1つの事象の捉え方次第でこんなにも状況が好転する / The situation improves so much depending on how you capture the event

今年1月のロシア人家族と一緒の箱根旅行。台風の影響で登山鉄道が走っておらず代わりにバスが運航している。なかなかやってこない、待たされる。外は寒い。タクシーを頼んだのですがなかなかやってこない。

「こんな寒い中待たせてしまいごめんなさい。」というと、「(交通手段が)あるんだから、無いよりいいじゃないの。」とお母さん。無いものに目を留めて文句を言うのではなくて、今あるものについての感謝の気持ちが出てくることにその時、アッと思いました。良い衝撃でした。

それ以来、自分の物事が何か悪いほうに行きそうに思われた時、彼女に倣って考え方の転換をするようにしています。現実逃れではなく。不思議なことに、自分の感じるストレスも減りますし、他の人に接する態度も柔らかくなり、争いを避けることにつながります。前は一言いってやりたい、と思ってつい口走っていたことも、目の前のことがそれほど大きな問題に思えなくなる、そんな効果もありました。

きっと何でも周りに対して不満を持っている人はこの考え方を当てはめてみることがよいのではないかと思っています。すべてがそんなに思うほどうまくゆかないことだってありますが…。

苦しいと思うことがあって、自分のルーティンができないとしたら、今は新しいやり方にチャレンジしてみる時期なんだと思えばよい。今は室内に留まって仕事をせざるをえない、不便もあります。オフィスに行く必要もないので、誰も見ていない。自分次第で毎日の仕事の量も質も変わってしまいます。そんな時には自分の仕事のやり方を見直す機会と考え方を転換すればよい。年齢を重ねてあとでどうにもならないよりも、今この問題と向き合って何かレッスンを得られるよいチャンスと思えばよいのかもしれません。

今はCoronavirusの影響でテレワークが進みMicrosoftのTeamの利用が増えていると聞きます。私も使用したことがありませんでしたが、今はその機能の恩恵を受けています。手元にあるIT機器でどれだけ効果的に働けるだろうか、そんなことを考えながら毎日を過ごしています。オフィスでは周りに同僚がいてワイワイガヤガヤしていますが、家では自分一人の環境を作り出せます。Dictate(音声認識)機能もあり、書きたいメール内容をコンピュータに向かって話すと勝手に書き上げてくれる、なかなか使いこなせていませんが、英語も日本語も認識してくれる、質も決して悪くない。そんな機能が今のお気に入りです。

人のよいところに集中することの難しさ、感謝することの大切さ / Difficulties to focus on people’s good points and importance of gratitude

人の悪いところばかりを見てしまう傾向があるのが人の傾向なのかな、と感じています。何か一言言いたくなる。それによって自分が他の人よりも少しでも上に立っている事を示したい。人の悪いところを見つけてやろう、そんな傾向、人の常なのでしょうか?

Of course, Always.. Why you didnt …? I told you etc
その言葉の裏にあることを想定してしまいます。Of course(まるであたかも、何アホなことを聞いているんだ?)Always(いつもと同じにきまっているだろう、そんな馬鹿な質問をするなよ)Why you didnt…? (なんでそんなこ馬鹿なことしたんだ?そんな当たり前のこともやっていないのか?言わなくても分かるだろうが)I told you (前に言ったでしょう、何度言わせるつもり?)

もっと一言、自ら声をかけませんか?他人と会話する際にはなんとなく話す人を選んでしまう。歳を取るほどに他の人とオープンに語り合うことが難しくなる。それをどれだけ自分から打ち破れるか。課題です。モスクワの日本人の社会を見ていて、多くの方々が、それぞれプライベートで出来た関係性をベースに、セミナーで出会う仲間との付き合いを楽しんでいる気がします。それは決しておかしなことではありませんが、プライベートでの比重が仕事での関係性に与える割合が多いのではないかと。

逆に言うと、プライベートの場に身を置いていない人にとっては、セミナーやそれに続く懇親会に出席した時にすでにプライベートの会話で盛り上がっている会話の中に入ってゆくのがとても難しく感じられるということです。そんな光景を見ていると、一人でいる人にもっと声をかけてあげることができないのだろうか、といつも思います。

話しかけてみると、面白い経歴を持っている人だったり、深い考えを持っているひとであったり。いろいろな良い発見があります。

医いたことはあるけれど、文句を言わずにやってくれていることに感謝しませんか?

私たちは部下を見ていて、仕事が遅かったり、間違いがあったり、イライラしてしまうことが一度ならずあります。彼女のパソコンをのぞき込むと、いつまでも経理システムとExcelファイルの両方をにらめっこしています。「それ、今朝もやっていたよね…大丈夫?何が問題なのかね?」と尋ねると「一か月前にまとめたはずなのに、先月締めた数値の修正があったために前の月の数値を改めて見ているんです。数値が組み替えられている(ロシアの会計システムでの処理と日本向けの数値レポート間で勘定科目の組み換えを行っている)ために、数値がどうしても合わず見直しているんです」といった回答が返ってきます。

このやり方自体に問題があるのですが、今回のテーマは「良いところに目を留めて、感謝すること。」そのテーマについて考えると、彼女のように一生懸命にやってくれる姿勢に感謝をしなければと思わされます。先月は彼女の上司と一緒に深夜近くまでレポートのバグ出しをしてくれていました。私は一足先に帰り、あとでメールをチェックすると23:30に報告が来たのには驚きました。金曜日にです。「家族も待っていることだし、もう金曜日で疲れているから帰ろうよ。」と言っても「いや、どうしても今日終わらしていきたいんです。数字が合わないのがどうしても気になるんです」と言ってききません。まだまだ彼女の会計知識、Microsoftスキルをとっても改善の余地がまだまだありますが、そのような姿勢はきっと将来に化けるのではないかと期待しています。

人の成長にとって大切なのは大きく分けて二つ。「仕事スキル」と「人間スキル」。若い頃は仕事スキルがあれば十分ですが、とあるレベルに来た時に必ずぶつかります。年齢を重ねるごとに仕事スキルだけでは周りが付いてこなくなる。なぜならば仕事スキルはいくらでも替えが利くものであり、限界がありません。年齢を積み重ねて一層大切になってくるのは、例えば、周りを鼓舞出来て、人と人がぶつかって生み出される問題を解決できる能力、そういった人間スキルだと考えています。ただし、仕事スキルが無い人が人間スキルだけを持っていても有能なマネジャーになることは難しいのではないか、というのが私の考えです。周りを圧倒させるにも、他の人よりも何かに秀でた仕事スキルを持っている必要があると思うからです。その仕事スキルというのは単に仕事が早い、コンピュータが得意、といった目に見えるものだけではなく、なぜだかこの人からは買いたくなってしまうんだよなぁ…と思わせて営業成績を上げ続けるような人たらしの性格も含まれるのかもしれません。

さて、家族を大切にしている彼女、子供のことを大切にしている彼女。そんな彼女が将来マネジャーになるとすれば、きっとバランスの取れた人望のあるマネジメントになるに違いありません。

自分の感情ノートをつけることが自分を知り、チームのロシア人スタッフを知るのに役立っています / Keeping to write your emotion in notes is a good way to get to know yourself and the Russian staff in your team

モスクワでは3月30日から全淳民に対して自宅隔離が強く要請されています。食料品や薬局などの市民の生活に不可欠な仕事を除いて一般的な企業は今週は有給扱いとなっています。そんなわけで私も自宅に閉じこもって仕事をする日が続いています。人が集まる場所も入り口がテープやフェンスで閉じられています。人との間は2mの距離を保ってください、とのことです。3月の終わりに雪が降り、街中が白でおおわれています。

日々の業務で自分の感情が高まる場面があります。その理由がなぜか?自分自身でその時の状況とその時の感情をノート(OneNoteやEvernoteといったオンラインのノートブック、メモ帳も活用)につけることが役立っています。

そうすると、なぜこの時に自分はイラっとしたのだろうか、なぜこういった時に自分は嬉しいと感じたのだろうか、徐々に自分の中での価値基準が見える化できてきます。そして、同様のことを他の人にした時にはきっと彼らも同様な気持ちを抱いているのではないか、と思えるようになります。

一つ一つの相手の感情を気にしすぎていると、逆に自分のの動きがとれなくなってしまう恐れがありますが、それだけ相手の気持ちも推察することが出来たうえで自分の行動ができるとすれば、損することはないのではないかと思います。

私自身がイラっとすることの多くは、とりわけ私の時間を意味もなく取られることです。その会話によって仕事への集中が阻害されること。電話がくること。別に必ずしも電話でなく、SMSでも問題ないのでは、と思います。自分の集中を切らされることに非常に敏感です。そんなわけで人の足音も気になります。歩き方一つをとっても周りに圧迫感を感じさせる人もいれば、ただただうるさい人もいる、歩き方にも人それぞれの個性が表れていて面白くもあります。人の業務中にどかどかとやってきて話し出す人。考えもなくとめどなく話されても困ります。その人の時間に対する意識がその人の行動、態度に表れているようです。言うまでもなく、延々と続く会議も非常に嫌悪します。

大切だな、と思っているのは、自分がどういった場面で感情のパルスを乱されるのか、毎回記憶しておくことです。今年の冬、モスクワ郊外の英雄都市Tulaからモスクワに帰る電車の中で私がテーブル上にパソコンを置いて仕事をしていると、ご老人がのぞいてきて、お~Interestingだ、なんだこれは、стажер(学生)か?、と尋ねてきました。いや違います。何ですか?と笑いながらロシア語で返すも、シトー(What)?と顔をしかめて何を言っているかわからない、と一点張り。そちらから声をかけてきて、こちらも間違ったロシア語で返しているわけではないのに。しかめつらで全く理解ができない様子。単に耳が遠いのかもしれないですが、このようなやり取りは疲れも手伝ってイライラさせられました。それはないですよね。こちらはパソコンに向かって集中していたところを邪魔されて、それでその態度ですか…と。イラっとします。

そんなちょっとしたことでも、あっ、相手に聞き返すときにしか目面をすることが相手にこれだけ嫌な感情を与えるのか…自分はやってはならない。という教訓となります。そんな日々の積み重ねを重ねて、記録し、振り返ることで日々の地道な前進があるのでしょう。

それにしてもやっぱり完璧主義は絶対よくありません。自分で疲れてしまいます。自分に独りよがりの期待値を上げてしまい、精神を病んでしまってはどうしようもないと思いますので…。時分自身への期待値を過度に高めないこと。自分の中で今の自分に相応しい負荷レベルを見つけ、それを徐々に高めてゆくこと。日々これの繰り返しでしかないと思います、自分の成長というのは。この相応しい負荷のバランスを見つけることも難しく、これもまた日々自分で負荷のかけ具合をかえてゆくことでしか自分の現時点の能力を理解できないと思われます。

感情のコントロールは一体どうすればよい? / How to manage to control own emotions?

自分で思うほどに物事はうまくゆきません。むしろ、生きていると上手く行くことの方が少ない。これは誰もが理解しているのではないでしょうか。

全体として、一言余計な発言が多いのがロシア。そう思うことがあります。いや、実はどこの国でもそう?人はきっと相手よりも上でいたい、それを示したいと思う生き物なのでしょう。去り際に繰り出される一言でカチンとくること、一度ならずあります。しかし、それが理由で相手に手を出てしまったら…言い訳のしようがありません。日々の業務で負荷がずしりとのしかかっている中ではそんな危険もあり得る。どれだけ自分自身の感情のコントロールが大切なことでしょう。身体が震えるくらいの怒りの感情があってもそれを上手にコントロールできるスキルの大切さを、ここモスクワで感じます。

メールでの感情表現の管理も大切です、思わず気持ちのブレに揺られて、あとで後悔することをすぐに書き出して送信しまうこともあります。後で、何てとんでもないことをいってしまったんだ…という気持ち。繰り返したくありません。

マネジメントの仕事はどれだけ怒りをコントロールできるか、それに尽きるのではないでしょうか。どんなに相手のことを思って、正しいと思うことを訴えても一向に聞いてくれる人がいるようには見えない。下をうつむいている、パソコンで別のことを行っている…そんな光景もあります。悲しく、時に怒りの気持ちすらでてきます。

”どれだけ人間的に成長できるか、その成長が早い人ほど上のポジションにいっている気がする。”そんなアドバイスを数年前にいただいたことがあります。その言葉の重みを今感じます。

怒りのメールをしたいとき。危険です。メールでの感情を抑えるための対策:

定型文の利用を最大限に利用しています。このようにすれば、自分の感情がメール文章に影響を与えるリスクを抑えることができます。

  • 決まった文言はMicrosoft IME の単語登録
  • 英語の場合はPhraseExpressで文言の登録

を使っています。メールにより余計な問題を生み出してしまうことの無いように、自分の感情が入る余地を減らすこと。そんな心がけも重要だと私自身の失敗から学びました。

すぐに言葉に出さない。

負けを認めたことになるような気持ちもあるかもしれませんが、ぐっとこらえることは結果的にプラスとなること、多くあります。そして、不思議なことですが、自分の思っていたこと、でも言い出せなかったことを上のポジションの方がタイミングよく発言されることがあります。自分自身が性急に口に出さなくてよかった…そう思います。

恥を恐れず、ロシア人スタッフに笑いを / Don’t be afraid to embarass myself in job with Russian subordinates

恥をかくことを恐れない - 行動する原動力が生まれる、失敗を恐れない、にもつながる。ロシアでやってゆくうえで、いや、チームを上手に率いていくために大切な特質の一つです。
後々まで自分がやってしまった・・・ということをひきずらない、と言われても、いやいやけっこう引きずってしまいます。考えない、考えない。そう決めてもふとした時に思い出してふさぎ込んでしまう。そんなこと、よくありますよね。失敗を失敗とは考えないから私はこれまで失敗というものをしたことがない、という人がいます。そのいわんとすることは分かりますが、私は反対です。私も同じ考えでゆけばこれまでほとんど失敗したことがないことになりますが、その各場面では失敗は失敗であって、やってしまった…という気持ちにかられるはずです。

業務量が多い中で失敗は当たり前。一つ一つを引きずっていては鬱になる可能背が高まるでしょう。私が無事に今のところ鬱になっていない理由はいくつかありますが、何事も深く考えすぎないこと、相手に笑われてなんぼ、社内で恥をかいて何が悪い?と開き直る。失敗したらとにかく自分で自分を笑う、平謝り。そして次に向かう、です。

オフィスが小さいので、私が送ったメールの内容に対してロシア人スタッフが「なにこれ?」と鼻で笑っている様子も聞こえることがあります。わたしの目の前ではXXXさん、と必ず言うのに、私のいないところでは「さん」なしで会話していることも普通です。きっと、ロシアでは「さん」の習慣がないので何気なくそう呼んでいるのか、機嫌が悪いのか、ただ嫌われているのか、XXXと呼び捨てにして会話していることもあります。とにかく一つ一つを気にしていては仕方がない。

ロシアで仕事をしていて、生活をしていて感じるのは、何か人の失敗や言動をすぐにちゃかしてそれを笑いにすることがよく見られること。日本でもそうでしょうか?日本にいるときには意識したことがなかったので分かりませんが…。もしかすると私の周りには女性スタッフしかおらず、女性にみられる傾向なのか。分かりません。これらは今日のテーマと直接関係がありませんが、言えることは、気になりだすと身の回りのあらゆることに敏感になり、自分自身の中で勝手な妄想が広がり、結果的に自分の行動を拘束してしまう見えない怖さがあります。

実際に失敗をすると、わたしたちは人間なので、まったく思いださないのは無理。たまにふとした時に頭に浮かんできます。きっとそれを笑って済ませるか、「いつも自分が仕事で怒っているスタッフにはどう思われただろうか?誰かに転送されて笑いのネタにされているのではないか…悔しいなぁ」などあれもこれも考えだすと目の前のことも手につかなくなります。

忘れることは無理としても、ふと思い返すときには自分の失敗を自分で笑えるようになればOK。このつまらないことが多い世の中で笑いをひとつロシア人の部下に提供してあげた、なんて良いことを私はしたのだろう、と思えばそれでOK。そうです、ただでさえつまらない世のなか、笑いのある世界にしようと一人一人が努めていると思えばそれで十分なのかもしれません。

また、失敗をすることは、その時の自分の鼓動が大きな音を立ててバクバクと体中に音を立てるあの響き、その時の自分の日頃は見られない慌ただしさの中で自分のパフォーマンスの低さを観察し、その時点での自分のレベルを把握することにもつながる気がしています。

昨年年末の会社イベントで尺八の演奏を試みました。4年前くらいだったか、随分前に購入してから全く手をつけずにいた尺八。少しでもイベントを日本人の私としても盛り上げたいと思い、わずか2週間前くらいから、仕事のために限られた時間の中を少しずつ練習。何とか目標とした曲のメロディまで吹けるようになり、当日のリハーサルもOK。いざ本番です。曲を演奏しようとするも、全くといっていいほど音が出ませんでした。ほぼ一度も音が出ず、恥ずかしい思いをしたことは想像に難くありません。ただただ穴が入りたいとはこのことです。そのあと、呆れた顔のスタッフたちがさ~っと離れていく中で「XXXさん、気持ちだけはとても伝わってきました、ありがとうございました。」と言ってくれたスタッフがおり救われましたが。それでもこの失敗の経験はよい機会となりました。あの気持ち、準備の大切さ(土台がないものをいきなりやっても上手くゆかないこと)、上司自らが自らの失敗や弱さを皆に見せてゆく重要性、など。

いまだにロシア人のようにダンスは全くできません。音楽を聞いても身体が動きません。これもまた恥をかく、笑いのネタにできるかなぁ、と思っていますが、やなりダンスはしなくて済むのであればできる限り避けたいです…。

仕事で言葉の多さがどれだけ重要なのか?正直懐疑的です(其の二)/How important to talk enough in the job? Honestly I am skeptical. (part 2)

仕事の会話を始める中で、簡単に本質からずれてしまうことが多い。それで?Yes なの、Noなの?何が言いたいの? ー よくこの質問にたどり着きます。最近、外部のコンサルティング会社を利用してビジネス上のリスクにかかわる勉強会を行っていますが、スタッフが積極的に多く質問をする姿勢は素晴らしいのですが、細部に入ってしまい、いつまでも先に進まない。問題の本質はどうなのか?という点を俯瞰的に捉えることが重要なのでは…?それだけ私の勤務する会社のスタッフのレベルがまだまだなのかもしれませんが…

物事に取り掛かる場合、自分なりに話の着地点を考えておき、確認したい質問を書き出しておく。それに基づき自らの筋道が正しいのかを検証してゆく。間違っていることが分かれば柔軟に対応する。私の経験からして、こちらから正しい質問をしなければ欲しい回答が出てこないことが多々あります。後で「なんでそれを言ってくれなかったの?」と聞くと「いや、聞かれなかったので」と平気な顔で返答するスタッフもいました。もちろんその通りですが、こちらからすれば、その情報は判断材料として重要なのだから尋ねられないとしても話してくれよ。と言いたくもあります。そんなこともあるので、自分で想定する解決までのストーリー、それに向けて準備する質問事項をきちっとすることの大切さを感じるばかりです。そして、話し合い中にロシア人スタッフが不要な話に脱線したらすぐに会話を元に戻す。「それで、Yesなの、Noなの?」結論をはじめに確かめる。言ってしまえば、話好きでよく喋るロシア人スタッフを黙らせる。それに尽きます。

気になる点を立ち話でささっと確認すること。これも効率的に情報を集めるためにも大切なことと感じています。部下が机の近くを暇そうに通ったら、その機会を逃さない。各部門とは、週一度のWeekly meetingで各課題の進捗を共有する会議でささっと話し合う。

時間をかけないようにする=どれだけ自分で準備をしておくか、でもあるので、結果的にはかけている時間の総量は決して少なくないのかもしれません。そうであったとしても、スタッフに確認するために課題一覧リストを自分で確認し、尋ねたいことを予め準備しておくことに無駄なことにきっと無駄はないはずですね。

私の仕事上の経験から言えるのは、会議が長くなる、ちょっとした会話が長くなる…その原因の多くは、本題から脱線した内容の会話が続いてしまうこと、同じことを何度も繰り返すこと(表現を変えているのだけれども結局は同じことを述べているだけ)といった点が多い気がしています。また、皆で考え出して沈黙が続くこと。その場で本件をクローズしたいという気持ちが確かにありますが、その場をいったん切り上げることも結果的にプラスになることもあります。

皆で集まり、ブレインストーミングでのアイデア出しも試みられますが、会議室に座ってさぁみなで議論し合いましょう、という雰囲気からでは、あまり斬新的な結果がでることはないのではないでしょうか。結果的に規定路線から大きくそれない程のアイディアしか出てこない。そんなものではないでしょうか。私はその効果に懐疑的です。企業の中には場所を変えて、懇親会の目的もあってホテルに泊まり込んで議論をすることもあるようですが、いくらトップマネジメントの方々が場所を変えて議論をしたところで、同じ人間同士が話し合う以上、想定される程度のものしか生まれてこないでしょう、と思ってしまうのです…。そんなことよりも、全く異なる経験をしたり、全く価値観の異なる人と会話をするほうがずっと価値があるのではないでしょうか?私は日頃自分自身が全く足を踏み入れたことがないような、意識もしていなかったような世界に触れてみることが一層重要になるのだろうな、と思っています。日頃使わない道を通ってみたり、日頃出歩かない時間帯に散歩してみたり。そんなちょっとしたことでも。

私は自分の時間を奪う不要な会話が大嫌いです。 それは自分がかつて新入社員のころに上司に対してしてしまった自らの時間泥棒への大いなる反省の裏返しでもあります、取り返しがつきませんがその時の場面を思い浮かべると反省することばかりです - 時間の重要性を強く強く感じることがどれだけ重要であるかを学んでいます。 無駄話から生まれる解決策もあることは分かっていますが、日常業務で出会う多くのことは課題に直面。急いで判断が要求される。さてお前はどうするんだ?そんな繰り返しがほとんどです。

ただ、その一方で、個人の抱える問題や退職交渉などの人事にかかわる話は、必要な分だけ時間をかけるべきでしょう。骨折れることではありますが…真摯に向き合うこと、とても大切です。(といってもあまりに入れ込みすぎることのないように!そのバランスは実際に経験してみないと分かりません。)

時間というのは面白いもので、あればあるだけ勝手に埋まっていってしまう。それを感じています。毎朝、少しでも早く早朝に出社して皆がいない静かなオフィスで自分の仕事に取り組んでいます。そのため起床してから家を出るまでの準備の時間をどのように効率的にこなすか、これが重要です。早朝の時間が仮に10分増えるとすると、単純計算では10分自宅を出る時間が早まるはずなのですが、なぜだかそうもいきません。おっ、まだ時間がある。よし、あれをしよう、これもしよう、と今やらなくてもよいことについ目がいってしまい、結局家を出る時間が大差なくなってしまうのです。

時間は有限。物事のやるべきこと・やらないことの選択の大切さをこのような日常生活からも学習しています。

仕事で言葉の多さがどれだけ重要なのか?正直懐疑的です。/ How important to talk enough in the job? Honestly I am skeptical.

物事を理解しあうために、お互いにどれだけ多くのコミュニケーションを取ることがいかに大切なことか、ということはよく周知の事実です。とりわけ、家族のとの深い会話は絶対に欠かすことはできません。


一方、日常業務においては言葉の多さ、会話の長さがどれだけ重要なことか、正直なところ私は非常に懐疑的です。仮に時間が十分にあったとしても、それに時間をかけたところで、そこから得られる結果に大きな差がないと考えるようになりました。


ロシアで勤務する中で、時間が最も重要で誰も取り返すことのできない資産であることをよく認識するに至りました。これも自明の事実ですが、頭では分かっていたとしても、それがきっちりと自らの中に根づいていなかったのだと思います。そして、仕事が人生にとって最も大切なことではない、ということも。そうはいっても仕事は生活してゆくためにお金を得る方法としてとても大切。そうなると、いかに仕事にかける時間を抑えることができるか?その密度を高めるしか方法はありません。


さて、そんなことを突き詰めて考えて行動してゆくと、仕事はむしろ言葉少なくても伝わることのほうが多いのではないかと。そして、仕事の多くの場面では、話し合いが決してそれほど必要ではないケースも多いのではないでしょうか?それにしてもいまだに会議に参加してその場で会話をすることで何をした気分になっている。情報交換も行いお互いの理解も深まったから大丈夫、なんて勘違いをしている人も多いのではと思われます。


どれだけ多くの参加者が話し合った内容を忘れていたり、自分なりの勝手な解釈で理解が分かれていたり、なんてことがいかによくあることか。会議のあと後日、「あのときこう言ったよね、あなたも賛成って言っていたよね」と言うと、「いやそんなことありません。あのときはこういう意味で発言しました。私は賛成とは言っていません」なんて反応がロシアでも日本でも珍しくないのではないでしょうか?あのときの時間は一体なんだったのか…と言いたくもなります。会議の議事録をまとめることは当たり前の解決策の一つですが、ちょっとした打ち合わせを含めたすべての会議の議事録を書くことは私はやりたくありません…


仕事でのコミュニケーションは重要ですから、一切言葉を交わすことなく判断はできません。物事をスピードを失わずに確実に判断し行動してゆかなければならないときに、少しずつ自分なりにやりかたを変えて試行錯誤をする日々で自分なりに学習をしてきました。


どれだけ多くの時間を一緒にすごしたからといって本当に理解しあっているともいえないようです。小さいころからずっと長く付き合ってきたとしても、それぞれの状況によって自分自身も相手も変化してゆきます。昔の調子で話をしても、お互いにそれぞれ違う人生を歩んでいるのでかつてのような密度の付き合いはできなくなっています。一方で、学生時代に半年ほどバックパッカーとして世界貧乏旅行をしていましたが、偶然にもグルジアの安宿で出会った人と、わずか数日だけ一緒に過ごしただけなのに、その後日本で再会して食事をして会話をして、まるでずっと昔からお互いに知り合いであったような気になる、そんな関係もありました。


そんなわけで今日のテーマ、言葉の多さがどれだけ重要なのか?少なくとも仕事においては必ずしも重要ではない。では時間の効果的な用い方とは一体?何の代わり映えもしないもので、すでに多くの方々がビジネス書で書いている内容と重複するものがほとんどかもしれません。次に書いてゆくことにします。

よき管理担当駐在員とは? / What is good administrative Japanese expat?

こうやって以下に”よき管理担当駐在員とは?”を書き出してみると、決して管理担当者に求められるもの、というよりも我々すべての人に求められる要素ですね。そして、これができていれば完全な人間。我々のような不完全な人間にはどうしても到達しえないもの…。それでも、完全さは無理だと理解したうえで日々努力し続けるその姿勢が大切なのかもしれませんね、そう思います。一言でいえば「人間力」。これをどれだけ高めることができるのだろうか?それをだれもが問われている、もちろん、周りの誰もそんなこと日々問いてきません。日々の自分の行動に対して、第三者のもう一人の仮想の自分がこちらを眺めていて、私の行動を評価している、そうやって自問自答の繰り返しです。

・心身の健康がなによりも一番大切 ― メンタルを病むことがないように。このためにも、ただでさえ業務量が多く、さらに時として起こる不測の事態に対処するためにどれだけ一つ一つの仕事を片付けることができるか。そのためのビジネススキル向上の努力が日々欠かせません。

・時間管理 ー 仕事とプライベートのバランスを保つためにも。ここで主に念頭に置いているのはとりわけ他人から求められていない仕事で、自分でやろうと決めた仕事、遅れても周りに迷惑をかけないけれども自分で今日やろうと決めた仕事。その一つ一つに対してかける時間、締切を設定して努力する姿勢。駐在員生活では自らを管理する局面が増えるために自分で自分を自律してゆかなければなりません。それをやらまいと結果的に周りに迷惑をかけないとしても、後で振り返って悔しい思いをするのは自分かもしれません。

・口を慎む ― たとえつい言い返したいことが口まで出てきたとしてもぐっとこらえる。これはとりわけ私にとっての課題です。素直に「はい、わかりました」といって終えればいいところを、そのあとに「でも…」「しかし…」「ただ…」と相手に反論しようとする言葉が自然と出てきてしまう。その多くは建設的な会話の結果を生み出さないもの。イラっとしているとこの点で失敗するリスクが高いです。こちらに正しい言い分があるとしても、今の目の前にある結果の前ではその言い分も対した意味を持たない状況。そんなときに 「でも…」「しかし…」「ただ…」 そういった言葉は無駄に時間を失うだけかもしれません。

・露骨な態度で相手に軽蔑の姿勢を見せないこと ― なぜなんでしょう、人間はどうしても相手を軽蔑したくなることがあります。たとえ相手が間違っていたとしてもそれを軽蔑する必要もないのではないでしょうか。自分だって同じことをいつするかわかりません。みな一緒です。

・日々に感謝すること。自分にないこと、足りないことを悲観するのではなくて、自分の持っていること、恵まれていることに感謝すること。 自分の持っているものを当たり前と思わないことです。人間、どうしてもそれを忘れて自分は何か得そこなっていると思いがちです。

・上司でも誰に対しても、その人の足りない部分ではなくて、自分にはない良い特質に注目するように努力すること

会社で長く働いていると、失礼ですが、仕事の能力が低いとしてもも、社内では重宝されている人がいます。それは人当たりの良さかもしれません。上の階層の方々の言うことを素直に聞いて実行してくれる人かもしれません。たとえ、その人がそれ以上の立場になれない能力の限界があるとしても、その人のいる立場で業務遂行する能力と姿勢があれば上としては満足です。自分の意思を押し殺し、指示されることを的確にこなしてゆくこと、それも立派な能力です。もちろん、それなりの立場にいる方であれば、業務遂行能力だけでは決して満足できるものではありませんが…いずれにせよ、その人が持つ良い部分に常に目を向けること。これがとても大切なことだと感じています。他人に対する批判をするのは、きっと自分の観点で相手を裁いているからなんでしょう。相手は私の物差しでは測りきれないもっと別のすばらしさを持っているのかもしれません。

・素の自分でいること。自分のの能力以上のものを無理して見せようとしないこと。疲れるし周りにもばれています。

・素直に間違いを認めて謝ること - 人間、完璧な人はいません。歳をとればとるほどに、立場が上になればなるほどに人に謝ることがしづらくなってきます。

・素直に人に「ありがとう」と感謝すること。忙しくしていると、年齢を重ねてくると、素直に「ありがとう」と言うことができなくなってくるような気がします。

・自分をいつも他人よりも下に置くこと。自分が優秀な人であれば、何もしなくても相手は尊敬の念をもって私たちを上にしてくれます。世の中には、見栄えだけでの自らを人より上に見せようとする見せかけの人がいかに多いこと。

・部下の成長を素直に喜ぶこと。自分が負けたなぁ、という場面があります。日頃がみがみ言っている相手にやられた~という場面があったとしても素直に部下が成長して自分より高い成果を出すことを素直に部下と共に喜びましょう

・素直に部下の指摘を受けれいること。たとえ苦々しい感情を抱いたとしても。指摘してくれるような関係作りを日頃からしておくことが大切です。裸の王様にならないように…。

・部下の提案を喜んで聞いてあげること。忙しいと話を聞くよりもまず自分の考えで勝手に決めて進めてしまうことが多くなりがちです。正直に言えば、何でも話を聞いていれば良いものでもなく、聞いてあげてもその希望に添えないことから逆にがっかりさせてしまうことが起こり得ます。それでも、部下の話を聞く準備をいつもしておくことが重要です。

・何か自分の部署の部下による失敗があった時には、単に部下のせいにして自分の責任から逃れないこと。私は自分自身の身を守らなければ本当に自分の立場が危うくなるほどの場面に遭遇したことがありません。ここで述べるのは私が日常業務で出くわす部下の失敗の数々のことです。ただ単に相手を責めるのではなく、「OK,状況は分かった。どこが失敗だったとおもう?」「次回はどうすればこれを防げるかね、改善策は?」と将来に意識を向けて会話を発展させてゆくこと。怒りにかられるとなかなか冷静になれないものですが怒りを爆発させても状況が何も好転しないことを経験から学習してきました…。

・日本人として本社の意向、日本人トップマネジメントの意向に従うことが求められますが、ロシア人スタッフにどれだけ寄り添ってあげることができるか。

これは本社からは容易に理解してもらえないものですが、現地で働く自分自身としてはとても大切なことの一つと言えます。ロシア人スタッフの信頼を得ること、これなくしては日頃の仕事が順当に運びません。ときに彼らの前で日本人同士がぶつかることも大切ではないでしょうか。私の自分自身をコントロールする能力の欠如もあったのですが、これまで、あえてロシア人スタッフの前で日本人同士で意見をぶつけることを見せようとしてきました。それが信頼につながっているのかどうかはわかりません。ただし、意見を言うべきときには上司に向かってでも堂々と自分の意見を伝えることの大切さを強く訴えたいと思います。そのうえで上司の決定に従わなければなりません。また、ロシア人スタッフに寄り添おうと思うあまりに仕事上の判断・決断に影響を及ぼすことがあってはなりません。必ずスタッフとの間には超えてはいけない親しみの境界があることを、これも失敗を通して経験から学んできました。

ロシアで自分自身を客観的に観察し続けることの大切さ / The importance of continuing to observe yourself objectively in Russia

昨日、ついに本格的な冬が雪と共に始まりました。道行く人は、帽子、手袋を着用してすっかりみんな冬の装いになっています。厚手のコートに切り替えが必要です。通りにしばらく動かずに立っていると体の芯が冷え込んで震えてしまいます。

ロシアで駐在員として勤務する上で重要な点の一つに、自分自身をいつも客観的に観察し続けること。これが挙げられるのではないだろうか…と感じています。

ロシアに進出している日系企業は規模も小さく、各社で働く私たち日本人の人数も限られます。そして、日本人は大概重要なポジションを担っています。となると、どうしても部下のロシア人スタッフからの、私たちの相応しくない言動について直接指摘を受けるケースが少なくなります。私の経験上 — ロシアに限らずどの国でもそうだと思いますが — 私たちに対する評価は、彼らだけ食事や飲みに出かけている場所で、職場の中でも日本人がいないところで日々なされているわけです。わずか数人の、同じ本社から派遣されてきた日本人。その下に多くのロシア人の部下。日本人同士で指摘しない限り、なおさら自分の行動の正すべき点について注意をしてくれる人が限りなくゼロに近づきます。会社の中では自分の決定が多くの場合通ってしまう(その分責任も発生しますが)。部下もそれに従う。よく考えれば恐ろしいことです。日本にいる時には、上の人から(正しい、正しくないは別としても)何らかの指摘を受けていたのに今はそれがほとんどない。同僚が周りに多くいて何となく比較できる対象がいたのに今はそれがない。間違ってしまうと、「周りは自分の言うことを聞いていればよい、自分の意見が正しいのだ。」となってしまう可能性もあるのではないでしょうか。

社内のロシア人スタッフにしても、どうしても自分自身が仕事のノウハウを共有し、ロシア人スタッフもそれを受け入れる場面が多くなり、ロシア人スタッフと自分自身を単純に比較することは難しく感じます。(もちろん、ロシア人スタッフには、仕事だけではないとても優れた要素が備わっています。カラオケが上手、ダンスがうまい、会社のイベントでは常に率先して盛り上げてくれる。お菓子を作らせたら最高。お客さん向けのレストランの候補地をお願いしたら期待以上にアレンジしてくれる。そういった仕事以外での彼らのすばらしさには脱帽します。ただただその才能を羨ましく感じます。)

また、こちらから真摯に意見を聞きにいかない限り、相手も素直に気持ちを打ち明けてくれません。(それを打ち明けられてグサグサッっと感じることもあるのですが…。)他社の日本人と交流して自らを客観視することも可能ですが、他社の方々とのお付き合いはどうしても業務以外になってしまうのでお互いに相手の仕事について深くは理解はできない。そもそも日本人コミュニティの数も限られています。取引先のロシア企業には確実に比較対象となる方々いますが、それでも定期的に、かつ仕事に関してどっぷりと彼らの仕事ぶりを観察できるチャンスもないわけで、やっぱりできることは限られます。

やはり、自分自身で自らの言動を客観的に観察し、評価し続ける姿勢がとても重要であろうと信じています。

自らの行動、考え方があるべき原則からずれていないだろうか?長いことロシアで勤務するうちにロシアのやり方に傾倒して、日本のスタンダードを小馬鹿にしてしまっていないだろうか?自分は自分。これでいいのだ、と変に開き直ってしまっていないだろうか?自分自身に対するロシア人スタッフの評価を何とか得ようという努力を続けているだろうか?(たとえ本人が口にしてくれなくても、彼らの振る舞いから理解しようと努力しているだろうか?)

そういった自問自答を日々繰り返すことが欠かせないのだろう、と。

日本にいれば意識せずとも、自分自身がとてもかなわないレベルの方々が目に入ってくる。それがロシアにいると途絶えてしまう。そんなロシアの環境で、自分の能力を勘違いせず、どれだけ自分自身のレベルが広い世間と比べた時にまだまだなのか、を知ること。そうしていると、自然と日頃から謙虚でいられるのではないだろうか…それをロシア人スタッフにも訴えながら自分に言い聞かせているところです。

全てを自分で把握することと、全てが自らの意向どおりに進むことが異なることについて / Understanding everything by myself and everything goes according to my own intention are different

”Мужчна в кризисе 危機に面している男性” — 一体どんな内容なのでしょうか…街の中心部にある公共図書館にて。このテーマで講演が開かれているようで、ほとんどが女性によって占められていました。ロシアの図書館は平日は22時の遅くまで開いているところもあるようです。ほとんど利用はしていないのですが本に囲まれた生活にはいつも憧れます。どんなに電子書籍が広まったとしても、紙の良さには絶対にかないません。自分のお気に入りの本は紙のものをいつまでも手元に置いておきたいものです。

駐在員として現場で責任感を持って仕事をしていると、規模も決して大きくない会社であればなおさら、全て自分の思ったとおりになっていないと嫌になること ― よくあります。全てを自分で把握しておくことはもちろんですが、 それと全てが自分の意向通りのやり方で進むことは別物。この違いを受け入れることができることが、自分にとってもロシア人スタッフにとっても大切な一歩であると考えています。それは、自分の至らなさと良さをよく把握すること。シンプルな人間でいること。何でも自分で物事を管理しておこうとしないこと、みんなでお互いの良さを生かしてゴールをめざしたらいいじゃないか、そんなことではないかと思ってます。

仕事には目指すゴールがあります。しかし、そこにたどり着くためのアプローチは人それぞれ。ファイルの保存方法、仕事の進捗管理をExcelでやるのか紙の手帳で行うのか、資料の雑さの許容レベル、進捗管理の打ち合わせは今週の進捗結果の総括ができる金曜日がよいのか、いや週の初めの月曜日がよいのか…例を挙げるときりがありません。

それらの一つ一つの多くについて自分のやり方を周りに強要するべきか?(なぜなら、最終的な仕事の結果責任は自分に返ってくるので、自分のやり方を周りに強要し、彼らがついてくることが最善だから。)…いや、

多少細かいことは気にせずに、各自の裁量の限度を多く持たせてあげてその中で自由に行動できるようにしてあげるべきか?(なぜなら、いくら自分が最終的な責任者だからといっても、一つ一つの積み重ねは部下の協力無しでは成り立たないものであり、そうであれば彼らに気持ちよく働いてもらったほうがよいから。)

後者のほうが聞こえがよいように捉えられますが、部下の中には、裁量を与えるとどうしてよいのか分からなくなってしまう人間も出てくることを学んでいます。そういった人は上からきちんと指示とやり方を与えられて、それに従って仕事を進めることを好みます。人はある程度の自由を与えることがよいのだ、と信じていましたが、それができない人には自由そのものが苦痛となってしまう。残念ながら自らで物事を考えて、組み立てて仕事を進めることができないとしても、マニュアルに沿った処理能力は他人と比較して高いのかもしれない。仮にそのような業務がAIに取って代わってしまう可能性をはらんではいても、今その能力が必要であれば、その人に合った仕方で仕事を振ること。

多くの業務をこなしてゆく、仮に嫌としても、こなしていかざるをえない中で、自分の得意・不得意が見えてきます。自らの不得意な部分で誰か他の人が明らかに上を行っている様子が目に入ってきて内心落ち着きません。「いや、自分はもっとできるはず。こんなんじゃない。負けてなるものか」なんてプライドが邪魔してきます。その一方で、自分が思ってもいないことでも周りから見れば得意なことであったり。彼らは彼らで内心同じような気持ちを抱いているのかも。自分のできないこと、結果が期待できないことを素直に認めて(それも早めに)、相手に打ち明ける。助けてもらう。いつまでもそんな謙虚で、シンプルな人間でいたいものです。”多様性”とは、 ― それはよく言われる女性の活用、性的嗜好の異なる人たち、異なる文化背景、考えをを持つ人たちの活用だけにとどまらず ― 仕事のスキルの得意、不得意を組み合わせてゆくことで共にゴールを目指すこと、そんな多様性について意識することが、ロシア人スタッフと働く中で多くなりました。私自身、素直に自分の不得意な部分=弱い部分を嫌と言うほど意識させられています。しかも、それは私が責任を持って管理しなければならないにも関わらずうまくゆかない。悔しい気持ちがないといえば嘘になりますが、他の同僚や部下にお願いして助けてもらうしか術がありません。

お互いに「ごめん、これは苦手なんだ、なんとかしてもらえないかな…。」そんな人間性のある上司でいれば、部下も「私もこれできないんです…でも、あれはできます。」― きっと少しは気を楽にして気持ちを打ち明けやすくなるものです。そして、お互いに頼られると思って仕事を進めてゆけば、お互いに人間として、仕事のスキルもきっと伸びるはず。それをこれまで実際に現場で見ています。

さて、なかなか時間を割いて業務を事細かに教えることができないとしても、ロシア人部下も成長しています。たとえば自分の作成した資料をどんどん共有してゆくこと。ビジネスメールの書き方を勉強して、それを実践してゆくこと。いつの間にか、ふとした時に、「あれ?彼女これまでこんなファイル作成したことないのにすごいな…いや、これは以前に自分が作成したファイルだったっけか。」なんて場面に出くわすことがあります。「あれ?彼女のメールの書き方変わったな、シンプルで分かりやすくなったよ。(きっと自分のスタイルを多少意識してくれたのかもしれない…自己満足でなければよいのですが)」

時間がかかったとしても、少しずつ間接的に自分自身の勉強した結果を仕事で実践してゆくことでそれがスタッフの間に広まり、それが素材となってスタッフの意識に何かのきっかけを与えられること。そんな日々の積み重ね。 今はすぐに目につかなくても、スタッフの中には何かを感じ取って、学んでくれている人が少なからずいることを信じてゆきたいものです。 それだけ自らも日々勉強し、部下から喜んで学ぼうとするシンプルさが大切なんですね。