個人事業主とサラリーマン社長と会社経営 / Self-employed, non-owner president and going concern

7年間モスクワで仕事をしてきてから、7年ぶりに以前に働いていた街へ戻ってきました。かつて頻繁に通っていたお店やレストランが今も変わらずに経営していること。そのこと自体がとてもすごいことなんだ、と実感してます。

私が勤務していたモスクワのオフィスビル1Fに入っていたレストラン。少なくとも7年間の間に3回はお店の名前が変わっていたと記憶しています。入る客はきまぐれ。ただたくさんある場所の中でその日の気分や、たまたまそこにあるからという理由だけでやってくるもの。そんな中で長く経営を成立させること、そのこと自体を達成するための努力はいかばかりかと。本日見たロシアのニュースによれば、モスクワではコロナウィルスの感染拡がりにより再び自宅隔離の規制を強める方向へ、とありました(主に65歳以上をターゲットに)。さて、上記のレストラン、オフィスに勤める従業員の利用が主要な収入源であったとすると、きっと今頃すでに看板をたたんでいるのではないかと思ってしまいます。

サラリーマン。言いたい文句がたくさんあれども、有給休暇があり、私用があるときには早引きし、会社が保険の負担も負担してくれて福利厚生もある。そして毎月一定の給与が入ってくる。それだけでただただ感謝をする以外にありません。

私が、今住む街で、ときどき利用している個人経営のワインショップや自転車、喫茶店など。どれだけその規模が小さいとしても、そのお店を開き続けることの大変さを想像すると、経営そのものを存続させるという根幹の意味において、個人事業主の大変さはサラリーマンとして一国の海外販売会社の社長職の任務を果たすことよりもずっと重みのある仕事だと思うばかりです。その両方の立場を務めてみないことにはその大変さを理解することは非常に難しく、私にはそのどちらの経験もないが故に想像の範囲からでしか判断ができませんが、やっぱり個人事業主の抱える重さにはサラリーマンの大変さはかなわないと思います。サラリーマンとして勤める社長職にも私が知らない世界があり、非常に大きな重圧を抱えていることは間違いありません。ただし、何かあって経営が成り立たない状況に陥ったとしても親会社からの支えが必ずある、仮に責任を取らされる立場にあったとしても、個人で不正をしていない限り、収入が途絶える(給料が入ってこない)ことにはならない。その点での安心感は言葉で言い表せない大きな違いなのだと。

モスクワでの勤務生活は、達成感、やりがいはもちろんありますが、それと同時に心身共に疲れてしまった、という気持ちも本心です。当時抱えていた仕事の責任と疲れは半端ないものだと感じていましたが、今現在、生活の時間にゆとりの部分も出てきて、客観的に物事を観察する中で感じることが今日の内容です。

大会社に勤めていて収入も立派で、仕事の内容も世界を相手に大きな仕事をしていて、周りから見れば申し分のないキャリアを歩んでいる自信満々の人。そんな人が街中で偉そうに歩く姿があるかもしれません(勝手な想像です)。しかし、実際に自分自身のサラリーマンという立場。その収入や自分自身の携わっている仕事のすべてが、その会社に所属しているが故にもたらされるものである。それを実に実感するとき、人は謙虚になるものではないのかなぁ、と思うのですがどうでしょうか?

その一方で、それを分かっているからこそ、安定という立場にいるが故にもっとチャレンジする気概を持っていなければ、とも感じています。それがどれだけ難しいことか、ということも年を取るごとに感じているのですが…やっぱり人間は環境に流されてしまう。弱い生き物です。ともすると、自分が思っていたほどに成長していない自分自身にがっかりしたり、週末に早起きして「あれとこれを午前中にやってしまうぞ」と思っていながら起きたらすでに時計は10時を回っている、そんなことを繰り返して落ち込んでしまう、やる気が無くなってしまう、そんなことの繰り返しかもしれません。

日本人の中には、常に自分を「だめだ、こんなんじゃ、もっとやらないと、でも自分はできていない…」そんな風に自己評価する人が多い…?そんなことを感じる場面に出くわすことが多い気がしてます。しかし、あまりに多くのことが前から降りかかってくる今の世の中は流れの強い川のよう。その中に立って、流されないように足を踏ん張って立ち続けている、それだけで十分に成長している証なのかもしれませんね。そう思えば、日々成長しなければならないというプレッシャーを感じる今の世の中をもっとみんな気を楽に毎日を過ごせるのではないでしょうか?

着実に、こつこつと、続けましょう、それが大きな成長へ / Let’s continue making effort steadily and steadily, it will become big growth

夏に度々お邪魔していたモスクワ郊外のダーチャに滞在するロシア人の家族から木の実、キノコの収穫写真が届きました。コロナウィルスによる外出規制が春に始まってからすでに約半年が経ちますが、ほとんどダーチャで過ごしたようです。感染リスクを避けるためにも、郊外で静かに森の傍で新鮮な空気と共に過ごすのが健康にも一番よいのかもしれませんね。少なくとも夏だけは日本の過酷な夏を抜け出してモスクワで夏を過ごしたいと思うばかりです。

モスクワで勤務していてロシア人スタッフと一緒に働く中で感じたのは、毎日の一つずつの業務改善や、勉強を継続してゆくことをないがしろにして(あるいは過小評価してなのか、単に意識していないだけなのか)何か大きなことをやろうとしていること、そんな意識を持っているスタッフが多いなぁ、と感じていました。

昔、新入社員の頃に受けた研修で聞いた「複利成長」。毎日の1%の努力を1年間続けるとどれだけすごい成長になるのか、そんなテーマを聞いたことがあります。毎日の1%の複利成長を1年間続けると次第に大きな曲線を描いて1年後にはとてつもなく大きく成長できている、という。我々は人間なので、1年間そんな簡単に上手くゆく保証もなく、どうしてもダメな時もあります。だからそんな複利成長に固執する気はないのですが、少なくとも日々の生活の中で何か1つでも新しいことをしよう、この業務を改善してみよう、とか。商品をロシアに輸入する時に関係するこの法律はどんな内容なのか、法務スタッフに任せきりにするのでなくて概要を説明したウェブサイトを見て勉強してみようとか。自分の責任範囲以外のことにも気をとめて手を出してみる。隣の人に尋ねてみる、そんなちょっとしたことがゆくゆくは大きな成長につながるのではないでしょうか。

と、そんなことをスタッフに口をすっぱくして言っていたのですが、果たして届いていたのだろうか…当時は目に見えるところでは実感はありませんでした。我々も何年も経ってから「あっ、これはあの時に上司が言っていたことだ」、「これって親に注意されていたよなあ」ということもあったりしませんか?そんな風に、誰かの心の片隅に言葉が残っていて、いつの日にか将来に「あっ、あのときXXXさんが言っていたことってこういうことなのか。」そんな時が来てくれたらと想像しています。

毎日の継続について。例えば部屋の掃除。一気にできたら気持ちがよい、やってしまいたい。が、そうであっても、掃除にそこまで時間をかけられない。であれば、今日はこの部分。明日はあの部分、といったように掃除する部分を細切れにしてゆくと、数日後には着実にきれいになっている。きっと初日は掃除をしだすと他の部分にも手を付けたくなる衝動に駆られるかもしれません。でもそれを始めてしまうと他の予定にも影響が出てしまう。そんな衝動を我慢して少しずつ、かつ着々と。大概、金曜日になると、何か仕事で途中のものがあっても「週末もあるから何とかカバーできるだろう。今日は未完成でもいいや。」そう思っていると失敗します。仕事は仕事時間内にやり切ること。それに最大限に集中すること。週末は結局プライベートのことにも時間を割く必要がでてきますし、気が付くと時間があっという間に経っていて思っていたように未完成の仕事に費やせる時間がわずかであった。そんな経験を何度もして失敗してきました。

仕事も課題があれば、まず何をすべきかの筋道を立てて分解してから着手する。一方ずつやり遂げる。今日やると決めた部分までは着実に完了させてゆく執着力。そんなことの繰り返しが結果的に大きな結果を生み出すための積み重ねになるのだろう、自分自身の経験を通してもそう感じています。

仕事の”忙しさ”の中身をよく吟味することの大切さ / The importance of carefully examining the contents of the “busyness” of work

7年間、我武者羅に働いたモスクワでの生活。朝早くから夜遅くまで。土日もオフィスに行ったり、家で、またはカフェで仕事をしたり。そんな生活を過ごしていると自分自身の仕事を客観的に観察する余裕がなくなっていました。一体この経験がどのように自分の成長につながっているのか?その仕事の内容は本当に自分の成長の糧になったのだろうか?そういった振り返りが大切だと思います。どんなに忙しいからって自分が成長しているとは限らない。忙しくしている自分自身に”酔ってしまう”人もいるかもしれません。

今は日本に帰ってきて、ロシアの子会社をはじめとした世界中の販売子会社の数値をまとめ、分析しながら広い視点で仕事ができる、かつ、余裕をもって仕事ができることのありがたさを深く感じています。現場で苦悩した日々を経験したからこそ、それをどれだけ今現地で苦労している仲間に還元できるかが、みんなから感謝されることをしてゆくこと、それが自分自身の評価の尺度ではないかと思います。する必要のない苦悩は誰も経験しなくてよい、そう強く思います。限られた時間なのだから、もっと楽しいこと、人のためになるようなことに時間を使うべき。であれば自分自身の経験や知見を少しでも周りに分かち合いたい。

私の7年間は、ただただあちこちに飛び火する火消しに奔走していた日々。時として火事になりかけてお叱りを受ける。ようやく落ち着いて仕事が回りだしたと思ったらスタッフが退職してしまい自分自身がカバーに入らざるをえない。なかなか良い人材に巡り合えない採用活動の繰り返し。業務改革に取り組むぞ、と意気込んでいたら突然の税務署からの大量の書類提出要求。意味の分からない法制度の変更により対応に追われる…忙しさを経験することから得られることだってあります。今振り返ってみれば、自分自身がどこまでできるのだろうか、自分の強いところ・弱いところは何だろうか、そんな風に自分自身を吟味するよい経験でした。しかし、繰り返される火消し。それは組織としての在り方に何らかの問題があった、ということを認めるしかありません。今は次の世代の人たちが次のステップに向かって漸進しているとのこと。私が勤務していたロシアの会社の今後に期待しています。

モスクワで感じた不要物のリサイクルシステムの素晴らしさ / The great recycling system of unnecessary stuff that I felt in Moscow

日本に帰国して不便を感じることの中に、ゴミ収集日が決まっていること、そしてごみの分別ルールが厳密なことが挙げられます。ずっと日本で生まれ育ってきたので、それが当たり前のはずなので、それが当たり前と言われれば不便を感じないと思いますが、モスクワでの生活を経て戻ってくると、やっぱりこのシステムに不便を感じることはあります。
不要な生ごみやプラスチックごみを収集日まで自宅で管理し続けることは嫌なものです。缶詰の回収日の少なさや、可燃物の収集日を考えたうえで冷蔵庫の中身と相談する必要もありそうです。

ロシアでは、コロナウィルスの感染が始まってから不要な外出が禁止となり、外出が許可される理由の一つにゴミ捨てがありました。ゴミを毎日捨てる口実で外出しながら少し散歩もしつつ。

モスクワのゴミの処分は至ってシンプル。いらないものは何でもアパート近くにある収集場所のプラスチック箱に投げ込むだけ。電化製品でも何でもお構いなしに置いてゆきます。そんなロシアのごみ分別ルールは、違う問題があります。まったく分別ルールが整備されていない(現在は整えられつつある)、人々がそんなルールを守らない。なんでもかんでも大きなプラスチックのゴミ収集箱に放り投げる。人が処分する方法も豪快であれば、ゴミ収集車も豪快。

2019年1月より「ゴミ改革」と言われるごみ収集のルール変更があったようですが、生活している中で、大きく変わったことは感じませんでした。今思えば、通りに分別用のゴミ箱が設置されたり、ゴミ収集のプラスチックケースには分別ルールが記載され、生ごみとビン類を分けるなど、図でそれぞれのケースに入れるべきものが示されるなどの変化を感じました。


https://www.orix.co.jp/grp/move_on/entry/2019/08/09/100000

https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/01/bcf822c7dfd0a11d.html

どんなに個人的に環境に配慮して分別しても、最後に収集される場所は一つの場所にいく。だから分別しても意味がない、なんていう冗談もよく聞くことがありました。私の見たロシアではまだまだゴミ改革はこれから…そんな印象が残っています。

今回お伝えしたいモスクワで見かけたリサイクルシステムの素晴らしさ。それは、不要なものをあえて見えるところに置いておく。そうすると、しばらく経つと誰かがそれを持ってゆく。お互いに助け合いの精神が働いているのかもしれません。廃棄する側もわざわざ処分業者をアレンジすることも必要ありません。また、夜遅くにはゴミをあさっている人が見られます。人々が処分した不要物を物色しているようです。丁寧に並べられた女性用の靴、不要となったと思われる洋服、そんなものが置いてあります。翌朝にはそれらが無くなっているのを見ると、きっと次にゴミを捨てに来た人か、夜中にゴミを漁っていた人か、誰かがもっていったのでしょう。私も引っ越しの際には、不要となった冬用のコート、洋服、靴といったものを見えやすいところに置いてきました。やっぱり翌日にはなくなっています。誰かに引き継がれて役立っているいいなぁ、そんな風に思っています。

過剰品質の日本、そのジレンマとその美学 / Japanese Over-quality, its dilemma and its aesthetics

6月上旬にモスクワから帰国して実家で2週間隔離生活をしている時、久しぶりに両親とも過ごす時間が増えて懐かしい話や仕事の話をすることが多くありました。

その中で面白いな、と思った話があります。父親は機械の設計をしています。たとえば、ペットボトルのボトルにプラスチックのパッケージを貼ったり、薬品や文房具の小箱を組み立てられる、そんな工場の生産ラインの中に位置する機械の設計をしています。ラベルを1分間にどれだけ正確に多く貼り付けられるか、箱を組み立てられるか、スピードと正確性とそれを達成するための製造コストとの闘いのようです。

面白いのは、日本で相手にするお客さんは、どんな小さなしわであっても欠陥品とみなされてしまうそうです。となると、そのしわが発生しない方法を解決すべく、さらに時間と労力をかけて解決策を考える。それだけ機械の生産コストも高くなる。製造工程で、しわの発生が許されない、それは日本の価値観からすれば当たり前のように思えます。

例えば中国などのアジアのライバル会社が2,000万円で製作できるものが、日本では2,X00万円する。そうすると価格面で勝てない。そしてそこまでの高品質をアジアのお客さんは求めていないという。高品質を追求することは大切だけど、お客さんはそこまで気にしない。そのジレンマに陥っている気もします。

一方で、ロシアでは日本車が目に見えない部分にまでこだわって丁寧に製造しているか、車を分解したときにその仕事の丁寧さに感動した、という絶賛の言葉をビジネスパートナーからいただいたこともありました。

今の仕事でも同様で、たとえば仕事でエクセルファイルを利用して作成するレポート類について。罫線がどこかでちょっとしたところで縦一本欠けていたり、破線の種類が隣同士で異なっていることに気が付いたとき。自分では気持ち悪いので一つ一つのシートで問題がないかを確認する。この資料を受け取る人は、印刷をしない限りそこまで気にしない可能性が高い。今はテレワークになっていっそう紙に印刷する機会が減りました。きっと多少の線の統一がなくても問題ないはず、とおもいつつも、一方では自分自身はそこまでやらないと納得できない、やりたいんだ、という気持ちが湧いてくる。そんな部分に時間を割いていると他の仕事が溜まることに。

資料の受け手がどう感じるかを想像しながら、”もっと見栄えをよくしなければ”、とか、”もし罫線を気にせずに提出すれば、だれかはきっと私のことを「細かい部分に気が付かない奴だ」というマイナス評価をするだろうなぁ”、なんてことを別の自分がつぶやいている。

この資料は、どこまで詳細を気にして作成すべきなのか…一律の正解がないので難しいところですが、「お客さんはそこまでの高品質を気にしていない」「お客さんはそこまで気にしない」という点は、仕事の本質を見失わないためにも面白い観点だな、と感じました。相手のことを常に意識するが故の日本の美学と言えるのでしょうか。悪く言ってしまえば、独りよがりの美学なのかもしれませんが、こんな美学こそが世界に誇る日本という独特のイメージや文化を作り上げるのに役立っているのかもしれないですね。

最近入った回転ずし店でみかけたプラスチックボトルの醤油。特別な構造になっているために、ボトルをかたむけても醤油が一気に出てこないようです。ボトルに小さな空気穴が施されており、きっとそれが機能しているのでしょうか。私は、このボトルは醤油が一気に出てしまうことを防ぐ画期的なものです!とでも言うかのようにその機能が強調されている醤油のボトルをみて、「誰がそこまで気にするのだろう?そこにこだわる人がどれだけいるのだろうか?」というのが初めて見たときに素直に感じた気持ちです。もっとシンプルなボトルの構造にして、原価を下げてお客さんに提供できるほうがお客さんに喜ばれるのではないだろうか、とも思ったり。モスクワでは、いまだにガラス瓶にはいった醤油が店頭に並んでいます。昔ながらの懐かしいガラス製の醤油。それはそれで雰囲気があってよいのではないでしょうか?

レビュー:43インチのパソコン用モニターを購入しました(LG43UN700-B) / Product Review: LG 43UN700-B

日本に帰国してから、以前より気になっていた43インチのパソコンモニターをついに購入しました。モスクワで勤務していた間、Dell34インチのワイド型モニターを使用していたものの、もう一回り大きいものが欲しいと思うようになりました。現在、主な荷物は未だ日本に届かず船で送った荷物たちが届くのを待っています。現在はテレワークもあり、自宅のIT環境を整えるべく、その一環として気になっていた43インチを購入しました。モスクワにいる間に調べてゆくうちに43インチ型のモニターがあると知り、いつか試したいと思っていたものがついに実現。

Amazon: https://amzn.to/37ldbnL

購入したサイトhttps://shop.tsukumo.co.jp/goods/0401129676013/

私用のパソコンをTsukumo製を利用していることもあり、たまたまたどり着いたこのウェブサイトですが、プライベート用としても利用しているTsukumo社の公式オンラインショップということで安心して購入。このモニターを購入した時にトラブルがあり、私は偶然に見つけたTsukumo社のサイトから購入しましたが、基本的にどのお店で購入しても同じものだと思います。私の経験からすれば、電化製品は新品を購入することが結果的に正解ではないかと。帰国して幾つか購入した中古品の電化製品がありましたが、返品が続いたことがあり時間と労力の消費となったことが教訓となっています。

さて、このモニターについてはYou tubeを見ても、43インチ型のモニターに関して情報が少なく、購入前から得られる情報が少なかったことは不安を感じつつ購入。結論として、資料の全体像を把握すること、リモートワークで資料を共有して会議する場面では有効です。他方で、エクセルで細かい作業を行う場合を想定すると43インチモニターは決して使いやすいものではない、日常の作業用としては、27インチ~34インチ程度の大きさが適切な大きさなのではないかと感じています。

LG 43UN700-B 4K PCモニター [42.5型 /ワイド /4K(3840×2160)][42.5インチ 液晶ディスプレイ][43UN700B]

良い点

・画面が大きいので全体像をつかみやすい。Teamsで会議をするときに映し出される資料が見やすいことは購入してよかったと感じる大きなポイントです

・スピーカーの音声の質が高い。Youtubeも大きな画面と高音質で楽しめます。

・画質は画面の肌理が細かくてきれいに見える

・リモコンが付いていて操作しやるい

悪い点

・画面が大きく、画面も平面のため、画面の端に広がるファイルの中身確認に苦労する(視線を端から端に移すために首を動かす頻度が高くなります)

・上記ともつながりますが、モニターの適切な設置場所に困ります。通常の机の上に置く場合、使いにくいのではと思われます。今はキャスター付きの棚の上に置いて、用途に応じて向きを変えたり、近づけたり遠ざけたり、そんな風に使用しています

・私の仕事用パソコンのスペックの問題かもしれませんが、43インチのモニターにつなげて仕事をすると、エクセルの動きが遅くなり場合によっては勝手に落ちてしまうことも。画面が大きすぎてデータ処理に負担が生じている、なんてことがあるのでしょうか

今は、メインの仕事部屋とは別の部屋にこのモニターを置き、在宅勤務の時には頭を切り替えるタイミングでこのモニターを接続して仕事を数時間行う。そして再びメインの仕事場で別の作業を行う。そんな利用方法に落ち着いています。一人で在宅勤務をする上で決してなくてはならないお勧めのモニターであるか、と聞かれると、そんなことはないですよ、という答えになりますが、用途によっては1台あれば有効活用できる。そんなモニターです。

二度とやってこない情熱を駐在期間にぶつけてみて / Hit a passion for the job that never comes again during a period of working in Russia

いつも考えます、なぜ橋本氏は都構想計画にもう一度挑戦しようと思わないのだろう?って。もう一度トライすれば、初めは反対していた人たちの中から賛同者が生まれて、遂には実現する可能性があるかもしれないのに、と。

勝手に私は自分自身の気持ちに重ねて想像するのですが、もうあの情熱は二度とやってこない、自分の想いをかけて注いだ情熱が一度破れてしまった後、再度チャレンジする情熱を呼び起こすのは大変難しい。これが橋本氏が政治の道とは違う道を歩んでいる理由なのかな、と。チャレンジを行わない理由なのではないかと。

私も7年間、ロシアに駐在している間、会社に残る古い業務フローに疑問を呈し、ロシア人スタッフに促しながら一緒に改善に向かって進もうと努力しましたが、その結果は私自身が目指していた理想の結果には届かずに終わってしまいました。赴任したばかりの頃は、まず私自身が業務を把握することの忙しさ、そして、仕事へのやる気がない人、私のような新人を(立場上は私が上ですが)見下したような姿勢で接してきて会社をよりよくしてゆこうとする努力に協力の意思がないマネジャーたち。そんな彼らを入れ替えることから始まり。ようやく体制を整えた後、さぁ行くぞ、と先頭に立って提案を進めてゆくものの、変化に対する抵抗、今の現状に何も問題を感じない、というスタッフたち。会社の将来を考えると、この変革は今後も会社に残って仕事をしてゆくであろう本人たちのためになるはずなのに。

私自身は、橋本氏よりもずっとずっと小さな規模の中で会社の制度やスタッフのためになればと思いシステムや業務フローの変化にチャレンジしている。しかし認めてもらえない。本人達のメリットがあるはずだと自分では分かっていても本人たちの意見を尊重していると進まない。意見が割れる。自分の力の至らなさを感じると同時に民主主義のデメリットを感じる。

自由を人に与えることがはたしてよいことなのか?むしろ絶対的な権力のもとでの自由に従うのが正しいのでは、と。

多くの人は変化を嫌う。変革がきっと大切なんだろうと分かってはいても、新たなことへ順応する必要性に対する面倒な気持ち、現在の ー 決してベストではないけれども ー 特段問題もない状況を変えることへの反発、何か変革が必要であれば、私がいなくなってからにして、といった他人事の気持ち、そんなものが相まって、物事が進まない。

大多数の人々にとっての正しさは、マネジメントが考える正解とは異なる。彼らにとっての正解が正しいのであって、どんなに将来を見据えた構想や変化を聞いたところで、それは彼らにとっては正しいことではない。どんなに変えようと思っても変えられない限界がある。もしかするとそれは今ではなくて、10年先にようやく起こりうることなのかもしれません。

自分の想いが伝わらないことに苛立ちと虚無感を感じ、そして自分の中でかつて抱いていた変革への情熱が再び湧き上がることがない。だから、その「時」が過ぎてしまうと、再びチャレンジすることが難しく感じがられ、モチベーションも失われてしまう。モスクワを去る時に、お世話になっていた他社の方から「きっとXXXさんの熱意は現地のスタッフにもきっと伝わっているはずで、それは引き継がれてゆくでしょう」というい言葉をいただいた。そう思いたい。一生懸命にやることで味わった満足感と敗北感。この気持ちは貴重な財産です。そして、なぜ人々の気持ちも分かるようになった気がします。

会社を根本的に変革してゆく時期に民主主義は相応しくない。強力なパワーを持ったリーダーのもとに半ば強制的に全員を動かしてゆくこと。民主主義と独裁制の上手な使い分けが必要なのかもしれません。もし私自身が現地法人の社長になったらどんな風に会社を経営してゆくだろうか?そんなことを考える機会となりました。

水漏れ事件で階下の住民が早朝から押しかけてきた /Residents downstairs rushed to my room from early morning due to water leak

1930年に建築された建物が今でも十分住むに足る、という驚き。そして、内装は立派に装飾されているけれどもこうして水回りのパイプ類を目にすると、いかに建物が古く、修繕を重ねて今に至っているのだろうことが想像できます。

ついにロシアの洗礼 - アパート水漏れ。
モスクワで住んでいたアパートの建築は古く、1930年と聞いています。外見は立派な建築様式で天井も高い。しかし、中身はすっかりおんぼろです。そんなアパートでも修繕を繰り返しながら今も我々のために住居となってくれています。

何度か引っ越しを繰り返して3件目のアパートでしたが、この水漏れ事件が起こるまでの約2年間は何も問題なく過ごしてきました。

そして2020年2月8日(土)の朝7時。ドアのチャイムが鳴りました。眠くて無視していましたが止まることはなく。ドアの穴から外を覗くとご老人夫婦とおぼしき方が。ドアをあけると女性がご立腹の様子で、わめきながらずかずかと土足で私の部屋に入り、バスルームへと入ってゆきました。

どんなに私が悪いからと言っても、他人の家にことわりもなく勝手に入り込むのはどうかと思います。それはないでしょう、というのがぱっと頭に浮かんだ印象ですが怒りは最高潮に達しているようです。

「1月にも同じことがあったのよ。もうどうしてくれるの!?」

2020年の始め、私が日本へ帰国中に水漏れがあったようです。オーナーからメールが入っていて、水漏れがあったために部屋に入ったとの連絡があったことを思い出しました。

写真の通りすっかりわが部屋の水漏れが原因で侵食されている模様。それはないでしょう、というのは下の階の方のセリフかもしれません。思い返せば、金曜日の夜遅くに仕事から帰ってきた時、何かがポタポタと垂れる異常な雰囲気の音がしていたのですが、深夜で一週間の疲れも溜まっていて注意もせずに眠り込んでしまいました。翌朝になってこの女性の怒りはこれだったのか…と。

しばらくして修繕をする男性がやってきました。全体で1時間くらいだったでしょうか、無事に水の漏れも収まりました。アパートのオーナーは「1月のときに修理を担当したあの人が悪い。最後までちゃんと仕事をやらなかったに違いない」と。
怒り心頭の女性の旦那さんの会話を聞いていると、彼の奥さんはどうも裁判を始めることを考えている、という。けれでも、私はそこまでは考えていないから修繕にかかるコストを負担してくれればよいから、と。

私の思い込みで判断してはなりませんが、このような件で裁判を始めるケースはロシアの場合は決して不思議なことではないのかもしれません。私の友人も、全く同じようなケースで階下の人から訴えられ、弁護士を見つけて協議している、とのことでした。彼女はフルシチョフカと呼ばれる5階建ての古いアパートに住んでいて、いきなり古い水道管が破裂したとのこと。どうやら彼女の家の箇所が破裂したことで階下の家の家具に被害を与えてしまったのだとか。階下の人が怒っており、それなりの賠償をしなければいけないことになりそうだ、という。それでも堂々としていて、まあ仕方ないわ、と言っていました、なんともたくましい。

私の水漏れと言えば、保険適用をした結果無事に保険会社から補償されました。家は立派でも中身は古く、修繕をしながら長く使用してゆく。近隣住民との関係の大切さ。これはきっと日本と同じなのでしょうね。

自分とは異なる他人の価値観に敬意を払うこと、その難しさと格闘中。 / Respecting the values of others that are different from me, I am fighting to overcome difficulty.

日本に帰ってきて懐かしの友人たちと会話する時、ロシアで過ごした7年間は、同じ7年間といってもどれだけ見聞を広める機会となったことか。その充実していた時間を感じています。同じ場所で7年間大きな問題もなく、元気で幸せな生活を維持することもどれだけ大変なことかを考えれば、どちらの7年がすごいのかなんて比べることはできません。ただ、日本にいては決してできなかった、自分の知らない人たちや土地を訪れる機会があったこと。この点は大きな経験となっています。

チェルノブイリ原発事故のあったゴーストタウンを訪れて誰もいなくなったアパートの部屋の中や街の中を歩いたこと。ロシアがクリミアを武力で併合しウクライナの間で緊迫した情勢となって悲劇が起きたオデッサ、火事により40人近くが無くなったその現場を1週間後に訪れた時の緊迫した現場いの様子と一方で街の人々ののんびりとした様子のコントラストに驚いたこと。国際社会が認めないロシアが実効支配している地域で過ごした平和な時間、かつてロシアとの間で戦争が繰り広げられた場所を訪れて、現在のすっかり復興した街の平和な様子に驚いたことなど…思い出はたくさんあります。

ともすれば、7年間のそんな経験を経て戻ってきた日本で出会う、生まれてからずっと自らの生まれ育った街を旅行以外に出たことがない人、ずっと駐在を経験することなしに日本の企業文化の標準を当たり前と思って過ごしている方々の価値観を疑いたくなる瞬間があるのも確かです。

例えば、このパワーポイント、エクセルファイルをどれだけ完璧に仕上げることができるかが大切なんだ、これに魂を込めてやっているんだ!何かお願いする時には、決してこのベテラン女性スタッフの機嫌を損ねてはならない。何となく自分だけ違う行動をしていると、本人の自分は至って普通だけども、周りからは何となく白い目で見られている気がする。

自分にとっては決して重要とは思えないことにやたらとじっくりと時間をかける方、なぜこんなにも決断が遅いのだろう?何にそれほどまでに時間をかけるのだろう?なぜこれほどまでにコミュニケーションを重要視するのだろう、私にとってはそれほど重要ではないのに…

個人的には理解しがたいことがルールとして成り立っていること、そんなときに学ぶ教訓があります。

これがとてつもなく大切なことなんだと。そしてこれが難しい。

大企業では異なる価値観、LGBT、異なる信条に敬意を払うことを会社規定として定め、公表しているところが大半ではないでしょうか。実際に内部で働いてみると、我々も人間です。規則を頭で理解していても、心では自分の規則が自分をコントロールしています。規則は規則。でも実際は自分の価値観が自分の思いや行動を支配しています。
なんでこんな面倒なことを…一体何の価値があるんだ…?そういった内奥の自分自身が顔の表情や態度に表れてしまう。

自分自身の考える価値観とは異なる価値観に出会ったときに、素直に「そんな価値観もあるんだ、よし、やってみよう」と思えるか。

そんな行動一つが結果として相手への敬意にも繋がり、仕事をする上で円滑な関係を築くことができ、もしかすると自分自身の知らなかった大切なことを発見する機会になるかもしれません。まさに今の自分自身にとってこの点がチャレンジでもあります。

どんなに経験を積み重ねたとしてもゼロベースで接すること。相手にとって何が大切かを理解した上で発言し、行動すること。そんな行動が仕事をする上で役立っていることをこの1か月未満の中で感じる日々です。

…とはいっても、そもそも7年間足らずの海外で経験した価値観は、あくまで日本から見れば外国の価値観であり、日本には日本の価値観があり、私が現在、新鮮な視点で経験する価値観こそが日本のスタンダードなのだ。これが正解ですね、自分自身にできるところで上手に日本とモスクワで経験した価値観をミックスできるよう行動してゆきます。

日本の生産性の低さは日本の丁寧さと表裏一体 / Japan’s low productivity is closely tied to politeness of the way of Japanese conversation

日本に帰国してから早くも1か月が経過。生活のリズムも少しずつ慣れてきました。それにしてもこの雨、雨、雨。そして体にずっしりとくる湿気。モスクワの夏がどれほど快適であったかを感じています。身体が想像以上に疲れ、集中力が無くなってゆく。かといってずっとエアコンの元での生活は好きではない。適度にエアコンを使用しながらよいバランスを探しているところです。

そんな中、新しい職場で勤務し始めて約二週間が経過しました。
日本の生産性が低いといわれる所以の一つに、物事に明確な言い方を避けて、なるべく聞き手に察してもらうことを期待した会話の進め方、日本語の会話方法に問題があるのではないでしょうか。きっと多くの方がすでにこの点を指摘されているのでしょう、日増しにその思いは強くなっています。

何をしてもらいたいのか、その指示は分かるけれども、いつまでにやるべきか。具体的にどこまで掘り下げるべきか? たとえば、「締め切りはXX日までね」「了解。」その約束の期日の二日ほど前に「あれはまだできていないの?やっぱり早く欲しいんだよね」。あるいは、「この内容で関係者に依頼事項を出しておいてね。」その数日後には「やっぱりエクセルファイルを添付して、それに記入をお願いしたほうがよかったと思うんだよね…」

指示の仕方が悪い、そんなことを言うつもりはありません。「どのようなイメージのレポートが欲しいですか?」「なぜこのタイミングで急いでいるのですか?要求の背景にあることは何でしょうか?」そんな質問を部下の側からも上司にすることで、双方向のコミュニケーションとなり、そこで顕在化する課題や、新たに得られる情報が後々余分な労力と時間をセーブするのに役立つのではないでしょうか?あとは、上司の指示通りにではなく、自分自身でも深堀して考えてみる。自分なりにアレンジをしてみる。非常に多くの業務に忙殺されている中で、上司も人間ですから細かい指示、情報共有を一度で全てできないことだってあるはずです。部下から質問をしてゆくことで指示内容が洗練されて、より磨かれることだってあります。上司の責任は大きいですが、部下が上司をサポートする姿勢を自ら見せること、そうありたいと思います。ロシアで正社員が50人程の決して大きくない会社でしたが、部下を抱えながら指示を出している時に痛烈に自分の指示の限界、部下からの指摘の有難さを感じた経験があります。だからこそ、日本に帰ってきて自分自身が再び一社員として部下の立場になるときに、部下として上司のためにあるべき姿が分かったような気がしました。ロシアで、私の思っていたことと異なる結果が生じた時に部下に尋ねると「あなたの指示がこうだったから私はこうしたまでです。」という回答。振り返ればそれは決して否めないので私も部下を批判できないのですが、それでもやっぱり「ああしてくれていれば良かったのに…考えてくれなかったのかな…」という思いになったこと、ありました。

たとえばチーム内でもお互いにきっと直接言いたいことがあるのだろうけれども、黙っている。「ねえ、私の言いたいことは自分で悟ってね」という雰囲気。はっきりと物事を伝えることができればどんなに良いことか…?はっきりと伝えられない理由はおそらく、発言者の側にその言葉を発した時にその言葉が与える相手への強いインパクトを感じているから。そしてそれをなるべく避けたい。そうなると、短く話せばもっと分かりやすいのに、言葉を増やすと丁寧さの印象が増えるので言葉が多くしたくなる。言葉が多くなると一層伝わりにくくなる。相手の気持ちを考えるがゆえに言葉が増える。人格者でいることも — 決して悪いことではありませんが — 仕事を進める上では仕事の指示の理解を混乱させる要因となっているように感じます。丁寧にやろうとすればするほどにシンプルなものが複雑化するリスクをはらんでいる。面白くもあります。

会議では最後に「それでは何か質問ある方いらっしゃいますか?」…シーン…。「質問がないようなので、それでは終わります、ありがとうございました。」…しばらくして、会議に参加していた方々が立ち話をしています。「あの依頼事項は具体的には何を表しているんだろう?よく分からなかったんだよなぁ、わたしはこう思うんですよね…」一度となく会社で見る光景です。これも自分自身の質問が場の全員に関係の無いものだから他の人の時間をあえて取らないようにしよう、という気遣いに基づいているのだと思います。素晴らしいことだと思っています。一方で、意外にも自分の感じていることは他の多くの人も心の中で感じていることがあるのも事実かもしれません。そのような経験も一度ならずあります。そんなことも踏まえると、会議中に質問することこそが周りへの優しさでもあるのかもしれませんね。

仕事では、大切な特質である丁寧さが逆に機能してしまうことがある。

また、日本に戻ってきて、― 前から感じている点ですが ― ここでなぜ笑いが起こるの?と感じる場面が多々あります。なぜそこで笑うのか分からない、そして結論がうやむやになってしまう。振り返ると、あれっ、あの件って結果はどうなったんだけ?と。難しい課題になればなるほどに笑いが重要な役割を占めるのかもしれません、もしかするとはっきりとした結論が求められておらず、それはそれとして流しておくためにも笑いがあるのかもしれません…。笑いの難しさについて皆さんはどのように感じるでしょうか?

テレワークになってからは、同僚や部下、上司ととのコミュニケーションを取ることが大切にされており、定期的にMicrosoftのTeamsを利用して会話をする時間が設けられています。しかし、その会話が単に表面的なコミュニケーションに終わっていることはないでしょうか?冗談を言い合って、お互いに当たり障りのないことを言い合って時間を過ごす。笑いもあり柔らかい雰囲気を作ることはチームビルディングに大切なこと。確かにその通りですがが、真のコミュニケーションは、お互いに考えていることを正直に伝えあうこと。もっとお互いに本音で語り合う場が大切ではないかと思います。そうでなければ、ただ表面的にコミュニケーションを取っています、というだけの無駄な時間になってしまう恐れがあるかもしれません。

街中で立ち寄るコンビニで出会う土方の親方風の男性。同僚と会話する時の元気の良さ、明確な話し方。大きな声。何と分かりやすい。きっと日本人が~、日本語が~というステレオタイプの見方は誤っており、自分自身がいる環境で見聞きするもので語ってしまっている。

時として、曖昧さが生み出すプラスの副産物だってあるかもしれません。あらゆる方法に出会い、経験し、試しながら失敗と成功を味わい、それを自分自身のスキルとして身に付けるチャンスとしたいものです。