モスクワの現状とこれから(COVID-19) / Current situation in Moscow and from now

書きたいことはたくさんあるのだけれど、あまりにも目の前の業務に追われて、ゆとりがなくなっている、というのが本当の気持ちです。これほどまでに先行きの見通せない、予測のつかない事態にこうも急激になろうとは誰が想像したでしょうか…原油価格の下落によるルーブルの暴落、そしてCoronavirusの蔓延は確実にモスクワにも大きな影響を及ぼしています。

「ロシアはこれまでもありとあらゆる危機を経験してきたので慣れっこです」なんて冗談を言っているスタッフもいます。決して嘘ではないのですが、今直面している状況は、長年モスクワに勤務する経験の中でかなりタフな経験となっています。この週末は疲れもあり、全く仕事から遠ざかっていました。全く何もせずに好きなYoutubeの動画やNetflixを観たり、キッチン回りを掃除したり。かつてならこのような”何もしない”時間を極度に嫌ったものですが、いまはこの”何もしない”時間の中で、今の置かれている物事を客観的に考える時間を持つことの大切さを感じます。

平時にどれだけ当たり前のことを当たり前にこなすことができているか、そのことの重要性と、日頃からの積み重ねが会社や個々人の力の差としてこのような臨時の場にはっきりと表れる - それを否応なしに体感しています。その一方で、ヒトというのは弱いもので、このような場になるまで日頃の当たり前の積み重ねの大切さを学習することができない生き物であるなぁ、ということも学んでいます。少なくとも、こんな体験をしたからには私自身、そしてロシア人マネジャーをはじめとするスタッフ全員が、この危機をまずどう乗り越えることができるか?乗り越える過程でどれだけ成長し、将来やってくるであろう次の危機に向けた意識と行動を高めることができるか?そこに会社と個々人の先がかかっているはずです。

さて、明らかに金曜日の夜にしても、この週末にしても通りを出歩く人の数が少ない気がいます。お店に出かけてもレジでの会話はコロナウイルスのことばかりです。「商品が少なくなってない?」「ないよりはあるだけましでしょ?」

さて、ニュース媒体Meduzaによれば、いくつかの情報が掲載されており、(別のビジネスニュース媒体)РБКがレポートしたところによればモスクワのロシア内務省は、コロナウイルス状況が一層悪化した場合のアクションプランを3月末までに準備するように指示をした、とのこと。この計画の中にはモスクワへの自動車の出入りの制限と、外出禁止令の導入といったものが挙げられています。

それ以外の媒体の情報も掲載されており、

19.03時点:モスクワのコロナウイルス感染者が800人に達する場合、モスクワ市を封鎖する計画を検討中であること、

22.03時点:モスクワではコロナウイルスの状況が今後悪化すれば、より一層の厳しい検疫手段を導入する計画がある。(大型ショッピングセンターや地下鉄の閉鎖、といううわさも聞いていましたが、 この記事によれば)”モスクワ市長セルゲイ・ソビャーニン氏は地下鉄の閉鎖、軍隊の投入の可能性といった噂はばかけだ話だ、ということで一蹴した”とのことです。(Мэр Москвы Сергей Собянин также развеял слухи о возможном закрытии метрополитена и вводе войск в столицу, назвав их чушью. )

最新の状況によればロシアでは367のコロナウイルス感染ケースが報告されており、そのうち191のケースがモスクワで報告されている、とのこと。

https://meduza.io/news/2020/03/22/rbk-politsiya-gotovitsya-k-vvedeniyu-komendantskogo-chasa-v-moskve

ミニマリズムは単に生活における優先順位のつけ方 / Minimalist – just making things in own life priority

仕事では、何をしないか(何を捨てるか)を決めることが大切だ、とよく言われますが、世の中で気にする人は気にしているであろう”ミニマリズム”というのは、仕事で取捨選択をするのと同様に、自らの生活においても同じことをしているに過ぎない、と感じています。

ミニマリズムを意識するようになったのは、NetflixでみたDocumentary film “Minimalism” を見てから。

https://www.youtube.com/watch?v=0Co1Iptd4p4  とても興味深く鑑賞しました。皆さんにお勧めです。

モノにあふれた世の中。それに疑問を持ちモノを持たない選択をする。納得できます。(それはマテリアリズムを追求してきた先進国に住む人々の贅沢な選択であるとも思っています)さて、家の中をみても私は自然とそれに近いものがあるのかなぁと思っています。長く滞在したロシアでの仕事生活も残りがわずかとなり、少しずつ年末から家の中を整理しています。日本にいるときには、新入社員で入社したばかりでわくわくした気持ちでセミオーダースーツ、約10万円もする革靴を幾つかそろえ、コートもブランド物の何万円もするものを複数そろえ…不要で高価なものをいくつも手に入れて満足した時期がありました。カードのクレジット利用額増加を一時的に申請したとき、電話口で「差し支えなければ申請理由をお伺いしてもよろしいですか?」と尋ねられて、「はい、実はバーバリーのコートを買いたいんです。」と答えた時の電話の相手口の女性の笑いがいまでも記憶に残っています。そんな微笑ましい時期もありました。今となっては全く使っていませんし、どこにいってしまったのか…不明です。質がよいだけ高品質を保っていたのは事実ですが、今の価値観からすれば複数も買いそろえるとは無駄な出費であったとしか思えません。過度にブランド物の購入に走る人というのは、それだけ自分にコンプレックスがある人なのかなあ、と考えています。私も大切なものはそれなりにお金をかけます。やはりビジネスの場面ではその場に相応しいモノがあると思います…が、それほどたくさんのものは不要であることは明白でしょう、決してお金に溢れているわけでもなく、家も決して大きいわけではありません。

限られた時間の中で、際限なく降ってくる情報、溢れるばかりのマテリアリズム。何を優先してよいのかさっぱりわからなくなってしまいます。決してお金が沸いているわけでもないため、無限には存在しない自らのお金の使い道を考える必要があります。となると、自分の人生で大切なものに集中するためにも、自分にとって必要のないこと、重要でないことに自分の労力と時間とお金を費やしたくない。そうなってくると自然とミニマリズム、つまり自分にとって大切なことだけ身の回りに、家の中にに残ってきます。

これの問題点は、別に家の中にあっても問題ないものでも、それが残っていることを嫌がり、なんとかしたいとうずうずしてしまうこと、自分の中で許せないことがでてきてそれが逆にマイナスの影響を及ぼすこと。やはりバランスが大切だな、と。You tubeで見かけるミニマリストとの方の家の完璧さを見ると、この方たちの生活はどれだけ幸せなのだろうか…と思ってしまいます。何事も行き過ぎるのはどうなのでしょうか、その人たちには当たり前なのかもしれませんが、やはり完璧すぎる人にはなぜだか魅力はないものです。結果として起こるバランスの取れたミニマリズム。それがよいですね。

しかしながら、人によっては物に囲まれているのが幸せだ、という人もいるはず。そういう人が無理にものを処分して自分を苦しめることは不要なはずです。ミニマリズムの考えに私は賛同しますが、それがすべての人に適用されるべきだとは思いません。

モノを買うこと、そういったことが重要ではない中で、そういったものに余分に考えたくない、そう考えると、自然とそれらに費やすお金もショッピングの時間も必然的に減りますし、それが結果としてお金がたまることにもつながる。余分なものが家や冷蔵庫に溜まらないために、目の行き届く範囲が広くなり、管理も容易となり食料も無駄にすることが減る。そして、自分にとって大切なことに時間とお金をかけて集中できる環境が自然と生まれる。そんなプラスの循環を感じています。

日本旅行記 其の1:相手にとっての相応しいものと自分にとってのそれとは違うもの / Travel in Japan : What tourists want to see and What I want to show are different

ロシア人の友人が年始の休暇に日本を訪れることになり、旅行のガイド役を務めるべく約5日間、一緒に彼らと過ごしてきて日本観光を楽しんできました。初日は皇居を訪れて偶然にも天皇陛下とその周辺の方々を見て、東京スカイツリータワーへ。こちらはすっかり時差ボケを感じ、彼らを待つ間に何度も頭がガクと崩れ落ちるのを経験しました…。翌日は横浜見学。ランドマークタワーの展望室から眺めた夕方の富士山の美しさに誰しもが目を奪われていました。私はみながカメラを構え、同じ顔をして同じ方向を眺めているその光景にすっかり目を奪われてしまいましたが。美しいものをみるとみんな幸せな顔をしています。

そしてその翌日は歌舞伎座を訪れて5時間通しで見た後、はじめてのうどんにトライ。確かにモスクワでは一般のお店でもそばが置いてありますが、うどんはほとんど見たことがありません。「私はうどんのほうが気に入ったわ」といってとても喜んでもらえました。そのあとはTeam LaboによるDigital Art museumで大はしゃぎ。実際に足の裏で床を感じ、実際の水にひざ下までひたりながらデジタルの鯉を追っかけてみたり。流れゆく光の中に身を置いて幻想的な空間に浸ってみたり。日本には世界に十分誇れるものがあることを体感してきました。3日目は浅草をのんびり散歩したあとに隅田川の遊覧船でお台場へ。フジテレビの展望台閉まる直前に何とか間に合い、ニューヨークよりもずっとずっと綺麗ではないかと思うくらいの日本の夜景の美しさに酔い浸りました。日本は何と美しいのでしょう。彼らに同行した最終日は、小田原から箱根までです。箱根湯本から旅館に向かう道中で圧倒的な存在感を見せる富士山を眺めては何度も止まって写真を撮影。昔の人が富士山をみて崇高の念を持ったことにも納得ができます。冬で空気が澄んでいることもあるのでしょうか、大変綺麗な富士山を眺めることができました。


約1年半ぶりに帰国した日本、色々と感じることがあった時間でした。そして、改めて日本の美しさ、すばらしさを感じる機会となりました。駐在を経験された方から何度となく聞く言葉は、いかに自分が自国の歴史、文化、日本の訪れるべき場所を知らない(出かけたことがない)かを駐在期間を通して知ったこと、帰国してからは積極的に自ら出かけるようになった、ということです。それを私自身も感じています。


さて、今回のテーマは自分がよかれと思ってやってあげたいこと、これはやるべきだという自分の思い。そして、こうであろう、という自分の中で予め創造する相手から期待する反応。一方でそれを提供される側の希望や反応の仕方に生じるギャップについてです。これを見せたい、これをトライしてもらいたい。そう思って実行してみたものの、あれっと思うことだってあります。


最後の別れ際に、私は仕事の都合上先にモスクワに戻る必要もあり、箱根を一緒に散策してから戻った旅館にてお別れをしました。最後の別れ際に「家までの帰り道でおなかがすいて倒れてしまうと心配だからこれ持って行って」、と渡してもらったのは私が小田原駅で買った日本の味、かまぼこ。みな一つだけ食べた後は食事のほとんどに手を付けずに残しており、逆にほとんどすべてをもらってしまいました。とってもおいしいものなのに気に入ってもらえなかったのだろうか、考えようによってはそんな風に感じてしまうかもしれません。

人はそれぞれ育った背景も嗜好も異なる。そんな中で自らの考える、日本の観光の在り方に執着してしまう危険。自分の中にある余計なエゴが出てきてしまい、相手の気持ち、旅行を台無しにしてしまう危険があるなあ、感じます。箱根湯本駅から宿まで乗ったタクシー運転手は大変サービス旺盛で、見どころのポイントごとに立ち止まって説明をしてくれます。写真スポットでは、ここは全員で写真を撮ったらいいんじゃないですか、撮りましょうか、と丁寧に聞いてくれます。「ここは400年前に実際に人が通っていた東海道だ」「このお玉ヶ池はねえ…」と言って、車を止めてこの池の名前の所以を話してくれます。わざわざ寄り道して観音菩薩像を見せてくれることまで配慮してくれました。後部座席に座るロシア人を振り返ると、苦笑いをしながら、小声で「…ねえ、大丈夫?私たちの今日の残りの予定をこなす時間が無くなってしまうのではないの…?」と苦笑いとともに聞いてきます。私の語学力が完全に伝わるほどに通訳できるわけでもなく、ロシア人旅行者も決して道中で見る光景に興味を示すわけではありません。


きっと本来であればロシア人旅行者の彼らが希望する優先事項を事前に理解した上で道中のスポットの立ち止まり具合を決めて運転手にお伝えしておくべきであったのかもしれません。丁寧に説明してくださる運転手に「大丈夫です、ここはパスしてください」というと、「そう…。」と何とも少し納得がゆかないような、寂しそうな様子です。また、一般的に言われる国民性であったり、食習慣の違いがあることから観光の仕方や時間の過ごし方があります。それも潜在的に自分の中でそれに沿って相手の行動を決めてしまう危険もあると思います。全く日本を知らないロシア人に対しては、「東京と大阪では言葉の違いがあって、大阪に出かけて関西の文化、言葉の違いも楽しむとよいですよ。」といっても無茶だと思われます。そもそも日本語すら知らない人に方言を説明してもわかるはずがありません。旅行前に一緒に食事をして日本について話す機会がありましたが、私が東京と大阪のこの言葉の違いを話したところ、「ロシアは北からチェチェンのある南、ウラジオストクの極東まで途方なく大きくてあらゆる人間がいる。言葉を理解し合えるといっても、そんな中でお互いを分かり合うのもやっと。それでいて日本のような小さな国で、言葉を全く分からないにも関わらず、わずかな旅行期間で方言の違いが分かるはずがないよなあ。」と娘を送り出すお父さんに笑われてしまいました。確かにそうですね。こんなやり取りから、相手が望むものはなにか?それに対して自分はどのように応えることができるのだろうか?自分の言動は潜在的に自分の気持ちを相手に押し付けてしまっていないだろうか?…そんな点を考える助けになると思いました。


さて、少なくとも、私が ― 私の勝手な思い込みであると言われればそれまでですが ― 感じるロシア人の一般的な常識は、朝が弱い、言い換えれば朝が遅いことを好む人が多い。私の中では、ホテルの朝食は朝のオープンしたばかりのビュッフェには大概日本人。日本人が食後のコーヒーを飲み終わって部屋に戻るころにようやくロシア人の宿泊客が現れる ー そんなイメージです。また、日本の旅行者はいくつかの名所を短い期間で見る計画を立てて、早めのペースで回ることがある。そもそもロシア法律で要求されているルールに(罰則規定はありませんが義務として定められています)1年の内に1度は14日間連続の休暇取得を求められているロシアと違い、一般的には1週間の休暇が最大の日本、それも同じ時期に(私が勤めている会社はそうですが、今はかなり多様化しているのでしょうか)。そんなこともあってか日本人の観光旅行者は少ない日程の中にぎっしりと予定を詰める傾向にあるのかもしれませんね。人によって異なるので、~人とはこうである、と一括りにしてはいけないことは分かっていますが、一般的にみられる傾向として感じていることを書いてみました。このように短い時間ではありましたが、この数日間で得た気づきもあり、日本を知るよい機会ともなり、大変有意義な年始を日本で過ごしてきました。

さて、早くも1月も間もなく終わり。休み明けも時差ボケに悩まされ、来季予算資料の取りまとめ作業に追われ、従業員が辞めてゆき、輸入商品への取得義務である認証EACの対応に追われ…よく言えば、まったく飽きる暇のないロシアで仕事に明け暮れる毎日です。

とある土曜日に出会ったモスクワのタクシードライバーとの深い会話 / Conversation with a Taxi driver on Saturday in Moscow

この前の 日曜日に利用したタクシーにて、出会った運転手との会話が非常に深いテーマとなりました。なかなかこんなことを語り合える人に出会えることは少ないのではないかと思って、記録に留めておくべく会話したことを思いめぐらしながら書いています。

今年の冬は、ようやく先週からマイナス気温が続く冬らしい光景になったばかりで雪もまったく降っていない、不思議な冬。「今のモスクワの冬は、誰にも予想がつかないよ。」との話をよく耳にすることが多い気がします。

さて、運転手は40代半ばくらいだろうか、私が携帯のアプリで地図上で指定した住所の位置が間違ってしまい、電話で謝りつつ正しい住所へ来てもらいました。

「ごめんなさい、間違えてしまって。」「なになに、まったく問題ない、大丈夫だ」- そして出発。

走り出して数分くらいだろうか、「今日はよい天気ですね、ようやく冬らしくなりました。」という話をすると、少し沈黙が続きます。あれ?どうもさっきは陽気な感じで話を容易に始められそうだな、と思ったのだけれど若干とっつきにくい様子だろうか。ー すると、「雪があればもっとよいんだがね。雪があれば暖かく感じるんだ」という回答が帰ってきました。

そのうち、「モスクワはどうですか、私は長いことモスクワで仕事していて変化をみていますが、モスクワは良くなったと思いますか?」と尋ねると、(大概は、街はきれいになっても生活は一向によくならない、という文句を言う運転手がほとんどなのですが)

「街は良くなっているけれども、ガソリンも地下鉄もバスもどれもこれもが値上がりしている気がするよ。生活コストが高くつくようになってしまった。・・・ただし、すべてはその人の見方次第。何事も前向きな気持ちで物事に接すれば前向きな結果が返ってくるし、逆に何でも批判的に接しているとそれが自分に返ってくるんだ。」ー なかなかこんな前向きな回答を発言できる人はそういないのではないでしょうか。

「私たち日本人は、どうも我慢強いのだけれども、ストレスを内側に溜め込んでしまう傾向があるように感じています。その一方で、ロシア人は外に怒りを発散することが自然で、それだけ上手にストレスを外に発散できているのではないでしょうか?この点、私たちも見倣う必要があるのかもしれない。」と言うと、

「確かに我慢しすぎるのはよくないけれど、それを周りに発散してその人はOK。でもそれによって生じる周りの問題はどうだ?わめいて、それによって君の怒りを ぶつけられた人がまた次の人に向かって同じことをする。それが回りまわって自分に返ってくるんじゃないか?同じ物事に我々が出会ったとして、その状況は変わらないとしても、自分の今の行動次第でその先に起こる将来を変えることができるんだ。あなたが怒りをぶつけたい。それでも、それを自分のところでそのネガティブな行動をストップさせる。そうすると、それによって次の人が招いていたであろう行動をストップさせることができる。それによって将来を変えることができたことになるんだ。」 ― この言葉は深いです。本当にその通りだと思います。

「本当にそうですね、そして、頭の中で分かっていてもどれだけそれを行動に移すことが難しいことか…。深いです。皆がそのように行動していれば世の中はきっと良くなるに違いありませんよね。」そんなことが車の中での一貫したテーマでした。

今自分が行動を変えることで、その先で待ち受ける結果を変えることができる。自分の行動を受ける相手が私自身の行動によって行動を変えてくれる。つまり私が変えることができる。自分自身がどのように行動するか。

「確かに深いテーマだけど、いたってシンプルだろう?」

ほんとにそう。いたってシンプル。けれども、いかにこのシンプルなことを自分の行動に移すことが難しいことか、それを私自身も含めて毎日身の回りを観察する中で感じています。

聞いてみると、27年間、大学の公開講座に通って講義を聞いており、自分自身で聞いたことを振り返って熟考しているようです。

ロシアでのストレスをユーモアの心で吹き飛ばそう / Let’s release stress from work and life in Russia with sense of humor

ロシアに住んでいると、仕事も生活も日本のようにはいかずストレスが溜まることが多いのではないでしょうか。一方の日本では、異なる種類のストレスがあるために総合的にみると同じなのかもしれませんが…。

日本人はアジア人であり、黄色人種なんだ、ということをロシアで実感します。ファッション雑誌などの影響を受けて育った我々は、色白かそうではないか、眼が大きいか小さいか、二重か一重か、背が高いか低いか、顔が小さいか小さくないか…そんなことに自然と意識を向けてしまう傾向があるように感じていますが、自分の生まれた民族性を否定してしまう考え方を同じ日本人から聞くと首をかしげてしまいます。

ロシアでは、私たちは中央アジア人と間違われる可能性があり、その中央アジア人は、一般的にロシア人からよく思われていない傾向があるために友人からも時に「嫌なことにあってない?大丈夫?」と心配されます。実際にあるか、というと、露骨に嫌なことはないものの、場面場面を振り返ってみると小さなレベルでは気にならない程度ですが、それなりに出会っているのかもしれません。

最近思うのは、”自分が外国人で、アジア人だからこんなことをされるんだ、なにくそ。”という考えは誤りだな、ということ。モスクワに住むのはほとんどがロシア人と周辺国の人々。その中にわずかな比率で私たち日本人がいる。ここに自分がいてもいなくても日常的に発生する嫌なことが起こり、たまたまその場面に出くわした時に「差別だ!」と思うのか、「こんなことが起こるんだな、それにぶつかってしまっただけ、まぁ、仕方ないや」と思えるか。

今日、食料品店のレジの列に並んでました。2つのレジが動いています。4,5人が列に並んでいます。と、そこへやってきた店員が3つ目のレジを開き、「どうぞ」と列に向かって声をかけます。すると、その3つ目のレジのすぐ前に立っていた女性が、「いいですか?」と言って、籠を置き会計が始まりました。その女性の前に並んでいたおばあちゃんはすごい怪訝な顔でその様子を見ています。本来であればそのおばあちゃんが先にレジで会計を開始できるはずなのに…。レジの店員も本来なら「いや、列の先頭に並んでいた方からお願いします」と言えばよいものを。こんなちょっとした嫌なことは日常茶飯事です。差別どころか、中央アジア人ではないだろうと服装などから察してか、逆に優先してくれる方も時として出会います。嫌なことだけではなく、良い出来事も記憶に留めておきたいものです。

自転車で通勤していたとある朝。前にいた交通警察官に待ったをかけられて自転車をストップ、罰金を払うことに。

「ドキュメント(=パスポートを見せなさい)。」

「(今走っているところは)車道なので自転車で走ってはだめだ。歩道を走らないといかん。」

「いや、歩道は歩行者のためだと思って、あえて車道を走っているんだ。」

「いや、あかん。Zberbank(ロシアの最大銀行)で罰金250RUBを払ってもらうから。今書類を準備するから待っていなさい。」

「今日は勘弁してくださいよ…知らなかったんです。次からしませんから!」

「いや、だめだ。」

「250RUB。ディスカウント付きの250RUBですよね?」

「そうだ、お前よく知っているな。 ディスカウント付きの250RUB だ。」

「以前にも罰金をくらったことがあるんです…。」

「20日以内に支払えば250RUB、それを超えてから払ったら500RUBだ。これでも、君によくしてやってるんだ、本来自転車の場合の罰金は800RUB!それのディスカウントでも400RUBかかるのに、そこを250RUBにしてあげてるんだからありがたく思いなさい。」

「…。え~ほんまですか~…まあ分かりましたよ、ありがとうございます。」

罰金でディスカウント付。この表現が思わず笑ってしまいます。以前にも横断歩道ではない場所の車道を横断したところ、警察に止められて罰金を支払ったことがありました。その時にも”ディスカウント付き”と言われたのを思い出しました。

朝の忙しい時間に5分ほど時間を取られてしまい、かつ罰金ということでイライラしてしまうものですが、こういう時に取り乱しても何もよいことはなく。笑顔で笑いながら会話を楽しめたのは、我ながら成長したなあ…と。

「ところで、お前はどこで働いているんだ?ん、日系企業?もし秘密ではなければ給料はいくらぐらいだ?教えてくれ。」

「いや~モスクワの平均くらいですよ。」なんて言って曖昧に答えました。いやあ、一般的にこの場で給料はいくらだ?なんて聞かないでしょう…。

「どうも~、さようなら。」「お~またな~」という雰囲気で、それでもこちらはそのまましばらく車道を走ってオフィスに向かいました。

ロシアでは苦しいこともユーモアで笑い飛ばす。そんな心構えでいることはかなり重要です。笑いのネタになって笑いを提供してあげる。それができるようになれば相当無敵のロシア駐在員です。そんな無敵となるべく心の沸点と闘う毎日。

カティンの森を訪れて人間について考えた… / Thinking of the human beings when visiting Katin forest

カティンの森事件(約22,000人ほど ― 正確な数字は不明 ― のポーランド人捕虜がソヴィエト政府によって殺害され、この場所に埋められた) ― 誰もが学生時代の世界史授業で学んだことがあるはずです。11月3日(日曜日)にモスクワからカティンの森へ日帰りで出かけてきました。まさか学生時代には自らここに行けることになるとは想像もしなかった…。まずモスクワから西へ約400 kmに位置するスモレンスクへ。ベラルーシ国境へはわずか80 kmの距離です。モスクワからここまで電車で快速列車で約4時間。さらにスモレンスク中心から西へ約20kmの位置にメモリアル・カティンがあります。

わずか23RUBの乗り合いタクシーに乗って猛スピードで走りぬけて20分も経たなかったでしょうか、あっという間に終着駅に到着しました。そこは人通りがなければ廃墟といっても信じてしまうような場所…このような場所に人が住んでいるのか…と。乗り合わせたタクシーは目的地の手前までしか行かないルートでしたので、そこから徒歩で30分くらいかけてうっそうと白樺が生い茂った森へ徐々に到着しました。

正面のメインゲートではなく携帯電話で示された裏通りに入り、誰もいない一本道を一人でしばらく歩いてゆきます。天気も悪く、風に揺られた高々とそびえたつ白樺がときどき、ギギギギギ…ともウウウウウとも聞こえるような音を不気味に立てています。ガサガサ、と左手で音が急にし振り向くと犬が。一気に遠くに走ってゆきます。視線を上げるとその先には一人の年配の男性が動きもせずにずっとこちらを向いているのが分かります。犬と散歩中のようでした。なぜこんなところに人が…いや、相手も同じことを考えているだろうか…。そして相手は犬の動きに合わせて再び前を向き、こちらに背を向けて歩き出しました。こういうのは苦手ですね…誰もいない中を二人の人間がお互いの距離感を意識しながら歩調を合わせる。どんなにゆっくり歩こうにも相手のほうが遅いため、その距離が縮まります。もうこれ以上無言ではいられない、静寂の中で何も言わずに素通りはできない。そこで「こんにちは」と声をかけると、最初は無表情ながらも会話が始まり、こちらがなぜこの道を歩いているのかを説明すると、「道を教えてあげるから途中まで一緒に来なさい」と、途中までガイドしていただけることになりました。そして当時の歴史を語ってくれました。ロシアの人にとってはあまり触れたくない負の歴史でしょうか。こちらから何か感想を言うわけでもなくずっとその方のお話を聞いていました。「Это наша история…(これは我々の歴史だからな…)」と感慨深く発言していたのが印象深く残っています。この場所で約80年間に凄惨な事件が起こっていたのか、当時の状況をこの森はずっと見ていたのだろうか…ただただ考えてしまいました。まして毎日のようにモスクワの煌びやかな世界だけを見て生活していると、生きることの根本的な何か…を忘れてしまいます。犬は楽しそうに我々の周りを駆け回っています。男性に話しかけるやいなや、人懐っこく「おいおい、その人の邪魔するんじゃないぞ」というご主人の声をなんのその、こちらにぶつかってきました。なんだかんだと気が付けば49年もここに住んでいる。サンクトペテルブルクから100km北にいった町で生まれ、ここには建設労働者としてやってきてすっかり土地の人になってしまった。静かで空気もよい、この場所が大変気に入っているよ。とのことでした。短い時間の中の会話を楽しんでから、私の目的としていた入り口にたどり着き、そこで握手をしてお別れ。

敷地の中にはわずかな訪問者だけで、時折この場所を一人で貸し切っているのではと錯覚するような時間も何度かありました。そのおかげで静寂の中で一層、「人間って一体…なんなのだろう?」そう考える時間が生まれました。カトリック、正教会、ユダヤ教、イスラム教のエンブレムが並ぶ碑を見て考えてしまう、宗教って一体なんだろう。いずれも同じ神様を崇拝しているはずなのになぜ?疑問は消えません。犠牲となった方の中には正教の祭司と思われる人の写真もありました。神という名のもとでお互いに殺し合い、ただ政治のために善人が犠牲になったのだ、と。ここまで歴史を見ていても、ではなぜこのようなことが起こるのか?人は考えることを止めてしまっている気がします。どのように考えているのか不思議なので、ロシア人に尋ねてみるのですが、自分なりの答えを見つけて、それ以上深く考えないようにしている、そんな気がします。ロシア人を観察していても、神というものが形骸化している。神を信じているとは言っても、その存在の実態を感じない中で、教会に行きあの荘厳な雰囲気に酔っている…。そして、生活も国の経済も一向によくならない。毎日をただ楽しもう、と。

時々、人というのは生きていることのほうがずっとつらいこともある、と感じることも時にあります。病んでいる、というわけではなく、スモレンスクの町中でも苦しそうな顔をしてたどたどしく歩くおばあちゃん、足を引きずりながら歩いているおじいちゃんの顔を見てその思いが強まりました。それでも当時何も知らずにこの場所で殺害された人たちのことを思うと、その無念さは想像を超えるものがあります。今日、この場を歩き、一つ一つの見る場所を訪れ、足を止めて観察する中で、命の大切さについて考えさせられる時間となりました。ロシア人にとっては自国の負の歴史を目のあたりにする場ですが、このような歴史教育がどれだけ大切か考えさせられます。子供を連れて歩いている親子連れや若いカップルの姿。そんな人たちはどんなことを考えてこの場所を跡にしていったのでしょうか…。定期的にこのような場所を訪れることで当時のことを想像し、自分自身の今のあり方を客観的に見つめてみる。そんな時間が貴重です。

ロンドンとモスクワを見て感じた両者の違い / The difference from Moscow that I felt in London while having a walk in London

老人と老犬 ― 火曜日の朝、Hyde parkにて。 どちらが主人なのか分からないほど老犬の堂々たるくつろぎぶりが微笑ましい光景でした。

イギリスのロンドンで数日過ごしてきました。到着した土曜日、ホテルのテレビをつけると、まさに議会はBrexitの議論の真っ最中。週末に議会が開かれたのは1982年のフォークランド紛争以来だそうです。EU離脱の採決を延ばす、いや延ばさないの議論が繰り広げられている様子が。イギリスで議会制度がイギリスで生まれ、そしてイギリスで崩壊するのでは。混沌してゆく世の中。人(国・議会)が人々(一般大衆)を導いてゆくことの難しさを感じざるをえません。

さて、ロンドンの街は多くの観光客のリラックスした、楽しそうな様子もあって、そんなBrexitの混沌はなんのその。大いに盛り上がっていました。街を歩いていて感じたモスクワとの違いを書いてみました。

直感的に分かりやすい標識

飛行機で到着してからパスポートコントロールまで歩く途上にて。今自分の歩いている場所がどの段階にいるのかを直感的に示してくれています。それにしても、飛行機を降りて狭いタラップを歩いてゆくと渋滞。なんだろうと思うと、空港警察が4人ほど立ちはだかり、乗客一人ひとりのパスポートチェックしていました。以前にはこんなことは無かったので驚きました。

ロンドンに来て毎回感じるのは、直感的に分かりやすい標識の表示方法。パッと見てパッとどこにゆけばよいのかが分かりやすくなっている点。その色使い。これらの要素を自分の作成する仕事のプレゼンテーションにも参考となっています。どのようなコンセプトが背景にあるのか分かりませんが、よく考えられているなぁ、と素直に尊敬しています。街中の広告にしても、このような空港の標識にしてもおそらく多くのお金がコンサルティング会社やデザイナーに支払われているはず。その仕事の結果をこうして無料で見ることができるのですから、くまなく観察してその色使いやデザインのコツを真似るべき。なんとお得な題材が街中に広がっているでしょう、素晴らしい。

街中の公園の構造

私はモスクワの公園が大好きです。モスクワ自体が大きいこともあるのでしょうが、首都モスクワの中には大きな公園が点在しており、街中に自然を感じます。ロンドンは日本の東京に近いでしょうか、大都市の一角に大きな公園が寄せられて存在している、そんな印象です。

そして、このHyde parkでは人間中心に考えられて整備されたまっすぐな道、人が自然をコントロールしている。木々の配置もなんだか人工的なものを感じています。一方のモスクワでは白樺などが豊かに広がる森の中をくねくねと曲がって続く散歩コース。どちらかというと、自然のありのままを生かしつつ、人のための道を後から整備している、そんな気がしています。

公園の鳥たち。さすがにこれはモスクワにはありません。こんな光景を見ていると、日ごろのストレス、嫌な気持ちも随分と和らぎますね。Hyde parkではリスをよくみかけますが、リスはモスクワの公園にも住んでいますよ。

写真に写っていませんが、池の周りを掃除するゆっくりと移動する車に追い立てられるように鳥たちが一斉移動しているところです。

歩行者向けに注意を促す道路の表示

初めて見たとき、このアイディアには惚れました。歩行者信号が青になったからといって、左右を見ずに一歩を踏み出すことはモスクワでは絶対にやってはいけません。決して高い頻度ではありませんが、すごい勢いで車が突っ込んでゆくこともあります。赤信号でも信号待ちが嫌なのか強引に信号無視している車も見かけることも。中国やインドネシアと比べればマナーは良いほうだ、という話を聞きますが、モスクワでは、いずれにせよ歩行者信号が青になった場合にはきちんと車が来ていないことを確認した上で一歩を踏み出しましょう。

工事現場の標識

こんな案内あったら思わず立ち止まってしまいます。工事現場を魅力的に、安心に見せるためにとても素敵なアイディアではないでしょうか。サイトを訪れてみると、子供たちに工事現場の危険や、建築の面白さを伝えようとしている、そんなサイトのようです。この工事現場では花の鉢植えも飾っていて、殺風景になりがちな工事現場に彩を添えていました。こんなちょっとした一ひねりを加えることで印象も変わるもの。勉強になりました。

Ivor Goodsite

地下鉄の駅と観光名所を示した地図

こんな地図はモスクワの地下鉄にはありません。率直に言って、決して分かりやすいとは思いませんが、こんな地図を掲示しているアイディアは素晴らしいですね。

施設の防災に関するレベルの高さ

2018年3月25日にシベリアに位置する都市ケメロヴォのショッピングセンターで発生した火災で64 名の死亡者を出し、そのうち41人が幼い子供たちであった事件。これ以降、ロシア各地で防災設備の監査が入り、ショッピングセンター、ビジネスセンターを始めとした設備の防災対策強化が高まっています。

https://www.bbc.com/news/world-europe-43552165

非常口ドアには内側からレバーを押し下げると容易に開くことができるタイプを設置することや、オフィスのドアは必ず内側から外側に開くタイプにすること(火災時には内側から多くの人が外に逃げるため、内側に開くタイプはその動きに反するため。押して広げられるようにしておくこと)、非常口へ通じる通路には不要なものを置かずに一定の間隔を確保しておくこと。ガラスなどは一定の時間、防火性のある材質を用いるべきことなど・・・各社は対策を求められています。

ロンドンに来ると、至るところでこのような写真のマークを扉の上に目にします。イギリスでは防火対策のルール徹底がどれほどなのか、私には分かりませんが管理部門を担う私としては大変興味があるところです。モスクワでもショッピングモールなどに出かけて避難経路図を見つけると、立ち止まって自社の地図と比べてみたり。そんな違ったショッピングモールの歩き方もお勧めです。

本や新聞を読んでいる乗客の数

モスクワの地下鉄に乗っていると、本を開いている人をほとんど見かけません。単に数が多くてなかなか目に付かないだけかもしれませんが・・・。大概携帯電話を操作している人が主です。読書と言えば携帯電話で電子書籍を呼んでいる人が多いのかもしれません。ロンドンでは新聞や本を読んでいる人々をよく見かけました。携帯電話が普及しているとはいえども、本を開いて読むことは目に優しい気がします。なお、これも思い込みかもしれませんが、最近出かけたサンクトペテルブルクでも街中や地下鉄で本を開いている人をモスクワ以上に見かけることが多かった印象です。

顧客満足度の情報提供

これはモスクワの空港でも頑張っています。顧客サービスの向上を目指しているのはどこでも同じですね。ロンドンの空港では顧客満足度情報のグラフがディスプレイに表示されていました。

サンクトペテルブルクでタクシードライバーと語る。 / Talking with taxi driver in Saint Petersburg

サンクトペテルブルク市内の薬局にて。番号札順に並んで窓口で用件を済ませます。参加したビジネスフォーラムはあまりにも会場がうるさいために二日目は耳栓を購入して会場へ。正解でした。

サンクトペテルブルクで、モスクワに戻るためにホテルから空港へ向かうタクシーに乗ると、それは珍しく女性ドライバー。決して豊かそうには見えないけれど、知性が伝わってくる方で、生まれも育ちもサンクトペテルブルク。話を聞いていると自分の街を誇らしげに思っていることが話からよく伝わってきた。

聞いた話をそのまま書き出しています。私自身がその一つ一つに感じる点はあえて記載していません。中には事実とは異なる点もあるかもしれないことを予めお伝えさせていただきます。

「モスクワと比べたらペテルブルクは田舎よ。私は街の中心に住んでいるけれども、静か。街の人も親切で知性があって。うるさくて、攻撃的な人が多いモスクワとは大違い」

サンクトペテルブルクの街の中心を歩いていて、すぐにモスクワとの違いに気が付くのが建物の高さ。いずれも低く、その統一感と歴史を感じる建物のデザインが一層街を綺麗に際立たせているようだ。そんな建物も、その多くが第二次世界大戦後に再建されたということだったが、決して古いわけではないはずなのに、重厚感と歴史を感じさせる様子は立派だった・・・スターリン建築(そのあたりは他に多くの方が記載されていらっしゃるはずなので割愛)の建物が空港に至る道の両側にそびえたち、その脇には高層マンションが建築中でした。

「今の建築中のマンションは、スターリン建築に似せて建設されているけれども、質はひどい」らしい。ロシア独特のアパートのデザイン、私は好きです。なんでこんな発想になるんだろう・・・と思うようなデザイン。

そのうち、会話は今の世の中、生活への不満。

「昔は、見知らぬ人でも無償で泊めてあげる文化があった。今では一泊するにも2,000~2,500RUBもとるらしいけれど、そんな高いお金を払うなんて信じられない」

「タクシードライバーとして働いているけれども、ドライバーも街の歴史をきちんと知っていて、乗客にきちんと説明できるようになるべきだ」と言って、通りの真ん中に立った立派なモニュメントを見て、「これは戦勝記念30周年の時に設置されたモニュメント。今ではもう戦勝から75年にもなるけれど、当時にどうやってこのモニュメントが建てられたか、小学生のころのこと、よく覚えているわ」と。

「今ではタジキスタン、ウズベキスタン、キルギス・・・そんなところから街のことなんか知らず、ただお金のためだけにやってきたドライバーが増えている。彼らは安い金額で仕事を私たちから奪い、車の運転免許だって違法に取得し、車で人をはねたら捕まらないようにそのまま自分の国に帰るだけ。」

「彼らは、ロシア人は働かないから、というけれど、そんなことない。ソヴィエト時代には全員働かなければならなかった、働かないことは法律違反であったので工場などで、近くにすむご近所さんと同じ工場で働いていたの」

日本人である私にとって関心のあるテーマは、当時と今の争いごととキリスト教。

なぜナチスとロシアは同じ神様を信じているはずなのに戦ったのか、なぜロシアとウクライナは同じ神様を信じているはずなのに領土をめぐってお互いにいがみあっているのか?正教会同士ももめているのか?

「宗教と政治はまったく別だ」という。「クリミアも元々はロシアの領土であって、正式にウクライナにクリミアを与えたのではない。」

「私は宗教も決して綺麗なものではないと思う。司祭も信じることはできないし。(ロシア正教会のモスクワ総主教)キリル氏は立派な家を持ち、会社も経営していて銀行も3つも持っている。立派なビジネスマンだ!」

「私も神を信じているけれども、教会には出かけず、毎日神様に「ありがとうございます」と日々の生活を自分のなかで感謝しています」とのことでした。

タクシードライバーと会話していて、その内容の多くは、こんなテーマが続きます。私が個人的に関心のあるテーマであるので、質問を投げかけて、後はドライバーの話すに任せているだけなのかもしれませんが・・・。人が日頃生きている中で感じている世の中への疑問、考えを聞くことほど興味深いことはなかなかありません。

この会話の中には、感情の部分も強くて筋道立った論理が成立しているとも思えませんが、一般市民の多くが心の底で感じている気持ちが現れているのではないか、そう考えながら空港に到着しました。

「それでもやっぱりサンクトペテルブルクが好きだわ」

わずか数日の滞在でしたが、綺麗な紅葉の風景と、綺麗な街の光景をすっかり楽しみました。

休日に皆でせっせとペリメニを作る / Being busy to prepare pelimeni all together

日曜日、ロシア人の友人宅でせっせとペリメニを手作りしました。ペリメニは水餃子のようなイメージ。もともとはシベリア地方発祥だそうで、昔は(今も?)シベリアでは冬になると多くの家庭でペリメニを作ってはそのまま外に置いておき、自然の寒さで冷凍保存していたそうな。外は冷凍庫よりも寒いであろうシベリアならではの発想ですね。そして、皆で協力し合って作り、その過程で色々な困難にもぶつかるのですが、最後は皆で仲良くご馳走になる。お店で買うペリメニなんかよりずっと美味しい。また一つ、ロシアでの良い思い出が積み重なりました。

サワークリーム(スメタナ)を付けてご馳走になります。

今年初のダーチャにて束の間の休息をとる。/ Taking a momentary rest in Dacha.

モスクワ中心の住まいから地下鉄、電車を乗り継いで約2時間半。この日曜日は友人のダーチャでゆっくり過ごしてきました。ダーチャについては多くのウェブサイトがその良さを説明しているので説明の必要はありません。

ただただ、本当に癒されます。

私はただのゲストですので、実際にダーチャを所有し建屋や敷地を整備する時間とお金は一体どれだけかかるのか…想像ができませんが、モスクワに住んで日々忙しく過ごしていると、どうしてこれだけダーチャの文化がモスクワの人々に根差しているのかがよく理解できます。

わずか一日でしたが、帰りの電車に乗り込む21時半まで、とてもゆったりとした日曜日を過ごすことができました。あとは写真にこの一日を語ってもらいます。

Электричкаと呼ばれる重々しいロシアの郊外列車で目的の駅に到着。人の流れ乗って通りへ向かいます。
ビニールハウスの家庭菜園。トマトが生っていました。
早速お昼からバーベキューです。トマト、ナス、パプリカをしっかり火で焦がします。あとで水につけて焦げを取り出すと中はしっかりジューシーな果肉があつあつの状態となっていました。これをしっかり混ぜてお肉と一緒にご馳走になりました。
こんがりと焼けて、ほくほくのお肉たち。
青空のもと、心地よい風を浴びながら、今朝森で採ってきたというキノコのスープ、モスクワ市内から持参してきたウィスキーとワインと一緒にランチの時間です。
ご近所のダーチャ。見るからに古い木造建ての家屋ですが、とても大事に手入れがされている様子が感じられました。このお宅のお庭にお邪魔させていただき…
洋梨を広い集め…
小麦粉、砂糖を混ぜ合わせたものと順に重ね合わせてオーブンへ。すっかり美味しそうにこんがりと焼け上がりました。調理方法はとてもシンプル。そして、とてもおいしく。
しばらくゆっくりした後は、森へ散歩へ。
こんな立派なキノコたちが森の至るところにすくすくと生えていました。森の地面の一面にはっている緑の草たちは非常に柔らかく、フワフワとしていてまるでカーペットのよう。
森から出て、ダーチャに戻る頃にはこんなにきれいな夕日が。目でみる夕日はもっともっと大きく見えたのですが、写真ではどうしてもその雄大さは伝わらないことが残念です。