モスクワは本当のロシアじゃない / ”Moscow is not real Russia”

「モスクワは本当のロシアではない。」ロシア人と会話していてモスクワのことを語ると大概このフレーズを耳にします。恐らく、「モスクワは本当のロシアではない」って本当?と尋ねると大半のロシア人が頷くはずです。駐在期間の間、休暇になると多くの駐在員の選択肢は、日本食の買い出しも兼ねて日本に帰国する、あるいは距離が近い西欧や、海のある南の地域に出かける、そのいずれかがほとんどであったように思えます。ロシアとは所縁の無かった日本人がモスクワに来ると、それはもうハードシップの高さを訴えると思いますが、お金さえあれば基本的には何不自由なく生活ができて、他人には全く笑顔を見せないと思われていたロシア人も今では笑顔で接客してくれる。街の中でも嫌な思いをすることがほとんどない(むしろ、中央アジアから来ている同じアジア人が露骨に差別されている様子を何度も目にしました)。道を尋ねても特に嫌なこともなく教えてくれる。(逆に、明らかにロシア人ではないこちらに道を尋ねてくるロシア人も何度か遭遇しました。地方からやってきたロシア人なのでしょう。ロシア人にモスクワの道や地下鉄を教えてあげる。何だか不思議な気分でした)ずっとモスクワは住みやすくなったと思います。ただ、ロシア語がどうしても必要となり英語が必要な場面は私はソビエト時代の大変さを知らないので、ソ連・ロシアと長年同じ畑を歩んできた報道、商社マンのようなビジネスマンの方々が持っているであろう数々の面白愉快な話は残念ながら語ることはできません。大学時代に教授がソ連時代の小話を語ってくれたのを一つ覚えているのは除雪車の話。大通りを除雪車が道端の雪を除雪していたそうです、ゆっくり車が動きながらかき集めた雪を後ろに吐き出しているのですが、その吐き出した雪が除雪車が通った後の除雪した場所に降り注いでいるので、結局その除雪車が通った後は再び雪が積もったままになっていた、という話。これがソヴィエトだ。なんて面白く語ってくれば話を覚えています。多少話に尾ひれが付いているかもしれませんが、何だか納得してしまいました。

混沌とはかけ離れた、街も綺麗で国もロシアに比べれば整っているであろうイギリスやドイツ、日本に憧れるロシア人もいれば、「ドイツに行ったけれど、あんなに(何もなくて)つまらない国には住めたもんじゃない!」というロシア人もいる。かつてナチスとの市街戦を繰り広げたヴォルゴグラード(当時はスターリングラード)を訪れた時には、穴だらけの車道がありタクシーも前方要注意。「ここではまだ戦争が続いていて道路が穴だらけなんだ、ハハハ!」と陽気な運転手。自分の街を愛している人でした。なんだかんだロシアのことを悪く言うロシア人がいても、やっぱり自分の祖国を愛している。程度の差はあれどもその愛を、身の回りのロシア人から感じたロシア生活でした。

ロシア生活の間には本当に貴重な旅行ができました。コロナウィルスが拡大して外出規制となる直前までに出かけたモスクワ近郊への小旅行ではモスクワとは違うロシアの別の顔を見ることができました。一生残る大切な思い出です。それ以外にも、ロシアが併合した後のクリミア。空港のかつてのパスポートコントロールがただの無人のボックスとなり、昔は列をなした場所を何も無いかのように通り過ぎて空港をあとにしました。かつては町が完全に崩壊した場所が見事に復興しヨーロッパ最大級の美しいモスクが立っているチェチェン共和国のグロズヌイ。ロシアとの衝突が続き、路上には戦車が並ぶ道路を進んで向かったウクライナのオデッサ。2014年のウクライナ騒乱で数多くの人が無くなったキエフの独立広場、未承認国家である沿ドニエストル共和国やアブハジア共和国、チェルノブイリ原発事故で誰も住まなくなった町へのツアーなどなど。ロシアには中央部には広大な世界遺産の大自然が広がっていますし、極東地域には世界最低気温を記録したサハ共和国の首都ヤクーツク、美しい自然、美しい富士山のような山を構えるカムチャッカ半島。まだまだ出かけたことの無いロシアの魅力がまだまだ残っています。

日本語でロシアの一般生活の様子を探そうとするとリソースに限られると思います。一方でロシア語のサイトとなると検索のハードルが上がります。英語の勉強も兼ねて、英語で紹介されているロシア紹介サイトを訪問することをお勧めします。

偶然見つけた極東に住むこの女性のサイト。”Yeah Russia”

https://www.youtube.com/channel/UCWf43GShTqMDdJN9pICYd2Q

モスクワとは全く異なる極東の街の様子を見ることができます。モスクワを一歩離れると、モスクワ近郊でもこのような風景が車窓に広がります。極東だからこんな様子、ではなくてモスクワとそれ以外の町の落差を見る上でもとても参考になります。

彼女のページでは、他にもお勧めのYoutubeページが紹介されていました。

例えば、こんな以下のページ。”Different Russia “

https://www.youtube.com/channel/UCFFG4euAS7ZoAUYJFQETouA

モスクワの様子やモスクワ近郊での生活を実感することができます。上記のサイトと比較すると日常生活を紹介する点ではテーマが近いように思えますが、また違った都会の雰囲気を存分に感じることができるビデオがたくさん紹介されています。

ロシア人も日本人も、みんな人間、同じ仲間。 / Russians and Japanese are all human beings, the same companions.

日本に帰国すると、モスクワでの駐在生活では上司として部下のロシア人スタッフに言いたいことを言い放題であった身分も、日本では一スタッフの身分。同僚のことをおもうのだったらなぜ言えないの?友達でしょ?といっていた自分がいるけれども実際には難しい。上司だったら言えるのだろうか、いや、そうとも限らない。日頃から言えるだけの関係であったり、”言える”という能力も持ち合わせていないといけない。少なくとも、指導できる正当な立場にあるのは確かだけれども。年齢を重ねれば重ねるほどに周りはこちらについて思っていることを言わなくなる。近頃は、ますます大切なことだなぁ、と感じることは、常にもう一人の自分を少し離れた所に置いて自分自身を客観的に見つめること。すぐ傍にもう一人の自分がいて、その状況での自らの振る舞いについて観察する — 単なる自己中心的な言動になっていないだろうか?今の状況を良い方向に向かうためには何ができるのか、すべきなのか?— ことが重要だな、と思っています。多くの人が心の中で思っていることを伝えてくれないわけですから自分で感じるしかないのでは…

そういえば、ロシア人スタッフもお昼を食べたり、何気ない生活の話をするときには大いに盛り上がって仲良くしていたけれども、いざ仕事のことで正すべき振る舞いについては、上司である自分のところに来て「あれは良くないと思う、仕事では困ってるんです、何とかしてもらえないでしょうか…」なんてことがあったな、と思い出します。

日本に戻ってすでに半年以上が経ちますが、思うことがあります。”ロシアはYes、Noがはっきりしていて相手の考えていることが分かりやすい、その一方で日本では人が何を思っているのか分からないこと多くて悩んでしまう” ― 「ロシアと日本の違いで感じることは何?」とロシア人から聞かれるときには、こんな風にロシアと日本を表現していました。この傾向は今でも否定しませんが、例えば、上記のように職場で感じるような同僚へ考えを伝えるのか、伝えないのか?そんな点になるとロシアも日本もほとんど変わらないのではないだろうか、ということ。そして、日本では、会話の中で感じる微妙な緊張感、使う言葉のちょっとした違いから感じるバチバチとした雰囲気。声のトーン。そんな本当にちょっとしたところからお互いに何を考えているのかを推測できます。だからこそお互いに言わなくても、お互いが見えない会話が成立している。それを日本語文化の中で育ってきた私たちは瞬時に感じます。

一方、ロシア語で同じ会話が繰り広げられている場合には激しい応酬になることも。例:「サーシャ、何でこのディーラーへの出荷先住所が登録されているところと違うって言わなかったの!信じられない!」「いや、言ったじゃないか?」「いや、聞いてない!これでもうXX回目よ!」こんな大きな声が聞こえてくると、明らかにトラブルがあって、両者が自分の正しさを主張し合っていて、これは問題だ、と。そこまではロシア語が分からずとも感じとれそうです。しかし、そのトラブルの主要な原因は何なのか?お互いに何か反省すべきところがあるのでは?きっと何かがあるはず。(オフィスで生じる問題には、大概どちらかが100%悪いというものよりも、お互いの意思の疎通の問題や情報共有不足、指示の曖昧さ、そんな双方に原因がある理由がほとんどを占めている気がしています。)自分の何が足りなかったのか?どうすればよかったのだろう、改めてほしいのだろう?そんな点になると、なかなか本質的な議論にまで発展する機会はなかったような気がします。本人たちの上司であるマネジャーに話しても「それは別に大したことではない、彼らの性格もあって言い合いになっているように見えるけれど、よくあることなので」と深刻に捉えてはいませんでした。日本のオフィスで私が見かける光景とは違い、はっきりとした言い合いになるほうが、本人たちも周りの人たちも起きている問題や、当人たちの改善すべき点に気が付く機会となる点では良いのかもしれません。そうであっても、当人たちが自らの正当性の主張をし続ける限り、その機会は有効に生かされないことになりますが。

自分とは関係のないと思う外部の人間だからこそ強く言えることもあれば、自分の大切と思う仲間には嫌なことを言いたくないからこそ黙っていることもある。黙って相手の足りない点を我慢して受け入れることも仲間をおもうことの表れ。いや、相手の将来を考えるからこそ、相手に直してもらいたい点を今伝えよう。それもまた思いやり。何が正解なのか分からなくなってきましたが、私の経験から言えることは、

・日本と比べると感情を出して議論するロシア人スタッフの様子を見て、なんでもかんでもロシア人ははっきりと物事を話す人たちだ、という思い込みを避けること(根幹部分ではみな同じ人間。同じことを感じている、考えているのだから)

・自分自身の直すべきところを指摘するほうも、指摘される側も、共にそれを直接相手に向かって口に出すことはいいものではない。だからこそいつも自分を客観的に見つめて謙虚に修正してゆく努力が大切

・生まれ育った環境はそれぞれ異なり、それぞれが違う考えや固定を持つのは当たり前。自分の良さを客観的に観察して、それを最大限に発揮できる場所を見つけること。(「なんか変わってるよね」なんて言われる分野があれば、それは多くの人と異なる自分の強みがある場所なのかも)よく言われていることだと思いますが、周りの人間ができていて自分が叶わないなぁ、と思うことをいくら追いかけても、一定のレベル以上を目指して追いつこうとする心が伴わない労力は努力に見合わなく疲れてしまうだけだから…と自分自身の経験を通してそう信じています

あまり人種、文化の違いを考えることなく、あくまで一人の人間として感じる通りに行動すること。日本人だから~、ロシア人だから~、そういった杓子定規に物事を捉える必要はなし、そういうことなんでしょうね。

商品レビュー:Dell ウルトラシャープな27インチモニター、U2720Q を購入して使ってみてすっかり気に入った / Review: Dell UltraSharp Monitor U2720Q

テレワーク。決して広くはない家ですが、家の中で部屋と場所を移動しながら仕事をしています。同じ部屋でも座る椅子や向きを変えるだけでも多少雰囲気が変わります。仕事用の机を置いている部屋は日当たりが悪く、太陽の陽が入ってきません。冬場はこの部屋にいると体の芯から冷え切ってしまいそうな。でも、夏場はこの部屋の湿度がぐっと下がり快適なので、逆にこの部屋にこもって仕事をする時間が多くなります。去年は引っ越してきて、エアコンが無い期間の辛さはモスクワ生活では経験したことのない、久々の日本の湿度を思い出させるうなだれる夏となりました。冬のモスクワでのアパートメント生活がどれほど快適であったか…冬でも部屋の中ではTシャツ一枚で、シャワーを浴びるにも全くもって快適に寒さも感じることなく過ごしていた、というと同僚は驚いています。

モニターはパソコンと同じくらいにこだわるべきものだろう、と思います。管理部門で働くならば絶対に、それ以外の部門でもエクセル、パワーポイントなどの資料、OutlookのEメール、検索をするブラウザを開いて作業するにはモバイルノートパソコンのディスプレイだけでは苦しいものがあります。サイズはオフィスでも利用していた同じサイズで良いのか、あるいは自分の業務内容を考えたうえでそれなりのものを揃えるのか、よく吟味することが必要です。家で勤務する時間がオフィスでの時間より増えているのであれば、それだけ家の仕事環境を整えることが自分自身の仕事のアウトプットに直接響いてくるのであればなおさら…。

今、部屋には43インチ(LG社 43UN-700B)、モスクワ勤務時代に購入して仕事で利用していた34インチ(Dell ウルトラワイドU3419W)、どこでもデュアルディスプレイの環境を作れるようにと購入した15.6インチのモバイルモニター(タッチパネル)、そして今回購入した27インチのモニターがあります。メインで利用しているモニターは34インチ。初めてスイッチを入れて利用し始めたときの感動はそれは大きなものでした。しかし、今回購入したU2720Qを使ってみると、あれほどに画質が綺麗と思っていた34インチの画質も画像が荒く見えてしまう。U2720 Qの画像の密度の細かさはさらに上を言っています。それほど技術の進展は着々と進んでいるのだな、とつくづく実感しました。

今の時代、紙を利用することが減ったからこそ、モニターの重要性が高まっています。将来のモニターのあるべき形を想像すると、大きなサイズも丸めて収入ケースで持ち運びできる軽いモニター。指でサクサクっと画面をなぞればページを前後できる。モニターはタッチパネル必須。SF映画で描かれているモニターがきっと近い将来に実現する日を楽しみにしています。

Dell U2720Q

Dell公式直販 モニター 新品 U2720Q 27インチワイドモニター(4K/IPS非光沢/HDR/USB-C,HDMI,DP/回転/高さ調整/DCI-P3 95%)3年保証

さて今回購入したDell社のモニター、U2720Q。きめが細かく、それだけ画面がきれい。USB-Cケーブルで画像をモニターに映し出せると同時にパソコンへの電源供給もできるという優れモノです。パソコンについているUSB-Cが他の用途で埋まっていない限り、ケーブル一本で映像と電源をカバーできるので、ケーブル周りがだいぶスマートになります。

個人的な意見ですが、27インチというサイズはサイズと重さ、コストのバランスに優れているモニターだと思います。高さと横のバランスがちょうどよいレベル。決して満足できる大きさではないけれど、ほどよい大きさでファイルを2つ画面上に並べても両者を見比べるのに耐えうる大きさ。1つのエクセルファイルを開いて作業するのであればほとんどの場合事足ります。私としては高さはこのままで、横をもう少し広いサイズのものがあればなおよいのですが。家の中でモニターを持ち運ぶにしても適度な重さ。会社として備品を揃える時に、これ以上のサイズ、これ以上の金額のモニターを標準として準備してくれるか、というと分かりません。ロシアで勤務しているときには22インチモニターを標準としてスタッフに提供していました。後で考えたら、22インチは小さすぎたなぁ、と思っています。それが会社で提供する標準サイズであるからか、スタッフからは文句は聴きませんでしたが、コストと生産性を考えるのであれば、管理部門などの常時数値とにらめっこするスタッフにはもう少し大きなものを — 24インチか27インチ ー を検討すればよかったな、と。

Amazonで販売されているこのモニターのモデル名は”U2720QM”となっていますが、その違いをインターネット上で検索すると、「U2720Qは、Dellオフィシャルサイトで購入するモデル、U2720QMはAmazonで販売されるモデル名称。商品自体は同じで、付属するケーブルが異なるだけ」とありました。(私はDellオフィシャルサイトで購入しました。確かにDell社のマニュアルをダウンロードすると、両者の違いが説明されていました)

https://downloads.dell.com/manuals/all-products/esuprt_electronics_accessories/esuprt_electronics_accessories_monitors/dell-u2720q-monitor_user’s-guide_en-us.pdf?dgc=SM&cid=243878&lid=spr3110429999&linkId=82087367

27インチと34インチの間のサイズを私は利用したことがないのでコメントすることができないのですが、このDellの27インチのモデルを購入した一番の理由は、メインで利用している34インチワイドに1つのファイルを表示させる必要があることが多く、隣に別のファイルを並べて見比べたいことが多くなってきたからでした。かつ、34インチのモニターはあまりにも重い一方で、27インチは容易に持ち運びが可能。家の中で移動して仕事をするときにはこの27インチを一緒に移動して活用しています。ウルトラワイドなモニターの世界には34インチを通り越して、49インチという巨大なモニターがありますが(これまた私は1度も49インチの圧倒的な大きさや使い勝手を経験したことがなく、評価をできる立場にありませんが)基本的には34インチのモニター1つで十分。そして、そのサポートとして27インチを併用するセットが今の時点ではベストかな、というところで落ち着いています。

メールはすぐ返信、即返信、良いこと尽くし / Reply email quickly – it can be only good thing for you

昔に読んだノウハウ本に書かれていたメールの使い方。急ぎの場合にはメールを送ったあとに電話を一本入れること、受け取ったメールには24時間以内に返信すること、そんなことが書いてあった気がする。今、はっきりと言えること、それは”届いたメールにはすぐ返信”。すべてのメールの内容にすぐ返信できないものもあるけれど、返信できるものはすぐ返信。実際にすぐ返信することを進めるビジネス書を見るけれども、その中身を読んだことはないけれども、その正しさを実感しています。

今では本当に急ぎの時、Teamsのチャットや電話機能で呼び出し、会話することが増えてきました。携帯電話でTeamsにログインしていると社外にいても簡単に仕事の会話ができる。それでは、通常の電子メールで届く内容は急ぎではないのか?というと、そうでもないんだけど、でもそうでもある、という答えになりそうな。

メールを送信してきた相手は、聞きたいこと、お願いしたいこと、相談したいこと、何らかの用があってメールしているので、それに対する答えが来ることをいまかいまかと待って期待している。それが早ければ早いほど嬉しいに違いない。それだけ早く自分の欲しいものが手に入るのだから。自分だって、メールで何かをお願いしたらすぐに答えをもらえたらそれは嬉しい。そのようにして、一つ一つのメールに対してすぐ返信を心がけていると、想像していなかった効用がありました。― 自分が頼りたいときに相手にお願いをすると快く対応してもらえること。仕事の処理スピードが明らかに上がること。

相手に喜んでもらえることを ー 届いたメールにはすぐ返信 ー 習慣にすると、自分が困った時に相手に頼りやすくなる。きっと相手もこちらの日々のスピードある対応を好意的に感じているからだと思う。いつも”すぐ返信”ができるわけではない。会議もあれば、他の急ぎのことに時間と心を集中しなくてはならないことだってある。それでも可能な時には常に意識してすぐの返信を心がけているときっとプラスに働きます。

すぐ返信することで、その次のアクションが始まるので、自然と物事が動き出す。多くの事を同時に処理することには無理があるけれど、まずは自分のところにきたものを手放す。その間にやってくるものを受け返す。手元で滞留するものが減ることで、結果的に仕事の処理スピードが上がる、その繰り返し。ロシアで勤務している時には、提出締め切りがまだ1週間後の資料でも、「XX日までにまとめて報告してね、そこで議論して資料を固めてしまいましょう」、という上司。なぜまだ時間があるのにXX日までにやらなければならないのか?他にも片付けなければならない仕事があるのに…そう思うことも確かにありました。忙しいスケジュールで他に時間を取れない、という理由もあったようですが、その要求の根幹には、早く解決できることを今解決してしまいたい。次の課題が嫌でも降ってくるから、少しでも今片づけられるものは今やってしまおう。というものがあったようです。”すぐ返信する”ことはこの考えにつながります。今できることは今解決してしまう。今すぐに返信できるものはすぐに返信をする。シンプルなルールでその効果は絶大。やってみない手はありませんね。

ロシア人スタッフを見ていつも驚いていたことが一つ。とにかく、同僚が持ってきた出張や休暇先からのお土産のメールへの反応が瞬時だということ。メール受信と同時にどどどっとスタッフがキャンティーンにワイワイ言いながら向かってゆく。メールの受信ボックスを見ると、出張から帰ってきたスタッフが「みんなにお土産を買ってきたから召し上がれ!」というメール。キャンティーンでワイワイガヤガヤ盛り上がる。そしてしばらくするとまた席に戻ってゆく。仕事のスピードは速くしてくれ!と言いたいこともあるのだけれど、あの、”お菓子をどうぞメール”への反応スピードには驚きだ…。

最後に。自分の中で何が何でも早く返信しなきゃ、というルールを決めてしまうと、今度は自分の仕事が断片的になり生産性が落ちてしまう。今行っている業務で切りのよいところを決めること。エクセルファイルのメンテナンスをいろいろと行わなくてはならない中で、この数式メンテだけはすべてやり切ってしまおう、とか。まずはこの資料を作成するところまでは終わらせてしまおうとか。そんな見極めが大切です。

失敗の数とそれを乗り越えた数は魅力ある上司になるための良きステップ / The number of failures and learning lessons from them is a chance to become good boss in the future

失敗したとき。はー…というため息。その時にはがっかりするし、悔しいし、あーなんでこんな失敗をしてしまったのだろう、と頭を抱えるしかないのだけれど、後から振り返ってみると、その経験から学ぶこと、その時に抱いた気持ちはとても貴重な財産だと思うことが増えてきました。同じことをしても、他人より理解に時間がかかったり、失敗することも多いと認識しているからこそ、それだけ周りの人よりも多く時間を費やさなければならない、と自分でわかっているのでただただ積み重ねるしか術がないのです。それでも、少しずつできることが増えてくると、若い世代のスタッフが同じようなことで苦しんでいる様子を見たとき、「なぜそうも時間かかっているのだろう?」「どうしてすんなり出来ないのかね?」— こうした疑問に、同じような経験を重ねてきた自分の経験を踏まえた答えと、自分なりの解決方法を部下にアドバイスするノウハウを提供できます。

とてもつもない大きな損失を会社に与えたことはありませんが、細かな失敗の数と顛末書を書いた数は同僚と比べても明らかに多かった…。新入社員の頃、初めての顛末書はオフィスへやってきた配達物回収の郵便局員から受領したレシート原本を亡くした時。たかが1枚、されど1枚の重要な書類。雪の中を郵便局まで走ったことは忘れません。レシートを紛失したことを報告すると、管理部長から「顛末書を作成してきなさい」と。顛末書とはなんぞや?インターネットで調べ、紙に手書きして持ってゆくと「無くしたレシートの代わりになるものを添付したうえでパソコンで打ち直してきなさい!」事の重要さをようやく理解した私は、顛末書を書き、無くしたレシートの再発行をしてください、と郵便局へ電話で依頼し、雪が降る街中をダッシュで郵便局まで向かったことがあります。その晩は私の送別会。初めての社会人生活を開始した勤務地での勤務を無事に勤め上げて笑って後にするはずが最後にこんなことに。私の送別会を開いてくれるその日に主役の自分が遅れてはいけないと必死に走っていた時代が懐かしいです。その晩、送別会での管理部長はとても優しく接してくれました。今後に向けた少々気が緩んでいた新人への喝を入れてもらった気しました。

会社で会計伝票を会計システムに登録、承認作業をしていた時。正確な数字はわすれてしまったけれど、登録すべき金額の下二桁が35円のところを、システムに投入するデータが53円となっていることを見過ごして、結果として数字が合わないままに決算処理を終えてしまったこと。

異動のために、手元に保管していた書類一式を同僚に引き継いだところ、後日、その書類の中には税務申告の時に費用を損金として認めてもらうために必要な書類が含まれていたこと。元上司からの呼び出しを受けて、なぜ書類を滞留していたのか?とのお叱りを受けました。それなりの額を損金に計上できないこととなり、多少なりとも会社への損失を与えてしまった、といったこともありました。

自分が成長するにつれて、なぜあんなことで、なぜあんな単純なミスをしていたのだろうと思えることも。でも、その当時は(そして今、新たな仕事でやってしまうミスも)真剣に仕事をしていた中で発生するもので、後から分かることでもその時には見えなくなってミスをしてしまう。そんな経験を経て人は成長してゆくもの?そう思っています。

それで、自分が経験したようなことで悩んだり、間違ってしまった人を見ると共感ができます。そ失敗した本人だけの問題ではなくて、説明が不明瞭であったために本人が別の意味に捉えてしまった、もっと周りがサポートすべきなんだけれど、任せたままにしてしまい後でどうしようもなくなってしまう、など。失敗にもいろいろな理由がありそうです。失敗をしたときの状況を自分自身の中で整理し、何がいけなかったのだろう、どうしたらうまくいったのだろう、上司には何が足りなかったのだろうなど、失敗の度に振り返ることで将来に同じ失敗を部下がやってしまったら、「なるほど、それ分かるよ。自分も同じようなことで失敗してしまったことがあったんだよ」そう言える上司はきっと部下からの信頼も厚くなるはずです。

こうした失敗の経験は、失敗の経験を経て自分の限界を認識し、人間的に丸くなることにも繋がるはずです。部下の気持ちや置かれている状況をイメージすることにも役立ちます。また、ひどい失敗を繰り返していたかつての自分が、今はそれなりに成長している。それを感じるときに、周りの人とではなく、以前の自分と比較して喜べるのではないかな、そうすれば、今日も明日も、ポジティブな気持ちを保つ助けになっている気がします。

「同じ失敗をしたらあとは改善するだけだよね、同じ失敗をする奴は阿保だよ」

これはロシアでの勤務時代にいただいた大先輩からのお言葉。同じ失敗を繰り返すことだってあります。人間ですから…でも、失敗の数だけきっちりと学習をすること。その大切さがこの言葉からよく伝わってきます。

外国語を習得するときの大切な要素ーその言語が持つリズムを掴むこと / The important factor in learning a foreign language-grasping the rhythm of that language

先日、オフィスで勤務していると、おそらくインドの子会社スタッフとの電話会議の会話の様子が会議室から漏れてきました。耳にしていると、日本人は日本式のイントネーションで、インド人はあのインド独特の口調です。そして早い。お互いにリズムもスピードも違う。日本式というと、ゆったりと流れるように話す、アクセントがあまり文章の中に表れない、そんなイメージがあります。その会議での日本人の英語をよく聞いていると、英語を話しているのだけれど、「そうですねー、あのー、えーっと…だからそのー…」というフレーズがあたかも聞こえてくるような。一方のインド人の英語はというと、一定のリズムで早口で休止もなくまくしたてるように続く — 何に例えることができるか考えてみました。それは小学生の頃に学校で一生懸命に覚えたスリランカの首都名称スリジャヤワルダナプラコッテ。これを休止なくひたすら早口でリズミカルに言い続けている。あるいは、日本語で例えるならば、言葉が汚いのですが、「おいおまえらなにしとんねんいいかげんにしやがれこらおとといきやがれ」これをテンポよく早口で繰り返している ー そんな風に全く異なる双方の英語の会話が続いていました。同じ言語を利用していてもこれだけ話者によって異なるとは大変面白いものがありますね。

語彙の数を増やすことや文法を学ぶこととは別に — これは恐らく英語に限らず、どの外国語を習得するにあたっても言えることと思うのですが — 話すときのリズムやイントネーションが大切だ、と感じている点が、まさにYoutubeの中で専門家の方によって理路整然と説明されていました。

この動画の中で、ネイティブスピーカーが話す英語に秘められた3つのポイントが紹介されている中、その一つとして”English is stress-based language”である、と。英語は重要な単語の正しい箇所にストレスを置いて発音すること。これを行えるだけであなたの英語はネイティブに伝わります、ということです。多くの言語は一つ一つの音が重要な意味を持つ”Sound-based language”である、とも。Sound-based languageの場合、1つでも音が失われたり正しく発音しなかったりすると言葉の意味そのものが失われてしまう。でも英語の場合は音は決して重要ではない、と。強調すべき音節に、ただしい強調をつけること。そうすれば発音が悪くてもネイティブスピーカーは理解してくれるでしょう。だから文法の間違いも気にしないで。…そうはいっても、このポイントを習得するだけではとても英語を話せるようになるわけではないはずです。恐らく、指摘せずとも英語学習に置いて語彙数を増やすこと、文法を習得することに重きが置かれているために、それだけではだめですよ、他に相手との会話の上で大切なことを忘れないでくださいね、と伝えたいのだと思いました。

現代において、英語は全世界で利用されている国際語であるため、今の時代は言語発祥の地で話されるものが絶対的に正しいですとはいえないのかもしれません。しかしながら、英語を第二言語として勉強する人は、アメリカや英国の英語を正解として勉強しているはずで、そうであれば、第二言語として勉強する私たちは、やっぱり各言語が持つ特性を意識し、その言語が持つリズムやイントネーションを習得しようと意識することが大切ではないのかな、と思っています。日本語を話すときは棒読みでもよいけれど、英語を話すときには英語の持つ強弱を意識して付ける、といったように。そうすることで自然と強く発言した部分が強調され、長く発音され、リズムも生まれてくるであろう、そう思っています。ロシア語も然り。

具体的な有益な情報は上記のYoutubeが字幕付きで説明してくれています。なお、オリジナルのビデオを発見(以下Link)。こちらは字幕がないのですが、プレゼン資料もついていて、このビデオを見るほうが分かりやすい部分があるかもしれません。

とある日の朝、マクドナルドでお金のことを考えてみた / One day morning, came to my mind at McDonald’s about the money in Japan

今朝、マクドナルドにて朝マックを。モーニングセットでいつも250円。「はい、300円になります」…あれ?以前ならあまり50円の差を気にすることも無かったし、そもそもマクドナルドはあまり身体の健康に良くないという印象がある…のだが、気軽に入れて安く済むこともありマクドナルドは貴重なリモートワークの拠点の一つ。それらの点を考慮に入れながら、モスクワでは週末朝には大抵McCafeのコーヒーとクロワッサンやパイなどを注文して仕事をしていた、そんなあの頃が懐かしい。

帰国してからのマクドナルドでは、こんな気になったこともあった。単品で注文した際にスタッフによっては何も言わないとMサイズになっていて、値段が思っていたのと違っていたり。Sサイズで良かったのに…。いつも注文していた時にはSサイズが何もいわずとも出てきたのでそんなものかと思っていたらどうやら違うようだ。それとも若いあの店員は、お客がサイズを言わないことを賢く利用してマクドナルドの店舗の売上に貢献しようとしていたのか?

冒頭のマクドナルドの店員は、その後もドライブスルーで受ける注文のミスもしていたようで、もしかすると店員さん自体に問題があるのかも。メニューには¥250と書いてあるのに店員さんが打ったレジは¥300を表示したまま。たかが50円、されど50円。以前のMサイズ事件を思い出し、「コーヒーのサイズはSでよいですよ」と念押しをする。そのうち、「店長~」と、キッチンにいるらしきスタッフへの助けを呼び出した。こうなるとレジのメニュー登録に何か誤りがあるに違いないと納得。…が、「あっ、250円でした。」…それってただ単に別のモーニングメニューを選んでいただけじゃないでしょうか、と心の中でつぶやく自分がいたのはご想像の通り。声に出して文句を言わないだけ立派な大人です。

さらに、クレジットカードのタッチ式で支払を使用とマシンの上にカードをかざすと「お客様、ICチップ付カードはICチップが付いている方から機械に挿していただかないと…」と言われて、「そうですね」と言いながら(いや、ちがうんじゃないかな、と思いつつもこれ以上は店員さんと円満なままにお別れしたいと思い)挿そうとしたらレジからレシートがジー…っと出てきて「あっ、(精算が)できていますね…」と。

こんなちょっとした短いやり取りの中から得られる教訓が。

一つは、日本に帰国してからというもの、自分自身の払うお金に対して意識が高まったこと。モスクワで生活していた時には意識していなかった自分の払うお金の意味。モスクワではお金を払うことから得られる貴重な経験、という口実を元にあまり家計を気にすることもなく支出を重ねていた気がする。今、日本に帰ってきて感じること。サラリーマン。自分の受取っている給料は一体自分のどんなスキルに対して頂いているお金なのだろう?例えば、同僚との話に多少花が咲いて30分間、”業務時間”が増えた。オフィスでの円満な人間関係のためにも会話は大切だし、それは不可欠。でもその頻度が高く、積りに積もって毎月何時間もの”残業時間”が生まれそれに対して時間外手当を頂く。もしそんなことがあるとすれば、そのお金って自分のどんな”仕事”に対価として支払われるものなのだろう?意外に会社の経費を削減する要素ってこんな簡単なところにあるんじゃないかって思う。いや、きっとみんな分かっていることなのかもしれない。もちろん口で簡単に経費削減といっても簡実際には難しいに違いないのだけれど。

モスクワで現地採用として働いていたとある日本人の方曰く「大企業の人は全く世間の人と感覚が違いすぎる!」そしてきっと大企業の方からすれば会社の環境が自分たちの”世間”であり、そこで成り立つ世間で大部分の時間を過ごしているが故に、それ以外との交流が少なく、その方が述べていた意味を理解するにも苦労するかもしれない。まとめると、自分の頂くお金の意味を考えると、実は自分の言う”仕事”というのは会社を出て勝負するにはあまにも心細い”仕事”であり、これらに対する対価として頂くものなのかもしれない。「給料ってのは、仕事で苦しむことに対する対価としてもらうんだよ」と、新入社員の夢を壊すような悲観的な発言をしていた上司がいたけれど、確かに社内での物事の調整役に追われたり、ひたすら決まらない会議に出席することなどが続くと、その上司のコメントの意味も理解できるような気がする。

また脱線してしまったのだが、自分自身の頂くお金は相当特殊なものであり、かけがえのない、貴重なものだということ。本当の”世間”に出たら、今の自分の行っている”仕事”にお金を払ってくれる人なんていないのかもしれない。そう考えたら、50円でも1円でも自分の払うお金の意味を考えることに。そして、自分自身が謙虚になる必要をいつもリマインドしてくれる。一方で自分の投資になるために使うべき時を逃さないことも大切で、自分の使うお金の意味を考え続けていると投資に躊躇してしまう自分がいてそれもまた見極めが難しい。

2つめの教訓は、”お金 in ジパング”。日本人はお金に対して云々といったテーマは数多く語られているのでここではそれは止めておいて、ロシア人と日本のことを会話すると「日本は世界の最先端の技術がある夢の国。ぜひとも行ってみたい!」という強い憧れを持っている人が多い印象。日本はなぜあれほど高度に発展して豊かなのだろう、和食は大変健康的で美味しい、平均寿命も長い、温泉、富士山などなど、かつて日本に来ることにあこがれたヨーロッパ人のように目を輝かせるロシア人が多い。実際に自分の生まれ育った日本に戻ってきてみると、「なぜこれほどまでに現金主義の人が多いのだろう?お店でも現金しか受付けないお店も多い。また、なぜ店員はあれだけ何時間もレジで働いていてタッチ式の支払方法があることを知らないのだろう?(つまり、それだけ多くの人が現金や通常のICチップ方式の支払方法を多用しているということだろうか?)」ー そんな風に思えたり。モスクワでの生活で現金で支払う光景を目にするのは、高齢のおばあちゃんおじいちゃんが細かいコインを何枚も順番に、ゆっくりポケットから出すのを後ろで並んでいる人たちが若干イライラしながら眺めている、現金を見るのはそんな場面だけです。…なんてことはさすがにありませんが、現金で支払っている人の方が少ないことは確か。世界に誇るモノづくりの国ではお金に関しては他の先進国の国々の基準とは異なった文化が育っている - 大量のポイントカード然り - のでしょうか。そんなことが不思議でもあり、ますます世界の人を魅了する日本文化なのかもしれません。

ちょうどよい駐在期間はどれくらい? / How long is the right period of working as an expat in Russia?

駐在の経験を経て今思うこと。会社の規模、内容に依るのですべてのケースに当てはまりませんが、管理業務に従事する駐在員の場合、モスクワに長く駐在することはビジネスパーソンとしての価値を上げるには限界がある、ということです。海外での業務経験、ロシア人スタッフと勤務して感じる文化の違い、言葉や育った背景も全く異なる部下や同僚たちとぶつかりながらもどのように仕事を進めてゆくか、仕事以外の日常生活で体験する初めてのこと、どれもが日本の環境では決して得ることができない体験です。

駐在員として本社から派遣されてきた契約形態であれば、金銭面での待遇は日本で生活するよりも高く、日本の生活水準よりも高くなることがほとんどだと思います。(中には現地のモスクワの子会社で現地採用された日本人もいます。その待遇は駐在員に比べると決して恵まれているわけではないと思われます)給料も貯蓄できて、よい生活環境が保証される生活。しかしそれが七年ともなると、徐々にそこでの業務経験もただ繰り返してゆくことが増えてきます。確かに会社は成長し、それに伴って組織が変わってゆくことを目の当たりにできることは貴重です。新しいポジションを作り、新たな人を採用して仕事を覚えてもらう。徐々に自分自身が抱えていた仕事をロシア人スタッフに委譲してゆく…そういったやりがいは確かにあります。しかしながら、日本の本社でできる仕事はモスクワで経験するやりがいとはまた違った内容の意味でもっともっと大きなものです。駐在員としてモスクワで経験した苦しいこと、辛いことを踏まえて、それをどうしたら改善できるだろうか、どうすれば全世界にいる駐在員や現場で働くローカルスタッフたちのサポートができるだろうか、そんなことを考え、実際に提案して喜んでもらえる。自分の働きが幾つもの海外の子会社の業務改善に役立つことを実感できる喜びがあります。この観点で言うと、自分自身の成長にとってモスクワでの勤務経験は、長すぎると、ある地点を境に自分の成長をストップさせる、そう感じています。大きな理由の一つは、モスクワにある日系企業の規模そのものは小さいものがほとんどであり、その会社で経験できる仕事の規模もそれだけ小さくなってしまうからです。

3年という一定の切りの良いスパンがありますが、3年は大変短すぎました。一通りのことがわかって、自分のやりたいことをできる体制づくりもようやくできつつあったタイミングが来た時にはすでに3年が経過。毎年厳しくなる本社からの管理体制の強化への対応に追われて社内の規定を整備したり、新たに要求されるレポートの整備に追われたり。人事で言えば会社の組織作り、制度作り。人が安定しないことから採用活動が続く。ようやく採用したとしても定着に時間がかかったり、税務調査や社会保険関係の監査が入り対応に追われてしまう。人が不足している期間は自分自身も業務に入ってゆかないといけないためにまた仕事が停滞する…そんなことの繰り返し。自分の思うようにうまくいかないことが多々ありました。現地でお世話になっていた人事部を知る方曰く「あまり長いこと現地にいると本社から忘れられてしまう。自分の会社でのキャリア形成も考えるのであれば子会社に長くいることは決して良いことではない」という言葉が真実を物語っていると思っています。もし会社の土台が整えられている会社であれば、3年という期間が満足できる充実仕事の期間となるかもしれません。他方、私のように苦労の連続の中で経験した7年間というのは、ある意味では長いと言いつつも、会社の底からようやくゼロ地点にたどり着き、そして成長してゆく。そのプロセスを経験する点では適切な期間だったのかもしれませんが…。

自分自身の価値観の軸を何に置くか ー とにかくロシアに関わっていたい、ロシアに居続けたい、あるいはロシアでの業務経験は自分自身の視野を広げるための一期間であり、その間に小さな規模の子会社でマネジメント経験をして更なる自分の成長につなげるなど — これに左右されると思います、そしてこの考えは人それぞれです。正解はありません。あくまで私の主観ですが、一般的な管理業務を担う管理人材で、かつロシアの子会社が小規模のものであるならば、どんなに良い待遇を得るからといって、目の前の待遇ばかりに注目してはならない。そして、将来の自分の成長を忘れてしまうことがないように定期的に今の自分を客観的に観察することを怠ってはいけない。ということだけは言えだろう、と考えています。

部下への感謝の気持ちを手書きメッセージカードと贈り物に込めて / Express your gratitude to your subordinates in handwritten message cards and gifts

今年も残すところ今日が最後となりました。こんな年末になるとは去年の同じ時期には誰も予想しなかったはずです。私の勤務する事務所でも年内最後の出社日にはテレワークの人もいるため全員に挨拶はできませんでした。夏から今の職場でテレワーク制度のもとに働き始め、直接会話する機会そのものがすっかり減りました。他の部門では今どんなことが進んでいて、何が議論されているのかを耳にすることができるのは、事務所勤務ならではの良さだと感じます。それがずっと続くと、自分の仕事への集中力の妨げになる弊害も感じているところですが。

12月の仕事納めの時期となると思い起こす出来事があります。当時モスクワで働いていた時の20人ほどの管理部門の部下に対して、一年のお礼の意味を込めて、ちょっとしたプレゼントと手書きのメッセージカードを添えて一人一人に手渡ししていました。モスクワに進出している日本のチョコレートメーカーのお菓子を購入してみたり、行きつけのワインショップで男性、女性向けにおすすめのミニボトルをアレンジしてもらったり。今思い返せば数万円はかかっており、相当な出費だったのですが、自分なりにどんな風にお礼を伝えることができるかなぁと考えた結果たどり着いたのが年末のこのイベントでした。

日頃から仕事に関するコミュニケーションはしっかり取っているつもりでも、仕事以外のコミュニケーションが少なく、なかなか素直に感謝も表せない苦手な性格もあるのを補うべく、手紙で日頃の感謝を伝える文章を考えて言葉にしてゆくプロセスは自分にとっては大事な時間でした。結果的に私の行動が部下にも”私にお返しをしなければ”という気持ちを与えてしまったことは良くなかったのですが…。部下からもプレゼントをもらったり感謝の手紙でもらったり。そんなやり取りが生まれたことは良い思い出となっています。本好きの私を考えてなのか本をプレゼントしてくれた部下もいましたし、よくKit Katを食べていた私を見てKit Katの特大バージョンをくれたりと。

仕事のパフォーマンスが悪いことや、我々は人間なので考えの違いや仕事のやり方の面で軋轢があることも原因で、部下全員との関係が常に良好というわけにはいきませんでした。そういった人には手紙を出さない、というわけにはいかないので、このやり方がずっと機能していくかと言うと疑問もあります。私が駐在していた7年間の間このイベントをずっと行っていたわけではなく、駐在最後の2回の冬でした。冬の到来前にタイミングよく設けたマネージャー向けの研修でリーダーの在り方を学習したのをきっかけに、その冬からやってみようと。「リーダーの皆さん、部下に対してちゃんと感謝の言葉をかけていますか?」 — 日本に比べると自由闊達に会話が行われているようにみえるロシア人の間でも、上司が部下に対する感謝が少ないことが課題テーマとしてよく耳にします。

誕生日というのは、誰しもがその日は自分が主役になることが予め分かっていて、その日に何があるのか想像が容易にできます。歳を経るごとに誕生日はサプライズの要素は無くなり、定型的なイベントになってゆくのだと思いますが、本来のプレゼントは相手が想定していないタイミングでやってくるときに喜びも倍増するはずです。そんなことを思って年末のタイミングを利用してみました。日頃の感謝を伝える場面は、よく探してみると日々の中に見つかります。そこに自分なりの口実をつけて自分の遠慮がちの気持ちを奮い立たせて行動してみる時に自分の知らなかった世界が開かれます。苦い経験も含めて。その時の心境もまた貴重な宝物です。

日頃からどのように部下とのコミュニケーションを取るのか、どのように部下に感謝を伝えるのかは人それぞれですが、大切なのはノウハウ本が述べる方法を単に真似るのではなくて自分自身の性格を踏まえた上で自分にとって最善のものを採用することがふさわしいと思っています。それはもしかしたら本の中では否定されている方法かもしれません。自分自身の置かれた状況は本の著者が述べる状況とは異なっているかもしれず、自分で考えることの大切さを感じます。例えば、決して多くのことを語ることもない自分自身であれば手紙に書くことはできます。ただパソコンで書くのではなく自分で一言メッセージを添えて日頃の感謝を伝えて直接渡しに行く。そんなちょっとしたやり方一つをとっても立派なプレゼントになるのではないかなぁと思っていました。家に帰ったあと、家族との会話のネタにでもなってくれればそれもまた嬉しいものです。

この方法も毎年恒例のものとなっていくとマンネリ化してしまいますし、また最後の年には徐々に軋轢の生まれていたスタッフもいたので同じ熱意を持って続けてゆくことは難しかったかもしれません。相手に自分の感謝の気持ちを伝えたい、という根本に基づいた相応しい仕方を唯一の正解が存在しない中で常に考えてゆきたいと思っています。

モスクワ駐在生活の醍醐味:歴史的なアパートと景観をでの生活 / The joy of living in Moscow: living in the historic apartments and enjoying city landscapes

モスクワの駐在生活でしか経験できない醍醐味の一つは、日本には存在しないモスクワの歴史的なアパートに住むことができる、という点があります。有名なスターリン様式のアパートはまさに他の国では見ることができません。都心の中心部ということで家賃も高く、自分の負担で住むとなると難しいところを会社の補助があるからこそ選択肢に含めることができます。モスクワ駐在の際には歴史的なアパートを検討してみることをぜひお勧めします。ロシアのモスクワ以外の国に居住したことがないので、他の国ではどのような物件があるのかは分かりません。ドイツに駐在していた友人の家や他の西欧の国々を訪れたときに見たアパートは、日本のものとは異なりますが、急に日本から引っ越したとしてもあまり違和感のない雰囲気であった気がします。日本のこれまでの生活で、よく目にした映像や似たような雰囲気のものを実際に生活で経験しているからかもしれません。

今のモスクワでも現代的なアパートが立っており、現地に住む友人曰く、いまではロシア人でもそういったアパートを好む層が増えているようです。Youtubeでみる現代的なアパートは、現代の生活に適している、内装もシンプルなものが多い印象です。部屋の中を紹介するRoomTourビデオをYoutubeで見るのが好きですが、予算に制約があって、それでも部屋の中をオシャレにデザインしたい人はIKEAを好んで購入しているように感じます。

歴史的なアパートを好き好んで選ぶ人は徐々に少数派になってくるのでしょうか。確かに歴史があっても水回りや部屋の造り、古い電気設備など、古いアパートを好む理由はあまりないでしょう。

Архитектурные излишества

(辞書によれば意味は「建築の装飾過剰」。この名称を付けた背景は分かっていません)

https://www.youtube.com/channel/UCrBrH2HVtIA6-kk42E5m7yw

Youtubeで見つけたこのサイトはおすすめです。モスクワに住んでいて、ここは一体どんな住み心地なのだろうか、と建物を見上げては想っていた建物がまさに紹介されています。全てロシア語ですが、モスクワの街並みやアパート内部の様子、雰囲気がこちらにも伝わってくる、とても綺麗な映像が並んでいます。

例えばこんなアパート。日本では決して見ることができない外観と内部の雰囲気。そして窓から眺める風景。モスクワの中心部に関して言えば、赤の広場を中心に古い建造物が広がっている街並みの景観は一度は経験してみたいものです。

私は7年間のモスクワ生活のうち、3つのアパートを経験しましたが、どうしても仕事柄オフィスに近いところを選ばざるをえませんでした。その理由は不測の事態があるときにはすぐにオフィスに駆け付けられるように、生活の大半が仕事で占められていたためにオフィスへの移動を徒歩圏内にしたかったことです。モスクワの大渋滞は半端ないです。同じように渋滞がひどいと聞く東南アジアを経験しておらず比較できませんが、モスクワはあれだけ多くの車線があり、あれだけ大きな道があるにも関わらず、時間帯によってわずか1km程度を車で通過するのに1時間近くかかったこともありました。冬にもなると、オフィスへの通勤のために片道2時間もかかっている駐在員もいましたので車での移動がいかに恐ろしいものか想像していただけるのではないかなぁと。

きっと次にモスクワに住むことになればじっくりと考えてアパートを選ぶでしょう。最後に住んだアパートは、限られた選択肢の中から1930年に著名な建築家によって設計されたという由緒ある建造物を選び移り住みました。数か月前から物件情報を眺めて気になっていたのですが、しばらく経つと提示価額が下がったことをきっかけに紹介元にコンタクト。そこからスムーズに手続きも進み無事に決定です。建物はスターリン様式のようなもので(Wikipediaによれば、当時世界最大のビルとなる計画であったソビエト宮殿(スターリン死後に計画中止)の最終デザインが固まった年1933年からソビエト建築アカデミーが廃止された1955年の間に建てられた建物をスターリン様式というようです)天井は高く、外観と窓から眺める夕日は最高のものでした。違うアパートにゆけば、そこで見つける新たな最高の景観があるはずなので、終わりの無いテーマですね。オーナーの父親は日本に行ったことがあってとても日本が好きだ、というオーナー。アパート選びにはオーナーがどんな人かも非常に重要なポイントです。

今回紹介したYoutubeでは、モスクワ以外の町も紹介されていて、モスクワとは違う様子も楽しむことができます。そのうちのいくつかは私も休みを利用して出かけたことがあります。早朝にモスクワを列車で出発し2,3時間の距離にある町を散策して夜にはモスクワに戻ってくる。モスクワでの慌ただしい生活を離れて、ゆっくりとした時間が流れる違ったロシアを知ることもまた駐在していたあの日々の醍醐味でした。