政府に従うことと神様に従うこと/ Obeying the Government and or God

今は政治と宗教の関係性について盛んに議論される時代となっていますが、ロシアの宗教といってすぐに思い浮かぶのがロシア正教会(РПЦ – Русская Православная Церковь )。そして、そのトップに君臨するのはキリル総主教。ウェブサイトを検索すると、キリル総主教とプーチン大統領との蜜月ぶりを書いた記事はロシア語でも日本語でもよく書かれていて、両者の関係がどれだけ深いものかが容易に想像できます。Youtubeのロシア語による動画でもキリル総主教を批判するものがたくさんヒットします。私自身、個人的に多く利用している報道番組、Current Timeでも過去の動画でキリル総主教とプーチン大統領との関係性を特集した動画がありました。実際のところ、どの情報が本当に正しいのかを完全に判断することは困難で、あくまで私の感じたままに、この文章を書いています。(誤訳が含まれる可能性もあります、その点は予めお詫び申し上げます)

以下の特集動画では、総主教の座についてからの10年間の彼の歴史を物語っています。この時代にキリル総主教のもとでロシア正教会が担う役割が強力となったこと。ロシア正教会がロシアにおける政治的組織となり、クレムリン(ロシア政府)にとって精神的なお役所(духовная канцелярия)となったことことが語られています。キリル総主教といえば、プーチン大統領の擁護者となり、公の場面では大統領の決定を支持してきたため、その決定による結果の責任を分かち合ってきたこと。「教会は政府とは分かたれているもの。ー それはロシア正教会のことではない。」この動画の中でも、ロシア正教会が喫煙を罪とみなしている中、キリル総主教の莫大な資産の一部はタバコの商売で稼いだものであることを暴いている記事が紹介されています。また、メルセデス、トヨタランドクルーザー、キャデラックなどの高級車を所有していることなどは他の多くの動画でも紹介されている内容です。

動画:0:52-9:01

キリル総主教は、ロシア世界のコンセプトを広めるための”プロモーター”のような役割を担っていて、総主教になった最初の年には頻繁にロシア世界を宣伝し、ウクライナを何度か訪れてこの世界の範囲を広めようとしていたようです。今となってはウクライナ正教は、ロシア正教会とたもとをわけており、これは(キリル総主教の前の総主教であった)アレクセイ2世の時代には考えられなかったこと。これまでは密月の関係で、プーチン大統領と同じ方向を向いていたところ、今ではお互いに分裂(расколь)がある、と言います。

これからお互いがどのように責任を取り合ってゆくのか、どんな結末が待っているのでしょうか・・・。時が明らかにしてくれることを待つことにします。

良識のある一般市民であれば、以下の動画のように感じるのが普通なのではないか…と思うのです。「教会というのは金色の円屋根でもなく、高級車や高級時計でもない。政治が愛国主義を駆り立てるために宗教を利用していることは好きになれない。テレビではプーチン大統領が宗教上の祝日に教会に出かけたことを映し出している。プーチン大統領がどこに行ったのかなどどうでもよい。彼の行う政治に関心がある。それであっても、プーチン大統領がキャンドルを立てる様子が…」

動画:10:03-10:25

昔、モスクワ中心部にある救世主ハリストス大聖堂を訪れたときのこと、中にいたスカーフを頭にかぶった女性に「なぜあなたたちは同じ神を信じているといいながらロシアとウクライナは争っているのでしょうか?なぜ?東洋の日本から来た人間からすると不思議なのですが…」と尋ねると、その信仰心が強いように見える女性曰く「政治は別よ」と一蹴されました。「平和になると思いますか?」と聞いてみると、近くにいた男性がぶっきらぼうに「当たり前だろ」という口調で口を出してきました。どうもそれ以上は会話を続けるべきではない雰囲気が漂い始めたのでその場を去りましたが・・・。

ところで、この大聖堂がある場所は、ソ連時代には市民プールだったようです。今の様子しか知らない私にとってはとても想像ができません。ロシア生活時代に交友のあった当時を知る年配の女性からは、「知ってる?あの教会がある場所は昔プールだったのよ。私も小さい頃はそこのプールに行ったのよ。」と言って懐かしんでいました。

ニューヨークタイムズ紙に面白い記事がありました。タイトルは「プーチンの野心の中心にいるロシア正教の指導者」。

https://www.nytimes.com/2022/05/21/world/europe/kirill-putin-russian-orthodox-church.html

この記事の結びの部分がまさに真実を語っているのではないでしょうか。

Some say he has no choice if he wants to survive. “It’s a kind of mafia concept,” Mr. Chapnin said. “If you’re in, you’re in. You can’t get out.”

彼(キリル総主教)は、もし生き残りたいのであればプーチン大統領の側のグループに留まる他ない。「ある意味、マフィアの世界のようなものだ。もしあなたがマフィアグループの中にいるならば、その中にいるしかない。もう出ることができない。」

“本物の”パンが日本にはない? / There is no “real” bread in Japan?

ロシアの生活と比較して異なるのは、パンそのものの味を味わえるパンがないこと。どのお店にいっても大抵のパンにはミルク、マーガリンなどが入っていて甘い。そんな印象です。そういえば、初めて日本に来たロシアの友人も「どこで買ってもパンが甘い」と言っていたことを思い出します。ロシアにいる時には好んで食べていた黒パンが懐かしい…。

私はパンに詳しいわけでもなく、強いこだわりがあるわけでもないのですが、あえて言えば食パンは何も甘いものがはいっていないものが好きです。日本の食文化のレベルの高さからすると、パンもきっとこだわりを持って作るお店が多く、そのどれもが美味しいに違いないと思います。実際に高級食パンのブームが話題になったこともありました。確かに美味しいのですが、どうしてもこうも甘いのだろう?と。今朝も近所で話題のパン屋さんへ出かけて中に入ってみると、ありとあらゆる菓子パンが並んでいました。

そもそも、”本物の”パンなんて存在しないのかもしれません。日本のお寿司も海外に行けば違うネタがのっていて、それはそれで美味しいですし、日本の本場のお寿司屋さんで提供されるものが本物か、というと必ずしもそうではないのかも?パンも日本に入ってきて、日本の食文化の中で日本の人々が好む形に合わせて発展を遂げてきたということなんだろうと。

時々利用しているパン屋に出かけたときのことです。ちょうどお客さんも少なく、前から気になっていたことを率直に尋ねてみました。「ライ麦パンっていうんでしょうか、自分は黒パンが好きなんですが、そういったパンをお店に置いたりしないんでしょうか?仕事で外国に行っていたことがあるんですが、帰国して思うのは、どのパン屋さんのパンも甘くて素朴なパンの味がするものがないんですよね…。どれも甘くて…。お店にあったら絶対に買うんですけどね。」

そうすると、思ってもみなかった反応があり、滔々と胸の内を語ってくれました。決して長い時間の会話ではありませんでしたが、パンに対する思いやビジネスとしてお店を経営すること難しさも言葉から伝わってきました。

「パンを作る側としては作りたいものがあるの。でも、多くのお客さんが菓子パンを好むこと。できるだけパンも柔らかくて甘いものを好むこと、そしてパンには具がたくさん入っているように、という要望があって。お客さん(私のこと)が言うようなパンも以前は作っていたことがあるのだけど、買ってくれるのはほんの一部のお客さんだけで難しい。結局今店頭にあるものを作るしかない。本当は作りたいんだけどね。こちらも商売でやっている以上お客さんが求めるものを作っていかないと…。」

という内容を繰り返し語ってくれました。

もうずっと昔のこと、学生の頃にはロシアへ語学留学にでかけて、当時は(味を覚えていませんがきっと美味しくはなかった)黒パンを買って、これがロシアだ、なんて思っていましたが、実際のところ、今のモスクワ(私がいた数年前のモスクワのパン屋)で販売されている黒パンはむしろ高価でとても美味しいものでした。

冒頭に張り付けたYoutubeの動画は、たまたま見つけたロシア生活を紹介する動画のパン屋さん編。パン屋と言ってもたくさんの種類がありますが、この動画に写っているパンの種類はモスクワでも必ずと言っていいほど目にするものたちばかり。ロシアのパン文化は、国が南はカフカス地方、東は中央アジアなど異なる文化と接しており、それだけ多様な種類のパンと出会えるのがまた独特なのかもしれません。動画にも出てくるハチャプリ(ジョージア発祥のパン)、ラバッシュ(アルメニア発祥の薄い生地のもの。これをパンというのか分かりませんがアルメニア人のお宅に行ってご馳走になる時には大体これがテーブルにあったように覚えています)。中央アジアの方面でいえばлепешка(単数形:リピョーシュカ)。当時は、職場近くにある市場によく買いにでかけていました。なかなか上手く発音できず、お店の若者によくからかわれていました。通ううちに完璧に発音できるようになり「おっ、お前ちゃんと言えるようになったな」と褒められたり。