日本旅行記 其の1:相手にとっての相応しいものと自分にとってのそれとは違うもの / Travel in Japan : What tourists want to see and What I want to show are different

ロシア人の友人が年始の休暇に日本を訪れることになり、旅行のガイド役を務めるべく約5日間、一緒に彼らと過ごしてきて日本観光を楽しんできました。初日は皇居を訪れて偶然にも天皇陛下とその周辺の方々を見て、東京スカイツリータワーへ。こちらはすっかり時差ボケを感じ、彼らを待つ間に何度も頭がガクと崩れ落ちるのを経験しました…。翌日は横浜見学。ランドマークタワーの展望室から眺めた夕方の富士山の美しさに誰しもが目を奪われていました。私はみながカメラを構え、同じ顔をして同じ方向を眺めているその光景にすっかり目を奪われてしまいましたが。美しいものをみるとみんな幸せな顔をしています。

そしてその翌日は歌舞伎座を訪れて5時間通しで見た後、はじめてのうどんにトライ。確かにモスクワでは一般のお店でもそばが置いてありますが、うどんはほとんど見たことがありません。「私はうどんのほうが気に入ったわ」といってとても喜んでもらえました。そのあとはTeam LaboによるDigital Art museumで大はしゃぎ。実際に足の裏で床を感じ、実際の水にひざ下までひたりながらデジタルの鯉を追っかけてみたり。流れゆく光の中に身を置いて幻想的な空間に浸ってみたり。日本には世界に十分誇れるものがあることを体感してきました。3日目は浅草をのんびり散歩したあとに隅田川の遊覧船でお台場へ。フジテレビの展望台閉まる直前に何とか間に合い、ニューヨークよりもずっとずっと綺麗ではないかと思うくらいの日本の夜景の美しさに酔い浸りました。日本は何と美しいのでしょう。彼らに同行した最終日は、小田原から箱根までです。箱根湯本から旅館に向かう道中で圧倒的な存在感を見せる富士山を眺めては何度も止まって写真を撮影。昔の人が富士山をみて崇高の念を持ったことにも納得ができます。冬で空気が澄んでいることもあるのでしょうか、大変綺麗な富士山を眺めることができました。


約1年半ぶりに帰国した日本、色々と感じることがあった時間でした。そして、改めて日本の美しさ、すばらしさを感じる機会となりました。駐在を経験された方から何度となく聞く言葉は、いかに自分が自国の歴史、文化、日本の訪れるべき場所を知らない(出かけたことがない)かを駐在期間を通して知ったこと、帰国してからは積極的に自ら出かけるようになった、ということです。それを私自身も感じています。


さて、今回のテーマは自分がよかれと思ってやってあげたいこと、これはやるべきだという自分の思い。そして、こうであろう、という自分の中で予め創造する相手から期待する反応。一方でそれを提供される側の希望や反応の仕方に生じるギャップについてです。これを見せたい、これをトライしてもらいたい。そう思って実行してみたものの、あれっと思うことだってあります。


最後の別れ際に、私は仕事の都合上先にモスクワに戻る必要もあり、箱根を一緒に散策してから戻った旅館にてお別れをしました。最後の別れ際に「家までの帰り道でおなかがすいて倒れてしまうと心配だからこれ持って行って」、と渡してもらったのは私が小田原駅で買った日本の味、かまぼこ。みな一つだけ食べた後は食事のほとんどに手を付けずに残しており、逆にほとんどすべてをもらってしまいました。とってもおいしいものなのに気に入ってもらえなかったのだろうか、考えようによってはそんな風に感じてしまうかもしれません。

人はそれぞれ育った背景も嗜好も異なる。そんな中で自らの考える、日本の観光の在り方に執着してしまう危険。自分の中にある余計なエゴが出てきてしまい、相手の気持ち、旅行を台無しにしてしまう危険があるなあ、感じます。箱根湯本駅から宿まで乗ったタクシー運転手は大変サービス旺盛で、見どころのポイントごとに立ち止まって説明をしてくれます。写真スポットでは、ここは全員で写真を撮ったらいいんじゃないですか、撮りましょうか、と丁寧に聞いてくれます。「ここは400年前に実際に人が通っていた東海道だ」「このお玉ヶ池はねえ…」と言って、車を止めてこの池の名前の所以を話してくれます。わざわざ寄り道して観音菩薩像を見せてくれることまで配慮してくれました。後部座席に座るロシア人を振り返ると、苦笑いをしながら、小声で「…ねえ、大丈夫?私たちの今日の残りの予定をこなす時間が無くなってしまうのではないの…?」と苦笑いとともに聞いてきます。私の語学力が完全に伝わるほどに通訳できるわけでもなく、ロシア人旅行者も決して道中で見る光景に興味を示すわけではありません。


きっと本来であればロシア人旅行者の彼らが希望する優先事項を事前に理解した上で道中のスポットの立ち止まり具合を決めて運転手にお伝えしておくべきであったのかもしれません。丁寧に説明してくださる運転手に「大丈夫です、ここはパスしてください」というと、「そう…。」と何とも少し納得がゆかないような、寂しそうな様子です。また、一般的に言われる国民性であったり、食習慣の違いがあることから観光の仕方や時間の過ごし方があります。それも潜在的に自分の中でそれに沿って相手の行動を決めてしまう危険もあると思います。全く日本を知らないロシア人に対しては、「東京と大阪では言葉の違いがあって、大阪に出かけて関西の文化、言葉の違いも楽しむとよいですよ。」といっても無茶だと思われます。そもそも日本語すら知らない人に方言を説明してもわかるはずがありません。旅行前に一緒に食事をして日本について話す機会がありましたが、私が東京と大阪のこの言葉の違いを話したところ、「ロシアは北からチェチェンのある南、ウラジオストクの極東まで途方なく大きくてあらゆる人間がいる。言葉を理解し合えるといっても、そんな中でお互いを分かり合うのもやっと。それでいて日本のような小さな国で、言葉を全く分からないにも関わらず、わずかな旅行期間で方言の違いが分かるはずがないよなあ。」と娘を送り出すお父さんに笑われてしまいました。確かにそうですね。こんなやり取りから、相手が望むものはなにか?それに対して自分はどのように応えることができるのだろうか?自分の言動は潜在的に自分の気持ちを相手に押し付けてしまっていないだろうか?…そんな点を考える助けになると思いました。


さて、少なくとも、私が ― 私の勝手な思い込みであると言われればそれまでですが ― 感じるロシア人の一般的な常識は、朝が弱い、言い換えれば朝が遅いことを好む人が多い。私の中では、ホテルの朝食は朝のオープンしたばかりのビュッフェには大概日本人。日本人が食後のコーヒーを飲み終わって部屋に戻るころにようやくロシア人の宿泊客が現れる ー そんなイメージです。また、日本の旅行者はいくつかの名所を短い期間で見る計画を立てて、早めのペースで回ることがある。そもそもロシア法律で要求されているルールに(罰則規定はありませんが義務として定められています)1年の内に1度は14日間連続の休暇取得を求められているロシアと違い、一般的には1週間の休暇が最大の日本、それも同じ時期に(私が勤めている会社はそうですが、今はかなり多様化しているのでしょうか)。そんなこともあってか日本人の観光旅行者は少ない日程の中にぎっしりと予定を詰める傾向にあるのかもしれませんね。人によって異なるので、~人とはこうである、と一括りにしてはいけないことは分かっていますが、一般的にみられる傾向として感じていることを書いてみました。このように短い時間ではありましたが、この数日間で得た気づきもあり、日本を知るよい機会ともなり、大変有意義な年始を日本で過ごしてきました。

さて、早くも1月も間もなく終わり。休み明けも時差ボケに悩まされ、来季予算資料の取りまとめ作業に追われ、従業員が辞めてゆき、輸入商品への取得義務である認証EACの対応に追われ…よく言えば、まったく飽きる暇のないロシアで仕事に明け暮れる毎日です。

人に期待することの独りよがりとあきらめと納得感 / self-righteousness, resignation and a sense of satisfaction about expecting something from others

ロシア人スタッフのために私として出来ることを行った結果、その相手が成長することを、私のことをよく思ってくれることを期待することは、ただの独りよがりのわがままである、と今では考えるようになりました。

仕事で相手に期待した後の、そのギャップに苦しむのは自分。この長い年月の苦闘の経験から私に言えるのは、人に期待することは逆に自分の独りよがりで勝手なわがままなのではないかと。相手に期待するからこそ、その結果に裏切られて悲しい思いをした記憶があります。この12月の時期には、各社New Year partyを企画するところが多くあります。それは会社の規模によってはホテルやレストランを貸し切って開くところもあれば、少人数でレストランを予約して食事会を開くところ、あるいはパーティ自体を開かない会社様々です。私の働く会社では会場を貸し切り、この日は仕事時間も短縮して大いに皆盛り上がります。とりわけ女性たちの化粧、衣装の気合の入り方には驚くばかりです。それだけのイベントなので、人それぞれの要望が分かれます。多数決を採択しても決まらず、良かれと思って裏で一生懸命に動き、下見して皆にとって良いと思われる選択肢をした…と思いきや、「選択した場所はとても良い場所ではあるけれども、New Year partyは本来、その場所でやるべきではなくて、もっと別のところのほうがよかった。私の周りで聞く限りは”みんな”あまりいい評価をしていない。残念です…。」なんて言われるとがっかりしてしまいます。これを言われた日の晩はかなり真剣に悩みました。自分の決定が果たして良かったのだろうか…と。この抽象的な表現、”みんな”という言葉を簡単に信じることも危険です。わずか3人かもしれず、多くても5,6人かもしれません。誰にとってもベストな選択肢などありえるはずがない。自分のベストを尽くしたらあとはなるようにしかならない、これまた真実を実体験から学んでいます。

言葉の語弊を恐れずに言えば、自分のやるべきことはやるけれども、そのあとは相手次第。自分の考えたとおりに相手が動かなくてそれに期待することもしない。そうすればイライラすることも避けられます。日本人の駐在員がロシア人スタッフの部下について悪く言うのも、こうあるべきだという思いがどこかしらにあり、それが相手のことを悪く言う原因の一つになっているのではないでしょうか。そうなってくると、結局自分の周りにはイエスマンを揃え、イエスマンが全員日本人駐在員の思うままに動くことを良しとする、そうなるはずです。多様性(Diversity)の重要性を会社として訴えながらも、実際には多様性を否定する実際の現場。矛盾が生じますね…。

人に期待しなくなったときに、すっと自分自身の中で納得感ができました。そしてよい結果がでてきたときに、逆に期待していなかった結果に驚き、感謝の気持ちを感じます。それのほうが精神的に健康的なのかもしれません。

ロシア人スタッフの人材育成と日本人マネジメントの責任の関係 / The relation between Human Resources (Russian staff) development and the responsibility of Japanese managements

私が、長年ロシアに勤務する中での「人材育成」に関して悪戦苦闘、試行錯誤から得た結論。それは、「日々の自分の発言とそれに矛盾しない行動がスタッフ自身の育成に繋がる。」これしかないんだろうな、と今の時点では結論付けています。
きっとこれが真実であるからこそ、会社はマネジメント以上の能力以上には成長しない、という会社の成長について語る際に何度と無く耳にするこの表現は、まさに的確な表現だなぁ、と思うばかりです。

これから記載することは、「えっ、こんなレベルなんですか?」と、 長年日本で仕事をしている人から 言われておかしくないのかもしれませんが、実際に私が日々直面してきたことはこのような状況です。そして、裏を返すと、日本の大企業に詰まっている、世代をわたって引き継がれてきている日常業務のノウハウの標準レベルの高さ、浸透度合いの高さについて改めて素晴らしい・・・ただただそう感じるのです。

たとえば、大量の書類の束を見るも無残なくらいに引き伸ばされた痛いげなゼムクリップ(Paperclip)を見て、「こういった量がある時にはこれに見合ったターンクリップ(Binder clip, Foldback clip)を使いなさい」とか。サプライヤーへの支払い承認申請書を持参して口頭で説明するスタッフに対して、「要点をまず申請用紙に記入してくるように。その口頭説明を後で誰が覚えている?もし私たちが退職したあと、この二人の会話がどこにも残っていなかったら後の人たちが申請履歴を見ても分からないでしょう。」とか。Excelファイルを作成する際には、(全てではないですが)きちんと印刷プレビューにて、自分の作成したファイルが正しい印刷用範囲内に収まっているかを確認すること。その上で他者に送信をするように。」など。そういった日常的に出会う小さなことです。

あるいは、時間管理。遅刻しないこと、仕事時間に関する生産性を高めるようにスタッフに日ごろから訴えているのであれば、私たちが出社時間を守るのは当たり前ですが、それ以外には予定の会議に時間通りに参加することを意識すること(残念ながら数分の遅刻が時々やむを得ず起こりえるのですが・・・)、どうしても時間をずらす必要が出る時には、次に待っているスタッフにショートメールを伝えて会議の時間変更をお願いすること、とか。私の時間だけではなく、次に控えている他のスタッフの時間をむやみに浪費してしまうことがないように意識が必要だと思っています。

Excelについて言えば 、Excelに未熟なスタッフでも最低限取り扱えるであろう必要最低限名関数を利用したファイルを作成し、それを実務で使うように共有してゆく。そうすると、面白いことにロシア人スタッフなりにそのファイルを自分たちに合うように改良して、実務の中でそれが発展してゆきます。そしてその関数を覚えてくれるスタッフがでてきます。(しかしながら、そのファイルが滅茶苦茶なことになっていないか、時々チェックを入れることが重要です。さもなければ、勝手にファイルを一層難しくしてしまっているケースもあり・・・。なぜ仕事を簡単にするべくこのファイルを共有したのに、こうも勝手に仕事を難しくしているんだ・・・?と。これも悩みの一つです)

結局、このように自分自身の一つ一つの行動がロシア人スタッフの間に伝わってゆき、例えば最初の例でいえば「承認を得るためには事前にXXをやっておかなければダメなんだ」と、スタッフが形から入ることでそれが常識となり、それを自然に行えるようになってゆく。人によってその習得度は大きく異なるのですが、結局のところそれがスタッフのビジネススキル習得のための 最短距離の 方法なんだと。この結論に至っています。

まだまだその他にも改善点は残っています。Emailでのコミュニケーションがチャット状態になっていて、多くの従業員がCCに入っており、関係ない人ばかりなのに全員にメールを送り続ける現象 ― 「もうやめてくれ!」と全員に伝えてもやめない人間がおり、それがきっかけでまた続く ― そんな直らない点もあるのですが・・・。

そして、このような基礎的な事柄を自然とスタッフが出来るようになったときに、次のステップとして「なぜ?」という問いかけです。これができない人が多いことに驚きます。

  • 言われたことはできるけれども、自分でその理由を考えようとしない。
  • 言われたからやる。おかしいと思っても私は気にしない。
  • 日本人のマネジメントが言っていることで文句を言わずに聞いておいたほうが楽だから。
  • 何かこのやり方に間違いがあっても責任は日本人マネジメントだから、私には関係ない

そんな要素も皆無とは言えないのでしょうが、よいチーム関係を築いている間柄で、お互いに発言をし合える環境にあることを前提とするならば、「なぜ、これをやらなければならないのか?もっと他によい方法があるのではないか?」日本人マネジメントから多くの知識、経験をスタッフに共有することが多いとしても完璧ではありません。スタッフのほうがもっとよいアイディアを持っていることが実際にあります。その問いかけをどれだけ各人の中に生むことができるか。 さらに試行錯誤は続いています・・・。

人材へのトレーニングは本当に必要なのか? / Does Company really need training for employees?

これはその会社のレベル、置かれている状況によって答えが異なる…というのが正解でしょうか?会社でこれまで受けた研修は私にとっては一つ一つに収穫があったので意味がある、というのは間違いないです。ただ、人事部は体系的に入社XX年目研修、新任課長研修などの定例的に組織された、決まったレールに則って企画される研修後に、その効果の振り返りを行うべきでしょう。大半の人は、その場の雰囲気を楽しみ、その中で語られることをなるほどなるほど、と聞いて、何だか賢くなったように感じる…が、後になるとその気持ちも忘れてしまう…そんなもの。人事部がどのように人材教育を計画しているのか私には分かりませんが、これまで参加してきた研修は、いずれも研修後のフォローが無く、ただ参加しただけ、という印象でした。むしろ、研修の一番の目的と効果は、同期の仲間と久々に会って近況を報告しあうことなのではないか、と思ってしまいます。研修の中身は忘れてしまったとしても共に語り合ったことは覚えている、という。

あまりアイコンタクトもしない、積極的な姿勢がない講師の方でムムム・・・と想った研修がかつてありました。こんな講師もいるのかぁ…と思っていた二日間の研修。その最後に「私の経験から言えることは…何事も自分で判断した決定について、その判断した理由をきちんと自分で語れるようにしておくことが大切だ、ということです…。」という言葉は一生忘れません。毎日と言ってよいくらい、決断するときにこの言葉を思い起こします。

ロシアにいるために参加できず、その代わりに受け取ったDVD録画で代理参加した研修内容で語っていた講師の言葉、「人は何を言うかではなく、誰が言うか、が重要だ。」「自分のやりたいこと(Want)と、会社のやるべき仕事(Must)を近づけてゆく努力と行動をすること。」これも響いています。

研修、というのは1日から数日間詰め込んでも、結果としてほとんどのことを覚えていない人が大半。そんなものなのかもしれません。そして、人事部の目標として研修を開催することが目的化していないだろうか?というのはいつも念頭においておくべきだと感じています。私自身、ロシアに来てから初めて人事の仕事に従事し、今では主にその仕事に時間を費やしているのですが、ロシア人スタッフに対する研修プログラムを考える時に悩みに悩みます。(率直に部下から「こんな忙しい時期になんでそんなことを、人事の目標達成のために開催するだけでしょう?」と言われてしまいました。

研修とは、日常とは異なる場で、忙しい日常の中から隔離された場所で、日頃時間を取って考えることができないテーマについて時間を取って考え、お互いに意見を発言し、客観的に自分を振り返る。かつ、日頃仕事ではお互いに交流が少ないスタッフ同士がコーヒーブレイクやランチの時間を含めて一緒に語り合う場。それを提供できれば成功なんだろうか、という、前半にも書いた結論にたどり着きました。

みな、なぜ?という疑問が自分で起こらない限り、どんなに会社が教育しても意味がないと感じます。研修で心に残る言葉は、日頃からそのことを考えているからこそ引っかかる。考えていない人にとっては「そうなんだぁ。」程度で終わってしまう。会社として何としてもこの研修によってスタッフを成長させなければダメなんだ、成長しない人間は許さない、なんていう独りよがりの期待は逆効果ですし、そんなことに労力をかける必要もないのでしょう。

そのようなわけで、スタッフにとって必要だと思われる研修テーマを一生懸命考えて準備して提供をすることは必須ですが、その一方で、誤解を恐れずにいうと、その結果にまったく期待もしていません。わたしの人生ではなく、それぞれの人生、価値観に依存することもあるので、人事として考えた効果が決して想定した通りには上がらない。むしろそれが普通なのでしょう。これぐらい覚めていないと余計にギクシャクしてしまう気がする。それが今の私の至った結論です。

面白いことに、例えば、時間の効率化を必要としていない人に対して仕事の効率化の研修を企画しても意味がない、ということ。なぜこれだけExcelのショートカットを覚えなければいけないのか?それはそれだけカバーしなければならない業務が多いから。でも業務量もスキルも低いスペシャリストのレベルで、彼・彼女が特に何も不自由なく自身の仕事をカバーできているとすれば、なぜわざわざそんなショートカットを覚える必要があるのか?と言われてしまいます。そうです、決してショートカットを覚える必要がない、という彼らの理論も正しいです。

そして何よりも、自分自身で意欲のある人間は、人事部による研修制度などなくとも勝手に自ら教材を探し出し、自分の負担でどんどん勉強し成長してゆく、という事実。

それ以外の人々にとっては、成長する、というその必要性がなければ「なぜ?」という疑問がわかず、その疑問がわく人も実は全員ではない、という事実。期待をしすぎることは結局自分の独りよがりのわがままであって自己中心的な考え方なのだろうと、繰り返しになりますがそのように考えるに至りました。

採用コストと研修コストの費用対効果についても考えさせられる要素です。この点は採用に関する記事で後日書きたいところですが、この点については世の中の人事部のスタッフであれば必読書ではないかと思うGoogle人事の方による「Work Rules!!」(by Laszlo Bock)が考えるよい題材となりました。

外国語習得のための秘訣(ロシア語に限らず) / Tips for learning a foreign language(Not only Russian language)

私は英語とロシア語を例にとってしか語れませんが、外国語を習得するにあたって大切なことはなんだろうか?と考えてみると、いくつかの要素があると考えています。

先日、出張者を連れて赤の広場のすぐ近くにあるお土産屋さんに入ったところ、女性のアジア風の顔をした女性がすぐに近づいてきて、私たちが中国人ではないと悟ったのか、大変流暢な英語で「何をお探しですか?」と話しかけてきました。後でその場にいた複数の女性店員に聞いてみると、ウズベキスタンやキルギス出身の方々で4,5か国語を操る、とのこと。中国語を含む大変多くの中国人観光客がいるために、お土産屋さんも中国語を話すスタッフを常駐させているようです。対応も親切で、彼らにチップを払うべきなのか…いやでもロシアでは不要なはず?…初めてこのようなお土産屋さんに入ったこともあり、分からなくなってしまいました、結果として、お礼を丁寧に伝えてからその場を後にしてきました。

正直に認めざるをえませんが、私自身には彼女たちのように幾つもの言語を操る能力はありません。いや、能力は誰しもが持っていると考えていますが、絶対的に複数の言語と接する時間を日常生活で小さい頃より持っていたであろう彼女と比べて、通常の日本の環境で育った日本人であるならば、私たちにはそのような絶対的な時間数で劣っているわけです。そして、今は言語学習に費やせる時間も限られています。

言葉に対する拒否反応をどれだけ下げることができるか

その言語を見た時に、「うわっ、見たくない。」— この気持ちをどれだけ低くできるかが重要だと考えています。英語でさえ、英語のWebsiteを見たり、ロシア人スタッフとの英語でのメールやり取りを読むだけでも「うわっ、見たくない。」、そう皆さんは思うことがないでしょうか?正直なところ、私はあります。やはり慣れ親しんだ母国語が一番楽ですし、その言葉の裏にあるニュアンスも感じ取ることができます。そうはいっても英語は避けて通れません。私は、毎日その言語に触れることでしか自分自身の拒絶度合を緩和することはできないと思います。

ituneを見ると、いくらでも無料でBBC、CNN、NYTimesといったニュースリソースを入手して聴くことができますし、ウェブサイトでも記事を読むことができます。

ロシア語について言えば、私はロシアのビジネスニュース紙であるRBK、Vedomostiを購読していますが、全ての内容を分からないにしても、毎日目を通すことでロシア語に対する拒否反応を確実に下げることができます。定期的に目にする単語を調べることでロシア語の語彙力も上がることはもちろんのこと、今のロシアでどのような話題が熱いのか、日本で報道されているロシア関連のニュースとの温度差を感じることができますし、日本のメディアのロシアに関するニュースについて 客観的な視点で 観察することができます。

長年、学生時代から英語を学習してきたにも関わらずなぜこうも英語の上達が遅いのか — 結局のところ、目的が無い中、かつ日常的に英語を使用する環境にいない日本で言語の勉強をしても、よっぽどの強い意志力が無ければ上達する可能性が低い、と考えていますが — 疑問に思う点でもあります。ロシアで勤務する中で感じるのは、やはり日本人というのは外国語が得意ではない人が多い、これだけ英語を学習してきたにも関わらず話せる人は決して多くないのだなぁ、という印象を持ちます。そんな中で、英語やロシア語で直接情報を取ることができる能力を持つことができるのであれば、それは非常に高いスキルであることは間違いありません。ロシア語で書かれているロシアの情報がどれだけ多いことか…。英語と比較してもそれは比べものになりません。間違いなく、ロシアにいると英語やロシア語を学ぶ動機づけが高くなります。

ひたする真似る

街行く人の会話を耳にしてそのままボソボソと自分で真似して話してみる。地下鉄の中で聞こえる会話を自分で真似してみる。そのリズムとアクセント、身振りも含めて真似してみる。「あ~なるほど、この表現はこんな時に使うんだな。よくこのフレーズを会社のロシア人スタッフが使っていたなぁ、きっとこんな状況でも使えるのか、この言葉はきっと汚い言葉なんだろうなぁ。」など、街を歩いているだけでもその場がロシア語の訓練場所です。

街の広告をよく見てみよう

街を歩く中で見かける広告も大変重要な語学学習教材です。短いフレーズでキャッチフレーズを並べている街の広告。考えぬかれた言葉が用いられています。それを利用しない手はありません。ロシア語には語尾が6つに変化する格変化、かつ男性形・女性形・中性形のパターンも存在し、複雑な気がしますし、日本人にとってはきっと完璧に理解することは難しいに違いありません。それでも、街で見かける広告を見て、その格変化を眺めるだけでも文法の学習に役立つと感じています。韻を踏んだ言葉遊びの愉快さも学び取れます。

(外国語を習得したければ、その国の彼女、彼氏を作るのが一番早い - よく聞く話です。これは真実だと思いますが、ポイントは相手のことをもっとよく知りたい、会話したい、という言語を学習する動機が高まるがゆえにそれだけ多く勉強して(Input)会話する(Output)サイクルが活発になるからだと思います。彼女、彼氏を作る以外にも言語学習への高い意欲とそれを利用する機会があるのであれば同じように高い効果が見込めるはずでしょうか)

とある土曜日に出会ったモスクワのタクシードライバーとの深い会話 / Conversation with a Taxi driver on Saturday in Moscow

この前の 日曜日に利用したタクシーにて、出会った運転手との会話が非常に深いテーマとなりました。なかなかこんなことを語り合える人に出会えることは少ないのではないかと思って、記録に留めておくべく会話したことを思いめぐらしながら書いています。

今年の冬は、ようやく先週からマイナス気温が続く冬らしい光景になったばかりで雪もまったく降っていない、不思議な冬。「今のモスクワの冬は、誰にも予想がつかないよ。」との話をよく耳にすることが多い気がします。

さて、運転手は40代半ばくらいだろうか、私が携帯のアプリで地図上で指定した住所の位置が間違ってしまい、電話で謝りつつ正しい住所へ来てもらいました。

「ごめんなさい、間違えてしまって。」「なになに、まったく問題ない、大丈夫だ」- そして出発。

走り出して数分くらいだろうか、「今日はよい天気ですね、ようやく冬らしくなりました。」という話をすると、少し沈黙が続きます。あれ?どうもさっきは陽気な感じで話を容易に始められそうだな、と思ったのだけれど若干とっつきにくい様子だろうか。ー すると、「雪があればもっとよいんだがね。雪があれば暖かく感じるんだ」という回答が帰ってきました。

そのうち、「モスクワはどうですか、私は長いことモスクワで仕事していて変化をみていますが、モスクワは良くなったと思いますか?」と尋ねると、(大概は、街はきれいになっても生活は一向によくならない、という文句を言う運転手がほとんどなのですが)

「街は良くなっているけれども、ガソリンも地下鉄もバスもどれもこれもが値上がりしている気がするよ。生活コストが高くつくようになってしまった。・・・ただし、すべてはその人の見方次第。何事も前向きな気持ちで物事に接すれば前向きな結果が返ってくるし、逆に何でも批判的に接しているとそれが自分に返ってくるんだ。」ー なかなかこんな前向きな回答を発言できる人はそういないのではないでしょうか。

「私たち日本人は、どうも我慢強いのだけれども、ストレスを内側に溜め込んでしまう傾向があるように感じています。その一方で、ロシア人は外に怒りを発散することが自然で、それだけ上手にストレスを外に発散できているのではないでしょうか?この点、私たちも見倣う必要があるのかもしれない。」と言うと、

「確かに我慢しすぎるのはよくないけれど、それを周りに発散してその人はOK。でもそれによって生じる周りの問題はどうだ?わめいて、それによって君の怒りを ぶつけられた人がまた次の人に向かって同じことをする。それが回りまわって自分に返ってくるんじゃないか?同じ物事に我々が出会ったとして、その状況は変わらないとしても、自分の今の行動次第でその先に起こる将来を変えることができるんだ。あなたが怒りをぶつけたい。それでも、それを自分のところでそのネガティブな行動をストップさせる。そうすると、それによって次の人が招いていたであろう行動をストップさせることができる。それによって将来を変えることができたことになるんだ。」 ― この言葉は深いです。本当にその通りだと思います。

「本当にそうですね、そして、頭の中で分かっていてもどれだけそれを行動に移すことが難しいことか…。深いです。皆がそのように行動していれば世の中はきっと良くなるに違いありませんよね。」そんなことが車の中での一貫したテーマでした。

今自分が行動を変えることで、その先で待ち受ける結果を変えることができる。自分の行動を受ける相手が私自身の行動によって行動を変えてくれる。つまり私が変えることができる。自分自身がどのように行動するか。

「確かに深いテーマだけど、いたってシンプルだろう?」

ほんとにそう。いたってシンプル。けれども、いかにこのシンプルなことを自分の行動に移すことが難しいことか、それを私自身も含めて毎日身の回りを観察する中で感じています。

聞いてみると、27年間、大学の公開講座に通って講義を聞いており、自分自身で聞いたことを振り返って熟考しているようです。

ロシアでの仕事における夏時間と冬時間の上手な付き合い方 / Tips getting along with Summer and Winter time for work in Russia

夏はより大規模な仕事を、多少負荷がかかっても堂々と。たとえば、細かいストレスを感じる会社ルールの見直し、整備や古い会社設備のリノベーションなど。日光も多く、人の気分もおおらか。冬は寒く、日光も減り、心なしかオフィス内のスタッフも少しのことでぴりぴりしてしまうように感じます。精神的に負担がかかる仕事は、とりわけネガティブな感情を生み出しかねない後ろ向きの仕事は冬の到来までに可能な限り片づけておくこと。これは年間の仕事計画を考えるにあたって重要なことではないかなぁ、と実感しています。

また、冬になるとロシア人スタッフの病欠が増えることも事実です。2週間病欠でいなくなる、ということも決して珍しいことではありません。身体が弱い人が多い気がします。また、子供が病気になってしまい、共働きであることから夫婦のいずれかが子供のケアをしなければならない。そのために休暇を取るケースも見られます。以下参照URL先に病欠を取る場合のルールを説明した動画が掲載されています(ロシア語)。病欠になったスタッフは、病院にでかけ医師に診断してもらい、一定の日数を経た後に再度医師に診てもらった上で仕事に復帰してよいかの判断をしてもらう。そして専用の用紙を発行してもらい、それを会社の人事部に提出する、というのが一般的な流れです。

ロシア人の友人に「この時期になると、ロシア人スタッフがよく病欠で休むんだよなぁ」と話したところ、「日本人はロシア人と比べて良いものを食べているから身体が丈夫なんだ。ロシア人の食べているものは品質が悪く、その影響ですぐに病気になるんだ。」― 当たっている部分もあるかもしれません。それもあってロシアでは日本の食事が人気ですし、ロシアの食料品店でも健康志向の 食品が増えています。実際の売れ行きは分かりませんが、需要が無ければ増えないと思われますので、恐らく多くの人々がそれらの商品を購入しているのでしょう。病欠の話を聞くと、ー これも一度ならず発生するのですが、病欠の完了日を聞いており、その翌日から出社してくることを想定していたら、「医師の判断であと数日病欠が延期tなりましたのでもう少しお休みします。」…あります。-少ない人数で仕事を回しており、複数のプロジェクト(各部門の年間の達成目標)を抱えてその管理を担う私の立場としてはため息が出ること、あります。私の部下で病欠しているスタッフは働きぶりもしっかりしている人たちでずる休みすることはないようですので、このがっかり感をぶつける術もありませんが、病欠が起こることにより計画の変更を余儀なくされることは予め想定しておくこと。これは私の実体験からお伝えしたい点です。

スタッフからは「北欧では夏と冬とで日照時間が違うこともあって勤務時間の長さを調整している企業がある、うちもそうしないのか?」と尋ねられます。今の私が勤務する会社では季節別の勤務時間の変更に対応できるほど会社が成熟しているわけではありませんが、あらゆる可能性は考える価値があると思っています。私はまずはフレッスク勤務が第一歩であると考えていますが、その実現については、各企業の相手とするビジネスパートナーとの関係でどうしても相手の勤務時間に合わせる必要があること、トップマネジメントからのロシア人社員に対する信頼と社員の勤務実績と結果のコントロールバランスなどの要素を慎重に検討してゆかなければならず、そう簡単にはゆかなそうです。

なお、ロシアでは病欠をとると、その分ほぼ確実に収入が減ります。一定の分は法律により補填が保証されていますが、計算ロジックを見ると病欠にならないほうがよさそうです。

  • 100%が保証される場合…累計8年以上(同一企業である必要はなし)の勤務経験がある場合。
  • 80% — 5-8 年
  • 60% — 5 лет未満

病欠の間の給与計算にはルールがあります。過去2年間の収入額総額を730で割り(つまりカレンダー日数)、一日当たりの日当を計算し、それに病欠日数を掛けたものが支払われる、という計算です。この過去2年間の収入総額には基準額があり、毎年変動するので確認が必要です。この基準額に満たない収入額の場合は実際の本人の収入額を利用する。基準額を超える場合には同基準額を利用する、となっています。そのため、いずれにしても労働者にとっては収入が減る結果となります。しかし、具体的に把握しているわけではありませんが、この収入減を補填する制度(例えば、年間の病欠10日間までは会社が本人が本来出社していれば受け取っていた額を保証するなど)を取っている企業は少なからずあるように思われます。

参考URL

http://rabotnik-info.ru/bolnichnyj/

仕事もコミュニケーションもシンプルに(日本語の使い方について思うこと)/ Make job and communication simple (thinking about the way of communication in Japanese)

日曜日の朝、マクドナルドで休憩中の路上の清掃スタッフ。背中からほっと一息ついている様子がうかがえて微笑ましくなりました。

日本を長いこと離れて、ロシアに住み、客観的に日本語を観察し、ロシア人とも会話する中で日本語表現について考えることが多くなりました。

~したいと思います。
よく見ることが多いYoutubeのチャンネルにしても、日本人の会議の場面でも、何度も、どこでも「~したいと思います」というフレーズをよく耳にします。「思う」、とは、~である、と発言者本人が断定はしないけれども、そう考えていますよ。ということであって、100%それを実行するか分かっていない場合ではないだろうか、と”思っている”のですが、どうでしょうか?
今、一般的に使用されている「~したいと思います。」というのは、それを100%実行する前のの場面です。この場合は、シンプルに「~をしてゆきます。」とはっきり述べるのが正しいのではないだろうか、と私は”思います。”

ちょっと、
ねえ、ちょっとちょっと、の声をかけるときのちょっとではなくて、少し何か違うんだよね、とか何か納得できないんだよな・・・、このちょっとねぇ…、でもありません。あまり意味もなく、言葉の間と間の沈黙を埋めるために使われるときのちょっと。そんな風に利用される機会が増えているのではないだろう。この”ちょっと”の意味が分からないです。

~だと……

言葉の語尾が曖昧になる傾向があるのではないか、と感じます。最後まではっきり言い切ることを避ける人が多い気がしています。その分相手の言いたいこと、その人の言いたいことの確信度合を慮る必要が生じます。

日本語について考える中で、こう感じています — 言葉を少しでも多く表現することで丁寧の度合が増すのだろうか、と。そして断定を極力避ける。だから比較的日本語のメールは長くなるのかなあ、かつ何を言いたいのか分かりづらいのだ、とも。

日本の慣習ならではの、相手の気持ちを考えるが故の”考えすぎ”

ビジネスメールでは、「了解です。」で済むのに、これだと冷たく聞こえるから、
「了解です。ご苦労さまです。」だったり「かしこまりました。ありがとうございます。」

しまいには、「了解です、ご連絡に感謝いたします。またよろしくお願いいたします。」であったり、「かしこまりました。ご回答いたありがとうございました。次回も何卒よろしくお願いいたします。」徐々に長くなってゆく。そして、ありがとうございました、なのか、感謝いたします、がよいのか…考え出してしまう…

ロシア人スタッフのメールやり取りを見ていると、”Thank you”に”Thank you!” とExclamation markをつける。この”!”マークが多いなぁ、という印象です。これで受信者が少しは好意的に受け止めてくれるのであれば”!”をつけるのもありかもしれませんね。ただ、”!”に惑わされて、実際に本人のロシア人スタッフのところに行くと、面倒な顔で対応されることがあります。!が付いているといって騙されてはいけません。

メールという無機質な媒体でコミュニケーションをとるが故の人間の苦労。面倒なものが作り出されてしまいました。人間は科学の力で世界をどんどん便利にしていっているはずなのに、世の中をどんどん複雑にしていっているように感じてなりません。それに加えて、仕事を複雑化することが好きな社員がいるからたまったものではありません。仕事もコミュニケーションもシンプルに。

アジャイルと業務プロセス改革と人のエゴ / Agile, Business process improvement and human egoism

出張にやてきた情報システム部のスタッフの方と会話をしていて、

・最近のシステム開発の傾向はアジャイル。少しずつ開発をして確認してはバグを見つけて調整する

・世の中のトレンドが変わってしまう今の世界、自社のシステムを作り込んでしまうのは危険。むしろいつでも切り替えがきくようにできる限り購入したシステムの標準機能をできるかぎり変えないように。そして自社のフローを標準に近づけることを考えるべき

という点を学習しました。とても深い、重要な点だと素直に感じました。Agile、というタイトルがついた本をロシアでも見かけます。インターネットで調べてみると何年も前から使われているようです、知りませんでした…。

会社全体の社内の業務プロセスを管理する立場として感じること、それは現状の会社の業務プロセスをできる限り変えずに維持しようとする人々が大半であることです。倉庫業者を変える時、会計システム(私たちが使用しているのはロシアのシステム1C(ロシア語読みでアヂンエス、英語ではワンシーと呼ばれます)のバージョンを更新する時、必ず現状の運用とのギャップが生まれ、それにどう対処するのか…どの会社でも同じ問題に直面しているに違いありません。私には正直なところ、この問題に対する明快な答えがありません。ただただ感じるのは、これまでの業務プロセスを整備し、問題を抱えながらも一生懸命にメンテナンスをしてきた人、大変な負荷を抱えつつもエクセルファイルで立派なデータ資料を作成し、それを発展させていた人がいる。そういった人たちのこれまでの努力を簡単に否定してしまうことがないように気を付けなければならない。システムを導入することによって、あたかも、これまで我々がいかに無駄に仕事をしていたのか、とスタッフの能力を否定してしまうかのような発言をしてはならない。一人ひとりの気持ちを感じ取る心を持っていること、理解していることを示す態度は重要であろう、と。

個人の能力について、これには思うところがあります。また別の機会に書きたいと考えています。誰もが可能性を秘めた能力を持っているか?私はこの見方には今では否定した考えを持っています。残念ながら人にはそれぞれの限界がある。その限界の中で人は自分なりに努力しなければならない。それが真実ではないでしょうか。

さて、アジャイルと自らの会社の業務プロセスを変えること。いずれもそれを困難とする理由は、各人のエゴ、要らないプライド。ではないだろうかと思うに至りました。きっと経験の豊かな方々、すでに人材教育の世界では当たり前のこととして語られているのでしょうが、私自身はこれを実務の中で自らそれを否定すべく取り組み一生懸命やってきた、その結果の挫折から、エゴという問題の難しさ、それを取り除くことは絶対に無理であること、それをしっかり、ずっしりと身体に染み渡るように学習しました。

各人それぞれが会社全体としてのゴールを理解している。そのためには、自分の過去に築いてきた努力、功績を忘れなければならない、それは分かっている。でもダメだ…あたかも自分が否定されているかのようだ…。だからアジャイルで小さく変化、周りへの影響をチェックする。アジャイルはシステムそのものの開発だけではない。その周りにいる人たちへの影響も確認する作業。会社の業務プロセスを変えること。これはエゴの塊との闘い。こういった時に役立つのがどれだけ日頃から一人でも多くの人間の信頼を得ているか、ではないでしょうか。どんなに正しいことを言っていて、結果を出していても、「この人はほんと凄い人だけど、どうしても好きになれないんだよな…。」そう思われてしまうと、どれほど業務の変革目的が正しくても、そのプロセスは不要な苦難を伴う道となってしまうのでしょう…。

昔、入社してばかりの新人として働き始めた数か月目に、営業活動の実習の一環で付いた先輩女性にカフェに座っているときに言われた言葉 ―「どんなにその人のことが嫌だとしても、自分から関係を切ってはいけないよ。」その言葉をいまでも思い起こします。

ロシアでのストレスをユーモアの心で吹き飛ばそう / Let’s release stress from work and life in Russia with sense of humor

ロシアに住んでいると、仕事も生活も日本のようにはいかずストレスが溜まることが多いのではないでしょうか。一方の日本では、異なる種類のストレスがあるために総合的にみると同じなのかもしれませんが…。

日本人はアジア人であり、黄色人種なんだ、ということをロシアで実感します。ファッション雑誌などの影響を受けて育った我々は、色白かそうではないか、眼が大きいか小さいか、二重か一重か、背が高いか低いか、顔が小さいか小さくないか…そんなことに自然と意識を向けてしまう傾向があるように感じていますが、自分の生まれた民族性を否定してしまう考え方を同じ日本人から聞くと首をかしげてしまいます。

ロシアでは、私たちは中央アジア人と間違われる可能性があり、その中央アジア人は、一般的にロシア人からよく思われていない傾向があるために友人からも時に「嫌なことにあってない?大丈夫?」と心配されます。実際にあるか、というと、露骨に嫌なことはないものの、場面場面を振り返ってみると小さなレベルでは気にならない程度ですが、それなりに出会っているのかもしれません。

最近思うのは、”自分が外国人で、アジア人だからこんなことをされるんだ、なにくそ。”という考えは誤りだな、ということ。モスクワに住むのはほとんどがロシア人と周辺国の人々。その中にわずかな比率で私たち日本人がいる。ここに自分がいてもいなくても日常的に発生する嫌なことが起こり、たまたまその場面に出くわした時に「差別だ!」と思うのか、「こんなことが起こるんだな、それにぶつかってしまっただけ、まぁ、仕方ないや」と思えるか。

今日、食料品店のレジの列に並んでました。2つのレジが動いています。4,5人が列に並んでいます。と、そこへやってきた店員が3つ目のレジを開き、「どうぞ」と列に向かって声をかけます。すると、その3つ目のレジのすぐ前に立っていた女性が、「いいですか?」と言って、籠を置き会計が始まりました。その女性の前に並んでいたおばあちゃんはすごい怪訝な顔でその様子を見ています。本来であればそのおばあちゃんが先にレジで会計を開始できるはずなのに…。レジの店員も本来なら「いや、列の先頭に並んでいた方からお願いします」と言えばよいものを。こんなちょっとした嫌なことは日常茶飯事です。差別どころか、中央アジア人ではないだろうと服装などから察してか、逆に優先してくれる方も時として出会います。嫌なことだけではなく、良い出来事も記憶に留めておきたいものです。

自転車で通勤していたとある朝。前にいた交通警察官に待ったをかけられて自転車をストップ、罰金を払うことに。

「ドキュメント(=パスポートを見せなさい)。」

「(今走っているところは)車道なので自転車で走ってはだめだ。歩道を走らないといかん。」

「いや、歩道は歩行者のためだと思って、あえて車道を走っているんだ。」

「いや、あかん。Zberbank(ロシアの最大銀行)で罰金250RUBを払ってもらうから。今書類を準備するから待っていなさい。」

「今日は勘弁してくださいよ…知らなかったんです。次からしませんから!」

「いや、だめだ。」

「250RUB。ディスカウント付きの250RUBですよね?」

「そうだ、お前よく知っているな。 ディスカウント付きの250RUB だ。」

「以前にも罰金をくらったことがあるんです…。」

「20日以内に支払えば250RUB、それを超えてから払ったら500RUBだ。これでも、君によくしてやってるんだ、本来自転車の場合の罰金は800RUB!それのディスカウントでも400RUBかかるのに、そこを250RUBにしてあげてるんだからありがたく思いなさい。」

「…。え~ほんまですか~…まあ分かりましたよ、ありがとうございます。」

罰金でディスカウント付。この表現が思わず笑ってしまいます。以前にも横断歩道ではない場所の車道を横断したところ、警察に止められて罰金を支払ったことがありました。その時にも”ディスカウント付き”と言われたのを思い出しました。

朝の忙しい時間に5分ほど時間を取られてしまい、かつ罰金ということでイライラしてしまうものですが、こういう時に取り乱しても何もよいことはなく。笑顔で笑いながら会話を楽しめたのは、我ながら成長したなあ…と。

「ところで、お前はどこで働いているんだ?ん、日系企業?もし秘密ではなければ給料はいくらぐらいだ?教えてくれ。」

「いや~モスクワの平均くらいですよ。」なんて言って曖昧に答えました。いやあ、一般的にこの場で給料はいくらだ?なんて聞かないでしょう…。

「どうも~、さようなら。」「お~またな~」という雰囲気で、それでもこちらはそのまましばらく車道を走ってオフィスに向かいました。

ロシアでは苦しいこともユーモアで笑い飛ばす。そんな心構えでいることはかなり重要です。笑いのネタになって笑いを提供してあげる。それができるようになれば相当無敵のロシア駐在員です。そんな無敵となるべく心の沸点と闘う毎日。