本「ロシアピアニズム」を読んで / The book ”Russian Pianism”

どれくらい前だろう。こだわりのある書店に入って目に入ってきた、思わずジャケ買いしてしまった本。本棚に飾っているだけだったその本は真っ黒なカバーにピアノの鍵盤を模している。そしてタイトルが白地で「ロシアピアニズム」。ロシアに関わっている人ならば、たとえピアノの世界から程遠い人であってもー私のようなーこの本を書店で見つけたら立ち止まって思わず手に取ってしまうのではなかろうか。いや、逆にロシアに関わりがないとしても、ピアノにゆかりのある人であれば足を止めるのかもしれない、ピアノの世界でロシアが占める大きさは計り知れないものがあるだろうから。

著者の佐藤泰一氏。新日本製鉄に勤めながら音楽評論家としても活躍されたというこの方は一体どんな方だったのだろう。ロシア(旧ソ連)のピアノ世界に関してこれほど深い知識と交流を持っていたとはただただ感嘆するばかり。(この本に少し言及されているサイトがあったのでそのリンクは下記)

ロシアン・ピアニズムを聴こう 寒い夜の心にしみる音楽

コンクールに参加する人の演奏技術や表現力は、私のような者からすればどれもが素晴らしく、甲乙つけがたい。この本を読んでいると、「内容はいまいち。」とか「(演奏が)真面目過ぎて面白くもなんともない…。」となかなか厳しいお言葉が見受けられるケースも。どうしてこれほどはっきりと批評ができるのか分からないけど、ずっと聴き続けているからこそできる評価なのでしょう。著者個人の好みもきっと反映されているのかなと思います。客観的に読み進めていくのが良さそうな本です。

間違いなく言えるのは、

  • ソ連時代から続く旧ソ連各国が作り上げてきたピアノ世界における歴史を知るために
  • ソ連が生み出してきた数々のピアニストを知るために
  • ピアニストたちの系譜図を理解するために

とてもこの本は有益だと思う。今ではYoutubeミュージックでこの本で知ったピアニストを順番に検索してはヒットした録音を家で流している。録音が古いものもあり、長時間聴いているのはちょっぴり辛いものがあるのも致し方ない。それにしてもカタカナで記載された名前をロシア語あるいは英語に直して検索ボックスに入れて、見事に欲しかった名前を探り当てるのはなかなか根気のいる作業だ。例えば偉大なピアニストであるエミール・ギレリス、スヴィヤトスラフ・リヒテル。スペルが分かるようで分からない。文字を変えて打ち換えながらようやく発見。そんなことが何度もある。

この系譜図。いわゆるピアニストたちの家系図。この系図を見れるだけでも一見の価値ががあると思う。

ピアノを弾けない私ですが、モスクワで仕事をしているときにはチャイコフスキーコンクールを間近に鑑賞する機会にも恵まれ、世界各国からやってきたピアニスト(の卵?)の演奏に聴き惚れたものだった。この芸術家たちにどうやって順位を付けられるのか当時の私には(そして今も)分からなかったけれど、頂点を極めようとする一人ひとりのピアノに向き合う姿は見る者の心に訴えるものがありました。

この本のタイトルは「ロシアピアニズム」だけれども、その内容はといえば、かつてのソ連を構成していて、今ではそれぞれが独立した国々からなるピアニズムの歴史。この本を読んでいると、当時は共和国として — 国境はあれども同じ連邦内 — これほど多種多様な人々が各地の音楽院によって育てられ、連邦中心のモスクワにやってきては世界に羽ばたいていったのかも感じ取ることができる。プーチン大統領はかつて「ソヴィエト連邦の崩壊は20世紀における地政学上の最大の悲劇であった。」と語ったけれど、かつてのソ連時代に数々の素晴らしいピアニストを輩出した世界に哀愁を抱く人たちにとっては、ソ連の崩壊はピアノ界にとっても大きな悲劇だった、と言うのかもしれない。もっとも、ピアニスト個人にとっては自由に国をまたいで活躍できる世界が広がり、西側諸国にとってもそれらピアニストたちの演奏を楽しむ機会が増えたという点で言えばソ連の崩壊はプラスだったのかもしれないけれど。

旧ソ連邦の音楽院所在地一覧(256頁)

今の時代に新聞を紙で読むことの価値について / The value of reading newspapers in print in this day

何か月か前に海外に出張したときのこと。私の席は3座席列の真ん中。通路側の隣は70代の男性でした。実のところ、搭乗する前からこの方に気づいていて、搭乗開始前から周りにいる見知らぬ外国人の方にも全く躊躇せずに話しかけている男性でした。この人の積極さはすごい…と思っていた方でしたが、まさかその方が自分の隣になるとは。席に座ってからというもの離陸直前まで新聞を開いて隅から隅までじっくりと読んでいる様子。話しかけてみたところ、女性には優しいけれども男性には取っ付き難いのだろうかなんて印象があったものの、いざ話し始めてみるとフライト中に随分と長いこと人生の先輩としての大切なアドバイスをいただきました。

そんなアドバイスの中の一つにあったのが新聞を紙で読むこと。

「おれは新聞は紙で読むと決めているんだ。みんなにも勧めているんだけどあなたもそうしなさい」と。

ネットの悪いところは自分の興味があるところばかりに目が行ってしまい、ほかの記事に目がいかないことだと。紙で読むからこそあらゆるテーマに触れることができて勉強になるのだということでした。

紙だと溜まりに溜まっていく新聞を古紙回収に出すのが面倒なんです…。そんな言い訳をしてみたところ、そんなことを悩むのか、と呆れ顔に。読み終えた新聞をこちらに手渡して「あげるから読みなさい」と。

飛行機の旅では、同じ共通の関心事を持った方と隣になって話を楽しめることはそうあることではないと思います。窓際の席には日本旅行を楽しんで自国に帰る外国の女性で、彼女も本が大好きのようでした。日本での旅行のこと、お勧めの本のことなど会話も弾み、3人で会話を楽しむことができました。この男性から「連絡先を教えて。あとで名刺をちょうだい」とのことでしたが、いざ10時間以上のフライトをようやく終えて飛行機の目的地に到着し、シートベルト着用サインも消えてさぁ降りるぞ、と荷物を整理していたらその方は何処へ?。飛行機を降りて歩き出すと、その方らしき姿は遠くに見えるか見えないか彼方のほうに。窓際にいた親切な女性はその男性を街中に向かう地下鉄の駅まで案内してあげる約束で、その女性と男性の姿はすでに視界から消えかかっていました。彼らはそのまま入国ゲートに、一方の私はトランジットのため途中から異なるルートへ。今でも時々思い出す、記憶に残るフライトとなりました。

さて、その方のお話を聞いてからというものの定期購読している日経新聞は「紙面ビューワー」のアプリをダウンロードして通常のネット版と併用しています。また、今では週末にコンビニで日経以外の新聞を購入して他社新聞のコラムなどを読む楽しみができました。どんなに電子機器が発展したとしても、我々ヒトが人間である限り、紙で活字を読むことに勝るものはないんじゃないかな、と思うところです。

[ロシア語文法]名詞の単数形と複数形 / [Russian Grammar] Singular and Plural Nouns

ロシア語名詞の単数形と複数形の変化形ルール。いつも分かったようで分かっていないがために変化形を間違い続けている。このように表にまとめてみると、意外とルールはシンプルなんだ。

単数(1)複数(1)単数(2)複数(2)単数(3)複数(3)
男性語尾が子音語尾にыを加える– й– и– ь– и́
中性– о– а– е– я– мя– мена́
女性– а– ы– я– и– ь– и

具体例は下記。

単数(1)複数(1)単数(2)複数(2)単数(3)複数(3)
男性телефонтелефонымузеймузеипутьпути́
中性словословасобраниесобраниявре́мявремена́
女性картакартынеделянеделимысльмы́сли

なお、中性形で語尾がмяで終わる単語はわずか10個(現代ロシア語の場合)

「語尾が-мяで終わるロシア語の名詞を20個教えて。」

上記のお願いをGoogle geminiにお願いしてみたところ、覚えるべき単語は10個しか存在しないようです。古語まで含めると10個を超える単語は出てくるようですが、現代ロシア語学習の観点からすると無視してよさそうです。

なお、chatGPTに同じ質問をすると、返ってきた答えは以下の内容でした。

この10個の単語を使ってプーシキン風の詩にしてみると、内容がどうかは分からないけれども、こんな風に詩の形にして言葉を覚えることができる楽しみもあるのだな、と。

今の時代にあえて現金で支払うことの意味 / The meaning of paying with cash in this day and age

買い物の時、現金を通して支払うことで人とのコミュニケーションが生まれていた過去と一人で全てが完結する現代。デジタルのお金では細かい単位も全て正確だし、チップを払うにしても簡単に割り増しして支払いすることが可能。でも何だか冷たい感じ。払う側も受け取った方も何か有難味が少ないような気もするのですがどうでしょう。やっぱりお金を支払い、お釣りにコインを受け取り、その重みを感じるところにコミュニケーションの価値もずしっと感じられるのではないかと思うのです。

今ではコンビニもスーパーもセルフレジ。完全にセルフでなくても自分で支払い方法を選択して何の会話やり取りもなく支払いまで完結する世の中に。そんなわけで店員さんとの会話がなくても何ら問題なく買い物ができるようになりました。そうなるとお店に店員がいる意味は…?最後に行き着くところはトラブル対応の店員と警備員くらいでしょうか。

便利さが不便さを上回れば上回るほどに、人と人とが気持ちを通わせる機会が少なくなっていくような気がする。個人的には現金を持ち歩きたくないけれども、日本ではまだまだ現金が便利な場面も多くあります。お金の受け渡しは売り手と買い手の共同作業であり、そこには何らかのコミュニケーションが生まれる。

タクシーでも、「お釣りは取っておいてください、お茶代にでもしてください。」「いいんですか、ありがとうございます。」そんなやり取りがその日の気分をプラスにしてくれることもある。電子マネーで支払うことももちろんできるし、チップを上乗せすることもできるのだろうけど(日本のタクシーでは経験がないけれど、仕事で出かけた欧州のとある外国のタクシーではチップを上乗せして支払うことに何ら問題は無かった。)

それでもキャッシュレス化に社会が進むことに間違いはない。現金で支払うことに価値がある、と語っている自分自身ができるだけ現金は持ち歩かないし、ほとんどの買い物は現金を使用しない生活が中心となっているのも事実。

「人間はその本性においてポリス的動物である。」という有名なアリストテレスの言葉と無理やり今回のお題を絡めて考えてみるならばどうでしょう。

「ポリス的動物」(厳密に言えば、ヒトだけでなくミツバチ、スズメバチ、アリ、ツルといった群居動物にも当てはまる)は,何か一つの共通の活動に携わるという特性を有していて、彼らは自分たちが形作る「ポリス的共同体」のためになる何らかの善を追及するという特性を有しているのである

参考文献:アリストテレスとディオゲネス (山川 偉也)

上記を言い換えるならば、現金というものを介在して売り手と買い手の間に生じていた共通の活動に携わる機会が減少し、一人ひとりが善を追求することからいつの間にか遠ざかっているのかもしれない。“(売ってくれて)ありがとう”、“(買ってくれて)ありがとう”そんな言葉を発する機会を現金は与えてくれていたのかも。こんな風に考えると、現代社会は本来の人間が持つ特性であるポリス的動物性を奪ってしまっているのかもしれません。

きっと現金が正解、ではなくて、何かしら人と人とを結びつける何らかの手段(現金で支払うというのはそのうちの一つ)があればそれでよし。もしかしたら今の世の中に敢えて非効率的なことを求めることが重要な意味を持つようになるのでは。(例:何でもオンラインショップで購入して宅配ボックスで受け取るのではなくて、実際のお店に出かけていき、そこで店員との会話を通してコミュニケーションを取ってみるとか。人との接点を増やすことを意識すると良いのかもって思ったり。)

デジタル化が進む現代だからこそ自分自身が生み出せる“善”を意識すること。人との接点が生まれる日常生活の場面を大切にすること。そんなことを思いながら無理やりに現金とアリストテレスの言葉を繋げて考えてみました。

„Человек вне общества — бог, или зверь.“ Аристотель(社会の一員であることを必要としない人間がいるとしたら、それは神か獣。— アリストテレス)

トルストイ「光あるうち光の中を歩め」を読んで / Reading Tolstoy’s “Ходите в свете пока есть свет”

昔、何かの本を読んでいてこんな小話があったと記憶してます。「ロシアとイギリスの作家が会話をしていた。ロシアの作家「ロシアには偉大な長編小説が存在するのに、どうしてイギリスにはそんな作品が無いのか?」するとイギリスの作家が答えました。「そんな長編小説を書いていられるほどの時間が無いから。」Google Geminiにそんな小話があるのか聞いてみたところ、残念ながら見つけられなかった代わりに下記のようなお話にまとめてくれました。

イギリスとロシアの小説家

ある文学会議で、ロシアの著名な小説家とイギリスの著名な小説家が隣り合わせになりました。

ロシアの小説家が、自国の文豪たちが書いた壮大な長編小説について熱く語りました。 「我々のトルストイは『戦争と平和』を書き、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』を書き上げた!何千ページにも及ぶ、人生の真髄を深く探求した大作だ!」

それを聞いたイギリスの小説家は、ティーカップを一口すすり、穏やかながらも鋭い目でこう答えました。 「ええ、素晴らしいですね。でも、正直なところ、そんなものを書く時間があるなら、もっとたくさんの短編小説を書いて、早くパブで一杯やりたいものですな。人生は短い、無駄なことに時間を費やしている暇はありませんよ。」

ということもあって自分の貴重な時間を無駄にしないようにとロシア文学の長編作品を避けているわけではないのですが、いつか長編小説をじっくり読んでみたいと思いつつも挑戦することを延ばしつつ今に至ります。最近手にした本も小作品。トルストイの作品「光あるうち光の中を歩め」を読んでみました。以前に読書家の方が本を処分するというのでロシア関係の書籍をまとめて頂戴した中にあった文庫本で約110ページほどの本。読みやすく一気に完読しました。この本の内容をまとめると、— 訳者の解説から抜粋ですが ―「福音書に伝えられているキリストの教えに従って生きよと説いた晩年のトルストイ思想を、きわめてわかりやすく示している作品。…この作品では、…古代キリスト教の世界に行きぬく青年パンフィリウスと、さまざまな欲望や野心、功名心などの渦まく俗世間にどっぷりつかっている青年ユリウスという二人の人物を中心に、トルストイの思想が…述べすすめられる。…現世に絶望したり、自己嫌悪におちいったりして、何度かパンフィリウスの住む世界へ走ろうと志しながら、そのたびに、疑惑や迷いにはばまれて、ふたたび俗世界に舞いもどっては、そこでまた一応の成功をおさめ、パンフィリウスの思想を否定するにいたるユリウスの姿が…生きいきと描かれているため、俗世界における性的な愛とか、私有欲、名誉心などといったものが、いかに力強くわれわれを金縛りにしているか、トルストイの理想とするキリスト教的自己感性の障害となっているかが…示されている…。」

実際、読んだことがある聖書の福音書に書かれている言葉には実生活に役立つ教訓も多いと思います。そういえば、ずっと昔に書店の本棚を見るとビジネスパーソン向けに役立つ聖書から取られたハウツー本があったことを今でも記憶に残っている。例えば、こんな言葉は私生活でも仕事場でも有用な言葉ではないでしょうか。

  • ルカによる福音書/ 6章31節 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
  • ルカによる福音書/ 16章10節 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。

この本の最後の部分には、ユリウスがこれまでの生活を捨ててパンフィリウスの世界に入ったとき、自分にできる仕事は無いのかと出かけて行った第一の畑。そこには立派な葡萄がなっていて働き手も十分に足りていたために自分の役立つ場所がなかった。続いて進んでいった先にあった第二の畑は実はやや少ない、いささか古い葡萄畑。そこでもやはり働き手は足りていて自分の居場所を見つけられないユリウスが最後にたどりついたのは空っぽの葡萄畑。一粒の房だって実っていないような畑。自分には何もできることがない。その畑に「俺は何の役にも立たない。」と自分の境遇を重ねてユリウスは悲しみに浸る。(本の中でユリウスは、過去にパンフィリウスの世界に飛び込もうと2回決意するもその都度俗世間に留まることに決め、ついに3回目にしてようやく飛び込んだ。「もし最初の決意のときにここに来ていれば、自分の生涯も最初の畑の果実のようだったろうに。」と、彼の人生を葡萄畑に重ねている)

トルストイのキリスト教思想というのは、私にはWikipediaで読んだレベルの知識しか無いのでそれ以上を知らないけれど、この本を読んだだけでも、もし人がお金や社会的な立場、名声といったものを一切捨てて、ただただ人のために自分に何ができるだろうかと考え、実践してゆけるのであればきっと世界は大きく良い方向に変わるのだろう。でもそれが出来ないところに人間としての葛藤がずっと続いてゆくのだろうけど。

そんなユリウスに一人の老人が声をかける。「もしユリウスがもっと働き盛りの時に神への奉仕に献身していたら、…倍も、十倍も、百倍も、余分にやったに違いないと言うだろう、と。でも神さまの前においてはそんなこと取るに足らぬ大海の一滴だと。存在するのはまっすぐなものと曲がったもの。大切なことは、まっすぐな道を発見した今、過ぎ去ったこと、大きいこと小さいことを考えないこと。神にとってはすべてのものが平等なのだから。一つの神と一つの生があるだけ。」こうしてこの本は終わっている。

トルストイが説くキリスト教はさておき、短い話の中にも得られる教訓が詰まっていました。誰でも年齢を重ねると出来ることが少なくなると感じるもので、もっとあの時にこれをあれをやっておけば良かったなぁ…と過去を振り返って凹んでしまうことだってある。それでも、自分がこれまで経験してきたことは何だか遠回りしていて、時間を無駄にしてしまったと思うことがあるとしても、その経験が今の自分という固有の人間を形作っているんだ、ということ。そして人と比べないこと。それをトルストイは「一つの神と一つの生があるだけ」、つまり全ては神さまと自分自身との一対一の関係の問題であって他人は関係ないんだ、ということを言いたかったのではないだろうか。

もしトルストイの思想が今この瞬間に地球規模で実現したとしたら一瞬にしてウクライナ戦争も止まるのに…キリスト教を信じると奉ずる国同士がお互いの国民を攻撃し合っている矛盾。トルストイが今の時代に生きていてこの状況を見たらどんな言葉を発するのでしょうか。

ソ連はエコの点で一周遅れで世界の先を行っていた?/ Was the Soviet Union a step behind but also ahead of the world in terms of eco-friendliness?

今現在購読しているNewsPicksの上記の番組が面白かった。そして、大学時代に授業で教授がかつて話していた、”ソ連は一周遅れで世界の先を行っていた。”という話を思い出しました。

この番組のオチは、今の熾烈なAI時代の闘いにおいてアップルがすっかり出遅れている。でもそれって実はアップルが安泰なのかもしれないっていうこと。なぜならば、AIをやっている人物がアップルにいないがために他の企業からの人材の引き抜きもないから。取られていないのは他社から見れば取りたい人材がいないからとも言えるのだろうけど。AI時代に真っ先に死んでいるのはデジタルメディアであって、紙媒体で読者に読んでもらっている新聞社のほうが実は生き残るのでは、と。「勝ったと思ったら地獄の一丁目かもしれない。」なんてことも…。というのがこの番組です。

冒頭の”ソ連はエコにおいて一周遅れで世界の先を行っていた”、という話の内容は牛乳瓶のことです。世界では牛乳の容器を紙パックに移行する中でソ連は牛乳瓶が利用され続けていた。世の中リサイクルの価値が認識される中で実はロシアが世界の先に行っていたということを教授は話していたのでした。

Wikipediaより:牛乳瓶について

さて、こんな以下の質問をGoogle Geminiに質問してみました。

Q:牛乳瓶はエコなのか?世の中が紙パックに移行する中で、ロシアは牛乳瓶を利用し続けたというのは本当か?牛乳瓶は結果的に再利用で地球に優しい、よって牛乳瓶が利用続いていたロシアは世界の一周遅れで世界の先を行っていた、と言える?

その回答はというと、以下のように客観的に分析された答えが返ってきました。

A:牛乳瓶のエコフレンドリー度とロシアでの利用状況についてですね。複雑な問題なので、一つずつ見ていきましょう。


牛乳瓶は本当にエコなのか?

牛乳瓶が紙パックよりエコかどうかは、一概には言えません。 確かに、ガラス瓶は何度も洗浄・殺菌して再利用できるため、リサイクルではなく「リユース」の観点では優れています。しかし、エコかどうかを判断するには、製品のライフサイクル全体を考慮する必要があります。

考慮すべき点:

  • 製造時のエネルギーと資源: ガラス瓶の製造には高温が必要で、多くのエネルギーを消費します。
  • 洗浄・殺菌に必要な水とエネルギー: 再利用するためには、高い衛生基準を満たすための洗浄・殺菌プロセスが必要で、これにも水とエネルギーがかかります。
  • 輸送時の重量: ガラスは紙やプラスチックに比べて重いため、輸送時の燃料消費が増えます。
  • 破損率: 輸送中や消費者の手元で破損するリスクがあり、その場合は再利用できません。
  • 回収システム: 消費者からの回収システムが効率的に機能しているかどうかも重要です。回収率が低いと、再利用のメリットは薄れます。

一方で、紙パックも一見エコに見えますが、防水加工のためのプラスチックやアルミ箔が使われているため、完全に紙としてリサイクルできない場合もあります。また、製造には森林資源が必要です。

結論として、単に「リユースできるからエコ」と断じるのは難しいです。それぞれの素材が持つ特性と、それを運用するシステム全体のエコ効率を比較する必要があります。


ロシアは牛乳瓶を利用し続けたというのは本当か?

はい、本当です。 ソ連時代からロシアにおいては、牛乳やケフィアなどの乳製品がガラス瓶で流通しているのが一般的でした。ソ連崩壊後も、紙パックやプラスチック容器の普及は進みましたが、ガラス瓶の利用は根強く残っていました。 特に地域によっては現在でもガラス瓶の牛乳を見かけることがあります。

これは、社会主義経済下での計画生産、リユースシステムの確立(デポジット制など)、そして国民の慣習が背景にあります。欧米諸国が紙パックや使い捨てプラスチック容器に急速に移行したのに対し、ロシアは異なる経済・社会システムの中で、既存のインフラを維持し続けた結果と言えます。


ロシアは世界の一周遅れで世界の先を行っていた、と言えるか?

これは非常に興味深く、議論の余地がある視点です。

  • 「一周遅れ」の側面: 多くの先進国が使い捨て容器による大量生産・大量消費の効率性を追求し、消費者の利便性を高める方向へ進んだという点では、ロシアは「遅れている」と見られるかもしれません。経済的な効率性や多様なパッケージングの選択肢という点では、確かに欧米に後塵を拝していました。
  • 「世界の先を行っていた」の側面: 現代において、使い捨てプラスチックによる環境問題が深刻化し、各国が「脱プラスチック」「リユース推進」へと舵を切りつつあります。この文脈で見ると、ロシアが結果的にリユース型容器を使い続けていたことは、ある意味で時代の「先を行っていた」、あるいは「未来を見据えていた」と評価できる可能性があります。

これは、意図せずして環境負荷の低いシステムを維持していた、という見方もできます。当時、環境問題への意識が今ほど高くなかった中で、社会システムの結果として環境に優しい側面が維持された、という皮肉な状況です。

したがって、「一周遅れ」と「世界の先を行っていた」は、それぞれ異なる価値観や時間軸で評価された結果と言えます。経済成長と利便性を追求した結果、環境問題が顕在化した現代において、かつてのシステムが再評価される動きがある、ということが言えるでしょう。

モスクワを離れてすでに何年も経過するので、今の現地の生活様式を実感できませんが、当時モスクワに住んでいた頃に好んで利用していた健康志向の食料品店、ВкусВилл。瓶に入っている牛乳は当時あっただろうか…記憶にありませんが、私がよく購入していた牛乳はプラスチック容器に入っていたもの。それほど日数が経過していないにも関わらず、気が付けばヨーグルトのようにドロドロなっていたことがありビックリしたことが何度もありました。果たしてВкусВиллの乳製品はとりわけ新鮮だったということでしょうか。

語学学習アプリ”Ling”を使い始めて / I just started using the language learning app “Ling.”

ここ最近はDuolingoでの語学学習をストップしています。Duolingoには算数を学べるコースもあり、数分でさっと終えることができるこの算数コースは頭の体操も兼ねて毎日続けています。そのおかげもあって今では継続820日を超えるまでになりましたが、本流の語学学習は全くの手つかずとなればランキングはどんどん下降線をたどる一方…。私の使い方に基づく個人的な感想になりますが、Duolingoでは自分の目指す語学の上達を目指すのは難しいんじゃないかな、という印象です。ユーザーが学習を継続することを楽しませてくれるDuolingoは非常によく出来ているなと実感します。アプリの反応も良いですし、達成することの喜びを与えてくれます。一方で、Duolingoで継続できていることに満足している時には、「本来の目的は何だっけ?この言語を話せるようになることではなかったっけ?これだけ継続している自分は果たしてその目標に達しているだろうか?もしできていないとしたらなぜ?」と立ち止まって考えてみるのが良いのかな、と思っています。

インターネット上で色々と検索している中、マイナーな言語も学習できる、という評価を得ていた学習アプリ”Ling”と出会いました。今では専らウクライナ語の学習に利用していて、今では50日近く継続中です。毎日少しだけ利用しています。

LingのUIについて言えば、全てにおいてDuolingoから劣ります。それだけDuolingoは学習”中毒”になるような工夫がされている、ユーザーの心を掴むために工夫されているものと感心します。それでも、体系的にテーマ毎に学べることやネイティブスピーカーと思われる方の生の声を聞くことができることはDuolingoとは違った良さがあると感じています。実際の学習効果は分かりませんが、一連のレッスンを完了できるまで続けてみようと思って取り組んでいます。Duolingoにしてもそうですが、やっぱり毎日継続できているというのは気分が良いものです。あとはそこに本来の目的である語学の上達が達成できているかを吟味したいものです。

語学の学習というのは、時間のかかる地道な試行錯誤の繰り返しとなりますが、その時の自分のレベルに合った無理なく継続できる方法を見つけてゆくしかないのではないのかもしれません。

ロシア語といえば、NHKラジオ講座の応用編を楽しみながらコツコツと文法の勉強をしたり、NHKニュースのロシア語記事を読んだり。外国語学習は音読することの効果が大きいとのことです。そんなわけで、ロシア語の子供向けの本を、出来ても最大10分間ほどではありますが、声に出して読むようにしています。表現が比較的平易ですし、自分の発音の問題や苦手な部分が発見できるのも良い点です。

ウクライナ語についてはまだまだ初歩レベルではありますが、podcastを聞いたりしているとウクライナ語の響きの美しさを感じています。具体的にどんなところが?と尋ねられるとまだ上手に答えられないのですが…感じる美しさがそこにあります。

購入したウクライナ語の文法教科書「ニューエクスプレス ウクライナ語」の前書きによると、「文学に限っても優れた作家が数多くいますが、ほとんど世に紹介されず、当然知られていません。いま皆さんは、それを原文で読む可能性を手にしようとしているのです。」とありました。またウクライナ語についての説明では「ウクライナ語は、いわばダイヤの原石で…音楽性豊かなことが特徴です」のこと。自分なりにウクライナ語の魅力を言語化できるレベルにまでウクライナ語の理解を深めていきたいと思って学習中です。

懐かしいロシアのお菓子 / Nostalgic Russina sweets!

このお菓子たちを毎日食べるとしたらきっと健康に悪いんだろうな…と思いつつも、この味を口にするとあの時のモスクワ生活を思い出しました。それにしても日本のパン屋さんで黒パンを手にすることができればどんなに嬉しいことか!いくつかのお店で黒パンを作ってくれないか尋ねてみたけれど、(少なくともそのパン屋さんの)お客さんは菓子パンのような味を好んでいて、黒パンのようなパンそのものの味を好む層が少ないことから採算が取れず作っていないんです、とのことでした。

皆さんもこの食べ物を口にすると、昔のあの時代、あの場面を思い出す、そんなことがあるのではないでしょうか。

欧州へ海外出張に出かける機会があり、帰国する直前に立ち寄ることができたロシア系のスーパーマーケット。懐かしのロシアのお菓子や食品を見てモスクワ生活を思い出しました。

お店にはレジが2台。ご年配の女性と40代くらいの女性二人の店員。年配の女性が陣取るレジがどうやら上手く立ち上がらないみたい。この女性二人が大きな声でやり合っている。若い方の女性がお客さんの買い物商品のバーコードをスキャンしながら「✖✖✖を押して、ああしてこうして…!」と大きな声で説明しているけど、年配の女性が負けじと「言われたようにしているけど全くにっちもさっちもいかないのよ!」と返す。結局一つのレジに私も含めて7,8人が静かに並んでいる。前に立っていた女性に「ここにはよく来るのですか?」とロシア語で声をかけたけれども、どうやらロシア語話者ではなかったみたい。怪訝な顔をされてレジの女性を指していた「彼女なら(ロシア語が)分かるから彼女に話して」と言っているようだった。

レジは忙しさそのもので、結局何も話すことができずにお店を後にしたけれど、この女性二人のやり取りが何だかかつてモスクワのスーパーで見た光景だな、と微笑んでしまった。

お店の外では移動販売車がペリメニ(水餃子のようなもの)やシルニキ(チーズをメインとしたパンケーキの一種。数個食べるだけでずっしり腹持ちが良い、と個人的には思っている)が販売されていた。「私は日本から来ました、ここでこれらの食べ物に出会えてとっても嬉しいです」と言うと、お店の女性は「私はウクライナから」とのこと。私の後ろにも3,4人が無言で立ち並んでおり、ゆっくりすることができなかったのは残念。もっと常連になれば心を開いてくれてもう少し突っ込んだ話もできるのかな、日本人という立場だからこそ出来ることがあるのかな、と思ったり。

それにしても異国の町で自分が知っている言葉が聞こえてきて、その人たちがどんなことを会話しているのかが分かるのって本当に嬉しい瞬間。その人の母国語で語る言葉にはその人の気持ちが乗っているわけだし、お互いに英語を喋ってコミュニケーションが取れるから良いというわけではない。もしもう一歩踏み込んだコミュニケーションを取りたいのであれば、相手の母国語で話をしてみる。その人の反応が変わる瞬間でもあり、話せることはとっても良いことだと思う。人への関心を常に持ち続けることにも繋がるし。出張先の現地の言葉はさっぱりダメですが、それでもGeminiを使って翻訳してそれを少しでも口に出そうとすると反応が違う気がしました。それだけでその国に対する印象も変わるし、もっと勉強したいというモチベーションアップにも繋がる。

翻訳ツールが発達してくる中でも言語を学ぶことの大切さはやっぱりあるんだなぁ、という認識を再び強めることになりました。

Duolingo学習775日継続中。/ Duolingo study, 775 days ongoing

今日で今年度が終わって明日からは新しい年度が始まります。気がつけばDuolingoも先日で連続775日を突破しました。

Duolingoの仕組みは分かりませんが、続けていると新しいフレーズが出てきているように思えます。応用編とも思えるようなフレーズもありますし、これが使えたら「おっ!」とネイティブにも思ってもらえるようなものも増えてきた気がします。これからも継続してゆくならば、いかにもロシア語を話せている!といったフレーズに出会うことができるのでしょうか、楽しみです。

自分が話したいフレーズをロシア語に訳してみる。その積み重ねが言語の力をつける一歩なのかな、と。教科書に書いてあるフレーズをなぞっていると、分かったように思えても身についていなかったり。きっと自分が話したい言葉をロシア語に訳す、そのプロセスには頭の中で考察する動作が入っているので、脳みそもフル回転で働いているのだと思います。その結果、脳みその中に記憶として定着しやすくなるのでしょうか。プログラミングの勉強でも言えることかもしれませんが、教則本に沿って作成してみたものはどんなに手を動かして実際に作成したとしても身についていないことが多い。一方で、自分で作りたいと思うものを作ると、自分でこれを実現するのはどうすればよいのか?、あーでもないこーでもないと延々と考えて試行錯誤を行う過程で理解が追い付いてくるのだと思います。

最近いいな、と思っているのはGeminiを利用して翻訳してもらうこと。例えば以下のようなフレーズをロシア語に訳して、と頼むと説明付きで答えを返してくれます。これはChatGPTでは無い機能で、Geminiのほうが言語系と相性が良いのでしょうか。(あるいはChatGPTを使いこなせていないだけなのかも)

とGeminiにお願いすると次のように返してくれました。

さらに音声を再生しても流暢なロシア語でフレーズを読み上げてくれます。文章の完成度はネイティブの方に評価していただかないと何とも言えませんが、文法に則った正しい文章になっているのではないでしょうか。

最近Youtube Musicでパット・メセニーの音楽をよく聴いています。そのためか下記の動画が推奨に表示されました。この動画の説明で特に面白かったのは、「昔のプレイヤーは理論を分かってはいなくても実際にその理論に沿った演奏ができていた」ということ。ジャズでも理論は大切に違いありませんが、理論だけに偏って勉強し、頭に知識を詰め込んだからといって良い演奏ができる保証はありません。ギターを演奏する技術も必要ですし、歌える心も大切で、それを演奏で表現できるギターの演奏技術も必要です。それは言葉を学ぶ点でも一緒に違いありません。たとえロシア語文法を理解できていないとしても、Duolingoで学ぶフレーズを自然と話すことができれば、ロシア語で表現できるスキルが身についたことになります。後から文法と照らし合わせてみれば、そのフレーズがどんな構成になっているのかを理解できます。Duolingoだけでは足りないし、文法の勉強に偏ってもダメ。深く考えすぎずにゆるりとバランスよく学習してゆくことが、ロシア語学習を楽しく長く続けてゆくためのヒントなのかな、と思うところです。今年はウクライナ語も日々継続してDuolingoで学習中ですが、こちらはさっぱり文法学習がおろそかになっています。明日からいよいよ新年度。新たな気持ちで教科書も開いてウクライナ語もバランスよく学んでゆこう。そして「ウクライナ語も話せます。」と言えるようになりたい。そんな抱負を胸に明日からも言葉の学習を楽しんでゆきたいと思っています。

皆さんにとっても明日からは色々なことへのチャレンジが待っている新年度が始まります。誰しもがうまくいかずに凹むこともあるに違いありませんが、一歩ずつ毎日コツコツと継続することで自分の目標が着実に一歩ずつ近づきますように…。

ウクライナ難民との交流会で学んだこと / Insights gained from the meeting with Ukrainian refugees

昨年、私が住んでいる街に避難しているウクライナ人の方々との交流会があることを知りイベントに出席してきました。

交流会の前半では、ウクライナの現地からYoutubeでウクライナ情勢を定期的に発信しているというウクライナ人の方によるお話。インターネットを介して直接声を聞くことが出来ました。

素直な印象としては、一方的にお一人だけの話を聞いてその全てを鵜呑みにすることの危険さを感じました。Youtubeではウクライナ関連の情報を検索してみると、勇敢なウクライナ軍がどれだけロシア軍を撃退しているかといったウクライナ側の立場に偏ったニュースがお勧め動画として出てくる。とすればそのまた逆も然り。人は自分が聞きたいと思うものを好んで聞く。きっと誰しも人間であればそういった兆候を持っていると思います。耳に入ってくる情報をどのようにフィルターをかけて真実を見出せるのか、これは至難の業に思えます。そしてその力を身に付けることがこれから一層重要な意味を持つようになっているのは確かに違いありません。

ご本人が言っていた内容で印象に残っているのは下記の2点です。

戦争が始まると、「国を守るぞ」と戦争前にはあれほど熱く語っていた目立った人ほど先に国外に逃げていった。国を守ろうとしているのは全く目立たなかった人たち。何かが起こったときに人の本当の姿が見える、ということ。

2/24にロシアが侵攻してくる直前まで「大丈夫、戦争は起きない」とウクライナ政府は言っていた。しかし政府は知っていたはず。もし戦争が起こると事前に発表してしまったら多くの人が避難してしまうに違いない。国を守る人がいなくなってしまうというのも分かっていたのであえて発表しなかったのではないだろうか。それで、政府の発表をそのまま信じてはダメだ。何でも見聞きした情報は自分の頭で考える必要がある、と。

交流会でいただいた資料によると、「ウクライナ語は確かにロシア語と同じスラブ語族に属しているけれど、ロシア語よりも周辺の言語と文法や音韻的な特徴を多く共有している。…」つまり、ウクライナ語をロシア語と同じと思わないで、という強い意思を感じました。実際のところ、私がウクライナ語を学習しているDuolingoでの内容はいたって初学者レベルのものでしかありませんが、それでもロシア語と随分と似ているな、という印象の語句も多くあります。実際にウクライナ語の文法を勉強していなくても、ある程度ロシア語文法や単語を理解しているならば比較的容易に最後のレッスンまで到達してしまうのですから、やっぱりウクライナ語は決してロシア語とは似ていない!と誇張するのは誤っているのでしょう。(私のロシア語文法のレベルはまだまだ発展途上であり、まして文法書を開いたことがないウクライナ語について言えばウクライナ語を語る資格すらないことを認めざるを得ませんが)

ウクライナの友人にこの件を話すと、「ウクライナでも多くの人々がロシア語を話している。戦争が起こってロシア語は使いたくないという人がいるのが事実だとしても、生活する上では必要なものであれば(ロシア語無しで)どうしようというのか」と言っていました。

イベントの質疑応答の時間、避難しているウクライナ人に「ロシア語との共存はないのか?」と聞いたところ、全員が話し合った後に一人の人が代表してコメントしてくれましたが、「もうロシア語を話したいとは思わないし、将来自分に子供が出来たとしても自分の子供にもロシア語を教えたいとは思わない。」とのことでした。この戦争を機にロシアととウクライナの間で決定的になったと思われる亀裂の深さ、その深刻さを外国人である日本人の私には、どんなに理解しようとしても入り込めない深さのものを感じ取った瞬間でした。

今回のことを通して学んだことは、ロシア語は話せるので何か役に立てばと思ってボランティア登録したウクライナ難民のサポート支援活動。その気持ちはあったとしても難民たちの「憎きロシア」という感情(資料には、ロシア帝国・ソヴィエト連邦の下でウクライナ文化やウクライナ語が抑圧されてきたこと、1932年~1933年にかけて起こった”ホロドモール(大飢饉)”の記述もありましたが、そういった史実を垣間見るだけでもロシアとウクライナの間の複雑な関係を想像することができました)。その憎しみの感情が私自身の心に与えるネガティブな影響。それらを考慮すると、ロシア語が現地で話されている言葉の一つであるからといって、単にロシア語を生かした支援活動ができる!とは言えないことを学びました。むしろどちらの言語でもない、世界共通語である英語を選択するほうが良かったりするのかもしれません。

そんなこともあり、ウクライナ語でウクライナ人と会話できたら…というのがウクライナ語を少しずつ学習する動機となっています。