日本の生産性の低さは日本の丁寧さと表裏一体 / Japan’s low productivity is closely tied to politeness of the way of Japanese conversation

日本に帰国してから早くも1か月が経過。生活のリズムも少しずつ慣れてきました。それにしてもこの雨、雨、雨。そして体にずっしりとくる湿気。モスクワの夏がどれほど快適であったかを感じています。身体が想像以上に疲れ、集中力が無くなってゆく。かといってずっとエアコンの元での生活は好きではない。適度にエアコンを使用しながらよいバランスを探しているところです。

そんな中、新しい職場で勤務し始めて約二週間が経過しました。
日本の生産性が低いといわれる所以の一つに、物事に明確な言い方を避けて、なるべく聞き手に察してもらうことを期待した会話の進め方、日本語の会話方法に問題があるのではないでしょうか。きっと多くの方がすでにこの点を指摘されているのでしょう、日増しにその思いは強くなっています。

何をしてもらいたいのか、その指示は分かるけれども、いつまでにやるべきか。具体的にどこまで掘り下げるべきか? たとえば、「締め切りはXX日までね」「了解。」その約束の期日の二日ほど前に「あれはまだできていないの?やっぱり早く欲しいんだよね」。あるいは、「この内容で関係者に依頼事項を出しておいてね。」その数日後には「やっぱりエクセルファイルを添付して、それに記入をお願いしたほうがよかったと思うんだよね…」

指示の仕方が悪い、そんなことを言うつもりはありません。「どのようなイメージのレポートが欲しいですか?」「なぜこのタイミングで急いでいるのですか?要求の背景にあることは何でしょうか?」そんな質問を部下の側からも上司にすることで、双方向のコミュニケーションとなり、そこで顕在化する課題や、新たに得られる情報が後々余分な労力と時間をセーブするのに役立つのではないでしょうか?あとは、上司の指示通りにではなく、自分自身でも深堀して考えてみる。自分なりにアレンジをしてみる。非常に多くの業務に忙殺されている中で、上司も人間ですから細かい指示、情報共有を一度で全てできないことだってあるはずです。部下から質問をしてゆくことで指示内容が洗練されて、より磨かれることだってあります。上司の責任は大きいですが、部下が上司をサポートする姿勢を自ら見せること、そうありたいと思います。ロシアで正社員が50人程の決して大きくない会社でしたが、部下を抱えながら指示を出している時に痛烈に自分の指示の限界、部下からの指摘の有難さを感じた経験があります。だからこそ、日本に帰ってきて自分自身が再び一社員として部下の立場になるときに、部下として上司のためにあるべき姿が分かったような気がしました。ロシアで、私の思っていたことと異なる結果が生じた時に部下に尋ねると「あなたの指示がこうだったから私はこうしたまでです。」という回答。振り返ればそれは決して否めないので私も部下を批判できないのですが、それでもやっぱり「ああしてくれていれば良かったのに…考えてくれなかったのかな…」という思いになったこと、ありました。

たとえばチーム内でもお互いにきっと直接言いたいことがあるのだろうけれども、黙っている。「ねえ、私の言いたいことは自分で悟ってね」という雰囲気。はっきりと物事を伝えることができればどんなに良いことか…?はっきりと伝えられない理由はおそらく、発言者の側にその言葉を発した時にその言葉が与える相手への強いインパクトを感じているから。そしてそれをなるべく避けたい。そうなると、短く話せばもっと分かりやすいのに、言葉を増やすと丁寧さの印象が増えるので言葉が多くしたくなる。言葉が多くなると一層伝わりにくくなる。相手の気持ちを考えるがゆえに言葉が増える。人格者でいることも — 決して悪いことではありませんが — 仕事を進める上では仕事の指示の理解を混乱させる要因となっているように感じます。丁寧にやろうとすればするほどにシンプルなものが複雑化するリスクをはらんでいる。面白くもあります。

会議では最後に「それでは何か質問ある方いらっしゃいますか?」…シーン…。「質問がないようなので、それでは終わります、ありがとうございました。」…しばらくして、会議に参加していた方々が立ち話をしています。「あの依頼事項は具体的には何を表しているんだろう?よく分からなかったんだよなぁ、わたしはこう思うんですよね…」一度となく会社で見る光景です。これも自分自身の質問が場の全員に関係の無いものだから他の人の時間をあえて取らないようにしよう、という気遣いに基づいているのだと思います。素晴らしいことだと思っています。一方で、意外にも自分の感じていることは他の多くの人も心の中で感じていることがあるのも事実かもしれません。そのような経験も一度ならずあります。そんなことも踏まえると、会議中に質問することこそが周りへの優しさでもあるのかもしれませんね。

仕事では、大切な特質である丁寧さが逆に機能してしまうことがある。

また、日本に戻ってきて、― 前から感じている点ですが ― ここでなぜ笑いが起こるの?と感じる場面が多々あります。なぜそこで笑うのか分からない、そして結論がうやむやになってしまう。振り返ると、あれっ、あの件って結果はどうなったんだけ?と。難しい課題になればなるほどに笑いが重要な役割を占めるのかもしれません、もしかするとはっきりとした結論が求められておらず、それはそれとして流しておくためにも笑いがあるのかもしれません…。笑いの難しさについて皆さんはどのように感じるでしょうか?

テレワークになってからは、同僚や部下、上司ととのコミュニケーションを取ることが大切にされており、定期的にMicrosoftのTeamsを利用して会話をする時間が設けられています。しかし、その会話が単に表面的なコミュニケーションに終わっていることはないでしょうか?冗談を言い合って、お互いに当たり障りのないことを言い合って時間を過ごす。笑いもあり柔らかい雰囲気を作ることはチームビルディングに大切なこと。確かにその通りですがが、真のコミュニケーションは、お互いに考えていることを正直に伝えあうこと。もっとお互いに本音で語り合う場が大切ではないかと思います。そうでなければ、ただ表面的にコミュニケーションを取っています、というだけの無駄な時間になってしまう恐れがあるかもしれません。

街中で立ち寄るコンビニで出会う土方の親方風の男性。同僚と会話する時の元気の良さ、明確な話し方。大きな声。何と分かりやすい。きっと日本人が~、日本語が~というステレオタイプの見方は誤っており、自分自身がいる環境で見聞きするもので語ってしまっている。

時として、曖昧さが生み出すプラスの副産物だってあるかもしれません。あらゆる方法に出会い、経験し、試しながら失敗と成功を味わい、それを自分自身のスキルとして身に付けるチャンスとしたいものです。

ロシア勤務の大雑把な総括、ロシアも日本も同じだ。 / Rough summary of work in Russia, there is no difference between Russia and Japan

自宅隔離の2週間を終えて、新たな職場での仕事が始まりました。生活の基盤を整えること、以前の仕事の引継ぎであったり新たな仕事に慣れること、荷物の整理など、多くのやるべきことが同時に降りかかり、落ち着いて物事を考えるゆとりがありませんでした。少しずつ自分のペースを取り戻してゆこうと調整中です。

さて、7年という年月は思っていた以上に自身に大きな影響を与えているようです。ロシアと日本のよさを融合してゆけたらと考えています。

ロシアでも日本でも女性が大切な業務を担っていることは明らか。モスクワではロシア人女性の部下と時に声を張り上げてやり合っていたのが、日本では言葉遣いにより気を付けながら女性にどれだけ上手に仕事をお願いして物事を滞りなく進めることができるか。そんな違いがあるのかもしれない?と感じています。

日本とは~こうである、他方ロシアは~こうです。とステレオタイプに語ってしまうことの誤り。私自身、気を付けていないとこのような論調で語ることがあり、気をつけなければと思っています。「モスクワは本当のロシアではない」という人もいます。私は周りの他社駐在員の方々と比べるとだいぶロシアの深い部分も含めて足を運んだほうだと思いますが、生活のベースはモスクワ。どうしてもモスクワでの生活を基準に「ロシアとは」を判断してしまいがちです。そうはいっても、日本からやってきて管理部門の駐在員として勤務する大半はモスクワ。このブログではモスクワを中心にして仕事に関する話を進めて問題はなさそうです。

思ったように働いてくれないことに対しても 文句を言わないことを学びました。よく考えると、現地スタッフは、例えば30歳という年齢でも20万円に満たないような安い月給で働いてくれている人は少なくありません。それでも言ったことはそれなりにやろうと努めてくれる。それ事実に感謝 すると自然と不平不満も消えてゆきます。

一般的に駐在員は外に送り出してもよいと判断され、仕事ができるであろうとみなされる優秀な人が選抜されていると思います。その駐在員の基準で 仕事を要求すれば彼らの仕事のレベルは駐在員からすれば物足りないでしょう。もちろん、イライラすることは実際に多々あります。まずは徹底的に自ら仕事をして、困っている現地スタッフの仕事を助けてあげて一緒に仕事をすることで信頼関係を築き上げて、ある程度の時期が来た時に、”強気”に出るのが良いのだろうと思います。「なんでこんな仕事を自分にさせるんだ?これは上司である自分の業務ではないでしょう、自分でやろうよ?」といいながら仕事を振ってゆく、というイメージ。

見ていると、現地スタッフの多くは、私たちが仕事の枠組みを作ってあげて、その中で絵をかいてね、というと描いてくれますが、キャンバスの大きさがどれくらいで、どんな絵に仕上げるべきか?ここまで考えられる人はいません。そもそも何が問題なのか?という問題の設定能力に努力が必要というか ある下書きの枠線をある程度書いてあげてから渡すことが求められています。(きっとこれはマネジメントの仕事であるので当たり前なのかもしれません)

 長年ロシアで仕事をしていると どうしても日本人とロシア人の間での ギャップを見聞きします。表面上はうまくやっていても裏ではお互いに悪口をいっています。それは決して辛辣なものではありません、よく日本でもあるように陰で相手を小馬鹿にしたような会話が大半です。これを見聞きする時にはとても残念だな、と感じます。ロシア人スタッフは大変合理的で、英語も上手で、自己プレゼンの上手さは日本人駐在員よりも高いと思っています。日本企業としてのやり方がおかしく思える点も多いです。私自身がそう感じるのですから。そんな中でも その日本のやり方もありなのでは、そんな風に理解してくれるロシア人スタッフが増えると素晴らしいと思います。また、そんな様子を見ながら可能な改善方法を上司や本社にフィードバックをしてゆくのも我々管理部門に勤める人間の仕事だと考えています。

日本に戻ってから勤務する中で感じること。それは、どこに行っても抱える課題は似通っているということ。「なぜこの人はこんなにやる気がないんだろう、あなたの業務でしょう?」「かつてはきっと目をキラキラと輝かせた新入社員でいたはずなのに、なぜ今はこれほどまでに新しい仕事へ取り組むことを嫌がるのだろう?」ー このようなモチベーションの問題。「何を言いたいのか分からない、やるべきなのかやらないべきなのか。」- 指示の曖昧さから来る現場の混乱(現場ではそのあと、やるべきだ、いや、あの口調からすればやらなくてよい、ということだ、といった空虚な時間が過ぎてゆく)「なんで初めにそれを言ってくれなかったんだ?」「いったいこのレポートはそのあと何にしようされるのか?なぜこれが必要なのか?」- 情報共有の低さ。「いつも一緒に仕事をしているけれども、彼が具体的にどんな仕事をしているのか分からない。」「(いきなりこのレポートを作成してね、と言われたけれど)どうやってこのレポートを作成すればよいのだろうか?」- 業務の文書化ができていないという問題。

組織が大きくなればなるほどに自分で分かっていても自分ではどうしようもない、変えられない現実がある。そこに悩みを抱えていても仕方がない。今できることは自分の行動を変えること。そこから何かが動いてくれればよし、動かなければそれも致し方なし。結局は自分がどうしたいのか、どうすべきなのか。目の前のことに自分ができることに取り掛かるしかないのだな、と。自分を軸に物事を取り扱ってゆけば、どんな困難な問題にぶつかっても、その結果が必ずしも成功する保証はありませんが、少なくともやってやる、という気持ちがまず湧いてくる。まずはその一歩を踏み台にして目の前の一歩一歩を着実に進めてゆくことが、気が付けば次の人たちに進むべき道を示すことにつながっている、そんな風に思いたいものです。

今はなんだか順調だなと思っているその時に想定外の 事件が発生したり、本社から新たなレポートの報告要請がきたり、いきなり原油価格が落ち込んでロシアルーブルが一気に暴落に向けて進んだり…本当に想定不可能なことが、必ずといってよいほど「今日はなんだかうまく進んでいるな…」という時に起こります。いかに定例的な作業を 現地スタッフに落とし込んでゆけるか、そして不測の事態や将来に備えて 自分の体と時間にゆとりを持たせておくことが出来るか、それが駐在員の務めのすべてかもしれません。そうは言っても現実的には、実務にも多くの時間を割く必要があります。

スタッフのスキルのレベルで悩むのであれば、いっそのこと、高い報酬を提示して優秀なスタッフを外部から雇えばよいではないか、と。私はきっとそれが一番早い解決策だと思います、それが簡単にできるのであれば…。私の勤務していたロシアの会社は決して大きな規模ではなく、勤務しているスタッフもお互いの待遇をある程度知っている、モスクワの労働市場と比べると我々の給与が他社と比べて低いという事実も周知している。そんなところに特別待遇の人間をいきなり引っ張ってくることができるのか?また、そんな待遇を、販管費の管理を厳しく行っている本社が容易に認めるのか?…複数の要素が関係しています。なかなか簡単ではありません。そんな中でもできることはある。そして、決してそのコト自体は難しいことではない。結局、難しくしているのは人間。そしてこの人間というのが仕事をする上では一番厄介なもの…そんな現実と闘いながらよりよい仕事をすべくみんな頑張っている。ロシアも日本も何も変わりがないですね。

モスクワでの勤務7年を振り返って / Looking back on experience of 7 years I spent for work

ただいま家で自宅隔離中。区役所から定期的に電話がかかってきます。「公共交通機関には乗らないでくださいね。」と念押しされます。

それにしても7年間のロシア、モスクワでの生活は想像以上に自分自身の生活スタイル、考え方に影響を与えているようです。近所のドン・キホーテに出かけてみました。日本のモノに溢れている様子と安売りしている食料たちを久々に見てワクワクしてしまいました。いまだに日本円をロシア・ルーブルに換算して価格が高い・安いを判断してしまいます。クレジットカードが使いづらく、現金払いの場所も多く不便も感じます。

ジョギングをしていると、小さな川(残念ながら人工のもの)で川のせせらぎの音を聞いてつい聞き入ってしまいました。モスクワ中心を優雅にゆっくりと流れていたモスクワ川。同じ「川」といってもこうも違うのですね。とにかく日本は暑い。「いやいや、まだ全然暑くないですよ。」と言われても湿度の高さも手伝ってからか、暑さを余計に感じます。体の疲れ、集中力の低さにつながっています。大丈夫。区役所から「コロナウイルスの検査結果は陰性でしたよ。」とお墨付きをもらっています。体調は一応万全です。

そんな日本に戻ってきて、ゆっくりとロシアで学んだこと、感じたこと、考えていることを綴ってゆこうと考えています。

感謝を示さないことも立派な感謝では /Not showing gratitude is also a fine gratitude

この月曜日に、計7年間勤務したモスクワを離れてロンドン経由で日本に帰国しました。モスクワ~東京間の直行便は7月末まで欠航。イギリスには多くのロシア人が住むということで彼ら向けアエロフロートがフライトをアレンジしたという。ロンドンからは日本航空で約11時間。半分も埋まっていなかったのでは、と思える機内では食事時間以外はマスク着用して羽田空港に降り立ちました。

日本航空でのサービス中で感じる素晴らしく、日本のおもてなしの美を表すと思うのですが、着陸近くなると「これから乗務員がご搭乗への感謝を表すために皆さまのもとでうかがいます。」と言って丁寧に挨拶をしてくださいます。以前に搭乗していたモスクワ~東京便でも同様のサービスがあったので、きっとこれはマニュアルにあるものなのだろうと推測します。

ヘッドフォンをして、本を読んで集中していた私。通路に乗務員が来ていることも気に留めずにいると、肩をたたかれました。なんだなんだ?と思うと「今日はご搭乗ありがとうございます。フライトはいかがでしたか?」と流ちょうな日本語を話す外国人の乗務員がそこにいました。「とてもよかったです、ありがとうございます。」とお伝えしましたが、私にとってはむしろ集中を邪魔されたことが不愉快でした。

感謝を示してもそれが果たして相手にとってありがたい感謝なのか、相手の集中を邪魔していないだろうか、相手の状態を邪魔せずに何も言わずに通り過ぎることも立派な感謝の表し方なのでは?と思った瞬間でした。

今振り返っても判断が大変難しいと思います。以前にはこのように声をかけられることはありませんでした。単に、今回は機内の乗客が大変少ないために一人一人に丁寧に声をかけてくださったのかもしれません。「なぜ私には声をかけなかったんだ?」というクレームが後からくるかもしれません。私のように、できる限りこちらの時間を遮ってもらいたくない、という客もいるでしょう。多くの航空会社が自分の国の特徴も考慮しながら特有のサービスを提供しようと切磋琢磨する中であらゆるタイプの機内サービスが生まれているのだと想像します。乗客を乗せて飛ぶ飛行機が始まったのは決して古くないはず、それと同時にスチュワーデスという女性に人気のある職業が生まれて、今では男性も普通に見られるようになってフライトアテンダントと呼ばれる現在。かつては、今普通にみられる機内サービスも大変ありがたく、飛行機に乗ることも憧れであったのかもしれませんが、今も同じようにサービスを提供することが本当に大切なことなのか、そして感謝を一方的に相手に伝えることが、果たして相手への本当の感謝なのだろうか、マニュアルに沿ったおもてなしの気持ちなど要らないなぁ…と思って飛行機を後にしました。

搭乗前には乗客に対して、ホテルで部屋の掃除を頼む・頼まないの選択肢があるように、搭乗前に「わたしにおもてなしは不要です!」「わたしにはぜひ日本式のおもてなしをお願いします!」のチェックマークシートを準備するのはいかがでしょうか?

私の意見としては、本当の感謝の気持ちを表すのって実はシンプルでは?と感じます。機械的にドリンクを順にサービスすることや食事を渡すことが多く見受けられるフライトアテンダントの皆さん。どれほど疲れる仕事か、想像ができます。それでも「今日も良い天気ですね。」子供と楽しそうにしている家族がいれば「かわいいお子さんですね。」外の風景をカメラでたくさん撮影している乗客がいれば「カメラがお好きなんですか?外の景色もきれいですよね。私がこれまで観てきた景色と比べても五本の指に入りますよ。」なんて言葉をかけられたら会話が弾みませんか?

とある週末のタクシードライバーとの会話 / Conversation with taxi drivers on weekends

コロナウイルスにより外出制限が課せられてからというもの、私用での遠出は週に2回までに制限。毎回、事前に電子パスをオンラインで取得してから出かけています。外出制限がある状況でも我が家の周りではお構いなしにジョギング、サイクリング、散歩をする人々がいる中、果たしてどれだけの人が電子パスを取得してから外出しているのだろうか、という疑念は晴れません。そんな私も、ジムが一時的にクローズされてしまった現在、ほぼ毎日ジョギングをして気晴らしと運動不足を解消するようにしています。

遠出の際にタクシーを利用すると毎回ドライバーに電子パスの有無を確認されてから搭乗開始。今の状況をどう捉えているのか?毎回ドライバーに話しかけて意見を聞いてみるのですが、それがまた興味深い。

ドライバー其の一:

「みんな、”渋滞をなくしてくれ(モスクワの日常生活における渋滞は日本の比ではない)。街に人が多すぎる、自分だけものにさせてくれ”っていう結果がこれだよ。言った通りに願いが叶っているよ。」(そういって、全く渋滞の無い、誰も歩いていない通りを指さした)…自分だけが外を歩いてよい、という状況は残念ながら叶っていないけれど、ほんとにそう。これほど日常の大通りからこれほど車が減った光景をみたことは記憶にないです。

ドライバー其の二:

「今のこの状況は神様が我々人間に与えている試練だよ。神を信じる人にはこの試練を乗り越える動機があってきっと大丈夫、この先によい未来が待っているという希望を持っているから。そうでない人にとってはただただ辛いだけだな。」(神様は人間を不公平なく愛しているはずで、なぜ人間に試練をわざわざ与えないといけないのでしょう?)

ドライバー其の三(珍しく女性ドライバーに):

「今の世の中、人間は自分たちが本来いるべき立場を超えてしまった。その罰が今の現状よ。人はますます自分のことだけ考えて悪くなっていっている。今、自分たちの間違いを認識して反省する時期にきているのだわ。お金なんてどれだけたくさんあっても幸せには関係ないの、衣食住が整っている。それで満足しないといけないわ。」(本当にその通りだと思います)

ドライバー其の四

「人生、自分は生きている、というその現実を楽しまないと。しばらく旅行に行ってたんだけど、そこで人生を楽しまないといけない、ということを学んだんだ。コロナウイルスで苦しくてもそれをどう捉えるかは人それぞれ。苦しい苦しいと言っていれば辛くなってくるけれども、例えば太陽があって緑豊かなこの自然の恵みを見てみたらハッピーじゃない?(今日は天気悪いで嫌になりますよね、という問いかけに)いや、また太陽がでることを喜べるんだからこの天気だって悪いもんじゃないよ」(まだ20代と思われる若い男性、こんなに明るい姿勢で生活していれば、こんなコロナウイルスの現実も大したことではなさそうですね。素晴らしい)

仕事の遊び心を / Let’s have a sense of fun in the job

いつもであれば入口付近はいつもたくさんの人で溢れかえっているショッピングセンターの様子。あまりの人気の無さにコロナウイルスという見えない敵の恐ろしさを感じます。モスクワもようやく少しずつ正常化に向かって漸進しています。6月からは朝の時間に限って散歩ができるようになるとのこと。自宅隔離は引き続き6月半ばまで継続されるようです。それにしても、すでに今でも通りにでて川沿いを歩けば、規制も関係なく自由にサイクリング、ジョギングをしている人たちを見かけるのが普通となっている日常ではありますが。

仕事に遊び心を。今、ますます、とくに管理の仕事をする上で重要だな、と思います。
サッカー、バスケットボールは昔から好きで、よくYoutubeで観ています。

なぜ、世界的選手のプレイがあれだけ印象に残って、何度見ても最高なのか?ワクワクしてしまうのか?ただ点を決めるだけではなくて何か一ひねりある。人が想像しない方法でパスをだしたり、えっここからこのシュート?と思ったら決まってしまう。ボールを扱うタイミング、リズム感が他のプレイヤーと違う。一つの丸いボールを皆が平等に扱う、ディフェンスを抜くにも方向は左右、股下か頭上に限られているのに、こうも観ている人を魅了するのかと。

オフィスワークは実直で、間違いの無い堅実な仕事を要求されます、それができて当たり前。でも、それだけではおもしろくないなぁ、と。えっ?周りが想像しなかったやり方で周りの人たちにプラスの意味での驚きを与えられる、そんなちょっとした驚きを与えることで、数多くあるつまらない仕事(ほとんどの仕事と呼ばれる作業がどれだけつまらないこことか!それを人は仕事、と呼んでいる)を面白くする方法の一つかなと。

例えばクラシック音楽の演奏会。思うことは、演奏者は非常に情熱的に演奏しているのだけれど、聴衆は微動だにしない。演奏中に咳をするのもはばかれる。携帯の音ももってのほか。なぜあの演奏者の情熱を観客は一緒に共有できないのだろうか?素晴らしい演奏者がこれだけ存在する世の中で一体どうやって差別化してゆけばよいのだろう?今の世の中、技術レベルが似通っていれば、あとは外見のルックスや何らかの話題性を持っているかといった演奏技術とは関係のないところでで評価される、になるでしょうか。音楽の世界はよくわかりませんが、皆が一定のレベルにいってしまうと、正直なところ私には差がわかりません。音量のでかさ、音程の正確さ、演奏表現の仕方の違いなどあらゆる部分で違いますがどれも個性で素晴らしいはす…。言いたかったのは、それにしても演奏の中にもっと遊び心があってもよいのではないかなぁ…と思います。

数年前にいたスタッフにお土産としてスパイダーマンの靴下をもらったことがあります。あの目が吊り上がったスパイダーマンのキャラクタです。なぜならば、「XXXさんはいつもこんなしかめっ面をして仕事しているのでこれをどうぞ」と言われました。今でもいつも眉間に皺を寄せて画面とにらめっこしていることが多いので、気を付けなければ。

そもそも世の中に面白い仕事ばかりできる人は決して多くないはず。つまらないというならば面白くしてやろうじゃないの、という意気込みを持ちたいものです。面白きなき世の中を面白く。すべては自分の心構えでどうにでもなるもの。例えば社内の承認フロー。紙を使用せざるを得ない事情があるとしても、Microsoft365が提供するWork flowの自動化を使えば、紙を介したプロセスをカットした電子承認システムを作り出せる。うまくゆかずに悪戦苦闘する時間も多いですが、上手にフローが流れるときの喜びはやってみた者にしか分かりません。それを社内に展開してみんなに喜びを共有できればサプライズのプレゼントです。そんな遊び心をもって日常業務を改善してゆくことで、社内に遊び心を浸透させ、コロナウイルスによるストレスが溜まる日々の中にちょっとした喜びを提供できるのかな、と。

仕事を複雑にすることで、それを仕事と呼んでいる人、ただの作業としか言えない業務を仕事と考えている人。そんな人が多い今の世の中。仕事の本質を見失っているのではないかと言いたくもなる要求が飛び交う日常世界です。他方で、こんな日本にしてくれたのは戦後復興で一生懸命に日本の今を築いてくださった先輩方のおかげという皮肉も感じます。そんな過去の遺産で成り立っていた時代は終わり、混とんとした世界が待ち受けている現在。辛いことも多くありますが、そんな中でちょっとした遊び心を毎日の仕事に取り入れてゆきたいものです。

人事評価とアピールと自分の軸 / Evaluation, Appeal and own motto

1年間の会計年度を終え、人事評価も終えてボーナス金額、昇格対象者を議論の上決定し、本人に伝えて契約書の更新を終えると、ホッと一息。この時期は一年のうちで最も神経を使う時間でもあります。評価が始まると、決まって「どうかこの人を上げてください、でないと辞めてしまうかもしれません、他社にゆかれて困ります」といった、こちらとしても確かに困る…という半ば脅しのようなものから、「なぜ私はきちんと評価されないのですか?私のマネージャーが悪い。私は正しく評価されていない」そんな直接の訴えが届くこと、あります。

アピールの大切さ

ロシア人スタッフに毎回言うことは、アピールの大切さ。評価者に対しては、評価者が陥りがちな判断ミスに気を付けるように、と評価ガイダンスで喚起していますが、やっぱり私たちは不完全な人間です。どうしても自分の感情に流されたり、直近で素晴らしい実績をあげただけで、その人の全てを必要以上にGreat、としてしまうような傾向があるものです。

寡黙で目立たずに黙々と仕事をこなしている人もいます。一方、仕事の成果物はそれほどでないにしても、陽気で上司の受けがよくいかにも仕事ができる雰囲気を醸し出している人もいます。実際の仕事の生産性で言えば寡黙な人であるにもかかわらず、結果として後者の人が高い評価を受ける。そんなことも事実です。

どれだけ評価者を訓練すると言っても限界があります。評価者には定期的に部下とコミュニケーションを取り、部下の仕事を把握して適切な判断を下せるように、との教えがあるものの評価者であるマネジャーも忙しく、評価について期中から会話できている部門は、残念ながらほとんど見かけません。隣同士の席で毎日会話できているから大丈夫なんていう誤った認識を持っているマネジャーが大半でしょうか。日常的に席で会話する内容と、部下の仕事を理解するための会話は異なります。もっと会議室に入ったり、二人で会話ができる場所に移動してじっくりと会話してもらいたいと感じます。これも結局は、自らの態度で示すしか方法はなく、少なくとも私自身の部門のマネジャーには同じ理解を持ってもらうべく地道な努力が続いています。

さて、寡黙に仕事をしているロシア人スタッフに伝えているのは、上司が適切に自分の仕事を見てくれていると思うことは誤りだということ。我々は人間なので間違いを犯します。だからこそその事実を踏まえて自分から仕事の成果をアピールすること。その大切さを説いています。「なぜ自分はこんなにも一生懸命にやっているのに見てくれないんだ?」ー 挨拶をしても、相手に聞こえなければ挨拶していないのと同じこと ― それと同じく、どんなに立派な仕事をしていても、それが相手に伝わらなければ、評価の対象とはならない。そんな現実があります。

仕事以外に自分の重要なことを持つことの大切さ

仕事が唯一の重要なものになってしまうと、自分の人事評価は会社や上司によって影響も受けるものです、上司の調子に合わせて自分自身を変えなければいけない、そんな苦しさがあります。仕事でこけてしまった時、自分を支えてくれるものがなくなります。

その点、私が一緒に働くロシア人スタッフは十分ほどに仕事以外に大切なのものを持っているようで、いつも勉強しているのはこちらです。もう少しやってくれてもいいんじゃないの…?と言いたくなる気持ちがあるのですが。

仕事以外のに没頭できる大切なことを持っていると、必然的に仕事も効率よくこなそうとしますし、仕事で何かがあっても、それ以外に自分自身を支えてくれる軸がある。精神的にも支えられる。といっても仕事で成果を出すにはそれなりの時間と労力を捧げることが必須。どちらも中途半端になってしまうと問題です。いまだにそのバランスの取り方が難しいなと感じます。きっと仕事と自分の仕事以外のこだわりを重ねてゆければゆけるほど、仕事もプライベートも充実できるはず。例えば、プログラミングやMicrosoft365が提供する様々なアプリケーションの学習にはまっている場合。仕事上会社の承認フローに手間がかかっているのであれば、学んだ知識を応用して仕事に使えます。仕事以外の時間に勉強をして、それを仕事の業務に落とし込んで検証ができる。「何やってるの?」と言われても、「いや、仕事のために必要なんですよ」と言える。学んだことを仕事でも生かして周りにも喜んでもらえる。そうなれば自分の趣味が仕事の一部となり、仕事自体もますます楽しくなる。良いこと尽くし。願わくは、仕事そのものと自分の趣味の境目が曖昧となってきて、自分自身が没頭してやることが結果としてお金をもたらしてくれる、そんな境地にたどり着ければ素晴らしいですね。たとえ、お菓子作りが趣味、というオフィス仕事とは全く関係のなさそうな趣味があるにしても、お菓子を会社のイベント振舞ったり、ギフトとしてプレゼントすることでみんなにとっても喜んでもらう、そんなロシア人スタッフもいます。みんなが美味しく食べている様子とそのスタッフ自身も笑顔満面の様子を見ると、こっちまで幸せな気分になってきます。

曖昧な人事制度の欠陥を指摘し続けても仕方がない

私はこう思います。欠陥ばかりを指摘するスタッフもいましたが、会社としてできる努力をしたうえで整備された制度であれば、そこに残る欠陥を指摘することに時間を費やすことが無駄でしょう、と。であればもっと自分のやりたいことに没頭できる、健全な時間と気持ちを持つのはどうですか?と。結果的にこのような人は仕事も人生も上手くいっていない傾向にあるのかなぁ、と漠然とながら感じています。

「SpecialistからSenior Specialistになるにはどうすればいいのか?」「Senior SpecialistからManagerになるには、何をどうすればよいのか具体的に説明してください。」- その気持ちは分かるのですが、そのために必要なCompetencyと次のポジションに求められているスキルを説明することはできます。しかし、これを継続すれば来年なれるのか?それとも2,3年後か?そういわれても断言できません。上にゆけばゆくほどポジションの数は減るので、昇格対象者は最終的には相対評価で数を絞る必要がある。なぜ私が昇格しないのか?それを考えてもお互いに理解し合うことは不可能です。サッカーのA代表も監督が代われば戦術も変わり、代表に呼ばれる人が変わることがあるのと同じように、会社の戦術も社長によって変わることもある。前の社長は良かった、悪かった、そんなことを議論すること自体空しい時間だと。

全員が努力しても、成功した、という世間の評価は得られませんが、自分自身の過去と振り返れば成功です。昨年の自らと比較して成長しているのですから。他人からの評価にあまりにもこだわっている人が多いのでしょうか…?もっと自分自身と向き合って、自分がどうしたいのか、真剣に考えたらどうですか?そのようにロシア人スタッフに伝えることしかできませんでした。その中で私は出世が一番大切です、となれば、出世するためにすべきことをすればよい。それが本人にとって重要なことなのですから。

ロシアでは挑戦する人を白い目で見る傾向がある、というのは本当か / Is it true people in Russia is likely to look coldly at challengers

会社の研修を準備していてロシア人講師と研修のコーディネートをしてくれるロシア人のスタッフの方と会話をしていると、「ロシアでは挑戦する人を白い目でみる傾向がある、失敗したら「それみたことか」と。だから自分の決められた範囲のことをきっちりやって、それ以上のことに自ら進んで手を出さない傾向があるんです」とのことでした。

一方で会社での昇格の基準は、枠組みから飛び出ましょう、もっと自分の業務の幅を越えて上のレベルへの挑戦を継続しましょう、それを続けて成果を出していく人を会社は評価しますよ。という真逆のものです。

ところで、ロシア人のマネジャーの中には「昇格は、必ずしも枠から飛び出して行動する人を評価するのではなくて、今の仕事をきっちりこなす様子を見て次のポジションを与えよう、という判断があってもよいのでは?」という人もいます。なるほどなぁ、そういう考え方もあるな、と思ったことがあります。

ロシアでは挑戦者を白い目で見る傾向がある、というのは正しくないのだろう

さて、日本でもチャレンジする人を白い目で見る傾向があるでしょうか?率直に言えば、ロシアは~、日本は~と決めつけて語るのは間違っているように感じます。誰でも自らの中で何かをきっかけにチャレンジすることを止めてしまった人、他人の視点を意識して行動している人はどの国にもいます。そのような人が国によって多い、少ないの傾向があるのかは分かりません。私が冒頭の話を聞いて思ったことは、ロシアは日本と比べて個人主義が強いように感じるけれども、意外にも周りからの目線を気にして行動する傾向があるのだな、ということでした。とりわけ「失敗」とみなされることには敏感なのかもしれません。

そもそも失敗も長期的に捉えれば失敗ではない。将来に控えているゴールを見れば、今経験することは全てがゴールにつながっている。であれば人が失敗と言おうが自分にとっては”チャレンジした結果”であって失敗ではない。そう断言できる人は強いですね。そういった人には自らの強い意志があり、周りからどう見られようとも関係ない。ロシアのビジネス紙で取り上げられている成功者と言われる人の記事を読んでいると、逆境を乗り越えて、強い意志を持って行動し続けてきた人、そんな共通点があるように思えます。そして、それは日本でも同じのはず。

なぜこうも挑戦することを人は避ける傾向にあるのだろうか?
歳を取ればとるほどに失敗への恐れが強くなるように感じます。若い人たちに笑われたくない。自分は年上として、マネジメントとして下の人間を圧倒する結果を示さなければならない。そんなエゴがますます”大人”を臆病にさせるのかもしれません。

これを打ち破るためには、上司自らがお手本となって失敗し、率先して部下に笑われることではないか、笑っても良い土壌を作り出すことではないか、と思います。

年末の会社のイベントで大変な失敗をした尺八演奏。(詳しくはこちらのブログ記事をご参照「恥を恐れず、ロシア人スタッフに笑いを」)全く音も出ず、どうしようもなく笑いをこらえる、を越えて哀れな目で見つめているロシア人スタッフたち。少なくとも、私自身は新たなことにチャレンジをしてその結果をしっかりと得たこと。あのような状況で自分自身がどう振舞うのか、心の状態はどうなのか、といった経験を得られたこと。何よりも、日頃から言いたいことを言っている上司の自分が人前で恥をかく、敗者の姿を堂々と見せられたこと。この目的を達成できたことは成功でもあったと言えるのかもしれません。

カメレオンあるいはトラ、会社のトップはどちらになるべき? / Chameleon or Tiger: Which one a leader should become?

5月中旬の日曜日にでかけた大きなスーパーマーケット近くでの一コマ。後ろ姿のため見えませんが、マスクと手袋を着用して大きな買い物袋と共に家路についている様子でした。私の住む地域ではジョギング、サイクリング、散歩を楽しむ人たちもおり、マスクをつけていたりいなかったり。警察車両も見て見ぬふりか通り過ぎてゆく場合がほとんどです。5月初めの連休では、警察車両が一日に何度か「自宅に留まるように」との警告を通りを散歩している人たちに発しながら巡回していました。

部屋に溜め込んだ古い新聞を整理していて面白い記事を見つけました。

カメレオンかトラ、会社のマネジメントはどちらになるべきか。(by Steven Dekrey – ロシアを代表するビジネススクール”Skolkovo”のアカデミー理事会トップ https://embahs.skolkovo.ru/en/emba-hs/faculty/dekrey/)

Professional DynaMetric Programs( https://www.pdpglobal.com/)による有名な心理理論では、5つのリーダーシップが定義づけられていて、それぞれ動物に例えられている。トラ — 支配的、権威主義的なスタイル。クジャク — 交際好きで説得力のあるタイプ。フクロウ — 保守的で規則に沿って行動することを好む誠実的な人のスタイル。コアラ — 物静かで物事を教えてくれて支えてくれるスタイル。そして、カメレオン — 柔軟なリーダーシップで新しい経験のいつもオープンな人。

香港大学のMBAコースの学生は、教育開始前には29%の学生がトラを好み、わずか15%の学生だけがカメレオンを好ましく思っていたそうな。教育課程の後、その関係はすっかり変わり、わずか10%の学生だけが引き続きトラのスタイルを好む一方で、45%の学生がカメレオンを選択したそうです。

このトラのように支配的なスタイルのリーダーシップはロシアで広く見られ、多くの場合に効果的に機能しているように見受けられるが、しかしながら経験があり、強力な賢いリーダーがこの権威主義的なスタイルの罠にはまってしまうことも事実だとか。”Рыбы воды не видят” by Кай Хаммерих, Ричард Льюис (“Fish can’t see water” by Kai Hammerich & Richard D. Lewis)という本では、民族文化は会社の文化を創りもし、ダメにもする。その国で当たり前のように広がっているリーダーシップのスタイルをリーダーは理解せず、リーダーたちの自信がグローバルなその会社の成功を損なっていることを。まるで魚が水の存在に気が付かないのと同じように…

面白い例えです。私自身もモスクワに勤めていて思い当たる節があります。日本式で成功を重ねてモスクワにやってきて、同じ方法を適用したところで必ずしも上手くいくわけではない。前提となる土壌が異なっているのであれば、リーダーシップの正解も変わってくるはず。この方の記事では、360度評価は新たな視点を発見するために効果的であること、よく部下の話に耳を傾け、それぞれの部下にどのスタイルの形が合っているのかを探り実践してみること、自分自身には無い違うスタイルのリーダーシップのスタイルにチャレンジしてみること、権限を委譲すること、自らのリーダーシップの結果を分析して次につなげること。- これらが勧められていました。

良いリーダーシップとは?分かっていても出来ない現実

しかしながら、私がいつも感じるのは、我々はよいリーダーシップとは?そのためには何をすべきか? - ここに挙げられているように360度評価で自分を客観的に見つめる、部下に権限を委譲して仕事を任せてゆく、相手の話をよく聞く ― すでに答えを持っています。それなのに、それなのに、どうしてこれだけ同じアドバイスが繰り返されて、これだけ多くの人材教育会社が存在し、あらゆる教育コースが準備されているのか?これが不思議でなりません。それだけ人というのは、相当の覚悟やきっかけがない限り自らのリーダーシップの形を変えることは難しいのだろうと思っています。 私が見ていてもこのような傾向 - 客観的に自分の言動を振り返る時間を取り分けていない、自分で何事も把握していたい、判断したいという気持ちが強く委譲できない、相手の話を聞きたいと思っていても「OK,でもね…」と否定の言葉を続けてしまうなど ― を日頃から目にします。口では、権限移譲だ、ロシア人スタッフを成長させてゆくのが私たちの任務だ、と言いながら実態はかけ離れている。これもまたよく見受けられます。

カメレオン?トラ?どちらのリーダーシップがよいのか?答えは「そのどちらでもなくて、状況に応じてすべての5つのタイプを使い分けられるのが最強のリーダーシップ」これが最高の答えで、最高に難しい課題であり続けるに違いありません。

出所;Vedomosti 21.02.2018

カザフスタンの給与計算 in 2020 /Salary calculation in Kazakhstan 2020

カザフスタンの給与計算は複雑です。2020年からさらに込み入ったものとなりました。そして、それを分かりやすく説明してくれるウェブサイトの少ないこと。ロシア語が母国語でないから困難ではなく、いかに分かりやすく説明するかの視点が足りないからでは…と感じます。そんな中、ロシアでも同業他社に聞けばほとんど会社で導入されているロシアの会計システム「1C(ロシア語読み;アジンエス)」- カザフスタンでも幅広く導入されていると聞きます - をカザフスタンで展開しているのであろう企業のウェブサイトに比較的優しい内容のページを見つけました。この情報を参考にしながらExcelでカザフスタンの給与計算ファイルを作成してみました。

参考リンク

https://pro1c.kz/articles/trud-zarplata-kadry/kak-izmenilsya-raschet-zarabotnoy-platy-v-2020-godu/

(補足)カザフスタンでは2017年から雇用者は従業員の医療保険の負担が開始(ООСМС)。2020年からは従業員自身が医療用者は従業員の医療保険の負担が開始(ВОСМС)。2020年からは従業員自身が医療保険の負担が義務付けられたことで雇用者はこの費用を給与額から控除します。

その他参照情報

https://inbusiness.kz/ru/author_news/osobennosti-nachislenij-oosms-i-vosms-kak-izbezhat-shtrafov

ロシアの給与計算方法を紐解いてみると、きっと歴史的な何かがあるのだと想像します。カザフスタンについてもきっとこの計算式の裏には明確な根拠がある、きっと。ただ、今のところはまだそこまでたどり着いていません。何事もシンプルにするのが一番よいと考えるばかりですが…。