昨年、私が住んでいる街に避難しているウクライナ人の方々との交流会があることを知りイベントに出席してきました。
交流会の前半では、ウクライナの現地からYoutubeでウクライナ情勢を定期的に発信しているというウクライナ人の方によるお話。インターネットを介して直接声を聞くことが出来ました。
素直な印象としては、一方的にお一人だけの話を聞いてその全てを鵜呑みにすることの危険さを感じました。Youtubeではウクライナ関連の情報を検索してみると、勇敢なウクライナ軍がどれだけロシア軍を撃退しているかといったウクライナ側の立場に偏ったニュースがお勧め動画として出てくる。とすればそのまた逆も然り。人は自分が聞きたいと思うものを好んで聞く。きっと誰しも人間であればそういった兆候を持っていると思います。耳に入ってくる情報をどのようにフィルターをかけて真実を見出せるのか、これは至難の業に思えます。そしてその力を身に付けることがこれから一層重要な意味を持つようになっているのは確かに違いありません。
ご本人が言っていた内容で印象に残っているのは下記の2点です。
戦争が始まると、「国を守るぞ」と戦争前にはあれほど熱く語っていた目立った人ほど先に国外に逃げていった。国を守ろうとしているのは全く目立たなかった人たち。何かが起こったときに人の本当の姿が見える、ということ。
2/24にロシアが侵攻してくる直前まで「大丈夫、戦争は起きない」とウクライナ政府は言っていた。しかし政府は知っていたはず。もし戦争が起こると事前に発表してしまったら多くの人が避難してしまうに違いない。国を守る人がいなくなってしまうというのも分かっていたのであえて発表しなかったのではないだろうか。それで、政府の発表をそのまま信じてはダメだ。何でも見聞きした情報は自分の頭で考える必要がある、と。
交流会でいただいた資料によると、「ウクライナ語は確かにロシア語と同じスラブ語族に属しているけれど、ロシア語よりも周辺の言語と文法や音韻的な特徴を多く共有している。…」つまり、ウクライナ語をロシア語と同じと思わないで、という強い意思を感じました。実際のところ、私がウクライナ語を学習しているDuolingoでの内容はいたって初学者レベルのものでしかありませんが、それでもロシア語と随分と似ているな、という印象の語句も多くあります。実際にウクライナ語の文法を勉強していなくても、ある程度ロシア語文法や単語を理解しているならば比較的容易に最後のレッスンまで到達してしまうのですから、やっぱりウクライナ語は決してロシア語とは似ていない!と誇張するのは誤っているのでしょう。(私のロシア語文法のレベルはまだまだ発展途上であり、まして文法書を開いたことがないウクライナ語について言えばウクライナ語を語る資格すらないことを認めざるを得ませんが)
ウクライナの友人にこの件を話すと、「ウクライナでも多くの人々がロシア語を話している。戦争が起こってロシア語は使いたくないという人がいるのが事実だとしても、生活する上では必要なものであれば(ロシア語無しで)どうしようというのか」と言っていました。
イベントの質疑応答の時間、避難しているウクライナ人に「ロシア語との共存はないのか?」と聞いたところ、全員が話し合った後に一人の人が代表してコメントしてくれましたが、「もうロシア語を話したいとは思わないし、将来自分に子供が出来たとしても自分の子供にもロシア語を教えたいとは思わない。」とのことでした。この戦争を機にロシアととウクライナの間で決定的になったと思われる亀裂の深さ、その深刻さを外国人である日本人の私には、どんなに理解しようとしても入り込めない深さのものを感じ取った瞬間でした。
今回のことを通して学んだことは、ロシア語は話せるので何か役に立てばと思ってボランティア登録したウクライナ難民のサポート支援活動。その気持ちはあったとしても難民たちの「憎きロシア」という感情(資料には、ロシア帝国・ソヴィエト連邦の下でウクライナ文化やウクライナ語が抑圧されてきたこと、1932年~1933年にかけて起こった”ホロドモール(大飢饉)”の記述もありましたが、そういった史実を垣間見るだけでもロシアとウクライナの間の複雑な関係を想像することができました)。その憎しみの感情が私自身の心に与えるネガティブな影響。それらを考慮すると、ロシア語が現地で話されている言葉の一つであるから、と言って単にロシア語を生かした支援活動をする、ということが容易では場合もあるんだ、と学びました。むしろ場合によってはどちらの言語でもない、世界共通語である英語を選択するほうが良かったりするのかもしれません。
そんなこともあり、ウクライナ語でウクライナ人と会話できたら…というのがウクライナ語を少しずつ学習する動機となっています。