルでこれだけお金をとるのはどうかと…音楽の演奏レベルも決してよいとは言えないレベル…。途中で席をたちました。ほとんど中国人観光客で占められた客席。演奏前の「携帯電話での撮影禁止」アナウンスもしっかりロシア語、英語だけではなく、中国語で流されていました。といってもごらんのとおり、客席には私のこの写真も含めてビデオ撮影している人も何人も見られます。この禁止ルールは根本から考えて変えたほうがよいのではないか、と思ってしまいます。撮影を禁止するのではなく、逆に撮影をしてもらって世の中に広めてもらうことに利用すること、撮影してはいけない理由が何か他にあるのであればそれを説明し、その対策を取った人には撮影許可する(たとえばライトが邪魔になるのであれば、ライトが絶対につかないように設定を確認させ、それから開演するなど)、といった方法のほうが賢いのでは…と後ろから携帯ユーザーと、それをライトで注意する会場スタッフのバトルを見ながら考えてしまいました。みんな撮影したいです。

相手のことを想っているからこそ、素直に相手に直接フィードバックをする。当たり前のことがなかなか難しくてできない。それは世界共通のことかもしれません。

ロシア人スタッフとの定期的なミーティング ― 1週間に1度の定期的な頻度を保つようにしています ― を行っていると、話の内容がとある特定の人間であったり、とある課全体についての不平不満が聞かれることが幾度とあります。

「試用期間中の —(特定の人物)はひどい。みんな彼女のことをよく思っていません。採用活動を続けてもっとよい 別の人を採用するべきです。XXXさん(わたし)は表面的に彼女のよいところしか見ていないから、もっと周りのの意見を聞いて採用する、しないを判断したほうがよいです。 」

「— 課のみんなはひどい。ディーラーとのコミュニケーションのやり方も分かっていないし、私が手取り足取り教えてあげないといけない。あそこのマネジャーは一体どうしているのかしら。」

そのような感想を率直に伝えてくれることはとてもうれしいことです。わたしにそれを話しても大丈夫、と思ってくれているだろうから…一方で、それを伝えられたわたしは、逆に試されているのかもしれません。わたしに伝えてくれたスタッフはわたしにとって大切な戦力です。その人の信頼を失わないためにもその意見に従うべきなのか。いや、ぶれずにわたし自身の考えを貫くのか。

もちろん後者を選択しますが、その場合でもこのコメントを伝えてくれた本人に対して、相手の感想に感謝を示しつつ、それでもわたしがどう考えているのかを丁寧に説明することの大切さ。それは私自身の課題であって、以前は過度に感情的になってしまって気まずい空気を作り出してしまったこともありますが、どれだけ感情を抑えて、相手の意見を汲み取りながら自分の意見を伝えてゆくこと ― これは決してマニュアル化できないもので、経験を通して、そのケースごとに、その相手ごとに自分の言動を変えてゆけるスキルを培ってゆくことでしか得られないものと考えてます ― そんなことを反省しながら身に着けてゆく終わり無き途上にいます。

さて、そんな感想を言ってくれる人に伝えていることは ― 先週は同じ日に立て続けにこのような面談が連なったもので、素直に相手に私の思いを吐露しました ―

「なぜ、私に言って自分から本人に言わないの?相手のことを想っているのであれば、言葉を選んで率直に伝えることが本当に大切なことなんじゃないの?それが愛でしょう?」ということです。

必ず相手にとって大切と思えることがあれば、必ず私の思いを本人に言葉を選んで伝えること。これをいつまでも守り行ってゆこうと決めています。相手のことを想っているのだから相手にそれを言わずにいたら、それは私の責任に跳ね返ってくる。そのロシア人スタッフがひどい言動を改めずに他社に転職してゆく、その転職後の会社で引き続き相応しくない言動を改めないならば、「一体前の会社ではどんな教育をしていたのか…なんて会社だ…」と言われてしまうかもしれません。(言動を改めるのは本人次第なのでわたしにそれを強制する力はなく、あくまで指摘し続けることしかできませんが、それが自分にできることの最大限なのかな、と考えています。それでも変わらないことについて悩み苦しんだこともありましたが、それは自分を苦しめるだけで意味を成さない。それを実体験で噛み締めました)

伝え方には悩みます。どんな言葉を選んだらよいのだろうか、もしこういってこんな反応が返ってきたどうやって切り換えそうか。自分の想定している言葉が相手の人格否定となってしまうことはないだろうか…帰りの家路では「今にもメールで伝えてしまいたい」という苦々しい思いもありつつ、いや、そんなことしたら過去の二の舞だ。今日は我慢して、明日に直接伝えよう。こんな風に伝えたら本人に響くだろうか、など考えたりしながら。(考えていてもほとんどのケースで自分の予想していたように進むことはなく、その場での切り返し方を実際にその場で学んでゆくことが最善の勉強題材でしょう)

あとは、自らも周りからフィードバックを自然と得られる関係と雰囲気作りを心がけること。相手が何もいわなくとも顔の表情、振る舞いや空気から自らの至らない点を感じ取ろうと努めること。それも大切なことなのではないだろうか、と考えています。日本の文化で育ってきたわたしたちは、これはロシア人と比べて容易にしやすいのではないでしょうか。答えのない人事マネジメント。このやり方がよいのだ、と思ったことが、違うケースではひっくりかえされる。再び違う方法を模索する。この繰り返し。難しくもあり嫌になることもありますが、とてつもなく深い分野でいつも考えに耽ってしまいます。しまいには人間って一体どんな生き物なのだろう…と。

さて、私の気持ちを吐露した二人のロシア人スタッフからは「う~ん…」という納得とも拒否とも言えない反応が返ってきたのみで明確な答えは聞けませんでした。何か考えるきっかけになればよいなぁ、そしてロシア人スタッフ同士の中でお互いに、相手のことを想った温かみのある日常的なフィードバックをする文化が根付くこと、それを願っています。

ロシアで自分自身を客観的に観察し続けることの大切さ / The importance of continuing to observe yourself objectively in Russia

昨日、ついに本格的な冬が雪と共に始まりました。道行く人は、帽子、手袋を着用してすっかりみんな冬の装いになっています。厚手のコートに切り替えが必要です。通りにしばらく動かずに立っていると体の芯が冷え込んで震えてしまいます。

ロシアで駐在員として勤務する上で重要な点の一つに、自分自身をいつも客観的に観察し続けること。これが挙げられるのではないだろうか…と感じています。

ロシアに進出している日系企業は規模も小さく、各社で働く私たち日本人の人数も限られます。そして、日本人は大概重要なポジションを担っています。となると、どうしても部下のロシア人スタッフからの、私たちの相応しくない言動について直接指摘を受けるケースが少なくなります。私の経験上 — ロシアに限らずどの国でもそうだと思いますが — 私たちに対する評価は、彼らだけ食事や飲みに出かけている場所で、職場の中でも日本人がいないところで日々なされているわけです。わずか数人の、同じ本社から派遣されてきた日本人。その下に多くのロシア人の部下。日本人同士で指摘しない限り、なおさら自分の行動の正すべき点について注意をしてくれる人が限りなくゼロに近づきます。会社の中では自分の決定が多くの場合通ってしまう(その分責任も発生しますが)。部下もそれに従う。よく考えれば恐ろしいことです。日本にいる時には、上の人から(正しい、正しくないは別としても)何らかの指摘を受けていたのに今はそれがほとんどない。同僚が周りに多くいて何となく比較できる対象がいたのに今はそれがない。間違ってしまうと、「周りは自分の言うことを聞いていればよい、自分の意見が正しいのだ。」となってしまう可能性もあるのではないでしょうか。

社内のロシア人スタッフにしても、どうしても自分自身が仕事のノウハウを共有し、ロシア人スタッフもそれを受け入れる場面が多くなり、ロシア人スタッフと自分自身を単純に比較することは難しく感じます。(もちろん、ロシア人スタッフには、仕事だけではないとても優れた要素が備わっています。カラオケが上手、ダンスがうまい、会社のイベントでは常に率先して盛り上げてくれる。お菓子を作らせたら最高。お客さん向けのレストランの候補地をお願いしたら期待以上にアレンジしてくれる。そういった仕事以外での彼らのすばらしさには脱帽します。ただただその才能を羨ましく感じます。)

また、こちらから真摯に意見を聞きにいかない限り、相手も素直に気持ちを打ち明けてくれません。(それを打ち明けられてグサグサッっと感じることもあるのですが…。)他社の日本人と交流して自らを客観視することも可能ですが、他社の方々とのお付き合いはどうしても業務以外になってしまうのでお互いに相手の仕事について深くは理解はできない。そもそも日本人コミュニティの数も限られています。取引先のロシア企業には確実に比較対象となる方々いますが、それでも定期的に、かつ仕事に関してどっぷりと彼らの仕事ぶりを観察できるチャンスもないわけで、やっぱりできることは限られます。

やはり、自分自身で自らの言動を客観的に観察し、評価し続ける姿勢がとても重要であろうと信じています。

自らの行動、考え方があるべき原則からずれていないだろうか?長いことロシアで勤務するうちにロシアのやり方に傾倒して、日本のスタンダードを小馬鹿にしてしまっていないだろうか?自分は自分。これでいいのだ、と変に開き直ってしまっていないだろうか?自分自身に対するロシア人スタッフの評価を何とか得ようという努力を続けているだろうか?(たとえ本人が口にしてくれなくても、彼らの振る舞いから理解しようと努力しているだろうか?)

そういった自問自答を日々繰り返すことが欠かせないのだろう、と。

日本にいれば意識せずとも、自分自身がとてもかなわないレベルの方々が目に入ってくる。それがロシアにいると途絶えてしまう。そんなロシアの環境で、自分の能力を勘違いせず、どれだけ自分自身のレベルが広い世間と比べた時にまだまだなのか、を知ること。そうしていると、自然と日頃から謙虚でいられるのではないだろうか…それをロシア人スタッフにも訴えながら自分に言い聞かせているところです。

全てを自分で把握することと、全てが自らの意向どおりに進むことが異なることについて / Understanding everything by myself and everything goes according to my own intention are different

”Мужчна в кризисе 危機に面している男性” — 一体どんな内容なのでしょうか…街の中心部にある公共図書館にて。このテーマで講演が開かれているようで、ほとんどが女性によって占められていました。ロシアの図書館は平日は22時の遅くまで開いているところもあるようです。ほとんど利用はしていないのですが本に囲まれた生活にはいつも憧れます。どんなに電子書籍が広まったとしても、紙の良さには絶対にかないません。自分のお気に入りの本は紙のものをいつまでも手元に置いておきたいものです。

駐在員として現場で責任感を持って仕事をしていると、規模も決して大きくない会社であればなおさら、全て自分の思ったとおりになっていないと嫌になること ― よくあります。全てを自分で把握しておくことはもちろんですが、 それと全てが自分の意向通りのやり方で進むことは別物。この違いを受け入れることができることが、自分にとってもロシア人スタッフにとっても大切な一歩であると考えています。それは、自分の至らなさと良さをよく把握すること。シンプルな人間でいること。何でも自分で物事を管理しておこうとしないこと、みんなでお互いの良さを生かしてゴールをめざしたらいいじゃないか、そんなことではないかと思ってます。

仕事には目指すゴールがあります。しかし、そこにたどり着くためのアプローチは人それぞれ。ファイルの保存方法、仕事の進捗管理をExcelでやるのか紙の手帳で行うのか、資料の雑さの許容レベル、進捗管理の打ち合わせは今週の進捗結果の総括ができる金曜日がよいのか、いや週の初めの月曜日がよいのか…例を挙げるときりがありません。

それらの一つ一つの多くについて自分のやり方を周りに強要するべきか?(なぜなら、最終的な仕事の結果責任は自分に返ってくるので、自分のやり方を周りに強要し、彼らがついてくることが最善だから。)…いや、

多少細かいことは気にせずに、各自の裁量の限度を多く持たせてあげてその中で自由に行動できるようにしてあげるべきか?(なぜなら、いくら自分が最終的な責任者だからといっても、一つ一つの積み重ねは部下の協力無しでは成り立たないものであり、そうであれば彼らに気持ちよく働いてもらったほうがよいから。)

後者のほうが聞こえがよいように捉えられますが、部下の中には、裁量を与えるとどうしてよいのか分からなくなってしまう人間も出てくることを学んでいます。そういった人は上からきちんと指示とやり方を与えられて、それに従って仕事を進めることを好みます。人はある程度の自由を与えることがよいのだ、と信じていましたが、それができない人には自由そのものが苦痛となってしまう。残念ながら自らで物事を考えて、組み立てて仕事を進めることができないとしても、マニュアルに沿った処理能力は他人と比較して高いのかもしれない。仮にそのような業務がAIに取って代わってしまう可能性をはらんではいても、今その能力が必要であれば、その人に合った仕方で仕事を振ること。

多くの業務をこなしてゆく、仮に嫌としても、こなしていかざるをえない中で、自分の得意・不得意が見えてきます。自らの不得意な部分で誰か他の人が明らかに上を行っている様子が目に入ってきて内心落ち着きません。「いや、自分はもっとできるはず。こんなんじゃない。負けてなるものか」なんてプライドが邪魔してきます。その一方で、自分が思ってもいないことでも周りから見れば得意なことであったり。彼らは彼らで内心同じような気持ちを抱いているのかも。自分のできないこと、結果が期待できないことを素直に認めて(それも早めに)、相手に打ち明ける。助けてもらう。いつまでもそんな謙虚で、シンプルな人間でいたいものです。”多様性”とは、 ― それはよく言われる女性の活用、性的嗜好の異なる人たち、異なる文化背景、考えをを持つ人たちの活用だけにとどまらず ― 仕事のスキルの得意、不得意を組み合わせてゆくことで共にゴールを目指すこと、そんな多様性について意識することが、ロシア人スタッフと働く中で多くなりました。私自身、素直に自分の不得意な部分=弱い部分を嫌と言うほど意識させられています。しかも、それは私が責任を持って管理しなければならないにも関わらずうまくゆかない。悔しい気持ちがないといえば嘘になりますが、他の同僚や部下にお願いして助けてもらうしか術がありません。

お互いに「ごめん、これは苦手なんだ、なんとかしてもらえないかな…。」そんな人間性のある上司でいれば、部下も「私もこれできないんです…でも、あれはできます。」― きっと少しは気を楽にして気持ちを打ち明けやすくなるものです。そして、お互いに頼られると思って仕事を進めてゆけば、お互いに人間として、仕事のスキルもきっと伸びるはず。それをこれまで実際に現場で見ています。

さて、なかなか時間を割いて業務を事細かに教えることができないとしても、ロシア人部下も成長しています。たとえば自分の作成した資料をどんどん共有してゆくこと。ビジネスメールの書き方を勉強して、それを実践してゆくこと。いつの間にか、ふとした時に、「あれ?彼女これまでこんなファイル作成したことないのにすごいな…いや、これは以前に自分が作成したファイルだったっけか。」なんて場面に出くわすことがあります。「あれ?彼女のメールの書き方変わったな、シンプルで分かりやすくなったよ。(きっと自分のスタイルを多少意識してくれたのかもしれない…自己満足でなければよいのですが)」

時間がかかったとしても、少しずつ間接的に自分自身の勉強した結果を仕事で実践してゆくことでそれがスタッフの間に広まり、それが素材となってスタッフの意識に何かのきっかけを与えられること。そんな日々の積み重ね。 今はすぐに目につかなくても、スタッフの中には何かを感じ取って、学んでくれている人が少なからずいることを信じてゆきたいものです。 それだけ自らも日々勉強し、部下から喜んで学ぼうとするシンプルさが大切なんですね。

ロンドンとモスクワを見て感じた両者の違い / The difference from Moscow that I felt in London while having a walk in London

老人と老犬 ― 火曜日の朝、Hyde parkにて。 どちらが主人なのか分からないほど老犬の堂々たるくつろぎぶりが微笑ましい光景でした。

イギリスのロンドンで数日過ごしてきました。到着した土曜日、ホテルのテレビをつけると、まさに議会はBrexitの議論の真っ最中。週末に議会が開かれたのは1982年のフォークランド紛争以来だそうです。EU離脱の採決を延ばす、いや延ばさないの議論が繰り広げられている様子が。イギリスで議会制度がイギリスで生まれ、そしてイギリスで崩壊するのでは。混沌してゆく世の中。人(国・議会)が人々(一般大衆)を導いてゆくことの難しさを感じざるをえません。

さて、ロンドンの街は多くの観光客のリラックスした、楽しそうな様子もあって、そんなBrexitの混沌はなんのその。大いに盛り上がっていました。街を歩いていて感じたモスクワとの違いを書いてみました。

直感的に分かりやすい標識

飛行機で到着してからパスポートコントロールまで歩く途上にて。今自分の歩いている場所がどの段階にいるのかを直感的に示してくれています。それにしても、飛行機を降りて狭いタラップを歩いてゆくと渋滞。なんだろうと思うと、空港警察が4人ほど立ちはだかり、乗客一人ひとりのパスポートチェックしていました。以前にはこんなことは無かったので驚きました。

ロンドンに来て毎回感じるのは、直感的に分かりやすい標識の表示方法。パッと見てパッとどこにゆけばよいのかが分かりやすくなっている点。その色使い。これらの要素を自分の作成する仕事のプレゼンテーションにも参考となっています。どのようなコンセプトが背景にあるのか分かりませんが、よく考えられているなぁ、と素直に尊敬しています。街中の広告にしても、このような空港の標識にしてもおそらく多くのお金がコンサルティング会社やデザイナーに支払われているはず。その仕事の結果をこうして無料で見ることができるのですから、くまなく観察してその色使いやデザインのコツを真似るべき。なんとお得な題材が街中に広がっているでしょう、素晴らしい。

街中の公園の構造

私はモスクワの公園が大好きです。モスクワ自体が大きいこともあるのでしょうが、首都モスクワの中には大きな公園が点在しており、街中に自然を感じます。ロンドンは日本の東京に近いでしょうか、大都市の一角に大きな公園が寄せられて存在している、そんな印象です。

そして、このHyde parkでは人間中心に考えられて整備されたまっすぐな道、人が自然をコントロールしている。木々の配置もなんだか人工的なものを感じています。一方のモスクワでは白樺などが豊かに広がる森の中をくねくねと曲がって続く散歩コース。どちらかというと、自然のありのままを生かしつつ、人のための道を後から整備している、そんな気がしています。

公園の鳥たち。さすがにこれはモスクワにはありません。こんな光景を見ていると、日ごろのストレス、嫌な気持ちも随分と和らぎますね。Hyde parkではリスをよくみかけますが、リスはモスクワの公園にも住んでいますよ。

写真に写っていませんが、池の周りを掃除するゆっくりと移動する車に追い立てられるように鳥たちが一斉移動しているところです。

歩行者向けに注意を促す道路の表示

初めて見たとき、このアイディアには惚れました。歩行者信号が青になったからといって、左右を見ずに一歩を踏み出すことはモスクワでは絶対にやってはいけません。決して高い頻度ではありませんが、すごい勢いで車が突っ込んでゆくこともあります。赤信号でも信号待ちが嫌なのか強引に信号無視している車も見かけることも。中国やインドネシアと比べればマナーは良いほうだ、という話を聞きますが、モスクワでは、いずれにせよ歩行者信号が青になった場合にはきちんと車が来ていないことを確認した上で一歩を踏み出しましょう。

工事現場の標識

こんな案内あったら思わず立ち止まってしまいます。工事現場を魅力的に、安心に見せるためにとても素敵なアイディアではないでしょうか。サイトを訪れてみると、子供たちに工事現場の危険や、建築の面白さを伝えようとしている、そんなサイトのようです。この工事現場では花の鉢植えも飾っていて、殺風景になりがちな工事現場に彩を添えていました。こんなちょっとした一ひねりを加えることで印象も変わるもの。勉強になりました。

Ivor Goodsite

地下鉄の駅と観光名所を示した地図

こんな地図はモスクワの地下鉄にはありません。率直に言って、決して分かりやすいとは思いませんが、こんな地図を掲示しているアイディアは素晴らしいですね。

施設の防災に関するレベルの高さ

2018年3月25日にシベリアに位置する都市ケメロヴォのショッピングセンターで発生した火災で64 名の死亡者を出し、そのうち41人が幼い子供たちであった事件。これ以降、ロシア各地で防災設備の監査が入り、ショッピングセンター、ビジネスセンターを始めとした設備の防災対策強化が高まっています。

https://www.bbc.com/news/world-europe-43552165

非常口ドアには内側からレバーを押し下げると容易に開くことができるタイプを設置することや、オフィスのドアは必ず内側から外側に開くタイプにすること(火災時には内側から多くの人が外に逃げるため、内側に開くタイプはその動きに反するため。押して広げられるようにしておくこと)、非常口へ通じる通路には不要なものを置かずに一定の間隔を確保しておくこと。ガラスなどは一定の時間、防火性のある材質を用いるべきことなど・・・各社は対策を求められています。

ロンドンに来ると、至るところでこのような写真のマークを扉の上に目にします。イギリスでは防火対策のルール徹底がどれほどなのか、私には分かりませんが管理部門を担う私としては大変興味があるところです。モスクワでもショッピングモールなどに出かけて避難経路図を見つけると、立ち止まって自社の地図と比べてみたり。そんな違ったショッピングモールの歩き方もお勧めです。

本や新聞を読んでいる乗客の数

モスクワの地下鉄に乗っていると、本を開いている人をほとんど見かけません。単に数が多くてなかなか目に付かないだけかもしれませんが・・・。大概携帯電話を操作している人が主です。読書と言えば携帯電話で電子書籍を呼んでいる人が多いのかもしれません。ロンドンでは新聞や本を読んでいる人々をよく見かけました。携帯電話が普及しているとはいえども、本を開いて読むことは目に優しい気がします。なお、これも思い込みかもしれませんが、最近出かけたサンクトペテルブルクでも街中や地下鉄で本を開いている人をモスクワ以上に見かけることが多かった印象です。

顧客満足度の情報提供

これはモスクワの空港でも頑張っています。顧客サービスの向上を目指しているのはどこでも同じですね。ロンドンの空港では顧客満足度情報のグラフがディスプレイに表示されていました。

サンクトブルクでのSynergy Global Forum 2019を振り返って / Looking back on

会場に向かう、金曜日の朝のサンクトペテルブルクの地下鉄にて。朝からベンチでうなだれるように眠っている男性。一体どんな人生を過ごしてきて、そしていまこのベンチに座っているのだろう…半年働いてもらえるほどの金額、1枚の500,000RUBのビジネスフォーラムチケットを購入する人もいれば、日々の生活がやっとの人もいる世の中…そんなことを考えてました。

サンクトペテルブルクで10月4日(金)、5日(土)に開催されたSynerge Global Forum 2019。そこで感じたことを振り返って —

日頃から感じることに、ロシア人の多くはノートを取らないなぁ、と。会場ではじっくりと聞いている人が多い印象。あとは携帯でビデオをとっている人。日本の場合だと、ノートを取る人がもっと多いのではないだろうか。ノートを取っても取らなくても、大切なのは話の要点を頭に叩き込むこと。とあるロシア人に言わせると、「ノートを取っていると、書きとっている間に今話されている内容を聞き逃してしまうのが嫌だからとらない」のだとか。私自身を振り返ると、ノートになんでもメモを取ろうと一生懸命であった新入社員の時代。ベテランの女性社員に「ねぇねぇ、そんなにメモを取ってほんとに後で見返すの?」といわれてドキリ。メモを取るべし、とのハウツー本のアドバイスに従っていただけだったが、その本来の目的を見失っていたことがありました。メモを取るのはポイントのみでよし。すべての話される内容が重要なわけではなく、要所を押さえて聞き取り、後で時間がたっても思い起こせるようにメモを取っておく。振り返ることは前提として、要点メモは大切ですね。

セミナーなどで世界的に著名な方のお話を聞くのは、今回が初めてでとても貴重な体験でした。ロシアという場でどんな人たちが参加して、どんな様子で耳を傾けているのだろう、とても関心があり、実際に見て感じることができたことは素晴らしい経験となっています。それと同時に感じたのは、何度も出かけるものでもないんだな、と。高いお金を支払い、立派なお話を聞いて…その日は何だか賢くなったような錯覚に陥るのです。が、話の内容は決して目新しいものではなく、誰でも知っている内容が説かれているだけ。でも、なぜこのようなセミナーが世界各国で繰り返されているのかといえば、誰もが分かっていても、それを実際に行動に動かすことがどれだけ難しいことか…。だからこそ、このようなセミナーの需要が常にあるのだろうことが想像できます。私もそうです。どれだけ行動することが難しいことか実感しています、それも歳を取るほどに守りに入ってしまう…。

このようなセミナーに参加することの意義?それは、本屋に出かけて本をパラパラとめくることにもつながりますが (ハウツー本はもう自分自身のために買うことはないだろうなぁと。どれだけ大量の本を購入して、架空の自分の成長を妄想してきたことか…そしてお金の浪費…) 、”今の自分の方向性の正しさを確認することだろう”と。

話を聞くこと、本に書いてある内容をめくりながら確認してうん、そうそう、そうだよな、よし、自分の方向は間違っていないな。あれ、これは考えたほうがいいなぁ、今やっていることを継続することが目的化してしまっていて、本当の目的はなんだっけ…?など、熟考する機会に。

そして、もう一つの目的は、こんな風に大勢の同じような志を持っている人が世の中にいるんだ、自分自身も努力してゆこう、そんな気持ちにさせてくれるのが今回のセミナーでした。新入社員の1年目。メンターを務めてくれた年齢が倍ほどの方の言葉を覚えています。「正直、努力してもそれが本当に実るのか分からない。けれども、風が吹いたときに自分の行きたい方向に進むためには、船の帆を挙げておかなければならない。その帆を上げる準備ができているのか?それは日頃からの準備(努力)が大切なんだ」と。(我々は機械ではないので、日頃ぶつかる問題とも向き合いつつ、無理しすぎることなく自分なりに努力してゆきたいものです)