今の時代にあえて現金で支払うことの意味 / The meaning of paying with cash in this day and age

買い物の時、現金を通して支払うことで人とのコミュニケーションが生まれていた過去と一人で全てが完結する現代。デジタルのお金では細かい単位も全て正確だし、チップを払うにしても簡単に割り増しして支払いすることが可能。でも何だか冷たい感じ。払う側も受け取った方も何か有難味が少ないような気もするのですがどうでしょう。やっぱりお金を支払い、お釣りにコインを受け取り、その重みを感じるところにコミュニケーションの価値もずしっと感じられるのではないかと思うのです。

今ではコンビニもスーパーもセルフレジ。完全にセルフでなくても自分で支払い方法を選択して何の会話やり取りもなく支払いまで完結する世の中に。そんなわけで店員さんとの会話がなくても何ら問題なく買い物ができるようになりました。そうなるとお店に店員がいる意味は…?最後に行き着くところはトラブル対応の店員と警備員くらいでしょうか。

便利さが不便さを上回れば上回るほどに、人と人とが気持ちを通わせる機会が少なくなっていくような気がする。個人的には現金を持ち歩きたくないけれども、日本ではまだまだ現金が便利な場面も多くあります。お金の受け渡しは売り手と買い手の共同作業であり、そこには何らかのコミュニケーションが生まれる。

タクシーでも、「お釣りは取っておいてください、お茶代にでもしてください。」「いいんですか、ありがとうございます。」そんなやり取りがその日の気分をプラスにしてくれることもある。電子マネーで支払うことももちろんできるし、チップを上乗せすることもできるのだろうけど(日本のタクシーでは経験がないけれど、仕事で出かけた欧州のとある外国のタクシーではチップを上乗せして支払うことに何ら問題は無かった。)

それでもキャッシュレス化に社会が進むことに間違いはない。現金で支払うことに価値がある、と語っている自分自身ができるだけ現金は持ち歩かないし、ほとんどの買い物は現金を使用しない生活が中心となっているのも事実。

「人間はその本性においてポリス的動物である。」という有名なアリストテレスの言葉と無理やり今回のお題を絡めて考えてみるならばどうでしょう。

「ポリス的動物」(厳密に言えば、ヒトだけでなくミツバチ、スズメバチ、アリ、ツルといった群居動物にも当てはまる)は,何か一つの共通の活動に携わるという特性を有していて、彼らは自分たちが形作る「ポリス的共同体」のためになる何らかの善を追及するという特性を有しているのである

参考文献:アリストテレスとディオゲネス (山川 偉也)

上記を言い換えるならば、現金というものを介在して売り手と買い手の間に生じていた共通の活動に携わる機会が減少し、一人ひとりが善を追求することからいつの間にか遠ざかっているのかもしれない。“(売ってくれて)ありがとう”、“(買ってくれて)ありがとう”そんな言葉を発する機会を現金は与えてくれていたのかも。こんな風に考えると、現代社会は本来の人間が持つ特性であるポリス的動物性を奪ってしまっているのかもしれません。

きっと現金が正解、ではなくて、何かしら人と人とを結びつける何らかの手段(現金で支払うというのはそのうちの一つ)があればそれでよし。もしかしたら今の世の中に敢えて非効率的なことを求めることが重要な意味を持つようになるのでは。(例:何でもオンラインショップで購入して宅配ボックスで受け取るのではなくて、実際のお店に出かけていき、そこで店員との会話を通してコミュニケーションを取ってみるとか。人との接点を増やすことを意識すると良いのかもって思ったり。)

デジタル化が進む現代だからこそ自分自身が生み出せる“善”を意識すること。人との接点が生まれる日常生活の場面を大切にすること。そんなことを思いながら無理やりに現金とアリストテレスの言葉を繋げて考えてみました。

„Человек вне общества — бог, или зверь.“ Аристотель(社会の一員であることを必要としない人間がいるとしたら、それは神か獣。— アリストテレス)

トルストイ「光あるうち光の中を歩め」を読んで / Reading Tolstoy’s “Ходите в свете пока есть свет”

昔、何かの本を読んでいてこんな小話があったと記憶してます。「ロシアとイギリスの作家が会話をしていた。ロシアの作家「ロシアには偉大な長編小説が存在するのに、どうしてイギリスにはそんな作品が無いのか?」するとイギリスの作家が答えました。「そんな長編小説を書いていられるほどの時間が無いから。」Google Geminiにそんな小話があるのか聞いてみたところ、残念ながら見つけられなかった代わりに下記のようなお話にまとめてくれました。

イギリスとロシアの小説家

ある文学会議で、ロシアの著名な小説家とイギリスの著名な小説家が隣り合わせになりました。

ロシアの小説家が、自国の文豪たちが書いた壮大な長編小説について熱く語りました。 「我々のトルストイは『戦争と平和』を書き、ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』を書き上げた!何千ページにも及ぶ、人生の真髄を深く探求した大作だ!」

それを聞いたイギリスの小説家は、ティーカップを一口すすり、穏やかながらも鋭い目でこう答えました。 「ええ、素晴らしいですね。でも、正直なところ、そんなものを書く時間があるなら、もっとたくさんの短編小説を書いて、早くパブで一杯やりたいものですな。人生は短い、無駄なことに時間を費やしている暇はありませんよ。」

ということもあって自分の貴重な時間を無駄にしないようにとロシア文学の長編作品を避けているわけではないのですが、いつか長編小説をじっくり読んでみたいと思いつつも挑戦することを延ばしつつ今に至ります。最近手にした本も小作品。トルストイの作品「光あるうち光の中を歩め」を読んでみました。以前に読書家の方が本を処分するというのでロシア関係の書籍をまとめて頂戴した中にあった文庫本で約110ページほどの本。読みやすく一気に完読しました。この本の内容をまとめると、— 訳者の解説から抜粋ですが ―「福音書に伝えられているキリストの教えに従って生きよと説いた晩年のトルストイ思想を、きわめてわかりやすく示している作品。…この作品では、…古代キリスト教の世界に行きぬく青年パンフィリウスと、さまざまな欲望や野心、功名心などの渦まく俗世間にどっぷりつかっている青年ユリウスという二人の人物を中心に、トルストイの思想が…述べすすめられる。…現世に絶望したり、自己嫌悪におちいったりして、何度かパンフィリウスの住む世界へ走ろうと志しながら、そのたびに、疑惑や迷いにはばまれて、ふたたび俗世界に舞いもどっては、そこでまた一応の成功をおさめ、パンフィリウスの思想を否定するにいたるユリウスの姿が…生きいきと描かれているため、俗世界における性的な愛とか、私有欲、名誉心などといったものが、いかに力強くわれわれを金縛りにしているか、トルストイの理想とするキリスト教的自己感性の障害となっているかが…示されている…。」

実際、読んだことがある聖書の福音書に書かれている言葉には実生活に役立つ教訓も多いと思います。そういえば、ずっと昔に書店の本棚を見るとビジネスパーソン向けに役立つ聖書から取られたハウツー本があったことを今でも記憶に残っている。例えば、こんな言葉は私生活でも仕事場でも有用な言葉ではないでしょうか。

  • ルカによる福音書/ 6章31節 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
  • ルカによる福音書/ 16章10節 ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。

この本の最後の部分には、ユリウスがこれまでの生活を捨ててパンフィリウスの世界に入ったとき、自分にできる仕事は無いのかと出かけて行った第一の畑。そこには立派な葡萄がなっていて働き手も十分に足りていたために自分の役立つ場所がなかった。続いて進んでいった先にあった第二の畑は実はやや少ない、いささか古い葡萄畑。そこでもやはり働き手は足りていて自分の居場所を見つけられないユリウスが最後にたどりついたのは空っぽの葡萄畑。一粒の房だって実っていないような畑。自分には何もできることがない。その畑に「俺は何の役にも立たない。」と自分の境遇を重ねてユリウスは悲しみに浸る。(本の中でユリウスは、過去にパンフィリウスの世界に飛び込もうと2回決意するもその都度俗世間に留まることに決め、ついに3回目にしてようやく飛び込んだ。「もし最初の決意のときにここに来ていれば、自分の生涯も最初の畑の果実のようだったろうに。」と、彼の人生を葡萄畑に重ねている)

トルストイのキリスト教思想というのは、私にはWikipediaで読んだレベルの知識しか無いのでそれ以上を知らないけれど、この本を読んだだけでも、もし人がお金や社会的な立場、名声といったものを一切捨てて、ただただ人のために自分に何ができるだろうかと考え、実践してゆけるのであればきっと世界は大きく良い方向に変わるのだろう。でもそれが出来ないところに人間としての葛藤がずっと続いてゆくのだろうけど。

そんなユリウスに一人の老人が声をかける。「もしユリウスがもっと働き盛りの時に神への奉仕に献身していたら、…倍も、十倍も、百倍も、余分にやったに違いないと言うだろう、と。でも神さまの前においてはそんなこと取るに足らぬ大海の一滴だと。存在するのはまっすぐなものと曲がったもの。大切なことは、まっすぐな道を発見した今、過ぎ去ったこと、大きいこと小さいことを考えないこと。神にとってはすべてのものが平等なのだから。一つの神と一つの生があるだけ。」こうしてこの本は終わっている。

トルストイが説くキリスト教はさておき、短い話の中にも得られる教訓が詰まっていました。誰でも年齢を重ねると出来ることが少なくなると感じるもので、もっとあの時にこれをあれをやっておけば良かったなぁ…と過去を振り返って凹んでしまうことだってある。それでも、自分がこれまで経験してきたことは何だか遠回りしていて、時間を無駄にしてしまったと思うことがあるとしても、その経験が今の自分という固有の人間を形作っているんだ、ということ。そして人と比べないこと。それをトルストイは「一つの神と一つの生があるだけ」、つまり全ては神さまと自分自身との一対一の関係の問題であって他人は関係ないんだ、ということを言いたかったのではないだろうか。

もしトルストイの思想が今この瞬間に地球規模で実現したとしたら一瞬にしてウクライナ戦争も止まるのに…キリスト教を信じると奉ずる国同士がお互いの国民を攻撃し合っている矛盾。トルストイが今の時代に生きていてこの状況を見たらどんな言葉を発するのでしょうか。