昔、何かの本を読んでいてこんな小話があったと記憶してます。「ロシアとイギリスの作家が会話をしていた。ロシアの作家「ロシアには偉大な長編小説が存在するのに、どうしてイギリスにはそんな作品が無いのか?」するとイギリスの作家が答えました。「そんな長編小説を書いていられるほどの時間が無いから。」Google Geminiにそんな小話があるのか聞いてみたところ、残念ながら見つけられなかった代わりに下記のようなお話にまとめてくれました。
イギリスとロシアの小説家
ある文学会議で、ロシアの著名な小説家とイギリスの著名な小説家が隣り合わせになりました。
ロシアの小説家が、自国の文豪たちが書いた壮大な長編小説について熱く語りました。 「我々のトルストイは『戦争と平和』を書き、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』を書き上げた!何千ページにも及ぶ、人生の真髄を深く探求した大作だ!」
それを聞いたイギリスの小説家は、ティーカップを一口すすり、穏やかながらも鋭い目でこう答えました。 「ええ、素晴らしいですね。でも、正直なところ、そんなものを書く時間があるなら、もっとたくさんの短編小説を書いて、早くパブで一杯やりたいものですな。人生は短い、無駄なことに時間を費やしている暇はありませんよ。」
ということもあって自分の貴重な時間を無駄にしないようにとロシア文学の長編作品を避けているわけではないのですが、いつか長編小説をじっくり読んでみたいと思いつつも挑戦することを延ばしつつ今に至ります。最近手にした本も小作品。トルストイの作品「光あるうち光の中を歩め」を読んでみました。以前に読書家の方が本を処分するというのでロシア関係の書籍をまとめて頂戴した中にあった文庫本で約110ページほどの本。読みやすく一気に完読しました。この本の内容をまとめると、— 訳者の解説から抜粋ですが ―「福音書に伝えられているキリストの教えに従って生きよと説いた晩年のトルストイ思想を、きわめてわかりやすく示している作品。…この作品では、…古代キリスト教の世界に行きぬく青年パンフィリウスと、さまざまな欲望や野心、功名心などの渦まく俗世間にどっぷりつかっている青年ユリウスという二人の人物を中心に、トルストイの思想が…述べすすめられる。…現世に絶望したり、自己嫌悪におちいったりして、何度かパンフィリウスの住む世界へ走ろうと志しながら、そのたびに、疑惑や迷いにはばまれて、ふたたび俗世界に舞いもどっては、そこでまた一応の成功をおさめ、パンフィリウスの思想を否定するにいたるユリウスの姿が…生きいきと描かれているため、俗世界における性的な愛とか、私有欲、名誉心などといったものが、いかに力強くわれわれを金縛りにしているか、トルストイの理想とするキリスト教的自己感性の障害となっているかが…示されている…。」
実際、読んだことがある聖書の福音書に書かれている言葉には実生活に役立つ教訓も多いと思います。そういえば、ずっと昔に書店の本棚を見るとビジネスパーソン向けに役立つ聖書から取られたハウツー本があったことを今でも記憶に残っている。例えば、こんな言葉は私生活でも仕事場でも有用な言葉ではないでしょうか。
- ルカによる福音書/ 6章31節 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
- ルカによる福音書/ 16章10節 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。
この本の最後の部分には、ユリウスがこれまでの生活を捨ててパンフィリウスの世界に入ったとき、自分にできる仕事は無いのかと出かけて行った第一の畑。そこには立派な葡萄がなっていて働き手も十分に足りていたために自分の役立つ場所がなかった。続いて進んでいった先にあった第二の畑は実はやや少ない、いささか古い葡萄畑。そこでもやはり働き手は足りていて自分の居場所を見つけられないユリウスが最後にたどりついたのは空っぽの葡萄畑。一粒の房だって実っていないような畑。自分には何もできることがない。その畑に「俺は何の役にも立たない。」と自分の境遇を重ねてユリウスは悲しみに浸る。(本の中でユリウスは、過去にパンフィリウスの世界に飛び込もうと2回決意するもその都度俗世間に留まることに決め、ついに3回目にしてようやく飛び込んだ。「もし最初の決意のときにここに来ていれば、自分の生涯も最初の畑の果実のようだったろうに。」と、彼の人生を葡萄畑に重ねている)
トルストイのキリスト教思想というのは、私にはWikipediaで読んだレベルの知識しか無いのでそれ以上を知らないけれど、この本を読んだだけでも、もし人がお金や社会的な立場、名声といったものを一切捨てて、ただただ人のために自分に何ができるだろうかと考え、実践してゆけるのであればきっと世界は大きく良い方向に変わるのだろう。でもそれが出来ないところに人間としての葛藤がずっと続いてゆくのだろうけど。
そんなユリウスに一人の老人が声をかける。「もしユリウスがもっと働き盛りの時に神への奉仕に献身していたら、…倍も、十倍も、百倍も、余分にやったに違いないと言うだろう、と。でも神さまの前においてはそんなこと取るに足らぬ大海の一滴だと。存在するのはまっすぐなものと曲がったもの。大切なことは、まっすぐな道を発見した今、過ぎ去ったこと、大きいこと小さいことを考えないこと。神にとってはすべてのものが平等なのだから。一つの神と一つの生があるだけ。」こうしてこの本は終わっている。
トルストイが説くキリスト教はさておき、短い話の中にも得られる教訓が詰まっていました。誰でも年齢を重ねると出来ることが少なくなると感じるもので、もっとあの時にこれをあれをやっておけば良かったなぁ…と過去を振り返って凹んでしまうことだってある。それでも、自分がこれまで経験してきたことは何だか遠回りしていて、時間を無駄にしてしまったと思うことがあるとしても、その経験が今の自分という固有の人間を形作っているんだ、ということ。そして人と比べないこと。それをトルストイは「一つの神と一つの生があるだけ」、つまり全ては神さまと自分自身との一対一の関係の問題であって他人は関係ないんだ、ということを言いたかったのではないだろうか。
もしトルストイの思想が今この瞬間に地球規模で実現したとしたら一瞬にしてウクライナ戦争も止まるのに…キリスト教を信じると奉ずる国同士がお互いの国民を攻撃し合っている矛盾。トルストイが今の時代に生きていてこの状況を見たらどんな言葉を発するのでしょうか。