人に期待することの独りよがりとあきらめと納得感 / self-righteousness, resignation and a sense of satisfaction about expecting something from others

ロシア人スタッフのために私として出来ることを行った結果、その相手が成長することを、私のことをよく思ってくれることを期待することは、ただの独りよがりのわがままである、と今では考えるようになりました。

仕事で相手に期待した後の、そのギャップに苦しむのは自分。この長い年月の苦闘の経験から私に言えるのは、人に期待することは逆に自分の独りよがりで勝手なわがままなのではないかと。相手に期待するからこそ、その結果に裏切られて悲しい思いをした記憶があります。この12月の時期には、各社New Year partyを企画するところが多くあります。それは会社の規模によってはホテルやレストランを貸し切って開くところもあれば、少人数でレストランを予約して食事会を開くところ、あるいはパーティ自体を開かない会社様々です。私の働く会社では会場を貸し切り、この日は仕事時間も短縮して大いに皆盛り上がります。とりわけ女性たちの化粧、衣装の気合の入り方には驚くばかりです。それだけのイベントなので、人それぞれの要望が分かれます。多数決を採択しても決まらず、良かれと思って裏で一生懸命に動き、下見して皆にとって良いと思われる選択肢をした…と思いきや、「選択した場所はとても良い場所ではあるけれども、New Year partyは本来、その場所でやるべきではなくて、もっと別のところのほうがよかった。私の周りで聞く限りは”みんな”あまりいい評価をしていない。残念です…。」なんて言われるとがっかりしてしまいます。これを言われた日の晩はかなり真剣に悩みました。自分の決定が果たして良かったのだろうか…と。この抽象的な表現、”みんな”という言葉を簡単に信じることも危険です。わずか3人かもしれず、多くても5,6人かもしれません。誰にとってもベストな選択肢などありえるはずがない。自分のベストを尽くしたらあとはなるようにしかならない、これまた真実を実体験から学んでいます。

言葉の語弊を恐れずに言えば、自分のやるべきことはやるけれども、そのあとは相手次第。自分の考えたとおりに相手が動かなくてそれに期待することもしない。そうすればイライラすることも避けられます。日本人の駐在員がロシア人スタッフの部下について悪く言うのも、こうあるべきだという思いがどこかしらにあり、それが相手のことを悪く言う原因の一つになっているのではないでしょうか。そうなってくると、結局自分の周りにはイエスマンを揃え、イエスマンが全員日本人駐在員の思うままに動くことを良しとする、そうなるはずです。多様性(Diversity)の重要性を会社として訴えながらも、実際には多様性を否定する実際の現場。矛盾が生じますね…。

人に期待しなくなったときに、すっと自分自身の中で納得感ができました。そしてよい結果がでてきたときに、逆に期待していなかった結果に驚き、感謝の気持ちを感じます。それのほうが精神的に健康的なのかもしれません。

ロシア人スタッフの人材育成と日本人マネジメントの責任の関係 / The relation between Human Resources (Russian staff) development and the responsibility of Japanese managements

私が、長年ロシアに勤務する中での「人材育成」に関して悪戦苦闘、試行錯誤から得た結論。それは、「日々の自分の発言とそれに矛盾しない行動がスタッフ自身の育成に繋がる。」これしかないんだろうな、と今の時点では結論付けています。
きっとこれが真実であるからこそ、会社はマネジメント以上の能力以上には成長しない、という会社の成長について語る際に何度と無く耳にするこの表現は、まさに的確な表現だなぁ、と思うばかりです。

これから記載することは、「えっ、こんなレベルなんですか?」と、 長年日本で仕事をしている人から 言われておかしくないのかもしれませんが、実際に私が日々直面してきたことはこのような状況です。そして、裏を返すと、日本の大企業に詰まっている、世代をわたって引き継がれてきている日常業務のノウハウの標準レベルの高さ、浸透度合いの高さについて改めて素晴らしい・・・ただただそう感じるのです。

たとえば、大量の書類の束を見るも無残なくらいに引き伸ばされた痛いげなゼムクリップ(Paperclip)を見て、「こういった量がある時にはこれに見合ったターンクリップ(Binder clip, Foldback clip)を使いなさい」とか。サプライヤーへの支払い承認申請書を持参して口頭で説明するスタッフに対して、「要点をまず申請用紙に記入してくるように。その口頭説明を後で誰が覚えている?もし私たちが退職したあと、この二人の会話がどこにも残っていなかったら後の人たちが申請履歴を見ても分からないでしょう。」とか。Excelファイルを作成する際には、(全てではないですが)きちんと印刷プレビューにて、自分の作成したファイルが正しい印刷用範囲内に収まっているかを確認すること。その上で他者に送信をするように。」など。そういった日常的に出会う小さなことです。

あるいは、時間管理。遅刻しないこと、仕事時間に関する生産性を高めるようにスタッフに日ごろから訴えているのであれば、私たちが出社時間を守るのは当たり前ですが、それ以外には予定の会議に時間通りに参加することを意識すること(残念ながら数分の遅刻が時々やむを得ず起こりえるのですが・・・)、どうしても時間をずらす必要が出る時には、次に待っているスタッフにショートメールを伝えて会議の時間変更をお願いすること、とか。私の時間だけではなく、次に控えている他のスタッフの時間をむやみに浪費してしまうことがないように意識が必要だと思っています。

Excelについて言えば 、Excelに未熟なスタッフでも最低限取り扱えるであろう必要最低限名関数を利用したファイルを作成し、それを実務で使うように共有してゆく。そうすると、面白いことにロシア人スタッフなりにそのファイルを自分たちに合うように改良して、実務の中でそれが発展してゆきます。そしてその関数を覚えてくれるスタッフがでてきます。(しかしながら、そのファイルが滅茶苦茶なことになっていないか、時々チェックを入れることが重要です。さもなければ、勝手にファイルを一層難しくしてしまっているケースもあり・・・。なぜ仕事を簡単にするべくこのファイルを共有したのに、こうも勝手に仕事を難しくしているんだ・・・?と。これも悩みの一つです)

結局、このように自分自身の一つ一つの行動がロシア人スタッフの間に伝わってゆき、例えば最初の例でいえば「承認を得るためには事前にXXをやっておかなければダメなんだ」と、スタッフが形から入ることでそれが常識となり、それを自然に行えるようになってゆく。人によってその習得度は大きく異なるのですが、結局のところそれがスタッフのビジネススキル習得のための 最短距離の 方法なんだと。この結論に至っています。

まだまだその他にも改善点は残っています。Emailでのコミュニケーションがチャット状態になっていて、多くの従業員がCCに入っており、関係ない人ばかりなのに全員にメールを送り続ける現象 ― 「もうやめてくれ!」と全員に伝えてもやめない人間がおり、それがきっかけでまた続く ― そんな直らない点もあるのですが・・・。

そして、このような基礎的な事柄を自然とスタッフが出来るようになったときに、次のステップとして「なぜ?」という問いかけです。これができない人が多いことに驚きます。

  • 言われたことはできるけれども、自分でその理由を考えようとしない。
  • 言われたからやる。おかしいと思っても私は気にしない。
  • 日本人のマネジメントが言っていることで文句を言わずに聞いておいたほうが楽だから。
  • 何かこのやり方に間違いがあっても責任は日本人マネジメントだから、私には関係ない

そんな要素も皆無とは言えないのでしょうが、よいチーム関係を築いている間柄で、お互いに発言をし合える環境にあることを前提とするならば、「なぜ、これをやらなければならないのか?もっと他によい方法があるのではないか?」日本人マネジメントから多くの知識、経験をスタッフに共有することが多いとしても完璧ではありません。スタッフのほうがもっとよいアイディアを持っていることが実際にあります。その問いかけをどれだけ各人の中に生むことができるか。 さらに試行錯誤は続いています・・・。

人材へのトレーニングは本当に必要なのか? / Does Company really need training for employees?

これはその会社のレベル、置かれている状況によって答えが異なる…というのが正解でしょうか?会社でこれまで受けた研修は私にとっては一つ一つに収穫があったので意味がある、というのは間違いないです。ただ、人事部は体系的に入社XX年目研修、新任課長研修などの定例的に組織された、決まったレールに則って企画される研修後に、その効果の振り返りを行うべきでしょう。大半の人は、その場の雰囲気を楽しみ、その中で語られることをなるほどなるほど、と聞いて、何だか賢くなったように感じる…が、後になるとその気持ちも忘れてしまう…そんなもの。人事部がどのように人材教育を計画しているのか私には分かりませんが、これまで参加してきた研修は、いずれも研修後のフォローが無く、ただ参加しただけ、という印象でした。むしろ、研修の一番の目的と効果は、同期の仲間と久々に会って近況を報告しあうことなのではないか、と思ってしまいます。研修の中身は忘れてしまったとしても共に語り合ったことは覚えている、という。

あまりアイコンタクトもしない、積極的な姿勢がない講師の方でムムム・・・と想った研修がかつてありました。こんな講師もいるのかぁ…と思っていた二日間の研修。その最後に「私の経験から言えることは…何事も自分で判断した決定について、その判断した理由をきちんと自分で語れるようにしておくことが大切だ、ということです…。」という言葉は一生忘れません。毎日と言ってよいくらい、決断するときにこの言葉を思い起こします。

ロシアにいるために参加できず、その代わりに受け取ったDVD録画で代理参加した研修内容で語っていた講師の言葉、「人は何を言うかではなく、誰が言うか、が重要だ。」「自分のやりたいこと(Want)と、会社のやるべき仕事(Must)を近づけてゆく努力と行動をすること。」これも響いています。

研修、というのは1日から数日間詰め込んでも、結果としてほとんどのことを覚えていない人が大半。そんなものなのかもしれません。そして、人事部の目標として研修を開催することが目的化していないだろうか?というのはいつも念頭においておくべきだと感じています。私自身、ロシアに来てから初めて人事の仕事に従事し、今では主にその仕事に時間を費やしているのですが、ロシア人スタッフに対する研修プログラムを考える時に悩みに悩みます。(率直に部下から「こんな忙しい時期になんでそんなことを、人事の目標達成のために開催するだけでしょう?」と言われてしまいました。

研修とは、日常とは異なる場で、忙しい日常の中から隔離された場所で、日頃時間を取って考えることができないテーマについて時間を取って考え、お互いに意見を発言し、客観的に自分を振り返る。かつ、日頃仕事ではお互いに交流が少ないスタッフ同士がコーヒーブレイクやランチの時間を含めて一緒に語り合う場。それを提供できれば成功なんだろうか、という、前半にも書いた結論にたどり着きました。

みな、なぜ?という疑問が自分で起こらない限り、どんなに会社が教育しても意味がないと感じます。研修で心に残る言葉は、日頃からそのことを考えているからこそ引っかかる。考えていない人にとっては「そうなんだぁ。」程度で終わってしまう。会社として何としてもこの研修によってスタッフを成長させなければダメなんだ、成長しない人間は許さない、なんていう独りよがりの期待は逆効果ですし、そんなことに労力をかける必要もないのでしょう。

そのようなわけで、スタッフにとって必要だと思われる研修テーマを一生懸命考えて準備して提供をすることは必須ですが、その一方で、誤解を恐れずにいうと、その結果にまったく期待もしていません。わたしの人生ではなく、それぞれの人生、価値観に依存することもあるので、人事として考えた効果が決して想定した通りには上がらない。むしろそれが普通なのでしょう。これぐらい覚めていないと余計にギクシャクしてしまう気がする。それが今の私の至った結論です。

面白いことに、例えば、時間の効率化を必要としていない人に対して仕事の効率化の研修を企画しても意味がない、ということ。なぜこれだけExcelのショートカットを覚えなければいけないのか?それはそれだけカバーしなければならない業務が多いから。でも業務量もスキルも低いスペシャリストのレベルで、彼・彼女が特に何も不自由なく自身の仕事をカバーできているとすれば、なぜわざわざそんなショートカットを覚える必要があるのか?と言われてしまいます。そうです、決してショートカットを覚える必要がない、という彼らの理論も正しいです。

そして何よりも、自分自身で意欲のある人間は、人事部による研修制度などなくとも勝手に自ら教材を探し出し、自分の負担でどんどん勉強し成長してゆく、という事実。

それ以外の人々にとっては、成長する、というその必要性がなければ「なぜ?」という疑問がわかず、その疑問がわく人も実は全員ではない、という事実。期待をしすぎることは結局自分の独りよがりのわがままであって自己中心的な考え方なのだろうと、繰り返しになりますがそのように考えるに至りました。

採用コストと研修コストの費用対効果についても考えさせられる要素です。この点は採用に関する記事で後日書きたいところですが、この点については世の中の人事部のスタッフであれば必読書ではないかと思うGoogle人事の方による「Work Rules!!」(by Laszlo Bock)が考えるよい題材となりました。

外国語習得のための秘訣(ロシア語に限らず) / Tips for learning a foreign language(Not only Russian language)

私は英語とロシア語を例にとってしか語れませんが、外国語を習得するにあたって大切なことはなんだろうか?と考えてみると、いくつかの要素があると考えています。

先日、出張者を連れて赤の広場のすぐ近くにあるお土産屋さんに入ったところ、女性のアジア風の顔をした女性がすぐに近づいてきて、私たちが中国人ではないと悟ったのか、大変流暢な英語で「何をお探しですか?」と話しかけてきました。後でその場にいた複数の女性店員に聞いてみると、ウズベキスタンやキルギス出身の方々で4,5か国語を操る、とのこと。中国語を含む大変多くの中国人観光客がいるために、お土産屋さんも中国語を話すスタッフを常駐させているようです。対応も親切で、彼らにチップを払うべきなのか…いやでもロシアでは不要なはず?…初めてこのようなお土産屋さんに入ったこともあり、分からなくなってしまいました、結果として、お礼を丁寧に伝えてからその場を後にしてきました。

正直に認めざるをえませんが、私自身には彼女たちのように幾つもの言語を操る能力はありません。いや、能力は誰しもが持っていると考えていますが、絶対的に複数の言語と接する時間を日常生活で小さい頃より持っていたであろう彼女と比べて、通常の日本の環境で育った日本人であるならば、私たちにはそのような絶対的な時間数で劣っているわけです。そして、今は言語学習に費やせる時間も限られています。

言葉に対する拒否反応をどれだけ下げることができるか

その言語を見た時に、「うわっ、見たくない。」— この気持ちをどれだけ低くできるかが重要だと考えています。英語でさえ、英語のWebsiteを見たり、ロシア人スタッフとの英語でのメールやり取りを読むだけでも「うわっ、見たくない。」、そう皆さんは思うことがないでしょうか?正直なところ、私はあります。やはり慣れ親しんだ母国語が一番楽ですし、その言葉の裏にあるニュアンスも感じ取ることができます。そうはいっても英語は避けて通れません。私は、毎日その言語に触れることでしか自分自身の拒絶度合を緩和することはできないと思います。

ituneを見ると、いくらでも無料でBBC、CNN、NYTimesといったニュースリソースを入手して聴くことができますし、ウェブサイトでも記事を読むことができます。

ロシア語について言えば、私はロシアのビジネスニュース紙であるRBK、Vedomostiを購読していますが、全ての内容を分からないにしても、毎日目を通すことでロシア語に対する拒否反応を確実に下げることができます。定期的に目にする単語を調べることでロシア語の語彙力も上がることはもちろんのこと、今のロシアでどのような話題が熱いのか、日本で報道されているロシア関連のニュースとの温度差を感じることができますし、日本のメディアのロシアに関するニュースについて 客観的な視点で 観察することができます。

長年、学生時代から英語を学習してきたにも関わらずなぜこうも英語の上達が遅いのか — 結局のところ、目的が無い中、かつ日常的に英語を使用する環境にいない日本で言語の勉強をしても、よっぽどの強い意志力が無ければ上達する可能性が低い、と考えていますが — 疑問に思う点でもあります。ロシアで勤務する中で感じるのは、やはり日本人というのは外国語が得意ではない人が多い、これだけ英語を学習してきたにも関わらず話せる人は決して多くないのだなぁ、という印象を持ちます。そんな中で、英語やロシア語で直接情報を取ることができる能力を持つことができるのであれば、それは非常に高いスキルであることは間違いありません。ロシア語で書かれているロシアの情報がどれだけ多いことか…。英語と比較してもそれは比べものになりません。間違いなく、ロシアにいると英語やロシア語を学ぶ動機づけが高くなります。

ひたする真似る

街行く人の会話を耳にしてそのままボソボソと自分で真似して話してみる。地下鉄の中で聞こえる会話を自分で真似してみる。そのリズムとアクセント、身振りも含めて真似してみる。「あ~なるほど、この表現はこんな時に使うんだな。よくこのフレーズを会社のロシア人スタッフが使っていたなぁ、きっとこんな状況でも使えるのか、この言葉はきっと汚い言葉なんだろうなぁ。」など、街を歩いているだけでもその場がロシア語の訓練場所です。

街の広告をよく見てみよう

街を歩く中で見かける広告も大変重要な語学学習教材です。短いフレーズでキャッチフレーズを並べている街の広告。考えぬかれた言葉が用いられています。それを利用しない手はありません。ロシア語には語尾が6つに変化する格変化、かつ男性形・女性形・中性形のパターンも存在し、複雑な気がしますし、日本人にとってはきっと完璧に理解することは難しいに違いありません。それでも、街で見かける広告を見て、その格変化を眺めるだけでも文法の学習に役立つと感じています。韻を踏んだ言葉遊びの愉快さも学び取れます。

(外国語を習得したければ、その国の彼女、彼氏を作るのが一番早い - よく聞く話です。これは真実だと思いますが、ポイントは相手のことをもっとよく知りたい、会話したい、という言語を学習する動機が高まるがゆえにそれだけ多く勉強して(Input)会話する(Output)サイクルが活発になるからだと思います。彼女、彼氏を作る以外にも言語学習への高い意欲とそれを利用する機会があるのであれば同じように高い効果が見込めるはずでしょうか)