これからは、上手に”怒り”をコントロールできる人がますます重要に。/ From now on, it is more and more important to control and make use of “anger”.

どんなに周りが自分の苦労に同調してくれても、どんなに理由があるとしても、会社では手や言葉による暴力をふるってしまった時点でどうしようもなくなることがある。それを駐在生活の間はよく認識しておかないといけない、と思う。ひどいスタッフはそれをこちらを挑発するかのような態度でふるまってくる人がいるのが余計に悩ましい。他の仕事でも負担がかかっている中でそのような場面に遭遇すると、どれだけの人は自制を働かせることができるのだろうか。私自身、感情のコントロールが難しい場面に何度か出会いました。

大企業では往々にして”人間ができている”方が多い気がするので、怒りを誘うような、むしろ挑発してくるかのような人に出会う機会は、全体の組織に所属する人の総数に比べると少ないのだと思います。しかし、外国に出て、小さな規模の子会社ともなると、そのような人間に出会う可能性が一気に高くなる。日本では有名な大会社の子会社と言っても、ロシアに進出している日系企業の多くは従業員が100人にも満たない小さな企業。私が駐在していた時期には、主要な日系メガバンクをはじめ、創立10周年を迎える企業が続くようなまだまだ歴史も浅い日系企業。まだまだ会社の文化やロシアでの管理部門のノウハウも積み上げ中、という会社がほとんどと思われます。そういった所へ、ロシアといってもモスクワ育ちの人もいれば、モスクワとは全く異なる環境の町で生まれ育ちモスクワへやってきたロシア人もいれば、日本の大企業に入社するような家庭環境とは全くことなる環境で生活してきたスタッフもやってきます。一般スタッフの試用期間は3か月と決まっていますが、よし、良いスタッフを見つけたものだ、と思いきや、3か月の試用期間を経て正社員契約をしてからは手のひらを返したように全く使い物にならない、そんな悩みも耳にしたことがありました。

今となってはすっかり業務の負担も減り、ずっと気持ちが穏やかに過ごすことができていますが、人間というものは毎日何かに追われ続けていると、ちょっとしたことにもイラっとしてカチンと来ることがあるようです。

「もう今の状況じゃ出来ません、あまりにも仕事が辛すぎます。人が足りません!」と部下の経理マネジャーに言われた時には、思わず机をバンっと叩いてしまいました。相手もびっくりした様子で引いていた様子だったことを思い出します。「いや、こっちだって大変なんだ。できることは出来る限り手伝うけれども、まだ改善の余地はあるでしょう、できることがあるでしょう」と。それからどれだけ経った頃だろうか、急に呼び出されて「実は、転職先が決まったので辞めます。私には今の立場が向いていない。私はマネジャーは務まりません。」と言って彼女は去ってゆきました。机を叩いた頃から関係に亀裂が入った、ということはなく、その後も彼女が退職を切り出すまでの間も、彼女が退職したのち、私が帰国したのちも連絡を取り合ったり、という間柄なので、今でも、そう、今でもあの行動が原因ではなかったはずだよな、と思っているのですが。とにかく、私も彼女もあまりの膨大な業務量に疲れ切っていた…それだけは確かです。

敢えて怒りを誘う場面に遭遇する訓練が必要とは言わないけれども、そのような場面に遭遇した時、自分の心拍数がどうなるか、どんな表情をして、どんな風に顔の筋肉がひきつって、どんなに呼吸が乱れるのか、自分を客観的に観察することは重要と思っています。私自身は、外国に出てみて自分自身がかなり感情に流される傾向があるな、と。メールの言葉にも出るし、態度にも言葉にも感情が乗り移ってしまう(だからこそロシアでロシア人相手に喧嘩できたのかも)。後で後悔することもあります。まだ赴任して1、2年目の頃でしょうか、本社のコンプライアンスから、「現地スタッフから、上司のXXXさんによって言葉の暴力を受けている、との通報があった」ということで、私が書いたメール文章すべてが送られてきたこともありました。

「日本語だととても言えないことも、なぜか英語だとつい言ってしまうんだよねぇ…」とつぶやいていた知り合いの方の言葉を思い出します。言葉というものは恐ろしいものです。その方にとってはそれが一つの怒りのコントロールだったのかもしれません。きっと、言われた側のスタッフも、英語はネイティブではないのでそこまで強烈に受け止めなかったのだろう、と解釈することにしました。

私は今の会社の中だけで日本国内を転々とし、それからロシア勤務を経て今に至りますが、今日本の職場でこう感じます。同じ環境で似た者同士が集まり、同じ場所でずっと過ごしていると、自然と自分の枠組みが決まってゆき、自分自身の思考の型がいつの間にか凝り固まってしまう危険が限りなく高い、と。それが当たり前と思ってしまい、その枠から飛び出すことがいつの間には難しくなっている。国内を転々として現場にいた頃の大きなメリットは、その土地でしか出会えない人との出会いによって自分自身の常識が揺さぶられること。朝からお酒の匂いを漂わせてやってくるおじさん。彼女と同棲を始めてしばらくしたら、自分の貯金が空になっていてどうにもならなくなってしまった話を自嘲気味に話してくれた男性。暇な時間があれば職場で自分の彼氏の悩みを打ち明けだす女性社員。生まれてからずっとその土地から出たことがない人たちと打ち解ける大変さだったり、知識だけは持っていて実務経験のない、外部からやってくる新人たちを受け止める熟練社員たちの気持ちなどを実感として経験したり。周りにも同じような環境の人たちに囲まれていて、会話の内容も仕事のことが中心になってくると、考え方も考えそのものも自然と同じようになり、結果的に多様性を大切にするはずが多様性がなくなってゆく。そして、怒りへの対処方法を学ぶ場所も自然となくなっていってしまうのではないだろうか。

怒りのコントロールを上手にできる人はますます重要になってくるだろうということは間違いない。怒りのコントロールは日頃から自分のメーターを管理して、自分の怒りのポイントを学んで、それをどうしたら改善できるのかを学ぶこと。次にその場面に遭遇する時にも自分をコントロールしやすくなる。怒りを感じる時はけっこう急にやってくるものだ。あと、自分の思っていること、感じていることは素直に外に出したほうがよい。それを溜めてしまうと、その反動はあまりにも大きいだろうから。人によっては暴力に訴えてしまったり、精神的な病を患ってしまうのかもしれない。

昔、学生時代にバックパッカーとして旅していた時のこと。顔を見るなり、あっちにいけ、という身振りでモノを売ってくれなかった人もいましたが、私が日頃感じる怒りのレベルは、世界で迫害されてきた人種、民族の歴史と比べたら本当にちっぽけなもの。今もこれからも、自分の出会う範囲の中で感じる感情の起伏と向き合い、感情、特に怒りのコントロールを上手に次への原動力に変えられるようになりたいものです。これからもきっと見つかるであろう、自分の感情の新たな発見を想像しながら。

今でも日々の業務で思い起こす上司の教え / The lectures of my boss that I still remember in my daily work

これを読んでいる若手の皆さんも、これまで出会ってきた上司のもとで、その上司ならではの教えを受けてきたことと思います。それを人によっては苦労を重ねてきた、というのかもしれませんが。私も異なるタイプの上司の元で過ごしてきました。どちらかと言えば、私は怒鳴られたり、「お前はなっとらん!」と言われて育ってきたタイプです。今の世の中で見られる、褒めて育てる、出来る限り厳しいことは言わずにことを荒立てずに部下を上手く育てる、雑談で雰囲気づくりをして…といった風潮とは縁が無い世界で育ってきました。それで、今の職場でそのような環境に身を置くと何とも落ち着かない気持ちになります。人の成長にはその人それぞれにふさわしい方法があり、世の中で正解と言われる方法が決して全員に当てはまらないこと、自分が相対する相手の成長にとって何が最も効果的な方法であるか、自分で考え、判断することが求められています。何だか、日本の部下のマネジメントはロシアよりもずっとずっと複雑で難しいことかもしれません。表面上は良いのですが、内面では何を考えているのか、ロシア人スタッフと接する時よりも察することが難しく感じられます。

さて、こんな私がこれまで接してきた上司から学んできた教えの中で、特に今でも日常業務の中で意識させられる大切な教訓を書き出してみました。

報告書の書き方

毎月作成する実績レポートのコメントを書く時にはその言葉の背景にいる人を考えること。例えば、「部品の供給不足により目標生産台数の未達。」これは事実以外の何物でもないのですが、それを読んだ上の人がどう思うか考えてごらんなさい、私の書いたコメントによって、それを読んだお偉い方がその部品供給のために尽力している担当者を非難していることにならないだろうか?その担当者は一生懸命にやっているものの不可抗力のために供給が間に合わない状況かもしれない。自分の書く一文が与える影響、背景を考えながら文章を書くように、ということを学びました。ここで私が理解したのは、コメントを書くスペースは限られており、上記の事実以外を補足出来る要素もない。そうだとしても、その上司は他の担当者が努力している姿を知っているからこそ、何も知らない私が一言が”部品供給をしてくれない部門が悪いのだ”とも読み取れる、そんな一言を簡単に書くことの危険を指摘し、その背景にある事情まで汲み取る努力をするように、という点を指摘をしたのだと理解しました。

コメントを書いたら声に出して読んでみること

これは今でも忘れがちになってしまうけれど、守りたいとても大切な教えです。頭の中で反復して確認。よし、このコメントで大丈夫。そう思っていても、声に出して聞いてみると、あれ…何か変だな、と思うことってあります。一人であれば自分で声に出すしかありませんが、それに加えてさらに良い方法は、隣にいる同僚に自分の書いたコメントを読んでもらって、意味の通らない部分がないか?分かりやすいか?を尋ねてみることです。

メールの宛先はToとCCを正しく使い分けること

複数の人が宛先に入っているメールを送る時、メールのあて先はToとCCを正しく使い分けること。メール送るときには、各相手のメールアドレスを必ずToとし、それ以外の人のアドレスはCCに入れるように。これを厳しく指導されました。受信メールを確認する時には、CCで届ているメールを読む優先度が下がる、時には内容チェックする無視することもある。Toで届くメールとCCで届くメールとではその重さが違う、ということを教えていただいた気がします。

自分が提出したレポートの中身を深く追及されたときの私の曖昧内答えに「ふざけるな!明日の朝一番に来なさい!」と言われ…50人くらいが陣取るオフィスの目の前で、気が付けば3時間くらいだろうか、説教されたこともありました。今となってはいい思い出です。「あなたの価値はなんなのか?今の仕事のやり方をしていたら、いつの間にか使われるだけの人間になっちゃうよ。」

そんな上司とも、私が次の部署に異動する時には送別会を開いていただき握手してお別れしました。つらい期間と思ったことも、今は教えられたことが自分の軸になっている。今は辛い、と思えることでも、後で振り返ると「今は出来るようになっている。何であの時はあんなに苦労していたんだろう?」なんて言っている将来の自分がいます。人生その繰り返し。終わりなき成長への道をひたすら歩んでいるようです。とある日には、帰宅途上の車の中で悔し涙が自然と流れてきたこともありました。「なんでこんなこともできないんだろう…」あの悔しさが成長への原動力となっていた気がしています。

上司が指摘する内容は、きっとその上司が先輩から受けてきた教育であったり、自身が失敗から学んだことを踏まえたものであるはず。その上司の仕事人生の価値観が詰まっているとも言えそうです。今の世の中、単に部下を虐げる上司もいるので、すべてに置いて上司は正しく、いつも私のことを思って言ってくれているんだ、という考えは危険なのかもしれません。ただ、もし上司の言うことに、部下のことを思って言ってくれている愛を感じる部分があれば、きっとそれは上司の期待に応える良いチャンスかもしれません。

自分の今の仕事、自分の価値観を”否定”し続けること / Keep “denying” value of your current job and a sense of values

自分の今行っている仕事の価値や価値観を”否定し続ける”ことの大切さ。ロシアにきてこのことの大切さをより強く感じるに至りました。日本に戻っての業務を通じて、この感覚は一層確信となっています。

今の変わりゆく世界にあって、自分自身のやり方がそぐわない場面がやってくる。

かつてはよし、とされていたこと、自分ではこれが適切だ、と思っていたことが今となっては否定されること。それはまるで自分自身を否定されているかのように感じることがあるのではないでしょうか。例えば身の回りのちょっとしたことで言えば、入社当時には日経新聞をよく読み、記事の切り抜きを取ってノートに保存していたり。興味のある記事があればファイリングして本棚に保管してみたり。それが今ではOneNote、Evernote, Notionといったオンラインノートを活用することで切り抜きも不要、棚スペースも節約できる。後からの検索も容易。メールでは細かいニュアンスが伝わらないので会話して要件を説明すべきと思ったところ「誤解が生じるといけないので、まず先に要件を書き出したメールを送ってください」とあしらわれてしまったり。実際に日本に帰ってくると、日本人同士で同じ日本語で会話しているにも関わらず、これでもか、というくらいに小さな誤解が日々生じます。会話しているのになぜこうもお互いに理解が異なるのか…苛立ちを越えて、むしろ言葉というものの面白さを感じます。

大きな流れの変化で言えば、コロナウィルス流行によりリモートワークが導入され、それに応じてますます電子化が進み、社内のコミュニケーション、営業スタイルも変わり…。

それに対してどのように備えることができるか?日頃から自分で自分の価値観や仕事の方法を否定し続けることが大切ではないだろうか。

モスクワで出会う駐在員の任期は、一般的に3~5年くらいでしょうか。日本との行き来を繰り返して累計10年以上ロシアや海外ビジネスに従事している駐在員もいますし、現地採用としてモスクワにとどまって勤務している人もいます。

そんな中で面白いなぁと思うのは、どれだけ長くロシア、海外に滞在していても日本の価値観を正しいと考えてロシアを否定的に見る人。一方で短い期間としてもロシアの良さを認めて客観的に日本とロシアの良さをそれぞれバランスよく観察できる人。その違いは何だろうか、と考えるのが楽しくもあります。

わたしは、物事にこだわりを持たないこと、常に新しいことへの好奇心をもつこと、よい意味での”テキトーさ”、がその違いを生み出すと思っていますが、それらをひっくるめて上手に一言で表現すると「謙虚さ」。この言葉にたどり着きました。

日本がなぜかつて世界2位のGDPを達成し、今もって世界3位に居続ける国力を持っているのか、日本の凄さを実感することができましたし、日本人が自国の文化を否定的に語るのを聞くととても悲しくなります。ー 「今の日本は、日本人一人ひとりが自分たちの幸せを犠牲にして成り立っているんじゃないって思うの」、そのロシア人の言葉は今でも印象的です ー また、日本にはないロシアの良さをよく学習しました。

「今の日本は、日本人一人ひとりが自分たちの幸せを犠牲にして成り立っているんじゃないって思うの」このロシア人のコメントを皆さんはどう思いますか?

私自身は標準的な駐在期間を超えてモスクワにとどまり、一般的な駐在任期のバランスを逸脱してしまったのではと思いますが、今後の人生において広い考え方に触れる機会を現地で得たこと、現地で考える時間を持ち自分なりの価値観を持てたことは一生の財産です。そして、それは今後も新たな出会いによって変わってくるのかもしれません。

自分自身の価値観を持ちつつも、他方では”否定できる”感覚ももっておく。このためにも自分自身にとってこだわりとなるレベルをどの高さに置いておくか?これをじっくりと考えて理解することが大切であろうと。

自分のポリシーを持っておくことは大切だけれども、他人もかかわってくる仕事においては自分の意志を押し通すこと、自分のやり方を貫くことといったこだわりは弊害となることばかり。

例えばオフィスの家具を入れ替える際、デスクの足は円形か四角か?机の色、椅子の色…これらをロシア人スタッフにお願いするのか、そこまで自分の意志を押し付けるのか?自分が会社のマネジメントの立場におり、自分が決定権を持っていて、自分なりのオフィスへのこだわりがあれば、きっと細かい部分まで決めたくなるかもしれません。

資料のまとめ方をとっても、自分の発言一つがどれだけその下の人間の時間と労力を奪うことになるのか?そして、自分のそのこだわりが本当にそれだけの時間と労力を費やすに価値があることなのか?

私は絶対にオフィスには誰よりも早く来る。週末は必ずオフィスに来て仕事をする、仕事のやる気を高めるためにランチは必ずこれを食べる、頑張ったご褒美として夕食は日本食レストランに行く。そういった個人のこだわりは大歓迎ですが、

いかに全体にとってベストの解決案を見つけて決定できるだろうか?

いかに関係者の時間を最小限にして最大の結果を導けるだろうか?

自分自身のこだわりが全体の仕事に影響を与える時、自分の持っているこだわりを否定できる軽快さ— きっとこれが謙虚さだと思います — を示す用意ができているだろうか。これは大切な要素だと思っています。

仕事の定義そのものを揺るがすような大きな変化の波がやってくる時にも、自分の存在価値のちっぽけさを感じることで、自分の価値観や過去の偉業を過大評価しない(周りの誰も、わたしたちの過去の成功話を喜んで聞きたいという人はきっといないだろうから)。自分に求められる役者を舞台で演じること。こだわりを持つのであれば、今の自分の仕事でどれだけ周りの人を幸せにできるか(仕事を楽にするために貢献できるだろうか)?これに徹すること。そこに常に子供の頃に抱いていたような好奇心を加えて、何事も肯定的に未知に接してゆくことの大切さ。

きっと、その根底にあるものが、自分の今の仕事、自分の価値観を”否定”し続けること、なのだと思っています。

新入社員の頃、いつも遅くまで仕事をこなす、他の部署の管理部門長のおじさんが社員がいました。その方の部署では営業マンが所定の経理書類の提出を忘れてしまったり、よく伝票作成を間違えたりで、怖い経理のベテラン女性から怒られることも日常茶飯事。そんな中でも文句ひとつ言わず笑顔で接してくれる方でした。

「〇〇〇さんから見て、この会社の社員に足りないものがあるとすれば何でしょうか?」

そう尋ねたことがあります。しばらく「う~ん…」と考えたあと、

「この会社の社員がとても優秀だ、うん、それは間違いない。ただ、ほとんどの人は一定のレベルまで来るとそこで止まってしまうんだよなぁ。なぜだか…そこに何か足りないものがあるんだよね」

これまで、ずっとこの答えの意味を考え続けていますが、きっと、恐らく、その”何か”には、今の自分の仕事を肯定して日々を過ごしているか?あるいは否定して物事を考えているのか? — そこには謙虚さや好奇心という要素も影響しますが — この、今の自分の仕事や価値観に対する接し方が成長曲線の向きを決めているのではないかと思うように至りました。

メールはすぐ返信、即返信、良いこと尽くし / Reply email quickly – it can be only good thing for you

昔に読んだノウハウ本に書かれていたメールの使い方。急ぎの場合にはメールを送ったあとに電話を一本入れること、受け取ったメールには24時間以内に返信すること、そんなことが書いてあった気がする。今、はっきりと言えること、それは”届いたメールにはすぐ返信”。すべてのメールの内容にすぐ返信できないものもあるけれど、返信できるものはすぐ返信。実際にすぐ返信することを進めるビジネス書を見るけれども、その中身を読んだことはないけれども、その正しさを実感しています。

今では本当に急ぎの時、Teamsのチャットや電話機能で呼び出し、会話することが増えてきました。携帯電話でTeamsにログインしていると社外にいても簡単に仕事の会話ができる。それでは、通常の電子メールで届く内容は急ぎではないのか?というと、そうでもないんだけど、でもそうでもある、という答えになりそうな。

メールを送信してきた相手は、聞きたいこと、お願いしたいこと、相談したいこと、何らかの用があってメールしているので、それに対する答えが来ることをいまかいまかと待って期待している。それが早ければ早いほど嬉しいに違いない。それだけ早く自分の欲しいものが手に入るのだから。自分だって、メールで何かをお願いしたらすぐに答えをもらえたらそれは嬉しい。そのようにして、一つ一つのメールに対してすぐ返信を心がけていると、想像していなかった効用がありました。― 自分が頼りたいときに相手にお願いをすると快く対応してもらえること。仕事の処理スピードが明らかに上がること。

相手に喜んでもらえることを ー 届いたメールにはすぐ返信 ー 習慣にすると、自分が困った時に相手に頼りやすくなる。きっと相手もこちらの日々のスピードある対応を好意的に感じているからだと思う。いつも”すぐ返信”ができるわけではない。会議もあれば、他の急ぎのことに時間と心を集中しなくてはならないことだってある。それでも可能な時には常に意識してすぐの返信を心がけているときっとプラスに働きます。

すぐ返信することで、その次のアクションが始まるので、自然と物事が動き出す。多くの事を同時に処理することには無理があるけれど、まずは自分のところにきたものを手放す。その間にやってくるものを受け返す。手元で滞留するものが減ることで、結果的に仕事の処理スピードが上がる、その繰り返し。ロシアで勤務している時には、提出締め切りがまだ1週間後の資料でも、「XX日までにまとめて報告してね、そこで議論して資料を固めてしまいましょう」、という上司。なぜまだ時間があるのにXX日までにやらなければならないのか?他にも片付けなければならない仕事があるのに…そう思うことも確かにありました。忙しいスケジュールで他に時間を取れない、という理由もあったようですが、その要求の根幹には、早く解決できることを今解決してしまいたい。次の課題が嫌でも降ってくるから、少しでも今片づけられるものは今やってしまおう。というものがあったようです。”すぐ返信する”ことはこの考えにつながります。今できることは今解決してしまう。今すぐに返信できるものはすぐに返信をする。シンプルなルールでその効果は絶大。やってみない手はありませんね。

ロシア人スタッフを見ていつも驚いていたことが一つ。とにかく、同僚が持ってきた出張や休暇先からのお土産のメールへの反応が瞬時だということ。メール受信と同時にどどどっとスタッフがキャンティーンにワイワイ言いながら向かってゆく。メールの受信ボックスを見ると、出張から帰ってきたスタッフが「みんなにお土産を買ってきたから召し上がれ!」というメール。キャンティーンでワイワイガヤガヤ盛り上がる。そしてしばらくするとまた席に戻ってゆく。仕事のスピードは速くしてくれ!と言いたいこともあるのだけれど、あの、”お菓子をどうぞメール”への反応スピードには驚きだ…。

最後に。自分の中で何が何でも早く返信しなきゃ、というルールを決めてしまうと、今度は自分の仕事が断片的になり生産性が落ちてしまう。今行っている業務で切りのよいところを決めること。エクセルファイルのメンテナンスをいろいろと行わなくてはならない中で、この数式メンテだけはすべてやり切ってしまおう、とか。まずはこの資料を作成するところまでは終わらせてしまおうとか。そんな見極めが大切です。

失敗の数とそれを乗り越えた数は魅力ある上司になるための良きステップ / The number of failures and learning lessons from them is a chance to become good boss in the future

失敗したとき。はー…というため息。その時にはがっかりするし、悔しいし、あーなんでこんな失敗をしてしまったのだろう、と頭を抱えるしかないのだけれど、後から振り返ってみると、その経験から学ぶこと、その時に抱いた気持ちはとても貴重な財産だと思うことが増えてきました。同じことをしても、他人より理解に時間がかかったり、失敗することも多いと認識しているからこそ、それだけ周りの人よりも多く時間を費やさなければならない、と自分でわかっているのでただただ積み重ねるしか術がないのです。それでも、少しずつできることが増えてくると、若い世代のスタッフが同じようなことで苦しんでいる様子を見たとき、「なぜそうも時間かかっているのだろう?」「どうしてすんなり出来ないのかね?」— こうした疑問に、同じような経験を重ねてきた自分の経験を踏まえた答えと、自分なりの解決方法を部下にアドバイスするノウハウを提供できます。

とてもつもない大きな損失を会社に与えたことはありませんが、細かな失敗の数と顛末書を書いた数は同僚と比べても明らかに多かった…。新入社員の頃、初めての顛末書はオフィスへやってきた配達物回収の郵便局員から受領したレシート原本を亡くした時。たかが1枚、されど1枚の重要な書類。雪の中を郵便局まで走ったことは忘れません。レシートを紛失したことを報告すると、管理部長から「顛末書を作成してきなさい」と。顛末書とはなんぞや?インターネットで調べ、紙に手書きして持ってゆくと「無くしたレシートの代わりになるものを添付したうえでパソコンで打ち直してきなさい!」事の重要さをようやく理解した私は、顛末書を書き、無くしたレシートの再発行をしてください、と郵便局へ電話で依頼し、雪が降る街中をダッシュで郵便局まで向かったことがあります。その晩は私の送別会。初めての社会人生活を開始した勤務地での勤務を無事に勤め上げて笑って後にするはずが最後にこんなことに。私の送別会を開いてくれるその日に主役の自分が遅れてはいけないと必死に走っていた時代が懐かしいです。その晩、送別会での管理部長はとても優しく接してくれました。今後に向けた少々気が緩んでいた新人への喝を入れてもらった気しました。

会社で会計伝票を会計システムに登録、承認作業をしていた時。正確な数字はわすれてしまったけれど、登録すべき金額の下二桁が35円のところを、システムに投入するデータが53円となっていることを見過ごして、結果として数字が合わないままに決算処理を終えてしまったこと。

異動のために、手元に保管していた書類一式を同僚に引き継いだところ、後日、その書類の中には税務申告の時に費用を損金として認めてもらうために必要な書類が含まれていたこと。元上司からの呼び出しを受けて、なぜ書類を滞留していたのか?とのお叱りを受けました。それなりの額を損金に計上できないこととなり、多少なりとも会社への損失を与えてしまった、といったこともありました。

自分が成長するにつれて、なぜあんなことで、なぜあんな単純なミスをしていたのだろうと思えることも。でも、その当時は(そして今、新たな仕事でやってしまうミスも)真剣に仕事をしていた中で発生するもので、後から分かることでもその時には見えなくなってミスをしてしまう。そんな経験を経て人は成長してゆくもの?そう思っています。

それで、自分が経験したようなことで悩んだり、間違ってしまった人を見ると共感ができます。そ失敗した本人だけの問題ではなくて、説明が不明瞭であったために本人が別の意味に捉えてしまった、もっと周りがサポートすべきなんだけれど、任せたままにしてしまい後でどうしようもなくなってしまう、など。失敗にもいろいろな理由がありそうです。失敗をしたときの状況を自分自身の中で整理し、何がいけなかったのだろう、どうしたらうまくいったのだろう、上司には何が足りなかったのだろうなど、失敗の度に振り返ることで将来に同じ失敗を部下がやってしまったら、「なるほど、それ分かるよ。自分も同じようなことで失敗してしまったことがあったんだよ」そう言える上司はきっと部下からの信頼も厚くなるはずです。

こうした失敗の経験は、失敗の経験を経て自分の限界を認識し、人間的に丸くなることにも繋がるはずです。部下の気持ちや置かれている状況をイメージすることにも役立ちます。また、ひどい失敗を繰り返していたかつての自分が、今はそれなりに成長している。それを感じるときに、周りの人とではなく、以前の自分と比較して喜べるのではないかな、そうすれば、今日も明日も、ポジティブな気持ちを保つ助けになっている気がします。

「同じ失敗をしたらあとは改善するだけだよね、同じ失敗をする奴は阿保だよ」

これはロシアでの勤務時代にいただいた大先輩からのお言葉。同じ失敗を繰り返すことだってあります。人間ですから…でも、失敗の数だけきっちりと学習をすること。その大切さがこの言葉からよく伝わってきます。

部下への感謝の気持ちを手書きメッセージカードと贈り物に込めて / Express your gratitude to your subordinates in handwritten message cards and gifts

今年も残すところ今日が最後となりました。こんな年末になるとは去年の同じ時期には誰も予想しなかったはずです。私の勤務する事務所でも年内最後の出社日にはテレワークの人もいるため全員に挨拶はできませんでした。夏から今の職場でテレワーク制度のもとに働き始め、直接会話する機会そのものがすっかり減りました。他の部門では今どんなことが進んでいて、何が議論されているのかを耳にすることができるのは、事務所勤務ならではの良さだと感じます。それがずっと続くと、自分の仕事への集中力の妨げになる弊害も感じているところですが。

12月の仕事納めの時期となると思い起こす出来事があります。当時モスクワで働いていた時の20人ほどの管理部門の部下に対して、一年のお礼の意味を込めて、ちょっとしたプレゼントと手書きのメッセージカードを添えて一人一人に手渡ししていました。モスクワに進出している日本のチョコレートメーカーのお菓子を購入してみたり、行きつけのワインショップで男性、女性向けにおすすめのミニボトルをアレンジしてもらったり。今思い返せば数万円はかかっており、相当な出費だったのですが、自分なりにどんな風にお礼を伝えることができるかなぁと考えた結果たどり着いたのが年末のこのイベントでした。

日頃から仕事に関するコミュニケーションはしっかり取っているつもりでも、仕事以外のコミュニケーションが少なく、なかなか素直に感謝も表せない苦手な性格もあるのを補うべく、手紙で日頃の感謝を伝える文章を考えて言葉にしてゆくプロセスは自分にとっては大事な時間でした。結果的に私の行動が部下にも”私にお返しをしなければ”という気持ちを与えてしまったことは良くなかったのですが…。部下からもプレゼントをもらったり感謝の手紙でもらったり。そんなやり取りが生まれたことは良い思い出となっています。本好きの私を考えてなのか本をプレゼントしてくれた部下もいましたし、よくKit Katを食べていた私を見てKit Katの特大バージョンをくれたりと。

仕事のパフォーマンスが悪いことや、我々は人間なので考えの違いや仕事のやり方の面で軋轢があることも原因で、部下全員との関係が常に良好というわけにはいきませんでした。そういった人には手紙を出さない、というわけにはいかないので、このやり方がずっと機能していくかと言うと疑問もあります。私が駐在していた7年間の間このイベントをずっと行っていたわけではなく、駐在最後の2回の冬でした。冬の到来前にタイミングよく設けたマネージャー向けの研修でリーダーの在り方を学習したのをきっかけに、その冬からやってみようと。「リーダーの皆さん、部下に対してちゃんと感謝の言葉をかけていますか?」 — 日本に比べると自由闊達に会話が行われているようにみえるロシア人の間でも、上司が部下に対する感謝が少ないことが課題テーマとしてよく耳にします。

誕生日というのは、誰しもがその日は自分が主役になることが予め分かっていて、その日に何があるのか想像が容易にできます。歳を経るごとに誕生日はサプライズの要素は無くなり、定型的なイベントになってゆくのだと思いますが、本来のプレゼントは相手が想定していないタイミングでやってくるときに喜びも倍増するはずです。そんなことを思って年末のタイミングを利用してみました。日頃の感謝を伝える場面は、よく探してみると日々の中に見つかります。そこに自分なりの口実をつけて自分の遠慮がちの気持ちを奮い立たせて行動してみる時に自分の知らなかった世界が開かれます。苦い経験も含めて。その時の心境もまた貴重な宝物です。

日頃からどのように部下とのコミュニケーションを取るのか、どのように部下に感謝を伝えるのかは人それぞれですが、大切なのはノウハウ本が述べる方法を単に真似るのではなくて自分自身の性格を踏まえた上で自分にとって最善のものを採用することがふさわしいと思っています。それはもしかしたら本の中では否定されている方法かもしれません。自分自身の置かれた状況は本の著者が述べる状況とは異なっているかもしれず、自分で考えることの大切さを感じます。例えば、決して多くのことを語ることもない自分自身であれば手紙に書くことはできます。ただパソコンで書くのではなく自分で一言メッセージを添えて日頃の感謝を伝えて直接渡しに行く。そんなちょっとしたやり方一つをとっても立派なプレゼントになるのではないかなぁと思っていました。家に帰ったあと、家族との会話のネタにでもなってくれればそれもまた嬉しいものです。

この方法も毎年恒例のものとなっていくとマンネリ化してしまいますし、また最後の年には徐々に軋轢の生まれていたスタッフもいたので同じ熱意を持って続けてゆくことは難しかったかもしれません。相手に自分の感謝の気持ちを伝えたい、という根本に基づいた相応しい仕方を唯一の正解が存在しない中で常に考えてゆきたいと思っています。

数値集計レポートを作成するときの自動化と手入力のバランスの難しさ / Difficulty in balancing automation and manual input when creating numerical reports

ロシアから帰国した後、現在の業務では主に子会社の毎月の損益計算表実績をまとめています。限られた時間の中、多くの数値を取り扱う資料を作成、報告することが求められています。また、隣の島で働く別の課でも似たような数値を集計していることがあります。そんな中、どこまで自動化(ここでいうのは主にExcelの数式を組んだりマクロを取り入れて効率的に資料を作成すること)を進めて、どこまで手入力の部分を残すか、このバランスが難しいなと思う場面に出会います。手で入力するからこそ得られる大切なことがあるからです。

先日、オフィスで他グループの先輩社員から、為替影響額を控除した対予算、対前年の売上達成率を見たいのだがどのように計算したらよいのか…と相談を受けて、細かい数値が並んでいるExcelファイルを一緒に見ていました。

― 毎月、各国の子会社から月初に報告される売上実績を円に換算するために、前年の為替実績レートを毎月掛け合わせるのは大変だぁ…

ー ではシステムから毎月自動的に数値をダウンロードしてExcelにファイルを作成できるのでそれを準備しましょう

ー いや、手で入れることで子会社の数値が頭に入るのが良いんだ、だからシステムに頼るところまでは必要ないよ、と。

私自身は、どちらかというと、できる限り手入力の部分を減らしてExcelを駆使して効率化を目指しているのですが、手で自ら入力をするときに、頭の中で数値を認識しながらExcelに自分で入力してゆくとき、それが後で数値を頭の中に残すために役立っていることを感じています。なので、この意見にはとても賛成です。

「資料作成の時間はある意味”無駄”なので、そのあとの分析のための時間に費やすべき」という言葉を管理部門で数値の集計をしている皆さんであればよく聞くと思います。それも正論です。一方で数値を手入力している時間に全く”分析”をしていない、かというとそうでもありません。今はノートとペンを持ってメモをする機会が以前よりも減りました。意識していなければ一日の中で使用しないこともあります。今では専用のシステムを利用して、自分の欲しい値を出せるように必要なコードを指示し、あとはボタンをワンクリック。これだけです。

紙を使用する機会が減った今、その時にパソコンで入力してゆく作業がけっこう重要だったりします。どんなにスキルアップして入力スピードを上げたとしても限界のあるこの入力にかかるスピード感、これが脳みそに程よい刺激を残しているのだ、と。あえて手入力の部分を意図的に残しておくことが結果的に作業をしながら頭の中に数値を残し、と同時に分析も行っているのかもしれません。

個人事業主とサラリーマン社長と会社経営 / Self-employed, non-owner president and going concern

7年間モスクワで仕事をしてきてから、7年ぶりに以前に働いていた街へ戻ってきました。かつて頻繁に通っていたお店やレストランが今も変わらずに経営していること。そのこと自体がとてもすごいことなんだ、と実感してます。

私が勤務していたモスクワのオフィスビル1Fに入っていたレストラン。少なくとも7年間の間に3回はお店の名前が変わっていたと記憶しています。入る客はきまぐれ。ただたくさんある場所の中でその日の気分や、たまたまそこにあるからという理由だけでやってくるもの。そんな中で長く経営を成立させること、そのこと自体を達成するための努力はいかばかりかと。本日見たロシアのニュースによれば、モスクワではコロナウィルスの感染拡がりにより再び自宅隔離の規制を強める方向へ、とありました(主に65歳以上をターゲットに)。さて、上記のレストラン、オフィスに勤める従業員の利用が主要な収入源であったとすると、きっと今頃すでに看板をたたんでいるのではないかと思ってしまいます。

サラリーマン。言いたい文句がたくさんあれども、有給休暇があり、私用があるときには早引きし、会社が保険の負担も負担してくれて福利厚生もある。そして毎月一定の給与が入ってくる。それだけでただただ感謝をする以外にありません。

私が、今住む街で、ときどき利用している個人経営のワインショップや自転車、喫茶店など。どれだけその規模が小さいとしても、そのお店を開き続けることの大変さを想像すると、経営そのものを存続させるという根幹の意味において、個人事業主の大変さはサラリーマンとして一国の海外販売会社の社長職の任務を果たすことよりもずっと重みのある仕事だと思うばかりです。その両方の立場を務めてみないことにはその大変さを理解することは非常に難しく、私にはそのどちらの経験もないが故に想像の範囲からでしか判断ができませんが、やっぱり個人事業主の抱える重さにはサラリーマンの大変さはかなわないと思います。サラリーマンとして勤める社長職にも私が知らない世界があり、非常に大きな重圧を抱えていることは間違いありません。ただし、何かあって経営が成り立たない状況に陥ったとしても親会社からの支えが必ずある、仮に責任を取らされる立場にあったとしても、個人で不正をしていない限り、収入が途絶える(給料が入ってこない)ことにはならない。その点での安心感は言葉で言い表せない大きな違いなのだと。

モスクワでの勤務生活は、達成感、やりがいはもちろんありますが、それと同時に心身共に疲れてしまった、という気持ちも本心です。当時抱えていた仕事の責任と疲れは半端ないものだと感じていましたが、今現在、生活の時間にゆとりの部分も出てきて、客観的に物事を観察する中で感じることが今日の内容です。

大会社に勤めていて収入も立派で、仕事の内容も世界を相手に大きな仕事をしていて、周りから見れば申し分のないキャリアを歩んでいる自信満々の人。そんな人が街中で偉そうに歩く姿があるかもしれません(勝手な想像です)。しかし、実際に自分自身のサラリーマンという立場。その収入や自分自身の携わっている仕事のすべてが、その会社に所属しているが故にもたらされるものである。それを実に実感するとき、人は謙虚になるものではないのかなぁ、と思うのですがどうでしょうか?

その一方で、それを分かっているからこそ、安定という立場にいるが故にもっとチャレンジする気概を持っていなければ、とも感じています。それがどれだけ難しいことか、ということも年を取るごとに感じているのですが…やっぱり人間は環境に流されてしまう。弱い生き物です。ともすると、自分が思っていたほどに成長していない自分自身にがっかりしたり、週末に早起きして「あれとこれを午前中にやってしまうぞ」と思っていながら起きたらすでに時計は10時を回っている、そんなことを繰り返して落ち込んでしまう、やる気が無くなってしまう、そんなことの繰り返しかもしれません。

日本人の中には、常に自分を「だめだ、こんなんじゃ、もっとやらないと、でも自分はできていない…」そんな風に自己評価する人が多い…?そんなことを感じる場面に出くわすことが多い気がしてます。しかし、あまりに多くのことが前から降りかかってくる今の世の中は流れの強い川のよう。その中に立って、流されないように足を踏ん張って立ち続けている、それだけで十分に成長している証なのかもしれませんね。そう思えば、日々成長しなければならないというプレッシャーを感じる今の世の中をもっとみんな気を楽に毎日を過ごせるのではないでしょうか?

着実に、こつこつと、続けましょう、それが大きな成長へ / Let’s continue making effort steadily and steadily, it will become big growth

夏に度々お邪魔していたモスクワ郊外のダーチャに滞在するロシア人の家族から木の実、キノコの収穫写真が届きました。コロナウィルスによる外出規制が春に始まってからすでに約半年が経ちますが、ほとんどダーチャで過ごしたようです。感染リスクを避けるためにも、郊外で静かに森の傍で新鮮な空気と共に過ごすのが健康にも一番よいのかもしれませんね。少なくとも夏だけは日本の過酷な夏を抜け出してモスクワで夏を過ごしたいと思うばかりです。

モスクワで勤務していてロシア人スタッフと一緒に働く中で感じたのは、毎日の一つずつの業務改善や、勉強を継続してゆくことをないがしろにして(あるいは過小評価してなのか、単に意識していないだけなのか)何か大きなことをやろうとしていること、そんな意識を持っているスタッフが多いなぁ、と感じていました。

昔、新入社員の頃に受けた研修で聞いた「複利成長」。毎日の1%の努力を1年間続けるとどれだけすごい成長になるのか、そんなテーマを聞いたことがあります。毎日の1%の複利成長を1年間続けると次第に大きな曲線を描いて1年後にはとてつもなく大きく成長できている、という。我々は人間なので、1年間そんな簡単に上手くゆく保証もなく、どうしてもダメな時もあります。だからそんな複利成長に固執する気はないのですが、少なくとも日々の生活の中で何か1つでも新しいことをしよう、この業務を改善してみよう、とか。商品をロシアに輸入する時に関係するこの法律はどんな内容なのか、法務スタッフに任せきりにするのでなくて概要を説明したウェブサイトを見て勉強してみようとか。自分の責任範囲以外のことにも気をとめて手を出してみる。隣の人に尋ねてみる、そんなちょっとしたことがゆくゆくは大きな成長につながるのではないでしょうか。

と、そんなことをスタッフに口をすっぱくして言っていたのですが、果たして届いていたのだろうか…当時は目に見えるところでは実感はありませんでした。我々も何年も経ってから「あっ、これはあの時に上司が言っていたことだ」、「これって親に注意されていたよなあ」ということもあったりしませんか?そんな風に、誰かの心の片隅に言葉が残っていて、いつの日にか将来に「あっ、あのときXXXさんが言っていたことってこういうことなのか。」そんな時が来てくれたらと想像しています。

毎日の継続について。例えば部屋の掃除。一気にできたら気持ちがよい、やってしまいたい。が、そうであっても、掃除にそこまで時間をかけられない。であれば、今日はこの部分。明日はあの部分、といったように掃除する部分を細切れにしてゆくと、数日後には着実にきれいになっている。きっと初日は掃除をしだすと他の部分にも手を付けたくなる衝動に駆られるかもしれません。でもそれを始めてしまうと他の予定にも影響が出てしまう。そんな衝動を我慢して少しずつ、かつ着々と。大概、金曜日になると、何か仕事で途中のものがあっても「週末もあるから何とかカバーできるだろう。今日は未完成でもいいや。」そう思っていると失敗します。仕事は仕事時間内にやり切ること。それに最大限に集中すること。週末は結局プライベートのことにも時間を割く必要がでてきますし、気が付くと時間があっという間に経っていて思っていたように未完成の仕事に費やせる時間がわずかであった。そんな経験を何度もして失敗してきました。

仕事も課題があれば、まず何をすべきかの筋道を立てて分解してから着手する。一方ずつやり遂げる。今日やると決めた部分までは着実に完了させてゆく執着力。そんなことの繰り返しが結果的に大きな結果を生み出すための積み重ねになるのだろう、自分自身の経験を通してもそう感じています。

仕事の”忙しさ”の中身をよく吟味することの大切さ / The importance of carefully examining the contents of the “busyness” of work

7年間、我武者羅に働いたモスクワでの生活。朝早くから夜遅くまで。土日もオフィスに行ったり、家で、またはカフェで仕事をしたり。そんな生活を過ごしていると自分自身の仕事を客観的に観察する余裕がなくなっていました。一体この経験がどのように自分の成長につながっているのか?その仕事の内容は本当に自分の成長の糧になったのだろうか?そういった振り返りが大切だと思います。どんなに忙しいからって自分が成長しているとは限らない。忙しくしている自分自身に”酔ってしまう”人もいるかもしれません。

今は日本に帰ってきて、ロシアの子会社をはじめとした世界中の販売子会社の数値をまとめ、分析しながら広い視点で仕事ができる、かつ、余裕をもって仕事ができることのありがたさを深く感じています。現場で苦悩した日々を経験したからこそ、それをどれだけ今現地で苦労している仲間に還元できるかが、みんなから感謝されることをしてゆくこと、それが自分自身の評価の尺度ではないかと思います。する必要のない苦悩は誰も経験しなくてよい、そう強く思います。限られた時間なのだから、もっと楽しいこと、人のためになるようなことに時間を使うべき。であれば自分自身の経験や知見を少しでも周りに分かち合いたい。

私の7年間は、ただただあちこちに飛び火する火消しに奔走していた日々。時として火事になりかけてお叱りを受ける。ようやく落ち着いて仕事が回りだしたと思ったらスタッフが退職してしまい自分自身がカバーに入らざるをえない。なかなか良い人材に巡り合えない採用活動の繰り返し。業務改革に取り組むぞ、と意気込んでいたら突然の税務署からの大量の書類提出要求。意味の分からない法制度の変更により対応に追われる…忙しさを経験することから得られることだってあります。今振り返ってみれば、自分自身がどこまでできるのだろうか、自分の強いところ・弱いところは何だろうか、そんな風に自分自身を吟味するよい経験でした。しかし、繰り返される火消し。それは組織としての在り方に何らかの問題があった、ということを認めるしかありません。今は次の世代の人たちが次のステップに向かって漸進しているとのこと。私が勤務していたロシアの会社の今後に期待しています。