どんなに周りが自分の苦労に同調してくれても、どんなに理由があるとしても、会社では手や言葉による暴力をふるってしまった時点でどうしようもなくなることがある。それを駐在生活の間はよく認識しておかないといけない、と思う。ひどいスタッフはそれをこちらを挑発するかのような態度でふるまってくる人がいるのが余計に悩ましい。他の仕事でも負担がかかっている中でそのような場面に遭遇すると、どれだけの人は自制を働かせることができるのだろうか。私自身、感情のコントロールが難しい場面に何度か出会いました。
大企業では往々にして”人間ができている”方が多い気がするので、怒りを誘うような、むしろ挑発してくるかのような人に出会う機会は、全体の組織に所属する人の総数に比べると少ないのだと思います。しかし、外国に出て、小さな規模の子会社ともなると、そのような人間に出会う可能性が一気に高くなる。日本では有名な大会社の子会社と言っても、ロシアに進出している日系企業の多くは従業員が100人にも満たない小さな企業。私が駐在していた時期には、主要な日系メガバンクをはじめ、創立10周年を迎える企業が続くようなまだまだ歴史も浅い日系企業。まだまだ会社の文化やロシアでの管理部門のノウハウも積み上げ中、という会社がほとんどと思われます。そういった所へ、ロシアといってもモスクワ育ちの人もいれば、モスクワとは全く異なる環境の町で生まれ育ちモスクワへやってきたロシア人もいれば、日本の大企業に入社するような家庭環境とは全くことなる環境で生活してきたスタッフもやってきます。一般スタッフの試用期間は3か月と決まっていますが、よし、良いスタッフを見つけたものだ、と思いきや、3か月の試用期間を経て正社員契約をしてからは手のひらを返したように全く使い物にならない、そんな悩みも耳にしたことがありました。
今となってはすっかり業務の負担も減り、ずっと気持ちが穏やかに過ごすことができていますが、人間というものは毎日何かに追われ続けていると、ちょっとしたことにもイラっとしてカチンと来ることがあるようです。
「もう今の状況じゃ出来ません、あまりにも仕事が辛すぎます。人が足りません!」と部下の経理マネジャーに言われた時には、思わず机をバンっと叩いてしまいました。相手もびっくりした様子で引いていた様子だったことを思い出します。「いや、こっちだって大変なんだ。できることは出来る限り手伝うけれども、まだ改善の余地はあるでしょう、できることがあるでしょう」と。それからどれだけ経った頃だろうか、急に呼び出されて「実は、転職先が決まったので辞めます。私には今の立場が向いていない。私はマネジャーは務まりません。」と言って彼女は去ってゆきました。机を叩いた頃から関係に亀裂が入った、ということはなく、その後も彼女が退職を切り出すまでの間も、彼女が退職したのち、私が帰国したのちも連絡を取り合ったり、という間柄なので、今でも、そう、今でもあの行動が原因ではなかったはずだよな、と思っているのですが。とにかく、私も彼女もあまりの膨大な業務量に疲れ切っていた…それだけは確かです。
敢えて怒りを誘う場面に遭遇する訓練が必要とは言わないけれども、そのような場面に遭遇した時、自分の心拍数がどうなるか、どんな表情をして、どんな風に顔の筋肉がひきつって、どんなに呼吸が乱れるのか、自分を客観的に観察することは重要と思っています。私自身は、外国に出てみて自分自身がかなり感情に流される傾向があるな、と。メールの言葉にも出るし、態度にも言葉にも感情が乗り移ってしまう(だからこそロシアでロシア人相手に喧嘩できたのかも)。後で後悔することもあります。まだ赴任して1、2年目の頃でしょうか、本社のコンプライアンスから、「現地スタッフから、上司のXXXさんによって言葉の暴力を受けている、との通報があった」ということで、私が書いたメール文章すべてが送られてきたこともありました。
「日本語だととても言えないことも、なぜか英語だとつい言ってしまうんだよねぇ…」とつぶやいていた知り合いの方の言葉を思い出します。言葉というものは恐ろしいものです。その方にとってはそれが一つの怒りのコントロールだったのかもしれません。きっと、言われた側のスタッフも、英語はネイティブではないのでそこまで強烈に受け止めなかったのだろう、と解釈することにしました。
私は今の会社の中だけで日本国内を転々とし、それからロシア勤務を経て今に至りますが、今日本の職場でこう感じます。同じ環境で似た者同士が集まり、同じ場所でずっと過ごしていると、自然と自分の枠組みが決まってゆき、自分自身の思考の型がいつの間にか凝り固まってしまう危険が限りなく高い、と。それが当たり前と思ってしまい、その枠から飛び出すことがいつの間には難しくなっている。国内を転々として現場にいた頃の大きなメリットは、その土地でしか出会えない人との出会いによって自分自身の常識が揺さぶられること。朝からお酒の匂いを漂わせてやってくるおじさん。彼女と同棲を始めてしばらくしたら、自分の貯金が空になっていてどうにもならなくなってしまった話を自嘲気味に話してくれた男性。暇な時間があれば職場で自分の彼氏の悩みを打ち明けだす女性社員。生まれてからずっとその土地から出たことがない人たちと打ち解ける大変さだったり、知識だけは持っていて実務経験のない、外部からやってくる新人たちを受け止める熟練社員たちの気持ちなどを実感として経験したり。周りにも同じような環境の人たちに囲まれていて、会話の内容も仕事のことが中心になってくると、考え方も考えそのものも自然と同じようになり、結果的に多様性を大切にするはずが多様性がなくなってゆく。そして、怒りへの対処方法を学ぶ場所も自然となくなっていってしまうのではないだろうか。
怒りのコントロールを上手にできる人はますます重要になってくるだろうということは間違いない。怒りのコントロールは日頃から自分のメーターを管理して、自分の怒りのポイントを学んで、それをどうしたら改善できるのかを学ぶこと。次にその場面に遭遇する時にも自分をコントロールしやすくなる。怒りを感じる時はけっこう急にやってくるものだ。あと、自分の思っていること、感じていることは素直に外に出したほうがよい。それを溜めてしまうと、その反動はあまりにも大きいだろうから。人によっては暴力に訴えてしまったり、精神的な病を患ってしまうのかもしれない。
昔、学生時代にバックパッカーとして旅していた時のこと。顔を見るなり、あっちにいけ、という身振りでモノを売ってくれなかった人もいましたが、私が日頃感じる怒りのレベルは、世界で迫害されてきた人種、民族の歴史と比べたら本当にちっぽけなもの。今もこれからも、自分の出会う範囲の中で感じる感情の起伏と向き合い、感情、特に怒りのコントロールを上手に次への原動力に変えられるようになりたいものです。これからもきっと見つかるであろう、自分の感情の新たな発見を想像しながら。