過剰品質の日本、そのジレンマとその美学 / Japanese Over-quality, its dilemma and its aesthetics

6月上旬にモスクワから帰国して実家で2週間隔離生活をしている時、久しぶりに両親とも過ごす時間が増えて懐かしい話や仕事の話をすることが多くありました。

その中で面白いな、と思った話があります。父親は機械の設計をしています。たとえば、ペットボトルのボトルにプラスチックのパッケージを貼ったり、薬品や文房具の小箱を組み立てられる、そんな工場の生産ラインの中に位置する機械の設計をしています。ラベルを1分間にどれだけ正確に多く貼り付けられるか、箱を組み立てられるか、スピードと正確性とそれを達成するための製造コストとの闘いのようです。

面白いのは、日本で相手にするお客さんは、どんな小さなしわであっても欠陥品とみなされてしまうそうです。となると、そのしわが発生しない方法を解決すべく、さらに時間と労力をかけて解決策を考える。それだけ機械の生産コストも高くなる。製造工程で、しわの発生が許されない、それは日本の価値観からすれば当たり前のように思えます。

例えば中国などのアジアのライバル会社が2,000万円で製作できるものが、日本では2,X00万円する。そうすると価格面で勝てない。そしてそこまでの高品質をアジアのお客さんは求めていないという。高品質を追求することは大切だけど、お客さんはそこまで気にしない。そのジレンマに陥っている気もします。

一方で、ロシアでは日本車が目に見えない部分にまでこだわって丁寧に製造しているか、車を分解したときにその仕事の丁寧さに感動した、という絶賛の言葉をビジネスパートナーからいただいたこともありました。

今の仕事でも同様で、たとえば仕事でエクセルファイルを利用して作成するレポート類について。罫線がどこかでちょっとしたところで縦一本欠けていたり、破線の種類が隣同士で異なっていることに気が付いたとき。自分では気持ち悪いので一つ一つのシートで問題がないかを確認する。この資料を受け取る人は、印刷をしない限りそこまで気にしない可能性が高い。今はテレワークになっていっそう紙に印刷する機会が減りました。きっと多少の線の統一がなくても問題ないはず、とおもいつつも、一方では自分自身はそこまでやらないと納得できない、やりたいんだ、という気持ちが湧いてくる。そんな部分に時間を割いていると他の仕事が溜まることに。

資料の受け手がどう感じるかを想像しながら、”もっと見栄えをよくしなければ”、とか、”もし罫線を気にせずに提出すれば、だれかはきっと私のことを「細かい部分に気が付かない奴だ」というマイナス評価をするだろうなぁ”、なんてことを別の自分がつぶやいている。

この資料は、どこまで詳細を気にして作成すべきなのか…一律の正解がないので難しいところですが、「お客さんはそこまでの高品質を気にしていない」「お客さんはそこまで気にしない」という点は、仕事の本質を見失わないためにも面白い観点だな、と感じました。相手のことを常に意識するが故の日本の美学と言えるのでしょうか。悪く言ってしまえば、独りよがりの美学なのかもしれませんが、こんな美学こそが世界に誇る日本という独特のイメージや文化を作り上げるのに役立っているのかもしれないですね。

最近入った回転ずし店でみかけたプラスチックボトルの醤油。特別な構造になっているために、ボトルをかたむけても醤油が一気に出てこないようです。ボトルに小さな空気穴が施されており、きっとそれが機能しているのでしょうか。私は、このボトルは醤油が一気に出てしまうことを防ぐ画期的なものです!とでも言うかのようにその機能が強調されている醤油のボトルをみて、「誰がそこまで気にするのだろう?そこにこだわる人がどれだけいるのだろうか?」というのが初めて見たときに素直に感じた気持ちです。もっとシンプルなボトルの構造にして、原価を下げてお客さんに提供できるほうがお客さんに喜ばれるのではないだろうか、とも思ったり。モスクワでは、いまだにガラス瓶にはいった醤油が店頭に並んでいます。昔ながらの懐かしいガラス製の醤油。それはそれで雰囲気があってよいのではないでしょうか?

自分とは異なる他人の価値観に敬意を払うこと、その難しさと格闘中。 / Respecting the values of others that are different from me, I am fighting to overcome difficulty.

日本に帰ってきて懐かしの友人たちと会話する時、ロシアで過ごした7年間は、同じ7年間といってもどれだけ見聞を広める機会となったことか。その充実していた時間を感じています。同じ場所で7年間大きな問題もなく、元気で幸せな生活を維持することもどれだけ大変なことかを考えれば、どちらの7年がすごいのかなんて比べることはできません。ただ、日本にいては決してできなかった、自分の知らない人たちや土地を訪れる機会があったこと。この点は大きな経験となっています。

チェルノブイリ原発事故のあったゴーストタウンを訪れて誰もいなくなったアパートの部屋の中や街の中を歩いたこと。ロシアがクリミアを武力で併合しウクライナの間で緊迫した情勢となって悲劇が起きたオデッサ、火事により40人近くが無くなったその現場を1週間後に訪れた時の緊迫した現場いの様子と一方で街の人々ののんびりとした様子のコントラストに驚いたこと。国際社会が認めないロシアが実効支配している地域で過ごした平和な時間、かつてロシアとの間で戦争が繰り広げられた場所を訪れて、現在のすっかり復興した街の平和な様子に驚いたことなど…思い出はたくさんあります。

ともすれば、7年間のそんな経験を経て戻ってきた日本で出会う、生まれてからずっと自らの生まれ育った街を旅行以外に出たことがない人、ずっと駐在を経験することなしに日本の企業文化の標準を当たり前と思って過ごしている方々の価値観を疑いたくなる瞬間があるのも確かです。

例えば、このパワーポイント、エクセルファイルをどれだけ完璧に仕上げることができるかが大切なんだ、これに魂を込めてやっているんだ!何かお願いする時には、決してこのベテラン女性スタッフの機嫌を損ねてはならない。何となく自分だけ違う行動をしていると、本人の自分は至って普通だけども、周りからは何となく白い目で見られている気がする。

自分にとっては決して重要とは思えないことにやたらとじっくりと時間をかける方、なぜこんなにも決断が遅いのだろう?何にそれほどまでに時間をかけるのだろう?なぜこれほどまでにコミュニケーションを重要視するのだろう、私にとってはそれほど重要ではないのに…

個人的には理解しがたいことがルールとして成り立っていること、そんなときに学ぶ教訓があります。

自分自身の考える重要なことや大切なこととは異なっている場合に、どれだけ相手の価値観に敬意を払うことができるか?実は自分自身が無意味だと考えていることこそが、実は重要なことではないのか?という自問。

これがとてつもなく大切なことなんだと。そしてこれが難しい。

大企業では異なる価値観、LGBT、異なる信条に敬意を払うことを会社規定として定め、公表しているところが大半ではないでしょうか。実際に内部で働いてみると、我々も人間です。規則を頭で理解していても、心では自分の規則が自分をコントロールしています。規則は規則。でも実際は自分の価値観が自分の思いや行動を支配しています。
なんでこんな面倒なことを…一体何の価値があるんだ…?そういった内奥の自分自身が顔の表情や態度に表れてしまう。

自分自身の考える価値観とは異なる価値観に出会ったときに、素直に「そんな価値観もあるんだ、よし、やってみよう」と思えるか。

そんな行動一つが結果として相手への敬意にも繋がり、仕事をする上で円滑な関係を築くことができ、もしかすると自分自身の知らなかった大切なことを発見する機会になるかもしれません。まさに今の自分自身にとってこの点がチャレンジでもあります。

どんなに経験を積み重ねたとしてもゼロベースで接すること。相手にとって何が大切かを理解した上で発言し、行動すること。そんな行動が仕事をする上で役立っていることをこの1か月未満の中で感じる日々です。

…とはいっても、そもそも7年間足らずの海外で経験した価値観は、あくまで日本から見れば外国の価値観であり、日本には日本の価値観があり、私が現在、新鮮な視点で経験する価値観こそが日本のスタンダードなのだ。これが正解ですね、自分自身にできるところで上手に日本とモスクワで経験した価値観をミックスできるよう行動してゆきます。

日本の生産性の低さは日本の丁寧さと表裏一体 / Japan’s low productivity is closely tied to politeness of the way of Japanese conversation

日本に帰国してから早くも1か月が経過。生活のリズムも少しずつ慣れてきました。それにしてもこの雨、雨、雨。そして体にずっしりとくる湿気。モスクワの夏がどれほど快適であったかを感じています。身体が想像以上に疲れ、集中力が無くなってゆく。かといってずっとエアコンの元での生活は好きではない。適度にエアコンを使用しながらよいバランスを探しているところです。

そんな中、新しい職場で勤務し始めて約二週間が経過しました。
日本の生産性が低いといわれる所以の一つに、物事に明確な言い方を避けて、なるべく聞き手に察してもらうことを期待した会話の進め方、日本語の会話方法に問題があるのではないでしょうか。きっと多くの方がすでにこの点を指摘されているのでしょう、日増しにその思いは強くなっています。

何をしてもらいたいのか、その指示は分かるけれども、いつまでにやるべきか。具体的にどこまで掘り下げるべきか? たとえば、「締め切りはXX日までね」「了解。」その約束の期日の二日ほど前に「あれはまだできていないの?やっぱり早く欲しいんだよね」。あるいは、「この内容で関係者に依頼事項を出しておいてね。」その数日後には「やっぱりエクセルファイルを添付して、それに記入をお願いしたほうがよかったと思うんだよね…」

指示の仕方が悪い、そんなことを言うつもりはありません。「どのようなイメージのレポートが欲しいですか?」「なぜこのタイミングで急いでいるのですか?要求の背景にあることは何でしょうか?」そんな質問を部下の側からも上司にすることで、双方向のコミュニケーションとなり、そこで顕在化する課題や、新たに得られる情報が後々余分な労力と時間をセーブするのに役立つのではないでしょうか?あとは、上司の指示通りにではなく、自分自身でも深堀して考えてみる。自分なりにアレンジをしてみる。非常に多くの業務に忙殺されている中で、上司も人間ですから細かい指示、情報共有を一度で全てできないことだってあるはずです。部下から質問をしてゆくことで指示内容が洗練されて、より磨かれることだってあります。上司の責任は大きいですが、部下が上司をサポートする姿勢を自ら見せること、そうありたいと思います。ロシアで正社員が50人程の決して大きくない会社でしたが、部下を抱えながら指示を出している時に痛烈に自分の指示の限界、部下からの指摘の有難さを感じた経験があります。だからこそ、日本に帰ってきて自分自身が再び一社員として部下の立場になるときに、部下として上司のためにあるべき姿が分かったような気がしました。ロシアで、私の思っていたことと異なる結果が生じた時に部下に尋ねると「あなたの指示がこうだったから私はこうしたまでです。」という回答。振り返ればそれは決して否めないので私も部下を批判できないのですが、それでもやっぱり「ああしてくれていれば良かったのに…考えてくれなかったのかな…」という思いになったこと、ありました。

たとえばチーム内でもお互いにきっと直接言いたいことがあるのだろうけれども、黙っている。「ねえ、私の言いたいことは自分で悟ってね」という雰囲気。はっきりと物事を伝えることができればどんなに良いことか…?はっきりと伝えられない理由はおそらく、発言者の側にその言葉を発した時にその言葉が与える相手への強いインパクトを感じているから。そしてそれをなるべく避けたい。そうなると、短く話せばもっと分かりやすいのに、言葉を増やすと丁寧さの印象が増えるので言葉が多くしたくなる。言葉が多くなると一層伝わりにくくなる。相手の気持ちを考えるがゆえに言葉が増える。人格者でいることも — 決して悪いことではありませんが — 仕事を進める上では仕事の指示の理解を混乱させる要因となっているように感じます。丁寧にやろうとすればするほどにシンプルなものが複雑化するリスクをはらんでいる。面白くもあります。

会議では最後に「それでは何か質問ある方いらっしゃいますか?」…シーン…。「質問がないようなので、それでは終わります、ありがとうございました。」…しばらくして、会議に参加していた方々が立ち話をしています。「あの依頼事項は具体的には何を表しているんだろう?よく分からなかったんだよなぁ、わたしはこう思うんですよね…」一度となく会社で見る光景です。これも自分自身の質問が場の全員に関係の無いものだから他の人の時間をあえて取らないようにしよう、という気遣いに基づいているのだと思います。素晴らしいことだと思っています。一方で、意外にも自分の感じていることは他の多くの人も心の中で感じていることがあるのも事実かもしれません。そのような経験も一度ならずあります。そんなことも踏まえると、会議中に質問することこそが周りへの優しさでもあるのかもしれませんね。

仕事では、大切な特質である丁寧さが逆に機能してしまうことがある。

また、日本に戻ってきて、― 前から感じている点ですが ― ここでなぜ笑いが起こるの?と感じる場面が多々あります。なぜそこで笑うのか分からない、そして結論がうやむやになってしまう。振り返ると、あれっ、あの件って結果はどうなったんだけ?と。難しい課題になればなるほどに笑いが重要な役割を占めるのかもしれません、もしかするとはっきりとした結論が求められておらず、それはそれとして流しておくためにも笑いがあるのかもしれません…。笑いの難しさについて皆さんはどのように感じるでしょうか?

テレワークになってからは、同僚や部下、上司ととのコミュニケーションを取ることが大切にされており、定期的にMicrosoftのTeamsを利用して会話をする時間が設けられています。しかし、その会話が単に表面的なコミュニケーションに終わっていることはないでしょうか?冗談を言い合って、お互いに当たり障りのないことを言い合って時間を過ごす。笑いもあり柔らかい雰囲気を作ることはチームビルディングに大切なこと。確かにその通りですがが、真のコミュニケーションは、お互いに考えていることを正直に伝えあうこと。もっとお互いに本音で語り合う場が大切ではないかと思います。そうでなければ、ただ表面的にコミュニケーションを取っています、というだけの無駄な時間になってしまう恐れがあるかもしれません。

街中で立ち寄るコンビニで出会う土方の親方風の男性。同僚と会話する時の元気の良さ、明確な話し方。大きな声。何と分かりやすい。きっと日本人が~、日本語が~というステレオタイプの見方は誤っており、自分自身がいる環境で見聞きするもので語ってしまっている。

時として、曖昧さが生み出すプラスの副産物だってあるかもしれません。あらゆる方法に出会い、経験し、試しながら失敗と成功を味わい、それを自分自身のスキルとして身に付けるチャンスとしたいものです。

ロシア勤務の大雑把な総括、ロシアも日本も同じだ。 / Rough summary of work in Russia, there is no difference between Russia and Japan

自宅隔離の2週間を終えて、新たな職場での仕事が始まりました。生活の基盤を整えること、以前の仕事の引継ぎであったり新たな仕事に慣れること、荷物の整理など、多くのやるべきことが同時に降りかかり、落ち着いて物事を考えるゆとりがありませんでした。少しずつ自分のペースを取り戻してゆこうと調整中です。

さて、7年という年月は思っていた以上に自身に大きな影響を与えているようです。ロシアと日本のよさを融合してゆけたらと考えています。

ロシアでも日本でも女性が大切な業務を担っていることは明らか。モスクワではロシア人女性の部下と時に声を張り上げてやり合っていたのが、日本では言葉遣いにより気を付けながら女性にどれだけ上手に仕事をお願いして物事を滞りなく進めることができるか。そんな違いがあるのかもしれない?と感じています。

日本とは~こうである、他方ロシアは~こうです。とステレオタイプに語ってしまうことの誤り。私自身、気を付けていないとこのような論調で語ることがあり、気をつけなければと思っています。「モスクワは本当のロシアではない」という人もいます。私は周りの他社駐在員の方々と比べるとだいぶロシアの深い部分も含めて足を運んだほうだと思いますが、生活のベースはモスクワ。どうしてもモスクワでの生活を基準に「ロシアとは」を判断してしまいがちです。そうはいっても、日本からやってきて管理部門の駐在員として勤務する大半はモスクワ。このブログではモスクワを中心にして仕事に関する話を進めて問題はなさそうです。

思ったように働いてくれないことに対しても 文句を言わないことを学びました。よく考えると、現地スタッフは、例えば30歳という年齢でも20万円に満たないような安い月給で働いてくれている人は少なくありません。それでも言ったことはそれなりにやろうと努めてくれる。それ事実に感謝 すると自然と不平不満も消えてゆきます。

一般的に駐在員は外に送り出してもよいと判断され、仕事ができるであろうとみなされる優秀な人が選抜されていると思います。その駐在員の基準で 仕事を要求すれば彼らの仕事のレベルは駐在員からすれば物足りないでしょう。もちろん、イライラすることは実際に多々あります。まずは徹底的に自ら仕事をして、困っている現地スタッフの仕事を助けてあげて一緒に仕事をすることで信頼関係を築き上げて、ある程度の時期が来た時に、”強気”に出るのが良いのだろうと思います。「なんでこんな仕事を自分にさせるんだ?これは上司である自分の業務ではないでしょう、自分でやろうよ?」といいながら仕事を振ってゆく、というイメージ。

見ていると、現地スタッフの多くは、私たちが仕事の枠組みを作ってあげて、その中で絵をかいてね、というと描いてくれますが、キャンバスの大きさがどれくらいで、どんな絵に仕上げるべきか?ここまで考えられる人はいません。そもそも何が問題なのか?という問題の設定能力に努力が必要というか ある下書きの枠線をある程度書いてあげてから渡すことが求められています。(きっとこれはマネジメントの仕事であるので当たり前なのかもしれません)

 長年ロシアで仕事をしていると どうしても日本人とロシア人の間での ギャップを見聞きします。表面上はうまくやっていても裏ではお互いに悪口をいっています。それは決して辛辣なものではありません、よく日本でもあるように陰で相手を小馬鹿にしたような会話が大半です。これを見聞きする時にはとても残念だな、と感じます。ロシア人スタッフは大変合理的で、英語も上手で、自己プレゼンの上手さは日本人駐在員よりも高いと思っています。日本企業としてのやり方がおかしく思える点も多いです。私自身がそう感じるのですから。そんな中でも その日本のやり方もありなのでは、そんな風に理解してくれるロシア人スタッフが増えると素晴らしいと思います。また、そんな様子を見ながら可能な改善方法を上司や本社にフィードバックをしてゆくのも我々管理部門に勤める人間の仕事だと考えています。

日本に戻ってから勤務する中で感じること。それは、どこに行っても抱える課題は似通っているということ。「なぜこの人はこんなにやる気がないんだろう、あなたの業務でしょう?」「かつてはきっと目をキラキラと輝かせた新入社員でいたはずなのに、なぜ今はこれほどまでに新しい仕事へ取り組むことを嫌がるのだろう?」ー このようなモチベーションの問題。「何を言いたいのか分からない、やるべきなのかやらないべきなのか。」- 指示の曖昧さから来る現場の混乱(現場ではそのあと、やるべきだ、いや、あの口調からすればやらなくてよい、ということだ、といった空虚な時間が過ぎてゆく)「なんで初めにそれを言ってくれなかったんだ?」「いったいこのレポートはそのあと何にしようされるのか?なぜこれが必要なのか?」- 情報共有の低さ。「いつも一緒に仕事をしているけれども、彼が具体的にどんな仕事をしているのか分からない。」「(いきなりこのレポートを作成してね、と言われたけれど)どうやってこのレポートを作成すればよいのだろうか?」- 業務の文書化ができていないという問題。

組織が大きくなればなるほどに自分で分かっていても自分ではどうしようもない、変えられない現実がある。そこに悩みを抱えていても仕方がない。今できることは自分の行動を変えること。そこから何かが動いてくれればよし、動かなければそれも致し方なし。結局は自分がどうしたいのか、どうすべきなのか。目の前のことに自分ができることに取り掛かるしかないのだな、と。自分を軸に物事を取り扱ってゆけば、どんな困難な問題にぶつかっても、その結果が必ずしも成功する保証はありませんが、少なくともやってやる、という気持ちがまず湧いてくる。まずはその一歩を踏み台にして目の前の一歩一歩を着実に進めてゆくことが、気が付けば次の人たちに進むべき道を示すことにつながっている、そんな風に思いたいものです。

今はなんだか順調だなと思っているその時に想定外の 事件が発生したり、本社から新たなレポートの報告要請がきたり、いきなり原油価格が落ち込んでロシアルーブルが一気に暴落に向けて進んだり…本当に想定不可能なことが、必ずといってよいほど「今日はなんだかうまく進んでいるな…」という時に起こります。いかに定例的な作業を 現地スタッフに落とし込んでゆけるか、そして不測の事態や将来に備えて 自分の体と時間にゆとりを持たせておくことが出来るか、それが駐在員の務めのすべてかもしれません。そうは言っても現実的には、実務にも多くの時間を割く必要があります。

スタッフのスキルのレベルで悩むのであれば、いっそのこと、高い報酬を提示して優秀なスタッフを外部から雇えばよいではないか、と。私はきっとそれが一番早い解決策だと思います、それが簡単にできるのであれば…。私の勤務していたロシアの会社は決して大きな規模ではなく、勤務しているスタッフもお互いの待遇をある程度知っている、モスクワの労働市場と比べると我々の給与が他社と比べて低いという事実も周知している。そんなところに特別待遇の人間をいきなり引っ張ってくることができるのか?また、そんな待遇を、販管費の管理を厳しく行っている本社が容易に認めるのか?…複数の要素が関係しています。なかなか簡単ではありません。そんな中でもできることはある。そして、決してそのコト自体は難しいことではない。結局、難しくしているのは人間。そしてこの人間というのが仕事をする上では一番厄介なもの…そんな現実と闘いながらよりよい仕事をすべくみんな頑張っている。ロシアも日本も何も変わりがないですね。

仕事の遊び心を / Let’s have a sense of fun in the job

いつもであれば入口付近はいつもたくさんの人で溢れかえっているショッピングセンターの様子。あまりの人気の無さにコロナウイルスという見えない敵の恐ろしさを感じます。モスクワもようやく少しずつ正常化に向かって漸進しています。6月からは朝の時間に限って散歩ができるようになるとのこと。自宅隔離は引き続き6月半ばまで継続されるようです。それにしても、すでに今でも通りにでて川沿いを歩けば、規制も関係なく自由にサイクリング、ジョギングをしている人たちを見かけるのが普通となっている日常ではありますが。

仕事に遊び心を。今、ますます、とくに管理の仕事をする上で重要だな、と思います。
サッカー、バスケットボールは昔から好きで、よくYoutubeで観ています。

なぜ、世界的選手のプレイがあれだけ印象に残って、何度見ても最高なのか?ワクワクしてしまうのか?ただ点を決めるだけではなくて何か一ひねりある。人が想像しない方法でパスをだしたり、えっここからこのシュート?と思ったら決まってしまう。ボールを扱うタイミング、リズム感が他のプレイヤーと違う。一つの丸いボールを皆が平等に扱う、ディフェンスを抜くにも方向は左右、股下か頭上に限られているのに、こうも観ている人を魅了するのかと。

オフィスワークは実直で、間違いの無い堅実な仕事を要求されます、それができて当たり前。でも、それだけではおもしろくないなぁ、と。えっ?周りが想像しなかったやり方で周りの人たちにプラスの意味での驚きを与えられる、そんなちょっとした驚きを与えることで、数多くあるつまらない仕事(ほとんどの仕事と呼ばれる作業がどれだけつまらないこことか!それを人は仕事、と呼んでいる)を面白くする方法の一つかなと。

例えばクラシック音楽の演奏会。思うことは、演奏者は非常に情熱的に演奏しているのだけれど、聴衆は微動だにしない。演奏中に咳をするのもはばかれる。携帯の音ももってのほか。なぜあの演奏者の情熱を観客は一緒に共有できないのだろうか?素晴らしい演奏者がこれだけ存在する世の中で一体どうやって差別化してゆけばよいのだろう?今の世の中、技術レベルが似通っていれば、あとは外見のルックスや何らかの話題性を持っているかといった演奏技術とは関係のないところでで評価される、になるでしょうか。音楽の世界はよくわかりませんが、皆が一定のレベルにいってしまうと、正直なところ私には差がわかりません。音量のでかさ、音程の正確さ、演奏表現の仕方の違いなどあらゆる部分で違いますがどれも個性で素晴らしいはす…。言いたかったのは、それにしても演奏の中にもっと遊び心があってもよいのではないかなぁ…と思います。

数年前にいたスタッフにお土産としてスパイダーマンの靴下をもらったことがあります。あの目が吊り上がったスパイダーマンのキャラクタです。なぜならば、「XXXさんはいつもこんなしかめっ面をして仕事しているのでこれをどうぞ」と言われました。今でもいつも眉間に皺を寄せて画面とにらめっこしていることが多いので、気を付けなければ。

そもそも世の中に面白い仕事ばかりできる人は決して多くないはず。つまらないというならば面白くしてやろうじゃないの、という意気込みを持ちたいものです。面白きなき世の中を面白く。すべては自分の心構えでどうにでもなるもの。例えば社内の承認フロー。紙を使用せざるを得ない事情があるとしても、Microsoft365が提供するWork flowの自動化を使えば、紙を介したプロセスをカットした電子承認システムを作り出せる。うまくゆかずに悪戦苦闘する時間も多いですが、上手にフローが流れるときの喜びはやってみた者にしか分かりません。それを社内に展開してみんなに喜びを共有できればサプライズのプレゼントです。そんな遊び心をもって日常業務を改善してゆくことで、社内に遊び心を浸透させ、コロナウイルスによるストレスが溜まる日々の中にちょっとした喜びを提供できるのかな、と。

仕事を複雑にすることで、それを仕事と呼んでいる人、ただの作業としか言えない業務を仕事と考えている人。そんな人が多い今の世の中。仕事の本質を見失っているのではないかと言いたくもなる要求が飛び交う日常世界です。他方で、こんな日本にしてくれたのは戦後復興で一生懸命に日本の今を築いてくださった先輩方のおかげという皮肉も感じます。そんな過去の遺産で成り立っていた時代は終わり、混とんとした世界が待ち受けている現在。辛いことも多くありますが、そんな中でちょっとした遊び心を毎日の仕事に取り入れてゆきたいものです。

ロシアでは挑戦する人を白い目で見る傾向がある、というのは本当か / Is it true people in Russia is likely to look coldly at challengers

会社の研修を準備していてロシア人講師と研修のコーディネートをしてくれるロシア人のスタッフの方と会話をしていると、「ロシアでは挑戦する人を白い目でみる傾向がある、失敗したら「それみたことか」と。だから自分の決められた範囲のことをきっちりやって、それ以上のことに自ら進んで手を出さない傾向があるんです」とのことでした。

一方で会社での昇格の基準は、枠組みから飛び出ましょう、もっと自分の業務の幅を越えて上のレベルへの挑戦を継続しましょう、それを続けて成果を出していく人を会社は評価しますよ。という真逆のものです。

ところで、ロシア人のマネジャーの中には「昇格は、必ずしも枠から飛び出して行動する人を評価するのではなくて、今の仕事をきっちりこなす様子を見て次のポジションを与えよう、という判断があってもよいのでは?」という人もいます。なるほどなぁ、そういう考え方もあるな、と思ったことがあります。

ロシアでは挑戦者を白い目で見る傾向がある、というのは正しくないのだろう

さて、日本でもチャレンジする人を白い目で見る傾向があるでしょうか?率直に言えば、ロシアは~、日本は~と決めつけて語るのは間違っているように感じます。誰でも自らの中で何かをきっかけにチャレンジすることを止めてしまった人、他人の視点を意識して行動している人はどの国にもいます。そのような人が国によって多い、少ないの傾向があるのかは分かりません。私が冒頭の話を聞いて思ったことは、ロシアは日本と比べて個人主義が強いように感じるけれども、意外にも周りからの目線を気にして行動する傾向があるのだな、ということでした。とりわけ「失敗」とみなされることには敏感なのかもしれません。

そもそも失敗も長期的に捉えれば失敗ではない。将来に控えているゴールを見れば、今経験することは全てがゴールにつながっている。であれば人が失敗と言おうが自分にとっては”チャレンジした結果”であって失敗ではない。そう断言できる人は強いですね。そういった人には自らの強い意志があり、周りからどう見られようとも関係ない。ロシアのビジネス紙で取り上げられている成功者と言われる人の記事を読んでいると、逆境を乗り越えて、強い意志を持って行動し続けてきた人、そんな共通点があるように思えます。そして、それは日本でも同じのはず。

なぜこうも挑戦することを人は避ける傾向にあるのだろうか?
歳を取ればとるほどに失敗への恐れが強くなるように感じます。若い人たちに笑われたくない。自分は年上として、マネジメントとして下の人間を圧倒する結果を示さなければならない。そんなエゴがますます”大人”を臆病にさせるのかもしれません。

これを打ち破るためには、上司自らがお手本となって失敗し、率先して部下に笑われることではないか、笑っても良い土壌を作り出すことではないか、と思います。

年末の会社のイベントで大変な失敗をした尺八演奏。(詳しくはこちらのブログ記事をご参照「恥を恐れず、ロシア人スタッフに笑いを」)全く音も出ず、どうしようもなく笑いをこらえる、を越えて哀れな目で見つめているロシア人スタッフたち。少なくとも、私自身は新たなことにチャレンジをしてその結果をしっかりと得たこと。あのような状況で自分自身がどう振舞うのか、心の状態はどうなのか、といった経験を得られたこと。何よりも、日頃から言いたいことを言っている上司の自分が人前で恥をかく、敗者の姿を堂々と見せられたこと。この目的を達成できたことは成功でもあったと言えるのかもしれません。

他人の時間への敬意 / respect for others’ time

新入社員の頃、本当に時間に対する意識が欠けていました。上司に報告するために作成した資料の説明。上司に質問されて堪えられない自分。その場で沈黙が流れる…。今思えば、そこで切り上げずに時間を取り続ける上司もどうだったのだろうか、と思ってしまうが、それだけ部下思いの上司であった、とも言えます、決して怒ることなく、いつも頭をポリポリとかきながら黙々と机に向かう仕事熱心な方でした。

上司も優しいので、なんと言われたか忘れたけれど、苦笑いしながら、頭をポリポリかきながら、「XXXさん、もう少し事前に準備できませんかねぇ…」そんなことを言われたことを覚えています。

その頃からずっと時間も経ち、自分が部下を持ってかの上司と同じ立場になったときにようやく気が付くあの時の上司の気持ち。自分ならどうするか?どうしたら一番時間を大切にした方法が選択できるか?その判断の繰り返しです。

会議。Outlookでデフォルトとなっているからか、大概1時間の会議招集を送ってくる人がいます。しかし、情報交換だけが目的であれば、30分の設定でよいのでは?と思ってしまいます。あるいは、そんなこと、メールで済む話でないの?
新入社員の頃の初々しい気持ちを今でも覚えています。初めて会社のメールアドレスが与えられて、パソコンを目の前にして机に座ったあの時。待てども一向に自分あてのメールがやってこない。受信ボックスは空っぽのまま。早くメールがこないだろうか…自分だって仕事をしたいのみ…。そしてようやく受け取ったメールに気持ちが高揚した瞬間。

今ではOutlookを立ち上げるたびに、はあ、こんなに着ている…と幻滅し、それから気を取り直していかに不要なメールを無視し、厳選した必要なメールだけ拾って回答してゆくかの作業。自分のやりたい仕事に集中するには早朝、スタッフが帰った後の夜、あるいは休日。それ以外は懐疑やら予定外の招集に呼び出されて対応しての繰り返し。
3月の終わりから始まった自宅隔離生活もすでに一か月半が経過。オフィスでは、皆と同じ場所に座って、騒ぎが起これば何が始まったのか聴き耳を立て、会計の締め状況がどうなっているのかスタッフの会話から把握し、人事のところでコソコソと話が始まれば私的なことなのか何か人事関係のことなのか注意が向き…そんな風に何となく全体を把握できる状況でした。今では一切何が行われているのか分からない。定期的にMicrosoft Teamで招集する会議やチャットで状況を把握しない限り、毎日の動きは分かりません。お互いへの信頼をベースに仕事を進めてゆかなければ不安や疑いによって関係が損なわれ、チームが崩壊してしまうでしょう。マネジメントの仕方も大きく見直しの時となっています。

さて、本題に戻ると - 会議室の予約時間が決まっているのだが、前の会議が15時に終わるから15時から次を入れましょう、とするとまずうまくいったためしがほとんどありません。大概の会議は延びます。その内容によりますが、ディスカッションの場合には時間内に終わることが少ない。会議の設定の方法については、前の会議の終了予定時間から30分は空けて次の会議予定を入れるといったゆとりを入れる工夫をしないと過密スケジュールとなってしまい対応ができなくなります。自分が上司であり、自分の指示に部下が従う必要ある、けれども、彼ら3,4人が私が来るのを待つ時間、それが15分とか馬鹿にできないほどの遅れになると、彼らの貴重な時間を奪っていることになります。確かに彼らは何かすごい責任を持った仕事をやっているわけではないかもしれない。それでも手元の仕事を切り上げて会議室にやってくる、その時間を失ってしまっているのは事実。せめて自分自身が前の会議にもでており、次の会議を別のスタッフと設定する場合には、一定のゆとりを設けること、そうすることで他人の時間への敬意を示したいです。

全体集会で、営業にのみ関係するテーマが熱くなって延々と個人的な質問をする人。コンサルティング会社の説明会で質問時間になると「私のビザは現在〇×△■な状態なんです、うちのスタッフに聞いたのですがよくわからなくて、教えてもらえませんか」そのやり取りがしばらく続くことも。個人的なことは自社で利用しているコンサルティング会社と個別に話し合ってください、というのが素直な気持ちです。銀行主催によるセミナーでの質問タイム。「今日のお話はありがとうございました。えー、私は自分のビジネス分野に従事してかれこれXX十年近く経ちます、それでもなかなかまだわかっていないことが多くてぜひアドバイスをいただければ嬉しいのですが…」といって質問が始まる。謙虚のつもりのようですが、全くもって不要な言葉ではないでしょうか。

他人の時間に敬意を払い、犠牲にしたくないからこそ自らの時間を多く費やして、資料やメールの準備に時間を取ってしまうこともありますが、それは決して正しいとは言えません。なんでもかんても考えすぎても今度は自分が動けなくなるのが危険、やっぱりどこか頭の中で客観的な目を自分の中に持っておいたほうがよいだろうと思っています。

「お前考えすぎだ、それ、その完成度で問題ない、とにかく早く送信してしまいなよ」そんな自分の声に「うん、そうだね」と胸の中で回答して送信ボタンを押してしまう。そんなやり取りを無言で行いながら、他人の時間への敬意と同時にスピードを意識して動く、そのやり取りとその検証結果の見直しが永遠に続いてゆきます。はっきり言えるのは、社内のメールに文法、言葉の使い方、てにをは、そのような点に過度に意識することはない、ということ。とにかく意味が通っているのであれば、何よりもスピードを最優先とすること。それこそが他人への敬意でもある、それを学びました。

仕事を忙しくしているのは自分ではないかという疑い / Suspicion that you are the one who keeps you busy

仕事は忙しい。でもその中身が健全なものか、不毛な忙しさか、自分で冷静になって熟考することが重要だなぁ、と感じています。

見ていると、仕事の多くが不毛な忙しさで大半の気がします。そういえば何年も前ですが、東証一部の立派な大企業の経営企画に勤めていた友人は「社長向けの報告用に作成するプレゼンテーションが更新される度に回ってくるんだけど、なんと、その更新回数がXX回だった。それもグラフの位置を変えたり、言葉遣いを変えるためだけに。社内向けの資料にそれだけの時間をかけているっていったい…」と言っていました。(回数の記憶が曖昧となってしまったのですが、それは多すぎるなぁ、という印象だったことだけは覚えています)

私がロシアに来たばかりで右も左も分からない昔の話ですが、本社に提出する分量も多くない業績報告書の最終確認のために全駐在員が揃って会議室にこもり、気が付けば4時間近くが経過していました。今もよく覚えています。4時間近く座って、時には沈黙も続きながらのてにをは直し。現地のスタッフを育成し、業務を現地化してゆこう、と言っても実態は日本人で固まる。これは安心感がありますが、長期的に見ると会社とロシア人スタッフにとっては弊害でしかないでしょう。会議がようやく終わって外にでたところ、とあるロシア人スタッフから「いったいそれだけ会議室にこもってどんな会議なんでしょうか…Unbelievable」と言われました。私も同感です。その後、改善提案をしてそんな会議の方法もようやく過去のものとなりましたが…

何事も、今自分が行っている業務はどれほどの重要な意味を持つのだろうか?自分の勝手な思い込みで業務に重みを与えているだけではないか?そのように自己吟味することの大切さを噛みしめています。(以前に読んだ、”High Output Management” by Andrew S. Grove(昔のインテル社CEOの著書で経営書の中では大変有名な本のようです)では、”レポートは情報を伝える方法というよりは、”自己規律訓練”の”手段”なのである。レポートを”書くこと”は重要だが、読むことは重要でないことが多い”という興味深い指摘がありました。確かにその通りだなぁ、と思います。時間をかけるべきレポートの取捨選択は必要ではあるのでしょうが…)

というのは、自身の抱える仕事に取り掛かるにあたって、その仕事の重要さの位置づけと時間の掛け方について考えずに進めてしまうケースが多いように感じられるからです。

さて、不毛というのは自分の不注意、自分で生み出してしまった忙しさのことも意味しています。今回主に書きたいテーマです。後から降りかかってくる、「なんで当初お願いした内容と違う仕事をしているの?欲しい数字はこれじゃないんだけど…」スタッフが持ってくる報告にそう言いたくなることがあります。その元を辿っていくと「仕事を頼んだあのとき、このポイントで気が歪んでいたな、ここできっちりと自分の欲しい具体的な数値を説明せずに曖昧にお願いしてしまっていたな」といったケースが見つかります。そして、さらに、それが繰り返されることも。後で振り返ると、あ、やっぱり自分だ。またやってしまった、と。忙しさのせいにしてはいけませんし、こちらのお願いする意図をわかってくれよぉ、と部下のせいにしてもいけない。(でも人間なのでそんな気持ちもあります)

Emailでも口頭での説明でも、とにもかくにも具体的に、誰が?何を?いつまでに?どうして?具体的に書いてロシア人スタッフに渡す。このことの大切さを何度も何度も強く訴えたいです。

自分自身が考えていることは相手にまず100%のレベルでは伝わりません。ロシアで働く場合には言葉の問題もあります。同じ日本語で仕事をしていても誤解が発生しますし、ロシアで勤務していても、見ているとやっぱりロシア人スタッフ同士でも勘違いが生じているのを見ると面白いです。どこの国でもなんら変わりはありませんでした。

また、給与変更やポジションに関する人事関係のニュースなど、少々相手の意にそぐわない内容を伝える場では、気兼ねして言葉遣いも弱まり、一層相手との会話の理解に誤解が生まれるリスクがあります。きっちりと文書にして相手との面談に臨むべきでしょう。例えば、こちらはグロス金額で伝えたはずが、相手はそれを手取り金額と理解しており、あとで契約書を更新する段階になって「いや、これは自分の聞いていた金額と違う」なんてこともあり得ます。そこからまた不毛なネガティブな話し合いのための”不毛な仕事”が発生します。

自分自身の抱える仕事をいかに時間をかけずに処理できるか、空いた時間でいかに将来のための投資の仕事時間に費やせるか。これが重要だと思ってます。必要のないところは手を抜く。例えば、増える一方の報告書。それでいて依頼者はレポートを読み込まないことが多い。一体そんなレポートの完成度を高めたところでどれほどの意味があるのか?その完成度を高めるために熱意を燃やして周りに強要するならば、それは、その人の自己中心的なエゴでしかないのだろうと。そのレポートに要求される完成度のレベルをまず把握することが大切です。

仕事を一生懸命に時間をかけて、残業してでも行うから素晴らしい、という価値観はありえません。これは、限られた私の経験からしか判断できませんが、労働時間が長い=一生懸命に努力していて素晴らしい、という風潮を事実見てきています。

周りからの評価が自身のKPIではなく、自身の持つ固有の時間を大切にすることであるならば、いかに自分の時間をかけずに課題をクリアできるかが優先順位となってきます。例えば資料作り。見やすい、きれいな色付け、線の種類を揃える。そういった類のことは社内向けであれば妥協すべきだと思います。コメントも過去資料に似たものがあれば流用できます。フォント、サイズを揃える、印刷の際には画面内に収まるだろうかと、Page previewでチェックする(相手が印刷をするかもしれないので)そのような最低限のことを守ればあとはとりわけ過度な注意を払うことは不要であろうと。そう思います。

社内メールであれば、句読点もそんなに重要でしょうか?そんなことも思います。自宅勤務が続くモスクワ。メールを音声入力で作成することが増えた現在 — 音声入力だと、句読点が入らない(方法を知りません) — そんなことを考えたりしています。

今の時代、結果的に仕事の反応も早くなり、結果的に評価される可能性が高まるかもしれませんね。自分の時間を最優先に考えて行動する。それが結果として会社と自身の両者にとって益がある、面白いです。

ロシアで”スーパージェネラリスト”に向かって進む日々 / Going to be a “Super generalist” in Russia

ロシアで日々業務に携わっていて感じていることは、企業で働く中での専門性、というのはその業務に関する知識の深さではない。その分野で業務を進めてゆくプロジェクトの導入過程で生まれる他の部門とのトラブル、実際の法律と会社の事情のギャップを把握したベストの解決策を提供できるか、予想していない二次的な災害が起こる可能性への対処、そういった、その場その場で求められる目に見えない経験値によるノウハウをどれだけ持っているか。これがいわゆる”専門性”と言われるものなんだろうか、と思うところです。

人事、経理、物流、IT、法務という営業活動とは直接関与しない管理要素のある業務を管轄していますが、”専門性”が果たして何を意味するのか? — 考えてしまいます。知識ならば、いくらでも専門書を読めばよいだけです。インターネットでもそれなりの専門的な知識を得ることができます。

ロシア人の従業員でよく出会ったのですが、知識を持っていることを専門性と思っている人がいます。「ロシアのLabor Codeにはこう書いてあります。だから会社のルールはこうあるべきです。」

確かに法令ではこう書いてある、だからそうしなければならない。それは分かっています。一方で、マネジメントからすると色々な事情もあり完全にそのルールに沿って行うことができない事情もあるかもしれません。ロシア人スタッフもそれを分かっている。であれば、マネジメントと法令の間に立って、現時点でのベストの回答を考えだす。それができることこそ真の専門性なのではないかと思うわけです。

今の世の中、ますます物事が複雑となっています。知識だけで言うならば、外部の会社に委託して情報収集やアドバイスを得ることがより適切となってきています。一方で、彼らはあくまで情報を持ってきてくれるのであって、私たちの会社が抱える内部の課題に関して理解を持っていません。それができるのはまさに”専門性”を持った社内の従業員だけです。その”専門性”は、単に自分の仕事の分野に留まって勉強していればよいものではなく、営業も含めた社内のありとあらゆる分野の事情について情報を持っていること。それぞれの部門が抱えている問題を大なり小なり知っておくこと。一見すると「そんなこと、私の仕事ではありません」と言いたくもなるようなことをどれだけ知っているか。そこから自分の持っている知識と組み合わせて会社にとって必要とされる解決策を提案できるか。まさに今の私たち — 管理業務に携わる人 — にとってますます重要とされるスキルだと考えています。

ロシアに来るまでは、経理業務に専門的に携わっており、会計士になりたいと思い、仕事に出かける前の朝、終わった後の晩、仕事中の休憩時間、週末は図書館で勉強漬け、そんな時を過ごした時期もありました。でもダメでした。目指す過程で日商簿記1級は取得できましたが、会計士の試験に1度チャレンジしたものの、到底自分のレベルが及ばないことを実感した試験体験でした。友人には、日商簿記1級の試験に2回目でパスした人がいます、それも、勉強のほとんどは通勤時間の電車で参考書をめくっただけだという。私は何度落ちたことか…そういった事実を踏まえても、友人の話を聞いたときには自分自身の才能の無さを感じた体験でした。

今となっては経理というベースを越えて、雑多なものに携わる中で特定の分野に従事している人には気づかないアイデアをポッと提案してみたり、ITという全体に関係のある知識を用いて他の部署に話を持って行ったり。自分自身の専門性が一体なんなのか、答えに窮しますが、そんな曖昧さ一杯の”スーパージェネラリスト”という一つの専門性を構築しているロシアでの仕事の日々です。

パソコン二台での作業が結果的に一番効果的な仕事のやり方ではないでしょうか / Working with two computers is the most effective way to work

管理の仕事をする上で効果的な仕事をするためにはIT機器のセッティングが欠かせないもの。ラップトップにモニターをつなぐのは一般的で、そうすると、選択肢はモニターサイズと接続する個数をどうするかに行き着きます。制約条件は、自分の個室がなく、机の大きさも限られている。

会社で標準モデルの22インチに始まり、それを2つ使ってラップトップと合わせて3画面で作業をしたり、24、27インチと大きさを変えてみたり。昨年は、インターネットで見つけたコラムに魅了されて34インチの湾曲型モニターに切り替えました。値段は75,000RUB。モスクワのタイトルで言えばスペシャリスト ― 概ね20代の年代をイメージ ― の約一か月分の給与に相当するお値段です。何と高いこと。「このビジネスセンターに入っているテナントのうちで、XXXさんが初めて34インチを購入した人に違いない」なんてITスタッフから笑われました。あまりにも重く、二人してやっとの思いで机まで運びセッティングしました。梱包箱もでかいこと…。これまで活用してきて、結果的には使用した上での経験が得られたこと、作業効率が確かに上がったことを踏まえれば良い買い物をしたと思っています。

34インチのモニターについては、多くの方の動画がYoutubeで流れており、それらを参考にできます。

私が34インチモニターを使用して感じているのは、

  • 大きなモニター1つで複数画面を確認するほうが良い(複数モニターをパソコンに接続してファイルを分散するよりも)
  • 月別のProfit and LossやBalance sheetを見るうえで、12か月分をスクロール無しで全て見れること、Wordファイルで作成された契約書やマニュアルを 確認する際に、字は小さくなりますが3枚、4枚をまとめて一画面で確認できること。これは素晴らしい。
  • もう34インチでも物足りなさを感じ、49インチはどうだろうか、という思いが募っていますが、オープンスペースで各スタッフが机を並べているオフィスであれば、34インチが許容できる大きさの限度なのかなという点です。

そして、より重要なことに思えるのは、ラップトップ2台を仕事に活用することです。1台は会社から支給されているもの。もう一つは私物です。個人契約している回線経由でインターネットに接続し、常時会社では机に2台を並べて作業をする。これが一番効果的な方法だな、と現時点では感じるところです。

何事も一人でやるには可能性が限られる。一人がどんなに強力な人であったとしても、多少弱いとしても二人いてくれればなおさら強力になる。ノートパソコンにも同じことが言えるのでしょうか。いくら最強のパソコンを利用していても、会社の標準機はあくまで一般的なビジネス上のモデルであってとりわけ抜きんでた性能を持つパソコンが与えられることはないと思います。

ロシアで勤務していて、ロシアのERPシステムの1C、エクセルなどのファイル、Outlookメール、Google Chromeといったアプリケーションを常に開いていることが多い環境のなかで ― それに複数のファイルを開くことも日常茶飯事 ― 画面の切り替えをしては戻って…の繰り返し。ショートカットを使用するとしても面倒なことだ…と感じてしまう。そうであれば2台のパソコンを使うことが効率的ではないか、そう思います。

また、職場以外の場所で仕事をする機会もあります。そして、万が一の盗難、紛失といったリスクを考えると、いくらラップトップが暗号処理されているとはいえ出来る限り会社のラップトップを外部に持ち出したくない。無くしてしまった後の業務への支障、データは本当に大丈夫なのかという不安の気持ち、社内での顛末報告云々。やはり持ち出したくありません。そんなことから鞄の中には自分自身のパソコンが常に入っており、結果としてオフィスでは2台を利用できる環境が整っているというわけです。

個人用のパソコンには会社のデータは絶対に保存しないこと。これはセキュリティ上も会社の機密情報管理規定上も守ります。ですから、個人用パソコンは主にGoogle Chromeでの検索であったり、個人で利用しているOffice365やEvernoteへの気づきや日記、課題を入力することに利用しています。また、この点はなぜ外部回線を利用して自分自身のパソコンを日頃から利用することが大切であるか、と私が考えていることですが、外部環境で会社の会社のOffice365のメールやOneDriveといったインターネット上のアプリケーションにアクセスして利用することで、会社のパソコン以外での業務環境に慣れておくことに役立つからです。会社のパソコンではOutlookの専用アプリケーションを使用しています、インターネット上のアプリケーションとはメールの表示、機能も異なります。Dictation(音声認識)機能があったり、メールをボタン一つでロシア語や日本語を英語に翻訳してくれたり。機能を探ってゆくと新たな発見があります。

と言っても、会社もメールやり取りをいち早く確認するには、スマートフォンに届くメールを読んでゆくことが最善だと感じています。画面も小さく、文章全体をパッと把握できるのでラップトップでメールを読むよりもずっと早い。ただし添付資料がある場合には(特にExcel)スマートフォンでは少々辛いものがあります。そんなわけで定期的に自分自身の業務の方法を見直し、変更してみながら改善を重ねてゆく日々です。