(この体験は大都市から離れた郊外に住む私の生活環境を前提にしたもので、決して日本の全ての場所が同じ状況ではないことを前提に、あくまで私の体験に基づいた主観を書いています)
カフェに座っていてふと思うことは、周りの人がお店に入って席を取ると、自分の鞄を椅子に残して席を立ち注文をしにいったりトイレに行ったり。横に座っていた人が立ち上がり人の気配が無くなった。しばらく経つので帰ったのだろうという意識でいたが、ふと目を横のテーブル下にやると鞄が置いてある。そして持ち主は何事もなかったかのように戻って再び席についた。こんなことが自然に行われていることはきっと異常なんだと思う。モスクワで生活していて、席を離れる時に荷物を置いて席を離れたことは一度たりとしてなかったし、友人の誰もがそんなことをするところを聞いたこともない。一人でカフェに座っている人が席を立つときには荷物も一緒に離さずに立つ。これが世界的な標準なのかな、と。自然にこのように、自分のモノを身から離し、席においたまま離れても自然な感覚でいられる環境で育つのって素晴らしいと思う。
モスクワで勤務していたスタッフには、モスクワで生まれ育ってはいるものの、モスクワの常識が身についていないのか、この良き日本文化が行き渡った日系企業の文化に触れて感覚が日本仕様になってしまったのか、とあるカフェに一人座っていて、時間にして10分くらいだろうか、鞄を椅子に置いて席を外していたという。戻ってきたらパソコン、パスポートの入ったリュックが無くなっていた…。防犯カメラを確認すると犯人らしき人が映っていることを確認したものの、結局取り戻すことはできなかったようだ。仕事はとても優秀で、タスク管理にも秀でいた彼も自分の持ち物管理には長けていなかったのかも。
モスクワの常識を覆される出来事に心を救われることもありました。モスクワから休暇でソチに行く飛行機に乗った時のこと。ソチの空港に到着し、いつもの場所に財布がなく、鞄の中に手を突っ込んでごそごそと財布を探るも財布らしきものに当たる感覚がない。いつも財布とパスポートだけは絶対に紛失してはいけないと、常に鞄の中の場所場所を決め、意識して盗難にも注意していたにも関わらず、海外で初めて財布を紛失したことに愕然としたものだった。カードをストップして手続きを終え、モスクワを飛び立った時の陽気な気分がソチの快晴の空とは対照的に、心の中は一気に陰鬱な雨模様と様変わりの様子はご想像の通り。
…ところが、ホテルの部屋で仕事のパソコンを開くと、見慣れないロシア語のメールが見知らぬ人から入っていました。「あなたの財布を空港のチェックインカウンターで見つけたので、空港の落とし物預かり所に預けておきました。空港に戻ったらその場所に取りにいくように。」との内容です。どうやら、財布は空港のチェックインの際に忘れたようです。早朝で頭もあまり働いていなかったからか、財布を鞄にしまい忘れてその場を立ち去り気が付いたらソチにいた…。この方は財布の中に名刺をいれていたことから、仕事のメールアドレスにメールをくれたようです。ソチで気分はどん底に落とされていたところに、このような善人がいることを知り一気に晴れやかな気分へ再び舞い戻り。こんな想像していなかったことを経験し、善良な人がいることに深く感謝し、何とお礼を言ってよいのか…メールで感謝の返信。数日後、空港で落とし物預かり場所を訪れると、確かに財布が保管されていました。中には日本円に換算して1万円以上のルーブルがありましたが全額そのまま。この方にはオンラインバンクでお礼のお金を送金したことを覚えています。モスクワにはこのような善人に出会えることが非常に珍しい、というつもりはなく、どこにでも同じように善良な人がいて、悪い人もいる。人は自分が体験した経験に基づいて「モスクワは~」「日本は~」「東京は~」と決めつけてしまう傾向にあると思います。そうありたくないけれど、気が付けばこの傾向が出ていることがある。気を付けたいですし、一方でこういった傾向を人が持っているからこそ、海外では日本人ブランド向上のために自分の出会う人たちに善いことをする、そんな気持ちを一人ひとりの日本人が持って実践してゆけば、世界での日本ブランドはまだまだ輝き続けるはずです。
そういえばこんなこともありました。モスクワに駐在中に、新年の休暇を利用してアメリカに出かけ、空港のベンチでフライトを待っていた時のこと。まったく見知らぬアメリカ人女性がやってきて、「ねえちょっと、私の荷物見ていて。すぐに戻ってくるから」といって、自分のスーツケースを私に預けてどこかに行ってしまいました。私もまだその場所にいるので別に問題もなく、戸惑いつつも「OK」と返事。彼女の急ぎの案件と、万が一にもアジア人の見知らぬこの男性にスーツケースを持ってゆかれるリスクを天秤にかけて決めたのか、ただちょうど良いところに何だか問題なさそうな男性が座っていたので好都合だったのか。それはそれで信頼された、ということであれば嬉しいものですが、こんなこともあるんだなぁと面白い体験の一つとなりました。
これからもきっと善人との出会いに救われることもあればその反対もあるはず。私たち個人個人の”常識”は、その出会いの中で形作られて、変化してゆくのかもしれません。日本がなんだかんだ言っても安全性が高い、という”常識”も一人ひとりの行動が積み上げてきたもの。いつの時代でも、自分の荷物を気にせずにカフェの席を立って注文に行き、気兼ねなく荷物を置いてトイレに行ける国であったら…素晴らしいですね。