駐在員の課題:ITへの共感・理解不足の解消 / Issues for expatriates: lack of sympathy and understanding of IT

一般的に、モスクワにオフィスを構える日系企業の大半は小規模であり、そこに派遣されてくる大半の駐在員は営業系の方がほとんどです。7年間の駐在生活の経験から感じることは、全体的にITに関する関心そのものが高くなく、そこにコミュニケーション言語である英語の問題も加わって、ITに関する理解不足が顕著である、そんな現実が多くみられるのではないかと思っています。 

 英語力の無さは現地スタッフとのコミュニケーション不足につながりますが、英語力に関しては、英語スキルそのものが低い、というのではなくて自らの意見を発信する力の問題だ、というのが私の意見です。英語で何かを発言する前の問題として、日本の会社では自分の意見を(言葉を選びつつも)はっきりと発言する場が少なく、間接的な表現が多かったがゆえに、ロシア人相手に物事を伝える際に直接的に物事を伝えてゆく方法に慣れることに時間を要するのではないかと。これは自分自身がそうであったために他の方々も同じ経験をされているのではないか、という推測も入っています。 

 ITに関してはこんな記事がありました。

モスクワの中小規模の日系企業に、この内容はピッタリと当てはまるではないか、と読んでいて感じました。すべて上手くいっていることが当たり前と判断されがちなIT。私も専門家ではないので実体験としてどれだけITの仕事が大変か、これを語ることは残念ながらできません。ただ、ITスタッフは全てにおいて何をやっているのか分かりづらい、インターネットが常に問題なく繋がり、ウィルスの問題や社内サーバーへの接続トラブルが何も起こらないのが当たり前、だからITスタッフはそもそもアウトソーススタッフに置き換えても何ら問題がない、という考えに至る危険もあります。 

実際、すべての業務がITに関わっている今、ますますITの重要性が叫ばれている今、会社のマネジメントクラスはITの勉強に割く時間を増やす必要があります…が、その割に勉強していない人が多い? 気も。また、個人情報や会社の機密情報にアクセスできるのもIT スタッフ。そうであれば信頼のできるスタッフをIT部門に据えておく必要がある。だからこそ高い給料を払うべきか、いや小規模の会社ではお互いの給与情報もボーナス金額もすぐに知れ渡ってしまう。そうなるとITスタッフだけ待遇を変えることは難しい(駐在員のITに関する知識レベルの問題だけではなく、ロシア人マネジャーの中でもITの重要性への共感度合は明らかに低い、というのが私の経験上の判断です)。他のスタッフとの給与のバランスを考えると給与は高くできない、であれば、国際会議への積極的な派遣など ー ITの分野は国境を越えてグローバルに共通の土台で会話するのに最も早い特性も踏まえて ― 本社の協力も得て別のモチベーションを用意するのか…悩ましい課題が尽きません。 

 会社で利用するノートパソコンの標準モデルの決定。それを選択するだけでも、訳の分からない大量のアルファベットや数字が並んだスペック情報を確認して最終的にこれだ、とたどり着く。 オフィス内でインターネット接続を無線LANとすることになった場合には、何冊にもわたる幅が3,4cmありそうな複雑なことが記載された技術書を読み込んで業者とやり取りをする。その大変さを知らないスタッフは週明けに出社したら何事もなかったかのように、サッとWifiの使用を開始する…。IT分野で働く人は目に見えた評価を周りから得ないとしてもモチベーションを失わない、黙々と自分の仕事をこなせる人が相応しいのかもしれませんね。

私自身、全くITのことを無知のまま駐在し、ITスタッフとの会話を通しておぼろげながらにその大変さを学び、その仕事の重要性を認識するようになり、そしてITの楽しさと可能性の広さにワクワクしている一人です。だからこそ、ITのことを全く人任せにしている人や、何か問題があれば自分で調べること無しにすぐにITスタッフを読んで解決してもらう姿勢の人を見ると、もったいない…そう思うばかりです。

日経XTECH(クロステック)ー おすすめです 

日々勉強中で、毎日知らないことばかりに遭遇していますが、お勧めはこの日経XTECH(クロステック)。

https://xtech.nikkei.com/top/it/

ここに載っている情報をすべて読むことはとてもじゃないけど無理としても、気になる情報を日々目を通すだけでも世の中のITの流れや、訳が分からないけれども何だか今熱い技術のことが目に入ってきて、ITスタッフの抱えている目につきにくい業務の奥深さや、ひたすら勉強をし続けなければならないことへの理解、そんなことに役立っているのではないかと思っています。 また、「建築」「土木」といった全く接点の無い分野の記事を読むときに、自分自身の管理業務のマネジメントにも生きてくる通ずるものを発見できることが面白く、興味深いものです。
 
 

ロシア会計 勘定科目コード01 固定資産(основные средства) / Russian accounting code o1. Fixed assets

会計科目コード01 固定資産。ロシアの固定資産の減価償却の償却期間の考え方が面白いな、とロシアで仕事をしているときに感じていました。

日本の企業で減価償却期間は、私が経験上知る限り税法上で定められている期間を利用している会社がほとんどと思われます。実際に日本公認会計士協会のウェブサイトにこのような通達が掲載されていました。

…23.耐用年数及び残存価額に関しては、本来であれば各企業が独自の状況を考慮して 自主的に決定すべきものである。したがって、資産を取得する際には、原則として 適切な耐用年数及び残存価額を見積もり、当該見積りに従って毎期規則的に減価償 却を実施することが必要である。 24.しかしながら、多くの企業が法人税法に定められた耐用年数を用いており、また 同様に残存価額の設定についても、多くの企業が法人税法の規定に従っているのが 現状である。…

参照:https://jicpa.or.jp/specialized_field/files/2-8-81-2-20120216.pdf

適正な償却期間を自ら定めるにはそれだけの根拠を用意する必要があり、税務とのギャップが生じることで税務上の償却期間とのずれも管理する必要が生じる。それであれば税法が定める耐用年数を会計上も適用するのが合理的、というところでしょうか。

ロシアでは、減価償却には10個の大きなグループがあります。

https://www.audit-it.ru/amortizaciya/

面白いな、と思ったのは各グループの中で耐用年数には一定の幅があり、各企業がその期間のうちからふさわしいと思うものを選択できる自由があることです。日本の場合には、ルール上は企業が会計上の減価償却期間は各々で定めることができるとはいえ、実際は税法上の耐用年数を利用していることがほとんどであることから、何も考えずに該当する資産を見つけ、その耐用年数を適用すればよいだけ。

が、ロシアの各企業は、新規の固定資産を取得すると、まずその資産がどのグループに属するのかを確認し、その資産の耐用年数を検討する必要がある…。これだけ見ると難しそう…と悩んでしまいそうです。

あくまで私の限られた知識の経験ですが、実際のところは、多くの企業で、該当するグループの償却年数の一番小さい年数を自動的に選んでいるケースが多いのではないでしょうか、そんな風に想像しています。自由が与えられても、選択した説明責任が生じてしまい、それを証明するための補足的な根拠を練りださなければならない。実際に多くの企業で各固定資産の使用年数をルール化して定めているところがあるのか…あまり多くない気がします、日本と同じように。また、少しでも多くの費用を償却することが節税効果・資金繰り上もメリットとなることを考えれば、耐用年数を短くしたほうが企業にとってメリットもあります。そんなことを考えると、許容されている年数のうちの最小の年数(月数)を選択するのが自然な流れではないのかな、と思っています。

その最小の耐用年数は各グループの最小耐用年数*12ヶ月+1ヶ月。つまり、例えばグループ3の償却期間は3~5年ですので、3年*12ヶ月+1ヶ月=37ヶ月となります。この月数を記載した所定の書類を作成します。

ロシア固定資産

https://www.audit-it.ru/terms/accounting/ppe.html?sphrase_id=5748579

数値集計レポートを作成するときの自動化と手入力のバランスの難しさ / Difficulty in balancing automation and manual input when creating numerical reports

ロシアから帰国した後、現在の業務では主に子会社の毎月の損益計算表実績をまとめています。限られた時間の中、多くの数値を取り扱う資料を作成、報告することが求められています。また、隣の島で働く別の課でも似たような数値を集計していることがあります。そんな中、どこまで自動化(ここでいうのは主にExcelの数式を組んだりマクロを取り入れて効率的に資料を作成すること)を進めて、どこまで手入力の部分を残すか、このバランスが難しいなと思う場面に出会います。手で入力するからこそ得られる大切なことがあるからです。

先日、オフィスで他グループの先輩社員から、為替影響額を控除した対予算、対前年の売上達成率を見たいのだがどのように計算したらよいのか…と相談を受けて、細かい数値が並んでいるExcelファイルを一緒に見ていました。

― 毎月、各国の子会社から月初に報告される売上実績を円に換算するために、前年の為替実績レートを毎月掛け合わせるのは大変だぁ…

ー ではシステムから毎月自動的に数値をダウンロードしてExcelにファイルを作成できるのでそれを準備しましょう

ー いや、手で入れることで子会社の数値が頭に入るのが良いんだ、だからシステムに頼るところまでは必要ないよ、と。

私自身は、どちらかというと、できる限り手入力の部分を減らしてExcelを駆使して効率化を目指しているのですが、手で自ら入力をするときに、頭の中で数値を認識しながらExcelに自分で入力してゆくとき、それが後で数値を頭の中に残すために役立っていることを感じています。なので、この意見にはとても賛成です。

「資料作成の時間はある意味”無駄”なので、そのあとの分析のための時間に費やすべき」という言葉を管理部門で数値の集計をしている皆さんであればよく聞くと思います。それも正論です。一方で数値を手入力している時間に全く”分析”をしていない、かというとそうでもありません。今はノートとペンを持ってメモをする機会が以前よりも減りました。意識していなければ一日の中で使用しないこともあります。今では専用のシステムを利用して、自分の欲しい値を出せるように必要なコードを指示し、あとはボタンをワンクリック。これだけです。

紙を使用する機会が減った今、その時にパソコンで入力してゆく作業がけっこう重要だったりします。どんなにスキルアップして入力スピードを上げたとしても限界のあるこの入力にかかるスピード感、これが脳みそに程よい刺激を残しているのだ、と。あえて手入力の部分を意図的に残しておくことが結果的に作業をしながら頭の中に数値を残し、と同時に分析も行っているのかもしれません。

日本って面白い / Japan is interesting when I watch out carefully what I though it is normal

長いこと日本を離れて生活し、ロシアでの経験を踏まえた上で自分の生まれ育った国を見ると、不思議に思うことに遭遇しました。

冒頭にアップロードしたこの写真。レジで見かけたコメントです。これは普通の日本語でしょうか?あまりに丁寧に伝えようとして、結果的に何を言いたいのかが分からなくなっているのでは…外国人で日本語を勉強していてもこれは全く理解できないと思います。フロアの責任者もこのようなものを見ておかしいと思わないのか…あるいはこの表現は今の時代には普通なのでしょうか?

また、「~をしてもらう」の尊敬語として「いただく」を利用する場合には、頂く、と漢字で書くことは誤りのようです。紙のスペースを節約できるので漢字を利用したくなりますが、それでも正しい日本語を利用したいものです。

レジの支払いにて

レジ店員「お店のポイントカードxxxカードの利用はございますか?」

私「いえ、持ってないです。」

レジ店員「失礼いたしました。」
それにしても、利用はございますか?という日本語も不思議です。また、なぜ失礼しました、と謝るのか分かりませんでした。

平常時にもマスクを着けている人がたくさんいること

黒やグレーまでも。形も怖い。(このメモを書いていたのは2020年1月。まだコロナウィルスも流行る前で、ロシアでは「なぜ日本人はマスクを着けているのか?」なんて笑われていた頃。コロナウィルスが流行するようになってから、すっかりロシア人もマスクを着用するように様変わりしました。今現在ロシアにいる友人に尋ねると、ロシア人はマスク無しの通常のライフスタイルに戻っているようです。)また、平常時にマスクをつけるのはできるだけ自分の表情を人に見られたくない、という心情もあるのでは、と聞いたことがありますが真実はどうなのでしょうか。

サラリーマンが集う新橋にて

(2020年1月に散歩したとき)だいぶお疲れの会社員の方々がいます。その一方、夜の飲み屋街で働く人たちのほうが元気で礼儀正しい人が多いのでは?近くにあった蕎麦屋で蕎麦とかつ丼を食べながら出入りする人たちの人間観察をしていてそう思いました。サラリーマンとして大きな組織に所属すればするほど、個人としての戦闘能力が気が付かないうちに奪われてゆくように感じられるのは気のせいでしょうか…

日本の電車やバス

アナウンスがやたらうるさい人がいませんか?。自動音声で次の駅名を伝えるのは分かります。しかし、アナウンスに続けて、運転している方が繰り返しだみ声で続けるあの音声。無用としか思えないのですがいかがでしょうか?スピーカーの音質もよくないですし、耳が痛いです。あなたの個人的な楽しみのために乗客はその騒音に頭を痛めています。

日本は街のデザインのセンスが低いのでは

そう思って一緒に旅行したロシア人の友人に伝えると、逆に統一感がない街のデザインは良い、という違う反応が返ってきました。見方を変えると、自分にとっておかしなものも実はよいものであったりするのですね。統一されたデザインをきれいと見るか、乱雑さの中に美しさを見出すのか。どちらも異なる美の観点で、どちらも正解なのかもしれません。

公共バスの料金支払いシステム

私は自分自身の地元しか知らないので比較感がありませんが、乗った地点でパスカードをチェックし、下りた時点で必ず前方の運転手横にある機会にて支払いをして降車する。乗り降りの効率さの視点で見ると非効率的ではないかと感じることがあります。載った距離に応じて課金されてゆく方法と一回ごとに運賃が固定のケース、そのどちらが適切なのかは分かりませんが…。モスクワやそのほかに出かけたことのある町の様子しか分かりませんが、ロシアでは距離に関係なく、一回乗ると固定の金額を支払います。それにしても田舎の町に行くと、現代でも、乗客から料金を回収する恰幅の良いおばさんが乗ってい回収して回っている。料金を支払うとチケット代わりに紙切れを手渡す。こんなシステムが生き残っています。

日本旅行記 其の2:日本人、決して”おもてなし”の国ではありません / Travel to Japan Part 2: Japanese people are not a country of “hospitality”

そもそも、日本人~ではありません、というタイトル。これこそステレオタイプでよくありませんね…。言えることは、偶然に自分自身がそのような人に多く出会うことでその国の評価を悪く言うも、良い出会いが重なってその国のことを良く伝えることも自分次第ということ。決して自分の体験したことで全体を判断してしまうことは避けたいところです。

さて、すでに2020年も10月ですが、今年1月に約1週間の短い日本旅行で遭遇した、これはないよね…と感じたことを書いています。

当時はまだモスクワ勤務でしたので、約1年半ぶりに日本に”一時帰国”したわけですが、新鮮な目で自分の生まれ育った国を観察できた休暇となりました。おもてなしの国、と言われる日本でありながら、まったくもってそんなことがない。一番の問題点は、おもてなしが形式的であって、そこに心がこもっていないケースに出会うことが多かったこと。そして想定されるマニュアルから外れるやり取りが生じると、そこに何となく嫌な雰囲気が生じる(顔や態度、声にその方の本質が出てくる)ことも。だからこそ形としておもてなしを示してくれてはいても、それが本質的ではないものを感じ取る場面に幾度も接すると、一体この国が言う”おもてなし”とは一体なんなのだ?と思ってしまうわけです。

数年前、日系航空会社が無料で行っているという「日本のおもてなしセミナー」をロシア人スタッフのために開いていただきました。例えばお辞儀の角度の違い、日本で買い物をすると袋の上を留めるテープの端はテープの内側に織り込んで留めることで、お客様が後で簡単にテープをはがすことができる、そんな日本の礼儀作法の説明があったことを覚えています。

もしかすると、日本は”おもてなしの国”と強調しているものですから、このおもてなしの精神をどの場面においても期待して(そんなことはあるはずがないのに)、その期待を裏切られた気持ちになりがっかりし、残念な気持ちを過度に味わうのかもしれません。一方、日本語を理解しない外国人にとっては、目に見える形でのお辞儀や袋のテープ、そういった”おもてなし”をもって日本をポジティブに捉える方もいるのかもしれませんね。(ロシア人の友人に聞いた日本の良いところは?で、大体耳にするのは「公共トイレの綺麗さ」でした。あくまで私の交友範囲に限ります)

成田空港:パスポートコントロールのところで交通整理をしているおじいさん。日本国籍と外国籍とで進む窓口が異なりますが、私の前のほうには明らかにロシア人と思われる女性が「日本旅券所有者」専用の方向に歩き出しながらも、どちらにいってよいのか悩んでいる様子。それを見たおじいさん「あなたこっちは日本旅券専用だよ、あんた日本のパスポート持っているの、持っていないでしょ、あっちだよ」といいながら手でしっし、というような手振りであっちにゆけと女性に案内しています。国際線の到着側で働くのであれば、せめて簡単な英単語を少しだけ覚える。笑顔と腕の動きで”あなたはあっちですよ”と示す。そんな程度で十分におもてなしになる。それにしてもあの態度には驚きました。

フジテレビの展望店のレジにて:自分の思っていること以外のことが起こったときに違う人柄が出てるくるというか…逆にこちらが驚いてしまった。ロシア人の友人が購入するものを選び終え、レジで支払いの際クレジットカードをトレーに提示したのですが、そこで時間が経過する中でバッグや店内を見渡して目を離している間に支払いを終えたと勘違いしてしまったようです、どうやら店員がカードの支払い処理を済ませる前に財布にカードを商品の入った袋をとってレジをあとにしようとしました。私もその後ろに並んでいたのですが、他の友人と会話をしていてよく見ておらず。とすると、先ほどまで淡々とレジ作業をこなしていた女性。目の玉が飛び出るかのような非常事態の顔で、「お客さん、お金払ってないよ。Pay money, pay money!」と大きな声で騒ぎました。こちらも一体何事かと驚き振り返りました。その友人も状況を理解し、カードを再提示して支払いを終えることができました。

この場合に限ったことではなく、レジスタッフの業務を見て感じるのは、レジの作業には一定の流れがあるようです。いらっしゃいませ、商品お預かりいたします、お支払い方法は?ポイントカードはありますか?ありがとうございました。その流れを少しでも乱すような作業が入ると、あたかもお客さんが敵であるかのような怪訝な顔。おもてなしの精神がない形骸化した接客業。それであれば、マニュアル化が必ずしもされていないロシアで時として出会う素晴らしい接客。こちらも決して期待をしているわけではないので、良い接客に出会うとよい印象が強く残るのかもしれません。モスクワの店員の接客は、今日は機嫌が悪そうだな、と様子がよく伝わってきます。ずっと自然で、笑顔もありますし、こちらがむにゃむにゃ自身が無さそうに会話すると「もう一度いってください」と怪訝な顔をする、でも伝われば笑顔になる。そう、自然。おもてなしの精神も礼儀やマニュアルがあり、それを土台として対面する相手に合わせた応対をすること。それがまず原則のはずです。

おじいちゃん、それはないでしょう:エスカレータで一方の側に立っている人にぶつかっても何も言わずにエスカレーターを降りてゆく。それはないでしょう。きっとその人の問題でしょうが、ふと、日本では、お年寄りでずいぶんとひどい振舞いの人が増えている、とどこかで読んだ記事を思い出してしまいました。お年寄りの絶対数が増えているので、そのようなケースが増えてゆくのは必然ではないでしょうか。

浅草の売店:創業百年以上の小さなお土産店でしたが、そんなお店の中で、「部長、社長から電話です」こんな小さな従業員がいないであろうお店でこんなタイトルでのやり取りがあるのかあ、と。それはよいとしても、この部長である高齢の女性の接客がひどいこと。お客をさばいている、早く買って帰ってちょうだいね、といった様相があからさまに感じ取れました。

ロシア人の友人がしばらく時間をかけて孫への着物を選んでいました。その間に彼女が商品を包んでレジのそばにおいておきました。その間にその方が着物を紙に包んでくれました。ようやく会計です。時間が経過していることもあり友人がレジにやってきて何を購入したかもう一度再確認したがっています。部長さんは紙包みの上に色をかいてくれていましたが、私は本人に商品をもう一度見てもらうほうが確実で安心できると思い、「もう一度商品を見せてもらえますか?」とお願いすると、あからさまに嫌な顔をして「創業百年以上ですから。信頼してください」と。それでも包みを開いてくれましたので感謝ですが、ただ一つテープをとるだけです。それに、私は色を確認したく、友人にも今一度確認してもらおうとの気持ちからであり、お店の商品の質などを信頼していないわけではないのですが…。自分自身の思った通りに物事がすすまないときに余計なことにピリピリしている様子がはっきりと見て取れる。これで接客業かぁ…と。もちろん、毎日ありとあらゆるタイプのお客さんが来るのでいつも良い客ばかりではないはずですので、面倒だな、と感じることもあるのでしょうが、それを言っていたら接客業は務まらないのではないでしょうか。

芦ノ湖の売店にて:レジのカウンターにアジア系(おそらく中国か韓国の方)購入客が置いた荷物を邪魔な様子で手の甲でどかす。その人の態度にはどこかしら中国人や韓国人のお客さんに対する見下したような様子を感じてなりませんでした。そして、「このレジ間もなく終了します。買い物をお済ませでないお客様はお早めに会計をお済ませください!」店内に日本語で大きな声でアナウンスしています。そんなこと日本語で、どれだけ大きな声で言ってもその場にいる外国人に伝わるでしょうか?芦ノ湖には日本人だけではない外国からの観光客が来ているのですから…

小田原行きのバス運転手対応がひどい:ロシア人の友人たちを芦ノ湖の宿へ送ってお別れ。そこから私は滞在する実家に向けて帰路につきました。小田原駅に向かうバスが到着。口をあけたままの牛乳パックを手にもって乗り込もうとすると、「お客さん、それをもったまま乗ってもらっては困ります。それを持っては乗車できません」と、ぶっきらぼうな態度。その場で処分して乗り込みました。小田原駅で降車の際、支払い方がよくわからず、お札をどうしてよいのか少しの間試行錯誤していたら、お札はこちらね、といってお札専用の入れ口を示してくれました。そんなこと最初から言ってくれてもよいのでは、と内心思いつつ、「あ~すみません・・ありがとうございます」と。彼もその日は仕事でお疲れだったのかもしれませんね。日本の友人に話すと「う~ん、バスの運転手だったらありえるかな、運転手はあまりよくないよね」とのことでした。これもステレオタイプですよね。確かに蓋のついていない飲料を車内に持ち込むことはよくなかったかもしれません。

個人事業主とサラリーマン社長と会社経営 / Self-employed, non-owner president and going concern

7年間モスクワで仕事をしてきてから、7年ぶりに以前に働いていた街へ戻ってきました。かつて頻繁に通っていたお店やレストランが今も変わらずに経営していること。そのこと自体がとてもすごいことなんだ、と実感してます。

私が勤務していたモスクワのオフィスビル1Fに入っていたレストラン。少なくとも7年間の間に3回はお店の名前が変わっていたと記憶しています。入る客はきまぐれ。ただたくさんある場所の中でその日の気分や、たまたまそこにあるからという理由だけでやってくるもの。そんな中で長く経営を成立させること、そのこと自体を達成するための努力はいかばかりかと。本日見たロシアのニュースによれば、モスクワではコロナウィルスの感染拡がりにより再び自宅隔離の規制を強める方向へ、とありました(主に65歳以上をターゲットに)。さて、上記のレストラン、オフィスに勤める従業員の利用が主要な収入源であったとすると、きっと今頃すでに看板をたたんでいるのではないかと思ってしまいます。

サラリーマン。言いたい文句がたくさんあれども、有給休暇があり、私用があるときには早引きし、会社が保険の負担も負担してくれて福利厚生もある。そして毎月一定の給与が入ってくる。それだけでただただ感謝をする以外にありません。

私が、今住む街で、ときどき利用している個人経営のワインショップや自転車、喫茶店など。どれだけその規模が小さいとしても、そのお店を開き続けることの大変さを想像すると、経営そのものを存続させるという根幹の意味において、個人事業主の大変さはサラリーマンとして一国の海外販売会社の社長職の任務を果たすことよりもずっと重みのある仕事だと思うばかりです。その両方の立場を務めてみないことにはその大変さを理解することは非常に難しく、私にはそのどちらの経験もないが故に想像の範囲からでしか判断ができませんが、やっぱり個人事業主の抱える重さにはサラリーマンの大変さはかなわないと思います。サラリーマンとして勤める社長職にも私が知らない世界があり、非常に大きな重圧を抱えていることは間違いありません。ただし、何かあって経営が成り立たない状況に陥ったとしても親会社からの支えが必ずある、仮に責任を取らされる立場にあったとしても、個人で不正をしていない限り、収入が途絶える(給料が入ってこない)ことにはならない。その点での安心感は言葉で言い表せない大きな違いなのだと。

モスクワでの勤務生活は、達成感、やりがいはもちろんありますが、それと同時に心身共に疲れてしまった、という気持ちも本心です。当時抱えていた仕事の責任と疲れは半端ないものだと感じていましたが、今現在、生活の時間にゆとりの部分も出てきて、客観的に物事を観察する中で感じることが今日の内容です。

大会社に勤めていて収入も立派で、仕事の内容も世界を相手に大きな仕事をしていて、周りから見れば申し分のないキャリアを歩んでいる自信満々の人。そんな人が街中で偉そうに歩く姿があるかもしれません(勝手な想像です)。しかし、実際に自分自身のサラリーマンという立場。その収入や自分自身の携わっている仕事のすべてが、その会社に所属しているが故にもたらされるものである。それを実に実感するとき、人は謙虚になるものではないのかなぁ、と思うのですがどうでしょうか?

その一方で、それを分かっているからこそ、安定という立場にいるが故にもっとチャレンジする気概を持っていなければ、とも感じています。それがどれだけ難しいことか、ということも年を取るごとに感じているのですが…やっぱり人間は環境に流されてしまう。弱い生き物です。ともすると、自分が思っていたほどに成長していない自分自身にがっかりしたり、週末に早起きして「あれとこれを午前中にやってしまうぞ」と思っていながら起きたらすでに時計は10時を回っている、そんなことを繰り返して落ち込んでしまう、やる気が無くなってしまう、そんなことの繰り返しかもしれません。

日本人の中には、常に自分を「だめだ、こんなんじゃ、もっとやらないと、でも自分はできていない…」そんな風に自己評価する人が多い…?そんなことを感じる場面に出くわすことが多い気がしてます。しかし、あまりに多くのことが前から降りかかってくる今の世の中は流れの強い川のよう。その中に立って、流されないように足を踏ん張って立ち続けている、それだけで十分に成長している証なのかもしれませんね。そう思えば、日々成長しなければならないというプレッシャーを感じる今の世の中をもっとみんな気を楽に毎日を過ごせるのではないでしょうか?

着実に、こつこつと、続けましょう、それが大きな成長へ / Let’s continue making effort steadily and steadily, it will become big growth

夏に度々お邪魔していたモスクワ郊外のダーチャに滞在するロシア人の家族から木の実、キノコの収穫写真が届きました。コロナウィルスによる外出規制が春に始まってからすでに約半年が経ちますが、ほとんどダーチャで過ごしたようです。感染リスクを避けるためにも、郊外で静かに森の傍で新鮮な空気と共に過ごすのが健康にも一番よいのかもしれませんね。少なくとも夏だけは日本の過酷な夏を抜け出してモスクワで夏を過ごしたいと思うばかりです。

モスクワで勤務していてロシア人スタッフと一緒に働く中で感じたのは、毎日の一つずつの業務改善や、勉強を継続してゆくことをないがしろにして(あるいは過小評価してなのか、単に意識していないだけなのか)何か大きなことをやろうとしていること、そんな意識を持っているスタッフが多いなぁ、と感じていました。

昔、新入社員の頃に受けた研修で聞いた「複利成長」。毎日の1%の努力を1年間続けるとどれだけすごい成長になるのか、そんなテーマを聞いたことがあります。毎日の1%の複利成長を1年間続けると次第に大きな曲線を描いて1年後にはとてつもなく大きく成長できている、という。我々は人間なので、1年間そんな簡単に上手くゆく保証もなく、どうしてもダメな時もあります。だからそんな複利成長に固執する気はないのですが、少なくとも日々の生活の中で何か1つでも新しいことをしよう、この業務を改善してみよう、とか。商品をロシアに輸入する時に関係するこの法律はどんな内容なのか、法務スタッフに任せきりにするのでなくて概要を説明したウェブサイトを見て勉強してみようとか。自分の責任範囲以外のことにも気をとめて手を出してみる。隣の人に尋ねてみる、そんなちょっとしたことがゆくゆくは大きな成長につながるのではないでしょうか。

と、そんなことをスタッフに口をすっぱくして言っていたのですが、果たして届いていたのだろうか…当時は目に見えるところでは実感はありませんでした。我々も何年も経ってから「あっ、これはあの時に上司が言っていたことだ」、「これって親に注意されていたよなあ」ということもあったりしませんか?そんな風に、誰かの心の片隅に言葉が残っていて、いつの日にか将来に「あっ、あのときXXXさんが言っていたことってこういうことなのか。」そんな時が来てくれたらと想像しています。

毎日の継続について。例えば部屋の掃除。一気にできたら気持ちがよい、やってしまいたい。が、そうであっても、掃除にそこまで時間をかけられない。であれば、今日はこの部分。明日はあの部分、といったように掃除する部分を細切れにしてゆくと、数日後には着実にきれいになっている。きっと初日は掃除をしだすと他の部分にも手を付けたくなる衝動に駆られるかもしれません。でもそれを始めてしまうと他の予定にも影響が出てしまう。そんな衝動を我慢して少しずつ、かつ着々と。大概、金曜日になると、何か仕事で途中のものがあっても「週末もあるから何とかカバーできるだろう。今日は未完成でもいいや。」そう思っていると失敗します。仕事は仕事時間内にやり切ること。それに最大限に集中すること。週末は結局プライベートのことにも時間を割く必要がでてきますし、気が付くと時間があっという間に経っていて思っていたように未完成の仕事に費やせる時間がわずかであった。そんな経験を何度もして失敗してきました。

仕事も課題があれば、まず何をすべきかの筋道を立てて分解してから着手する。一方ずつやり遂げる。今日やると決めた部分までは着実に完了させてゆく執着力。そんなことの繰り返しが結果的に大きな結果を生み出すための積み重ねになるのだろう、自分自身の経験を通してもそう感じています。

仕事の”忙しさ”の中身をよく吟味することの大切さ / The importance of carefully examining the contents of the “busyness” of work

7年間、我武者羅に働いたモスクワでの生活。朝早くから夜遅くまで。土日もオフィスに行ったり、家で、またはカフェで仕事をしたり。そんな生活を過ごしていると自分自身の仕事を客観的に観察する余裕がなくなっていました。一体この経験がどのように自分の成長につながっているのか?その仕事の内容は本当に自分の成長の糧になったのだろうか?そういった振り返りが大切だと思います。どんなに忙しいからって自分が成長しているとは限らない。忙しくしている自分自身に”酔ってしまう”人もいるかもしれません。

今は日本に帰ってきて、ロシアの子会社をはじめとした世界中の販売子会社の数値をまとめ、分析しながら広い視点で仕事ができる、かつ、余裕をもって仕事ができることのありがたさを深く感じています。現場で苦悩した日々を経験したからこそ、それをどれだけ今現地で苦労している仲間に還元できるかが、みんなから感謝されることをしてゆくこと、それが自分自身の評価の尺度ではないかと思います。する必要のない苦悩は誰も経験しなくてよい、そう強く思います。限られた時間なのだから、もっと楽しいこと、人のためになるようなことに時間を使うべき。であれば自分自身の経験や知見を少しでも周りに分かち合いたい。

私の7年間は、ただただあちこちに飛び火する火消しに奔走していた日々。時として火事になりかけてお叱りを受ける。ようやく落ち着いて仕事が回りだしたと思ったらスタッフが退職してしまい自分自身がカバーに入らざるをえない。なかなか良い人材に巡り合えない採用活動の繰り返し。業務改革に取り組むぞ、と意気込んでいたら突然の税務署からの大量の書類提出要求。意味の分からない法制度の変更により対応に追われる…忙しさを経験することから得られることだってあります。今振り返ってみれば、自分自身がどこまでできるのだろうか、自分の強いところ・弱いところは何だろうか、そんな風に自分自身を吟味するよい経験でした。しかし、繰り返される火消し。それは組織としての在り方に何らかの問題があった、ということを認めるしかありません。今は次の世代の人たちが次のステップに向かって漸進しているとのこと。私が勤務していたロシアの会社の今後に期待しています。

モスクワで感じた不要物のリサイクルシステムの素晴らしさ / The great recycling system of unnecessary stuff that I felt in Moscow

日本に帰国して不便を感じることの中に、ゴミ収集日が決まっていること、そしてごみの分別ルールが厳密なことが挙げられます。ずっと日本で生まれ育ってきたので、それが当たり前のはずなので、それが当たり前と言われれば不便を感じないと思いますが、モスクワでの生活を経て戻ってくると、やっぱりこのシステムに不便を感じることはあります。
不要な生ごみやプラスチックごみを収集日まで自宅で管理し続けることは嫌なものです。缶詰の回収日の少なさや、可燃物の収集日を考えたうえで冷蔵庫の中身と相談する必要もありそうです。

ロシアでは、コロナウィルスの感染が始まってから不要な外出が禁止となり、外出が許可される理由の一つにゴミ捨てがありました。ゴミを毎日捨てる口実で外出しながら少し散歩もしつつ。

モスクワのゴミの処分は至ってシンプル。いらないものは何でもアパート近くにある収集場所のプラスチック箱に投げ込むだけ。電化製品でも何でもお構いなしに置いてゆきます。そんなロシアのごみ分別ルールは、違う問題があります。まったく分別ルールが整備されていない(現在は整えられつつある)、人々がそんなルールを守らない。なんでもかんでも大きなプラスチックのゴミ収集箱に放り投げる。人が処分する方法も豪快であれば、ゴミ収集車も豪快。

2019年1月より「ゴミ改革」と言われるごみ収集のルール変更があったようですが、生活している中で、大きく変わったことは感じませんでした。今思えば、通りに分別用のゴミ箱が設置されたり、ゴミ収集のプラスチックケースには分別ルールが記載され、生ごみとビン類を分けるなど、図でそれぞれのケースに入れるべきものが示されるなどの変化を感じました。


https://www.orix.co.jp/grp/move_on/entry/2019/08/09/100000

https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/01/bcf822c7dfd0a11d.html

どんなに個人的に環境に配慮して分別しても、最後に収集される場所は一つの場所にいく。だから分別しても意味がない、なんていう冗談もよく聞くことがありました。私の見たロシアではまだまだゴミ改革はこれから…そんな印象が残っています。

今回お伝えしたいモスクワで見かけたリサイクルシステムの素晴らしさ。それは、不要なものをあえて見えるところに置いておく。そうすると、しばらく経つと誰かがそれを持ってゆく。お互いに助け合いの精神が働いているのかもしれません。廃棄する側もわざわざ処分業者をアレンジすることも必要ありません。また、夜遅くにはゴミをあさっている人が見られます。人々が処分した不要物を物色しているようです。丁寧に並べられた女性用の靴、不要となったと思われる洋服、そんなものが置いてあります。翌朝にはそれらが無くなっているのを見ると、きっと次にゴミを捨てに来た人か、夜中にゴミを漁っていた人か、誰かがもっていったのでしょう。私も引っ越しの際には、不要となった冬用のコート、洋服、靴といったものを見えやすいところに置いてきました。やっぱり翌日にはなくなっています。誰かに引き継がれて役立っているいいなぁ、そんな風に思っています。

過剰品質の日本、そのジレンマとその美学 / Japanese Over-quality, its dilemma and its aesthetics

6月上旬にモスクワから帰国して実家で2週間隔離生活をしている時、久しぶりに両親とも過ごす時間が増えて懐かしい話や仕事の話をすることが多くありました。

その中で面白いな、と思った話があります。父親は機械の設計をしています。たとえば、ペットボトルのボトルにプラスチックのパッケージを貼ったり、薬品や文房具の小箱を組み立てられる、そんな工場の生産ラインの中に位置する機械の設計をしています。ラベルを1分間にどれだけ正確に多く貼り付けられるか、箱を組み立てられるか、スピードと正確性とそれを達成するための製造コストとの闘いのようです。

面白いのは、日本で相手にするお客さんは、どんな小さなしわであっても欠陥品とみなされてしまうそうです。となると、そのしわが発生しない方法を解決すべく、さらに時間と労力をかけて解決策を考える。それだけ機械の生産コストも高くなる。製造工程で、しわの発生が許されない、それは日本の価値観からすれば当たり前のように思えます。

例えば中国などのアジアのライバル会社が2,000万円で製作できるものが、日本では2,X00万円する。そうすると価格面で勝てない。そしてそこまでの高品質をアジアのお客さんは求めていないという。高品質を追求することは大切だけど、お客さんはそこまで気にしない。そのジレンマに陥っている気もします。

一方で、ロシアでは日本車が目に見えない部分にまでこだわって丁寧に製造しているか、車を分解したときにその仕事の丁寧さに感動した、という絶賛の言葉をビジネスパートナーからいただいたこともありました。

今の仕事でも同様で、たとえば仕事でエクセルファイルを利用して作成するレポート類について。罫線がどこかでちょっとしたところで縦一本欠けていたり、破線の種類が隣同士で異なっていることに気が付いたとき。自分では気持ち悪いので一つ一つのシートで問題がないかを確認する。この資料を受け取る人は、印刷をしない限りそこまで気にしない可能性が高い。今はテレワークになっていっそう紙に印刷する機会が減りました。きっと多少の線の統一がなくても問題ないはず、とおもいつつも、一方では自分自身はそこまでやらないと納得できない、やりたいんだ、という気持ちが湧いてくる。そんな部分に時間を割いていると他の仕事が溜まることに。

資料の受け手がどう感じるかを想像しながら、”もっと見栄えをよくしなければ”、とか、”もし罫線を気にせずに提出すれば、だれかはきっと私のことを「細かい部分に気が付かない奴だ」というマイナス評価をするだろうなぁ”、なんてことを別の自分がつぶやいている。

この資料は、どこまで詳細を気にして作成すべきなのか…一律の正解がないので難しいところですが、「お客さんはそこまでの高品質を気にしていない」「お客さんはそこまで気にしない」という点は、仕事の本質を見失わないためにも面白い観点だな、と感じました。相手のことを常に意識するが故の日本の美学と言えるのでしょうか。悪く言ってしまえば、独りよがりの美学なのかもしれませんが、こんな美学こそが世界に誇る日本という独特のイメージや文化を作り上げるのに役立っているのかもしれないですね。

最近入った回転ずし店でみかけたプラスチックボトルの醤油。特別な構造になっているために、ボトルをかたむけても醤油が一気に出てこないようです。ボトルに小さな空気穴が施されており、きっとそれが機能しているのでしょうか。私は、このボトルは醤油が一気に出てしまうことを防ぐ画期的なものです!とでも言うかのようにその機能が強調されている醤油のボトルをみて、「誰がそこまで気にするのだろう?そこにこだわる人がどれだけいるのだろうか?」というのが初めて見たときに素直に感じた気持ちです。もっとシンプルなボトルの構造にして、原価を下げてお客さんに提供できるほうがお客さんに喜ばれるのではないだろうか、とも思ったり。モスクワでは、いまだにガラス瓶にはいった醤油が店頭に並んでいます。昔ながらの懐かしいガラス製の醤油。それはそれで雰囲気があってよいのではないでしょうか?