カザフスタンの給与計算ロジック / Salary calculation of Kazakhstan

カザフスタンの給与計算ロジックは複雑で分かりづらいものがあります。私自身の経験と以下のWebsiteを参考にして計算方法を記載しました。

注)Месячный расчетный показатель(МРП)と呼ばれる(カザフスタンの法律で毎年決定される社会保険や罰金の計算基準となる基礎数値を言うようです)数値があり、2,525 tenge*25=63,125 tengeを下回る場合には、違う計算ロジックが加わりますが、ここではこの基準以上の給与支払いがある場合のケースを想定しています。63,125 tengeというと、この記事を書いている現時点のロシアのRUBで言えば約10,000 RUBと相当低い水準であり、このレベルを下回る仕事はどのようなものがあるのでしょうか…カザフスタンのことは詳しくないために想像ができませんが、私の業務上の経験ではこの基準より高い給与を提示していることがほとんどと思われます)

(参考 Источник): https://pro1c.kz/articles/prochee/minimalnyy-raschetnyy-pokazatel-mrp/

仮に、給与額面を200,000 tengeとします。

1)年金基金への納付額は額面の10%です。200,000 tenge*10% = 20,000 tenge

2)最低保証賃金(月給)は42,500 tenge (2019年) * 50 = 2,125,000 tenge とのルールがあり、この金額と1)の計算結果を比較します。として2,125,000 tengeよりも低ければ1)の計算金額が年金基金への納付額となります。それにしても、2,125,000 tenge (執筆時点のロシアルーブル換算でおよそ350,000 RUB。このような膨大な額を基準とした理由はなぜなのでしょうか、気になるところです。)

3)次に個人の所得税を計算します。カザフスタンの所得税額は10%です。この計算式にひと手間加わっています。計算式:(給与額面ー1)の計算結果ー最低保証賃金42,500 tenge)* 10% = 13,750 tenge となります。つまり額面から年金基金への納付額を差引き、さらに最低保証賃金も控除したあとの残額に10%を掛け合わせた結果が所得税です。

4)従業員の手取り額は、200,000 – 20,000 – 13,750 = 166,250 tenge となります。

ロシアでは個人の源泉所得税は一律13%。年金基金への納付額の計算率は22%、そして、これは雇用主に納付義務があります。カザフスタンのスタッフと仕事をする時に、個人の源泉所得税を確認したところ「10%」です、との答え。へー、そうなんだ、ロシアよりもさらに低いんだな、と感じたものですが、よくよく調べてみると、年金の納付額が個人の所得から徴収されるとのこと。これは全く知りませんでした。私は税務の専門家ではありませんし、税務は率直に語るとあまり得意でもありません。それにしても、各国で年金、社会保険料(今回の記事ではカザフスタンの社会保険料計算については取り上げていません)の考え方に異なったアプローチがあること、徴収先を個人からとするのか雇用主からとするのか。非常に面白いです。その背景を調べれば、何かしらその国の社会保険のあり方のスタンスが分かるはず。そこまで調べることはできていませんが、カザフスタンの給与計算ロジックを調べる中でとてもよい勉強をすることができました。

なお、この記事の内容に誤りがあることが分かった場合には訂正いたします。また、この記事を元に読者が判断をし、その結果何らかの被害を及ぼした場合であっても、著者は責任を持てませんので、その点はご理解いただけますようよろしくお願いいたします。

まず健康で、そしてタフで打たれ強い - 駐在員として大切なこと / Being healthy and tough – key to success to work together with Russian colleagues

朝、出勤途中に見つけた販売中の飲料ケース。こんなカオスは初めて見ました。地震でもあったかのような崩れ方。帰宅時にはきちんと整列されていました。

駐在員としてモスクワにやってくることは、その会社から外に出してもよい、と認めてもらった人。海外でもやってゆけると認められた人たちだからのはずです。周りを見渡していて皆さん仕事人として、一人の人間として立派な方だらけだと思います。(私の場合は、周りの誰からも「まだ早いのでは…?」という目で見られていました。実際にそのように直接言われましたし、そうだったと思います。長い年月がたった今も毎日が闘いの日々です。)

今日のテーマでもある打たれ強さについて書く前に…優秀さの持つ危険さは、「自分のやり方、考え方は正しい」と信じてどこに行ってもそのやり方を部下に強制することです。また、優秀さの持つ別の危険さは、ことごとく周りから自らを否定される経験が少なく過ごしてきたがゆえにいざロシアでそのような場面に直面した時の衝撃が強いことです。

健康であるのは第一条件として、タフで打たれ強いこと、いやロシアで仕事をするうちにタフに成長してゆくのかもしれません、この特質がとても重要だと経験を通してしみじみと感じます。

“No, no, no, I don’t think so.(いやいや、私はそうは思いません)””Why? I don’t understand why I need to do this job(なぜですか?どうして私がこの仕事をする必要があるのか分かりません)” ― 別に何も否定されているわけではなく、ただの会話なのですが日本にいる時にはこのような会話をしたことはありませんでした。ロシア特有なのでしょうか、ロシア人スタッフがこちらによく聞えなかった時に返す言葉は「Aa?(あ~?、トーンが下から上に上がる、まるで「ア~何々、何か文句あるの?」と。こんな相槌が返ってくることも衝撃でした。

日本という国は「待ち」の文化。その一方ロシアは(多くの欧米社会も?)「取りにゆく」文化だと感じています。つまり、待っていても相手からこちらを気遣う、配慮する文化が日本だとすると、ロシアでは自ら動かなければ得られません。自分自身が上司であり立場としては上にいながらもスタッフから無視されてしまう存在になりかねません。一人の人間として自分がどれだけ通用するのかが毎日の職場で試されているようです。プライベートで出かける買い物では、英語も伝わらず、すぐに言葉が出てこないロシア語では自然と声が小さくなってしまうことも。そうすると容赦なく「Что? (シトー?!=何、聞えないわよ!)」が飛んできます。ここでも自分の主張をする訓練の場です。朝、お店の営業時間に入ったのに、「まだ準備できていないの、もう少し後に来て」と。また、時にお店が日中開いていないと思ったら”Техничесий прерыв”とても素晴らしい言葉。本当なんだろうかと疑ってしまいますが。

物理的に業務量と責任範囲が広がる仕事のカバー範囲の広さに加え、スタッフとの日々の「バトル」、そして言葉の問題。日本のようにはいきません…そんな状況を乗り切るためのタフさ、何を言われてもめげない打たれ強さ、誤解を恐れずに言うと、何事も一つ一つを抱え込みすぎない、”いい加減さ”を多少持ち合わせること。きっとこれらがロシアで仕事をし、生活をしてゆくうえで重要なことであることに間違いはなさそうです。

多様性は果たして正しいのか? / Diversity right or wrong?

“Kawaii factory” こんな名前のお店を見つけました。明らかに日本語のかわいいから来ているはず。女の子が好きそうなデザインのグッズが並んでいました。生産は主に中国製品が主であったように思えます。- モスクワ中心から北に位置するdesign factory “Flacon”にて

一般的に、グローバル化、多様性といった言葉は奨励されている、ポジティブに捕らえられる「会社が目指すべきあるべき姿」だけれど、それは前提が正しい場合であって、必ずしも正しいとは言えない。世間一般の”流行”に流されることなく、自らの置かれている状況をよく比較した上で目指すべき姿を吟味すべきである、と経験からよく実感しています。

多様性 - その難しさ

ロシアの労働法の93条「Not full time working time」ТК РФ Статья 93. Неполное рабочее времяを見ると、14歳未満の子供を持つ両親は(子供の事情によって)労働時間を短くすることができる権利がある、とあります。たとえばこのようなケース。勤務時間は18時まで、子供を預けている幼稚園が18時で閉まってしまう、家族や親戚を誰も頼れない・・・結局自分で子供を迎えに行くしかない。そのため、17時に退社し、毎日1時間の労働短縮を雇用者に要求する。短縮の分、給与も減るのですが、毎日1時間、週に5時間スタッフが不在となることによる雇用者へのデメリットは予想を上回るものです。

正社員が例えば50人の中小企業では、各部門にそれほど多くのスタッフを雇用できないはずです。それでも従業員がいる分、色々なことが起こります。同僚が病気になってしまってお休み、そんな中もう一人の従業員は17時に退社してゆく。誰も担当者がいなくなってしまう空白の1時間が生まれる・・・。そんなときに1件、2件と問題がおこったりするものです。「なぜ誰もいないのよ!」とストレートに(こちらが日本人マネジメントであるため遠慮してか直接言われることはないのですが、部屋の中でほえているのが間接的にぐさっと来ます)文句を言われることも。また、ロシアでは1年間のうちに連続して14日間の有給休暇を取得することも義務となっているため(知る限り違反したとしても罰則はありませんが)、マネジメントにとってはこの2週間をどのように管理するか、オフィスに残っているスタッフが病気にならずに問題なく出社してくれますようにと、どこかしら意識しつつ過ごすことがあります。

フレキシブル勤務時間 ― これも一概によいとは言えません。小さな会社で、かつまだ会社の基盤そのものの整備が求められているような状況では日々多くの問題が起こります。そんな中で世間の流行に流されて多様化を推し進める。フレキシブルな勤務時間を導入する。スタッフもハッピー、マネジメントもなんだか良いことをしたという感覚に。・・・いざスタッフが自由に出社してくると、朝から急ぎで議論したいことがあっても、スタッフが揃うまでに動き出せません。たとえわずか1時間のフレキシブルであっても悶々として過ごす1時間はなかなか嫌なものです。スタッフの勤務時間を管理することも一層困難となります。

仕事で大切なのはそのアウトプット、成果であって、勤務時間・勤務場所をコントロールすることではない ― これは私自身、真理であると考えています。一方で、小さな会社には小さな社会があり、小さな勤務スペースの中で各人が周りの行動をよく見ています。この小さな社会で、少数の人間が他と違う行動を取り、それによって相手が優遇されているような感覚を持ってしまうこと。人間なので残念ながら十分にあります。「自分自身は遅くまで残って仕事しなければいけないのに、なぜ彼・彼女は遅く来て(早く帰って)仕事もろくにしないの?」そんな気持ちになってしまうスタッフが少なからず出てしまうのを見てきました。上記の真理を説明しても効力はあまり無いようです。

多様性は善でもあり害でもある

お互いに距離が近いので、他人が自分と違う条件がどうしても見えてしまうことにより不公平感、不平不満が出てしまうことがネガティブに影響する。特に小さな会社であり、まだまだ会社の基盤ががっちりと整備されていない企業であれば、皆が一体となって一つのチームとして取り掛かることがより重要であり、このタイミングで多様性はむしろ阻害要因だと感じています。多様性というのは大企業で人材を豊富に揃っている、大企業で同じ会社の中でもそれぞれの部署が一つの社会となって他の部署との不公平さが目に付かない条件であること(それぞれが違う部屋やフロアで勤務している物理的な隔離も重要と思います)、小さな会社であっても会社の基盤がしっかりしておりリモートでもスタッフ同士の連携が取れるような・・・そんな状況で考えるべきなのが多様性だ、と自らの経験を通して学習しています。これまで多様性についてじっくり調べたこともありませんが、きっとどの専門家の話をお聞きしてもこのようなことが書いてあるのでしょう・・・。

お礼もお詫びも具体的に / thank-you & sorry for exactly what ?

今年のモスクワの夏は非常におかしなことになっています。連日雨、雨、雨。せっかく唯一太陽を楽しめる季節がまるで日本の梅雨のようになってしまうとは…。束の間の太陽を楽しんだ日曜日。お気に入りの場所にて。

もう数か月もブログの更新をストップしていました。少しでも時間があるならば目の前の仕事に全てを費やす(費やさざるをえない状況にある)― そんな思いがありブログのことも忘れて目の前のことに没頭する日々を送ってきましたが、目の前のこと、将来に実を結ぶ可能性があることに今の時間を費やすこと。この狭間でバランスの取り方について日々悪戦苦闘しています。今日からは、毎日の更新は難しくとも定期性をもって更新してゆこうと気持ちを新たにして書き出しています。

私より後にロシアに赴任してきた方が先に帰国してゆくケースを少なからず目にすることが多くなった今、決して、どんなに努力してもロシア人のメンタリティを理解することは難しいものですが、ふと日本とロシアの違いに気付く機会がふと、生まれてくる瞬間があります。

「ありがとう」― よく口にする言葉ですが、幾度となくスタッフに「XXXさん、ありがとう、というけれど、一体何にありがとうと言っているのか私たち(ロシア人)には分からないです。具体的に言ってもらわないと…」と言われることがありました。なるほど、「ありがとう」というのはとても良い言葉ですが、私が口にする「ありがとう」には、お礼を伝えたい目的語が欠けているのだな、と。

ありがとう(貴重な情報を共有してくれて)                ありがとう(こんな忙しいのに自分の追加の仕事のお願いを時間通りにやってくれて)

「ごめんなさい」― これも同様です。

ごめんね(私がきちんと必要な情報を伝えていなかったので無駄な仕事をさせてしまって)                               ごめんなさい(会議の時間を守れずに会議室で待たせてしまって。前の会議が長引いてしまって、そのことについて連絡ができていなかったんだ)

「ありがとう」「ごめんなさい」をやたらと連発しないこと — この議論もありますが、今日は何事も具体的に伝えることの大切さをここに書き記しておきたく、その例として、ありがとう、ごめんなさいを取り上げました。

具体的に目的語を表現することの大切さ。これは裏を返せばそれだけ日本語での会話の回路に目的語が無くても通じてしまうから、と感じています。「ありがとう」といえば、相手はその「ありがとう」の一言で自らの心の中でその意味することを自分なりに解釈して受け止めます。そこに「何に対してありがとうと言っているの?」という疑問を挟むことはあまりないのではないでしょうか。少なくとも私は日本にいる時にこんな考えをしたことがありませんでした。

この思考回路で現地スタッフと仕事をしてゆくと、自らの仕事の指示も目的語が不足しがちで、指示が曖昧となったまま過ぎ去るために結果としてお互いに一つのことを違った形で理解していて時間が無駄になってしまう、お互いに罵り合う、そんな結果を生むリスクがあります。

私自身もそんな苦い経験を踏まえて、自らの指示の仕方、メールを書く際の指示の曖昧さの排除、そんなことを意識して実践することにより、スタッフとのコミュニケーションが改善されると同時に、自分自身のマネジメントスキルのよき訓練になっている感じています。具体的さが要求されること=自らが具体的に仕事の完成図・スケジュールについてのイメージを持っている必要があることからあやふやなイメージでは相手に仕事を振れず、イメージを明確にしておくべきことの大切さを学んでいます。


いかに唇を制することができるかー成功の秘訣 / Control the lips – key to success to work together with Russian colleagues

すでにモスクワに来てから長い年月が経っているのですが、ついに初めて—今更ながら—クレムリンの中に入りました。クレムリンの敷地内にあるホールで友人とミュージカルを楽しんだ帰りの一コマ。入るのも帰るのも厳重に警察官、軍人の警備に管理されていました。

モスクワで仕事をしていて、限られた交流関係、見分の中ですが駐在員として成功する人、成功しない人、その違いは何だろう?と考えることがあります。 

成功の定義は様々です。海外の現地法人に来て、数年の中で現地のロシア人スタッフとの関係は浅いままに終わり、ロシア人から見れば「そういえばこういった日本人がいたなぁ…」という程度の印象しか残らずとも、売上の実績を確実に上げて本社にとっての成功、ということもあります。ここでは現地ロシア人スタッフとの仕事上のやり取りに関して、ロシア人スタッフにとっても自分自身にとっても人間として共に成長できること、これを成功の定義としています。

そして、結局それはどこで、どんな仕事をしていようと要素は同じ、ということなんだと思います。 

今日は一つだけですが、 

言いたいことをすぐに言い返さないこと。まずは状況理解のために時間を取り冷静になること。そして、いかに自分の口、行動をぐっとこらえることができるか 

これは重要な要素の一つだと経験から言えます。理不尽なことがたくさんあります。この前話しあって合意したはずなのに、数日経って会話したら全く真逆のことを言っているように思えることもあります。「そんなこと聞いていません。」と言われることもあります。 

本当にイラっとします。頭に血が一気に上ることもあります。しかし、後で状況を整理すると、確かに自分の理解と相手の理解の仕方にずれがあってもおかしくない、そんな会話をしていたことが分かるケースが意外と多くあります。なるほど、確かに相手が「そんなこと聞いていません」ということも分かるな…と。 

同じ日本人同士で会話していても誤解していることがありますし、何を言っているのか一度聞いただけでは理解できないこともありますよね。であれば、ロシア人と英語で会話していればなおさらお互いの理解の内容にずれが生じてしまうこと、それをよく理解できるようになりました。 

何で約束した時間に会議室に来ないのか!と10分以上待って本人を少々苛立ちを感じつつ探しにゆくと、席にいて別の仕事をしています。会議招集をAcceptしていたのになぜこないのか?と問いただすと、「部下の女の子から会議の時間をずらした、と聞いていたのでてっきり会議は延期になったものだと思っていました」と。いや、そんなこと言っていないよ、と思いきや、確かに部下の女の子が「その会議の時間は別の要件があって難しい」と言っていたことを思い出します。その彼女と私が探していた部下が話をしているうちに、どうやら私の会議は延期になったようだ、という結論になってしまっていた…。 

私も誰を怒ってよいのか分からず、思わず苦笑してしまいました。私自身が別の会議などで席を不在にすることも多く本人たちが会議室に来ることを待っていたのですが、会議の時間に彼らの席に向かい、一言声をかければよい話です。 

こんなちょっとしたことですが、言いたいことを我慢すること。状況を整理するために冷静になること。怒りと共に発してしまった言葉とそのマイナスの印象、それをスタッフの心から拭い去ることはそう簡単ではありません。唇を制するためには、それだけ自制心がなければならない。自制心を持つためには人間として大きな器をもっていないといけない。 高校生の頃、修学旅行ででかけた沖縄旅行で、約束したルールを守れなかった我々生徒たちを臨時の集会に集められ、そこで熱く一人の教師が「お前らの器はこれっぽちなのか?そんなことないだろ?人間として大きな器を持てよな!」と言われたことを、こうして書いていて思い起こしました。

外見と現実の乖離 / The gap between appearance and reality

時刻は19:00。クレムリンの方向を眺めて。どんどん日も長くなってきました。まだ連日の最低気温はマイナスを表示していますが、日中の風は明らかに春です。

ロシアは外見をとりわけ重要視する文化と思います。たとえば冬。女性は外に出かける前に鏡の前で入念に帽子の位置をよく確かめる。ロシアならではだろうか、スカーフ(Платок)を頭に巻く場合もあるが、それもきっちり鏡の前で時間をかけてチェック。男性はというとこれが女性とは異なり適当かもしれない。以前、ロシア人女性はどれだけ化粧品にお金をかけていることか…と呆れたようにしゃべったら、「XXXさん、私たちがこんなに綺麗にしようと努力しているんだから満足しなくちゃだめですよ」と部下の女性に軽く怒られてしまった。でも本当に外見に気を遣う点でロシアの女性は素晴らしいと思います。

さて、今回のテーマはこの外見という点ではなくて、プレゼンにしても何かを語る時でも言葉という外見で飾り立てられた外見という綺麗さに惑わされて、現実との乖離をよく考慮しなければならない、という点です。

以前、アメリカを旅行していたときに偶然出会った女学生。彼女はワシントン大学に1年間留学をしているとのことでした。ワシントンで飛行機を降りてからInformation centerで偶然出会い、同じ方向ということで街中へ向かうバスの中で会話をすることができましたが、わずか20歳足らずで「最初は自分の語学力のレベルに躊躇していたが、2,3ヶ月ほど経ってから、アメリカの学生の話はとっても立派で聞こえが素晴らしいことを語るんだけど、中身が無いことに気づいた。長く浪々と語っても内容はほんの大したことのないこと。それが分かってからは自分の語学力や彼らの素晴らしい語り口調について怖気づかなくなった。自分自身は多くを語らずともポイントを突いたコメントをするように心がけている」と。

そんなに若くして、しかもわずか短い期間で真実を見つけたその能力におどろいたことを覚えています。私自身も(もちろんロシア人の全員がそんなことはありませんが)同様のことを数年間の彼らとの業務経験を通して感じています。ロシア人スタッフと一緒に仕事をしていて感じるのは、スタッフの説明の仕方は素晴らしく、語り口調が何だか説得力を持っており、そのまま聞いていれば素直に信じてしまいそうになります。ロシア以外の他国で勤務したことありませんので分かりませんが、欧米やロシアではこのような傾向があるのでしょうか。

日本人の良さでもある、周りとの協調性や自己主張をしすぎない観点はこちらの世界では時としてマイナスに働きます。自分自身もまだまだ苦手です。議論に入っていくために何を言いたいのか考えて英語やロシア語に翻訳し、そんなことを頭の中で考えていると話の流れを聞き失ってしまう、そんなこんなで発言のチャンスを無くしてしまう。そんなことが何度もあります。仕事では上司という立場ゆえに、スタッフもこちらの様子をうかがっているため会話に入ることは容易ですが、社外で一人間として話す場合には自分自身から入ってゆかなければならない。黙っているだけではそのうち視線をそらされ、その場にいないかのように存在を無視されてしまう…。日々よい訓練の場です。

人事面談でこの直近1年だけで20人ほどの採用面談を行いましたが、私が大切にしているポリシーは“きれいな”会話をする人との会話には注意が必要だ、ということです。自分自身も仕事に対してこうありたい、という理想を持っており、そうできるように日々努力しているので、同じ意見を持って語ってくれるスタッフを採用したいと考えるのは当然のことです。実際にそんなスタッフと出会い、これは一緒に現状を打破してくれる、と思って採用したところ、口で言っていることと本人の行動がかみ合わないこと。会社の現実はそんな理想には至らないことが多くあり、そのギャップを理解した上で、一歩ずつその溝を縮めようと努力していきたいのに、「もう我慢できない!私はこんなことをするために入社したわけではない!」とか、自分のことだけ考えた発言をしたり、あたかも裏切られてしまったかのように感じたこともありました。

採用面談では、これまで仕事で失敗したこと、そこから学んだことはありますか?と尋ねていますが、これまで誰一人として明確に失敗したことがある、と述べてその経験を語ってくれる候補者と出会ったことが実はありません。失敗もそれが次につながる経験と思えば失敗とは思わない、という考え方もありますが私は反対です。素直にその時に間違ったことは間違ったと認めて、それを次に生かす。そう素直に語ってくれる人であれば、その人の純粋な内面が見て取れてより信頼がおけるのに、といつも感じています。 一緒に仕事をしていくのですから飾り立てた内面ではなくて、その人の本当の姿を見たい。自分自身もそうあることで相手も自らも嘘偽りない関係でお互いに楽でいられるんだろうな、と信じています。

自分自身の軸で情報の正しさの判断を / Possess the axis of judging information

赤の広場横の公衆トイレで順番を待つ女性。かつて初めてモスクワに来たとき、どれだけトイレを探すのが大変だったか…あの苦しんだ経験は今ではよい思い出となっています。それにしても何度も経験したくありませんが。今では街中でもトイレの設置数がずいぶんと増えました。

一つ見聞きしたことで全てを判断することがいかに危険なことか。どんなに相手が信用のおける人であっても、自分自身で情報の正確さを確かめること、その他の周りの人からも付加的な情報収集することが大切。

会社の社内でケーキをスタッフに振る舞った時のこと。一人で3つ4つのケーキをお皿に乗せて満面の笑みで歩いているロシア人スタッフを見かけました。それを見た同僚のスタッフがすれ違いざまに「お皿の上がとんでもないことになってるね(つまり、取りすぎじゃないの?と少々驚きのニュアンスで)」と声をかけると、彼女は「エへへ」と笑って何も言わずに席に戻ってゆきました。お前だけの分じゃないのだ、そんなたくさん一人で取るな!と思いつつもその時は別のことで忙しく、後ほど個人的に会話の際に「ケーキには限りがあるのだから、他の人の分も配慮して取ってもらえないかな?」と伝えました。そうすると、「あれは自分のチームのためにまとめて取ってあげたもので自分ひとりの分ではありません。」と。同僚との会話の際に何も言わずに笑って過ごした様子や、日頃からのネガティブな潜在的に自分自身の中にあるスタッフへの評価がそうした、ほんのちょっとしたことから言葉となって現れてしまう危険がある。

一対一で会話している時、「なぜあの子が昇格したのかまったく分かりません!人間的に彼女はまったくそんな資格ないです。」また、「(とあるマネジャーのことについて)彼女のことを部下の誰一人として評価していません。言っていることが分からないし、まるで教師のように指示するけれども部下たちはそんな上司を必要としていない、まるで説教されているようです。その割に実務のことを分かっていないし、部下からは信頼されていません。」と、そんなことを言っている当人が、日常の職場でふと顔を上げてみると、なんとうまいこと、良い笑顔でお互いに会話して楽しそうにやっていることか!あの豹変ぶりには驚くばかりです。いやいや、ちょっと待てよ、一体本当に彼女は相手のことをあんなに悪く言っていたのになんなんだ、と。

よく考えてみると、このように正直な気持ちを私に吐露してくれるのはありがたいことです。こいつには何を言っても口外しないだろう、と思ってくれているのであればのことですが…。しかしながら、最近はこう思います。「このスタッフは敢えて意図的にこの気持ちをこちらに伝えて、自分自身が何らかの行動を取らせようとしているのだろうか?」と。どうしても部下に言われてしまうと、そうか、と。自分が何とかするよ、と言ってあげたくもなります。しかし、経験からすれば、とりわけ女性の場合には聞いてあげることですっきりするケースがほとんどのような気がします。それで自分にできることをしてあげて、それが相手に伝われば十分彼らからの評価がアップ。何もしないとしても、まずは聞いてくれた、ということで合格点。とりわけ、他人のことを悪く言う場合には、たとえそのスタッフとよい関係を保っている仲であったおしても、そのスタッフの指標に乗せられてしまうのではなく、自分自身の指標を軸として冷静に判断することが大切です。

さて、そんなわけで日々あらゆる情報が飛び交うロシアの職場。何だかロシア人部下からいつも逆評価を受けているような気がしてなりません。また、彼らからの感情のこもったフィードバックを受けるときに、その回数、その熱量をもって社内のスタッフ間の雰囲気の危険度合を測るバロメーターとして利用するようにしています。

誰もが正しくもあり正しくないときにどう行動するか? / When everyone thinks I am right but not always true – How to manage them?

誰もが言っていることが正しいのだけれど、それが必ずしも正しくないとき。そのときがマネジメントとしての力量が試されるときではないでしょうか?

例えば其の一

ロシアでは従業員は退職日の2週間前に雇用主に退職願を出すことで退職して去ってゆくことが可能です。雇い主としてはその2週間後までに後任を見つけることは非常に難しいです。2週間の間に未整備であった引継ぎ事項マニュアルを書き出してもらい、急いで人材紹介会社に人材紹介をお願いしたのちは日々電話をかけて「候補者は見つかりましたか?」と問い続ける。面接を繰り返すもそう欲しい人材にすぐに巡り合えることは決して簡単なことではありません。そうして2週間が経った後は、残ったスタッフに後任が見つかるまでは抜けたスタッフの分の仕事を一時的にカバーしてくれるようにお願いするしかありません。

「それは私のJob Descriptionには書いてありません。もし追加の業務をするのであればその分の給与を払ってください。」そんなことを言うスタッフもいました。字義どおりに捉えるとそれは正しいことであり批判することができません。しかし、もしそれで「はい、分かりました」となれば、今度はこれまで長期で病気になっていたスタッフの分を文句言わずにカバーしてくれていた他のスタッフへの対価支払いはなぜ支払わなかったのか?何も言われなかったから考えずにいたのか?どうしても時としてお願いせざるを得ない緊急の仕事への対価支払いは?…考え出すときりがなくなります。

こういった風にJob Descriptionを持ち出して自らの業務以外のことを拒否するスタッフは幸いにも決して多くないはずです。どれだけ他のスタッフの心をつかんでおくことができるか、彼らにうまく入ってもらって説得してもらえるのか。また、彼らを束ねるロシア人マネジャーのサポートをどれだけもらえるか、日頃からの関係づくりが重要であるかを感じる瞬間です。また、お互いが困っているときに相手をサポートし合おう、という雰囲気を会社文化として気づき上げることができるのであれば、徐々に、時間はかかりますが、その文化になじめないスタッフは淘汰されてゆく…経験からそう感じています。そしてその過程で苦しんでいる間は先が見えないもの。もがき続けながら多くの場数を経験し、人間としても成長してゆく — それが唯一の先を切り開く道の気がしています。多くの賢人の方々がおっしゃっている通りだなと、深く頷いています。

例えば其の二

こちらはお客さんの要望どおりに商品を指定された住所に出荷をして引き渡したものの、相手会社内の理由で送り先アドレスが2つに分かれていた場合。私たちの商品引き渡し状には一つの届け先住所に全数量が掲載されていることから相手側の倉庫スタッフは数量が違う、といってクレームが届く。いや、それはおたくの社内の問題でしょう、私たちとの契約書には届け先住所は一つしか載っていないのだから。でも、今度は私たちの側の問題もあり、クレームへの回答が出来ていなかった。契約書を見ると「クレームに対する回答を10日間以内に行わなかった場合にはクレームに合意したこととみなす」との条項があり、相手はそこを突いてくる。私たちの側:(経理、物流)私たちは契約書通りにミスなく処理をしていて、なぜ相手のクレームを認めたことにしなければならないのか?私たちは悪くない!(営業スタッフ)経理・物流スタッフと相手会社との間でどうしてよいのか分からない…。相手の会社はこの件を理由に支払いをしてこない。支払いがなければ売掛金の滞留扱いとなり私たちも次の出荷を止めざるを得ない。そんな悪循環に。誰もが苦笑いして「なんでこんな単純なことの解決にこれだけの時間がかかるの?」と。

誰もが正しいのだけど、それではどうしようもないとき。実務上はこんなケースがどの会社でも多いのではないでしょうか?

そんな時に全員を集めて話し合い、命令をして指示を強制的に聞いてもらうのか、うまく説得できるように協調的な姿勢で臨むのか、多少は頓珍漢なことを言いながら、部下に軽くあしらわれながら「分かったわよ、私がやるからまかせて」と言わせることができるか。やり方はそのとき、相手の性格、状況によってあらゆる方法が正解となりえますが目的はただ一つ、現状の問題を速やかに解決すること。日頃からのコミュニケーションで培ってきた関係性が力を発揮するところと思われます。

こんなこと当事者間で解決してよ…と言いたくもなるのですが、こういった日々起こる些細なできことから学ぶマネジメント方法への経験が多くあります。

ロシア人スタッフはクリエイティブ? / Russian colleagues are creative?

ロシア人スタッフ向けのスキルアップ研修を計画するにあたって、何度かロシア人のトレーニングコーチとエージェントのロシア会社の社長と面談を設定して内容を事前協議している。 

その中で聞くのは、日本企業で見られる傾向として日本人マネジメントはスタッフにもっと意見を持ってきてもらいたい、提案をしてもらいたい、という希望とスタッフへの物足りなさがある。一方でロシア人は決して自分の意見を持っていないわけではない。いい意見を持っているんだ、と。ただ、日本人は沈黙が多いこともあり、何を考えているんだか分からなくなり、ロシア人は仕舞いには自分の意見を言うことを躊躇するようになって口をつぐんでしまうということ。なぜならば、日本人マネジメントが黙っている、あるいは反応の意味がよく分からないために自分の発言がプラスに取られているのか、ネガティブに取られているのか分からなくなってしまうからだそうだ。

ロシア人だけの会議を観察していると、ロシア人はとても活発でとにかくようしゃべること。彼らと会議をしていても、よく発言してくれるのは嬉しいのだけど論点がずれることもあり、彼らはそんな話をまた楽しんでいる。一方のこちらは時間も限られており、結論を急ぐあまりにそういった時として必要な無駄にかける時間を極力減らしたいと考えてしまう。そのバランスのとり方が難しいな…といつも悩みつつその時々のベストを探っています。以前、ロシア人スタッフから会議に招集されたので参加するも、話を聞いていても一向に内容の方向性が見えず、思わず「一体何のために集まっているんだ?目的が分からない!」と苛立ちを抑えきれずに発言すると皆から失笑を買ってしまったことがありました。

会議はきっちり固めすぎず、かつ脱線しすぎず、ファシリテーターの役割が重要ですね。 

日本人が黙っている、フィードバックがロシア人に伝わりにくいという点。会議は英語やロシア語、ということも手伝って、我々のように言語が決して堪能ではない人間にとってはただでさえ内容に入ってゆくのが奥手になりがち。かつ、日頃から自分の考えを第三者に表現する機会を決して多く得てきた人間ではないので気後れもします。また、相手にこういったら大丈夫かな?なんといえばベストかな?と常に相手のことを考えてから言語化する習慣がついており、それも日本語で考えてそれから英語あるいはロシア語にする。時間のかかる作業です。まず自分の考えを持つことは当然として、そこにきちんと発言してゆけるスキル、喜怒哀楽を自分で思っている以上に素直に表すことでスタッフにも私という人間を理解してもらいやすくなるはずでは?ロシアで勤務して数年も経ち日々怒ったり、笑ったり、喧嘩したり、少しずつ私生活のことや食べ物の好き嫌いも含めてコミュニケーションを繰り返していると、お互いに分かりあってきて摩擦も減ってきたかな、と感じている頃。上司と部下の立場上、一定の境界は必要だという認識は外さないものの、たわいもない差し障りの無いテーマだけに留まらず、人事の考え方、自分の将来の目標やポリシーなど、仕事を行うゆえでの行動の根幹となっている深いテーマについてもお互いに話し合ってゆく機会をもっととらえて仕事上でともに会社を発展できるパートナーとしての理解を一層高めてゆくことの必要性を感じる。 

さて、セミナーで感じる日本人とロシア人の違い。

日本人。講師の説明のあとのQ&Aコーナー。「質問はありますか?」とファシリテーターの方から聞かれて出てくる質問の少なさ。そして、「では以上で本日のセミナーは終了です、ご出席いただきましてありがとうございました。」の後、講師に質問の列ができる。 

ロシア人。どんな内容でも自社のみに関わる内容であっても、Q&Aの時間に根掘り葉掘り尋ねる傾向があるように感じる。分からなければさらに質問をかぶせてくる。そして他の聴衆はそれに付き合うはめに。セミナー後に何人も残って質問の列を作っている光景を見た記憶がない。 

どちらが良い悪いではなく、何に重きを置くかのアプローチの違いが表れているんだろう。日本人のそれは自分の個人的な質問で他の人の時間を取ってはいかん、という他人思いの観点からの行動だと思う。全体の中で質問する恥ずかしさもあるのかもしれないけれど、やはり周りに気を配る精神は私たちの大切な特質です。自らの時間を有意義に使うために、周りを気にせず自分の質問を続けてセミナー後はとっとと帰る。これはこれでタイムマネジメントとしては素晴らしいのかもしれないけれど、あまりに個人的な内容は個別に、別の機会を見つけるなりして質問すべきだろう。ただし、私たちが個人的な質問と思っていることが、他の方々にとっても役立つ質問であることは実際に多いという事実があります。日本人は積極的にQ&Aの時間を用いて質問してゆくのがよいのではないでしょうか。 そもそも個人的な質問なのか自分の質問が他の人にも役立つのでは…などと考えている時点でとても日本人的な思考なんでしょうね。

完璧な正解のないロシア人スタッフの時間管理 / No perfect answer to the proper time control of Russian colleagues

市場の中で見つけた行列の絶えないパン屋さん。後ろに並んでいたおばちゃんが「私は昨日も来て、XXのパンが本当においしかったの。またきちゃったわ、そしてね、XXのパンも美味しいのよ、なかなかこういったものはないわよ。あのね…」と永遠に周りの人にこのパン屋さんをほめちぎっていました。こんな素敵なおばちゃんを最近のモスクワで見ることも少なくなったなぁ…。

モスクワにオフィスを構えている日系企業なら、誰もがスタッフの出勤時間の管理について多くの悩みを抱えている、抱えていた(問題に直面し解決し今に至る)であろうと想像します。

スタッフの時間を管理する立場として、難しさを感じる場面が多くあり、今でもまだ最善と思える方法を模索中です。1分であっても遅刻は遅刻。しかし、それでは交通事情の問題があるモスクワ郊外から遠く通ってくるスタッフにはかわいそう、事情を考慮してあげられないのかなどいろんな議論がありましたし、今でもあります。以前は累計遅刻が一定回数を超えたらボーナスカットなんてことも。

オフィスに入る際には、皆が入館証と入り口の電子機器にかざすので何時何分にオフィスに入ったかが分かります。遅刻してきたスタッフは入館証をあえてかざさない者もいて「今日は忘れてしまったので受付にドアを開けてもらった」という言い訳や「一緒に出社した同僚が開けてくれたのでそのまま入ってしまった」などというケースも起こりえます。データ上は遅刻せずにオフィスに入っているのだけど一向に席にやってくる様子がない。オフィスに入ってからそのままコーヒー、お茶を飲みながら同僚と話し込んでいる、なんてこともありました。その内容にもよりますが、席にいないからといって仕事をしていない、遅刻だ、とすぐに喚きたてないことが必要なんだなと。

他社の方と話をしたときには、「9時の始業時間の30分前ほどにはほとんど人がいない。ところが9時直前に一気にスタッフが遅刻せずに入ってきてみな仕事をしだすんだよな、不思議だよな」なんてことをおっしゃっていました。わが社のビジネスセンターでは、同じビルに入居する他の会社も同じ時間での始業なのでしょう、9時から10分前ほどの1階エレベータホールは大変な混雑となっています。私たちの会社スタッフもほぼ遅刻せずに出社してきます。しかし、中には「エレベータが混雑していて乗れなかったので少し遅刻してしまった、私は悪くない」という遅刻の言い訳を聞くこともあります。

早めにくれば余裕を持ってエレベータにも乗れてゆとりをもってオフィスに到着できるのになぜそうしないの?と聞けば、仕事の時間は9時からと決まっているから9時までにくればよいのだ、と。そう言われてしまうと言い返す言葉もなく、はい、その通りです、としか言えません。ロシア人の友人が働いているロシア企業では、遅刻した場合はその分残って仕事をするという運用だそうです。フレックスタイム制度にすれば遅刻の問題はなくなるのか?否、今度はばらばらにやってくるスタッフの勤務時間の管理が大変だ、朝から会議をしたいときに全員がそろわないのは困る、と意外にもマネジャーたちから否定的な意見が寄せられました。じゃあ、営業と管理部門とで勤務シフトを変化させたらどうか?と聞くと、いやそれは不公平だと。

労働契約書でも会社の就労時間は記載していますし、就業規則でも10分前には出社して仕事にゆとりをもってとりかかれる準備をしましょう、と明記しています。中には始業時間1時間前から来て仕事を始めるスタッフもいます、毎日9時ぴったりにくる人もいます。人の数だけ人の価値観がありますね。一昨年の秋口には、上期の評価として部下全員に「時間に対するその人の姿勢はその人の行動に表れる。遅刻というのはその人自身の仕事に対する取組みが欠けていることの現れでもあり、それはよく注意してみてゆきます」との趣旨を書いた資料をメールで全員に送り、後日各自と上期の面談をしたときのこと。「あれはひどい、一気に仕事のやる気をなくした、スタッフによく説明しないと問題だ」と言われてしまいました。それはそれで私の価値観を伝えたはずだったのですが、少々行き過ぎてしまったようでした。

実際、我々が会社に提供すべき時間は就業時間内と定められておりいかにその間に結果を出せるかがポイント。早めに来て遅くまで残って仕事をするようにとは一言も書かれていません。それでも日本での感覚からすると早めに来て、ある程度残って仕事をする、そんな姿が肯定的にとらえられているのが日本のビジネス文化でしょう。

なんだかんだ言ってもスタッフは始業時間までには出社してくるので、今は遅刻管理を厳密に自ら行うことはなくなりました。スタッフの数そのものが欠けている状況に直面し日々の仕事すら回らない状況を経験することが重なってからは、まずオフィスに来てくれる、それだけでも十分に感謝すべきなんだと考えるようになりました。自分が人間として成長しただけなのか、甘くなったのか分かりませんが、必要なスタッフが揃っていて、仕事をやってくれる、これは本当にありがたいことです。さて、話を戻し、遅刻データは人事スタッフが管理しているので、何か問題があった時には報告を受けるようにしています。また、我々は家庭の事情などで数時間遅刻する際には有給休暇を時間単位で取得できるような運用を許容して多少は柔軟な対応ができるようにとしています。お付き合いのあるロシア企業の中には、「交通事情も考慮した上でスタッフは時間に余裕を持って行動すべき。遅刻はあってはならないもの。私のスタッフが遅刻した場合にはペナルティとして評価に含めている」というロシア人社長の方もいらっしゃいます。こういった方は珍しいとは思いますが…。

一番カギとなるのはその会社のマネジメントがどのような方針を持っているか、それに対してどれだけ真剣に取り組むかでしょうか。それがその会社の時間管理に対する文化となってゆくはずです。9時以降もゆっくりとコーヒーを飲んでたわいもない会話をしていたり食事をしてるスタッフがいれば注意する、出社時間だけではなく、会議開始・終了時間も意識して余裕を持って行動すればスタッフも自ずとついてきます。注意すると何か言われるからいやだ、誰かに言わせよう、というのではなく、マネジメントである自らが間違いは間違いである、と発言し、また自らの姿勢でもって模範を示していくことが時間管理に限らず会社をよくしてゆくための長い道のりに思えるも正解なのだろうと感じています。日本では始業時間に厳しいにも関わらず、日々の仕事を終わらせる締切時間に対する認識が低いという事実に気づいてから今はこの点への取り組みに努力中です。この点はまた別の機会に書きたいと思っています。

何よりも一番の理想は人を管理することが必要なくなること。各自が仕事を楽しいと思い、仕事時間の開始・終わりに関係なく仕事に没頭し、仕事とプライベートの境がなくなること。管理社会から自律に基づく会社制度に向かって行ければ素晴らしい、実際にはそんな理想はなかなか難しいのですが、そんな風にわが社のスタッフもなってゆけるように何ができるのだろうか、といつも試行錯誤です。