街中のファミリーレストランはきっと現代に欠かせないセーフティネット。/ Family restaurants in the city looks indispensable safety net in the modern age

いつも同じ席で競馬の新聞を読んでいる人。店員に「久しぶりね~、元気にしてた?」と嬉しそうに語るおばあちゃん。そこは街の中にあるファミリーレストラン。お互いに生活で辛いことや苦しいことがあったとしても、こうしてコミュニケーションをとることで笑顔になれる。お互いに元気に生きていることを確かめ合える。重要な場所だと思います。きっと、朝早くからから働いているお店の女性たちだって、職場を離れれば、きっと大変な問題を抱えながらも笑顔を振る舞っているのではないでしょうか。

つい最近訪れたとき、すぐ隣の席では、「(ご近所でのことか)朝から元気におはよう、と挨拶してくれる人がいるけれど、私にはそんなことはできない…」ととつとつとした女性二人の会話が聞こえてくる。それぞれの近況を語り合っているのでしょうか、すぐ近くに私がいることも気にせず、どんどん話が進み声もいくばくか大きくなっている様子。店員の女性はとても元気で、かつバランスが取れていて決してうるさくない接客で素晴らしい。こちらも元気をいただけました。浮浪者?!とは言わないけれど、ボロボロの服、ボサボサの髪の男性がいたり。とにかく色んな人が同じ空間に同居していました。

何もかもが電子化、オンライン化することで、会話する機会がどんどん無くなっているからこそ、機会がある時には人と会話することの大切さを感じます。だからこそ、デジタル化が進む世の中において、「すみません、どうしてもあと1円が見つからないんです(汗)」なんて言いながら現金を渡す時、そこに会話が生まれる現金での精算は貴重な価値を生み出すのではなかろうか、と思えてくることも。(といっても、現金だから会話が生まれるということもないのかな…。QR決済の世界をリードするPaypayの導入費用もゼロ円のようですし、デジタル時代の良さを取り入れて決済方法の多様化を整備することはお店側の使命でしょうか。)

興味深い記事が日経の記事に掲載されていました。これからは、デジタル化に乗り遅れてしまった人々をサポートできる体制であったり、人と人との繋がりを感じることができる人間関係が重要になってくるということだろうと思っています。

「DX祭り」に取り残された人々に商機を見いだす

下記はこの記事で取り上げられていた企業のウェブサイト。

https://www.papa.com/

We all need a pal sometimes. That’s why Papa’s here.

Papa helps health plans and employers connect members and their families to real people for help with companionship, everyday tasks, transportation, and more. It’s vital human connection, right to the front door.

“papa”のウェブサイトにあるトップページのメッセージより

そういえば、最近、住んでいる建物内のロビーにいたところ、同じ建物に住む全く知らないご年配の女性から「あのね、ちょっと聞いていい~?」と声をかけられ。何かと思ったら、iphoneのロックの解除方法が分からないから教えてほしい、とのことでした。新しいiphoneを手にしていて、かかってきたLINEの電話にかけ直したいだが、画面がロックされているので電話もかけられず、今からタクシーで知人のところにでかけようと思っていたのだという。娘さんが来てくれた時にしっかりと携帯の設定を行い、メモを残していってくれだけど結局訳が分からなくなってしまったそうです。こういった問題は決して珍しいことではなく、これからもどこでも起こってゆく課題だと思われます。電話ケースの内ポケットを探っていると、娘さんが書き残していったというパスコードらしきものがあり、それを使って無事に解除。「きっとこれかもしれません。でも、個人情報なので他の人に知らせない方がよいのでは…。」と言ったものの「いいの、いいの。気にしないで進めて。」ということで操作して無事に解除。まったくの知らない人間を信頼していただいたことにも感謝ですが、最新技術から取り残されている人たちがいる(いや、むしろ日常で不必要な技術が多すぎる)。また、便利になったからこそ、違う不便を生み出している事実も目の当たりにすることになりました。

究極的には、人は食べ物があれば何とかゆくのであって、自然と食料調達ができるのであればお金は不要。「これ、うちの畑で取れたの。ぜひ食べてみて。」といって友人が差し入れてくれる野菜。人間って、もとはと言えば土のちりから作られた、ということであれば、どんなにIT技術が発展し、デジタルの世界に没入するとしてもそれを使っているユーザー(人間)は自然からできているモノ。結局自然に帰ってゆく。ウクライナの友人から連日届く動画やメッセージを見ていると、どれだけ友人同士がお互いの必要をケアして、その必要を助け合うことが大切なことか。それを身に染みて感じることができています。インフラが破壊されてしまったために厳しい冬となったウクライナ。その寒さを乗り切れるように、部屋で履けるフェルトでできた履物とそれに添えたちょっとしたメッセージカード。あるいはチョコレートやクッキー。そんなちょっとしたプレゼントがどれだけ人の身体を暖かくするだけでなくて、その人の心を温めてくれることか。生活の中で出会うちょっとした場面で一言でも二言でも、「ありがとう」「すごい」「よくやっているね」…そんな風に、相手を元気づけられるような言葉をかけられる人間でいれたら…と思います。

2022年上期に購入した商品のザ・ベスト:生ごみ処理機 / The Best Product Purchased in the First Half of 2022: Garbage Disposer

2022年度上期に購入した製品の中で一番ヒットしたのは生ごみ処理機です。単にモノを購入して生活が便利になったから、という理由だけではなく、購入を通してゴミに対する国、自治体の取り組み方へ関心・意識が向くようになったことも理由に挙げられます。

今年も春になって暖かくなり、生ごみの取り扱いに悩みだした頃、ふとしたことから生ごみの取り扱いを解決してくれる電気製品があることを知りました。季節はちょうど3月の終わり。ネットで調べてみると自治体による助成金もあるとか。住んでいる街の制度を調べてみると、確かに制度が存在します。市の情報によれば、当年度の助成金の予算は上限に達したために終了済み。次回からの助成金制度の再開は翌会計年度が始まる4月からとのこと。なんとタイミングの良いこと。助成金もあり、悩みの尽きない生ごみの処理が解決できるということから早速4月に入ってから購入に向けて動き出しました。

助成金の申請については、市のサイトを調べつつも役所を直接訪問して関係窓口にて職員の説明を受けて準備OK。商品を購入し、あとは窓口で受け取った書類を説明いただいた通りに作成。その後、再び窓口を訪問し無事に書類を提出。窓口の方の親切な対応にも助けられ、初めてのこととはいえ想像よりも順調に手続きが完了しました。

私が購入した商品は以下の製品です。

商品の性能の詳細は、検索をしてみると多くのブログなどで皆さんが説明されているためここでの記載は割愛しています。音がうるさくない、と言うと嘘で、いざ動き出すと機械がうなっています。ずっと近くにいるとさすがに騒音です。会話ができないという大げさな音ではありませんが。機器を設定している場所から寝室が離れていて、就寝時には一切音があってはならない、という厳格な方を除けば全く気にならないと思います。いったん眠り込んでしまえば多少の音も気にはなりません。私は匂いは気になりません。確かに匂いはありますが、決して悪臭ではないため気にせずに機器を利用できています。ごみの量が明らかに減ること、虫の心配も不要でいつでも生ごみが出てしまう料理もできること。また、小さな努力ではあってもきっと環境にも貢献しているはず、そう思えることはポジティブな側面があります。もっぱら夜間に稼働させることが多いです。

自治体の中でも助成金の金額にはバラつきがあります。また、助成金制度そのものを導入していないところ、あるいはかつては導入していたけれども今では廃止した自治体もあるようです。インターネットで検索してパッと出てきたいくつかの自治体の説明書きを読むだけでも、各自治体の考え方を把握することができて興味深いものがありました。

”生ごみの減量には、まず、ごみの発生を抑制することが何よりも重要です。”

大阪市

これを機会に、日本の市町村の生ごみ処理機の補助金制度はどうなっているのだろう?ざっくりと調べてみました。全ての情報を調べたわけではないので正確ではないことを前提に。例えば座間市。たまたま、座間市のごみ収集に関するデジタルを活用した仕組みの記事を読みました。と同時に助成金制度も調べてみると、座間市はすごい。購入金額の4分の3(100円未満切り捨て、上限5万円)とのこと。上限は5万円までと潤沢なサポートがあれば、自己負担はわずか25%しかありません。これでいて生ごみの処理のことで悩みが減るとなれば、座間市民にとって購入しない手はないのではないでしょうか…素晴らしい。

座間市のごみ収集はNHKでも以下のリンク先の記事でも取り上げられており、ゴミ処理に対する姿勢が先進的な街だと思いました。少なくとも私は座間市に居を構えたことがありませんので実体験はありませんが、ゴミの取り扱いに対する真剣さが伝わってくる。そんな内容でした。

神奈川 座間で進むごみ収集のデジタル化 効果は防災対策にまで

座間市:電動式生ごみ処理機・生ごみ堆肥化容器への購入費補助制度

大阪市のサイトにあるように、今からすぐにできる根本的な対策は、一人ひとりが生ごみの発生そのものを減らすことを意識すること。これなんだ、と納得しました。一人ひとりがもう少し、わずかであっても高い意識を持つならば、とてつもない大きな効果を生むわけで、そして、意外にもこの方法はそれほど難しくはないのでは、とも思います。といっても、ゴミ回収日に出されるご近所のごみの量を見ると、どうしてこの数日の間にこれだけのごみが出るのだろうかと思ってしまうものです。生ごみをどう処分するか、というよりも、冷蔵庫の中身をしっかりと把握し、無駄のないように調理すること。不要なものは購入しないこと。いくらでもゴミを出してもすべて回収してくれるのだから大丈夫、という意識を変えること。簡単なようで難しいのかもしれません。スーパーにいっても何でも梱包され、ちょっとした量の食料であってもトレイに丁寧に包まれ、お菓子の袋といえば、袋を開けたらまた小袋が幾つも入っている有様…。ロシアのように、1kgで幾ら、と重さ単位で販売。購入者が自分で欲しい数だけ袋に入れ、秤に乗せて、野菜の種類を選択する。と、あとは自動的にバーコードが付いたラベルが発行されて、それを袋に貼付する。ずっと合理的では?と思うこともあります。例えば、ご近所のスーパーで見ると、大きさが若干異なる玉ねぎを1個38円、といった個数単位の不公平なルールで販売されています。重さ単位のほうが公平ではないかと思うのですが、きっとそこには何かの問題があるのでしょうか。

消費者、お店それぞれが意識するだけでも随分と改善できるのに、とも思います。昨今、節電に取り組んでいるお店を見かけるようになりましたが、何も電力供給量の逼迫が言われる今だから、ではなく、「私たちは環境のために節電を心掛けているお店です。地球にやさしいお店を目指し、そして浮いた経費はお客様に還元してゆきたいと努力しています!」なんてフレーズと共に、いつでも節電を行い、堂々と電球を外してしまってもよいのでは?ー 言うは易し。

ちょこっとだけでもインターネットで情報を検索するだけで多くの知識を入手でき、自分自身が正解と思っていたことが必ずしもそうではないのかもしれない、と思えること。生ごみ処理機の購入は、そんな発見をもらえるきっかけにもなりました。高い買い物ではありますが、行政の仕組みやほかの市町村の考えなどを知ったり、環境について考える機会となること。このブログを書くにあたって訪問した環境省のウェブサイトでも、貴重な情報が提供されていたり。払ったお金以上の対価を得ることができた ー 上期に購入したあらゆる製品の中で一番ヒットしたもの ー それが生ごみ処理機でした。

【参考資料】

大阪市:”生ごみの減量には、まず、ごみの発生を抑制することが何よりも重要です。”

https://www.city.osaka.lg.jp/kankyo/page/0000472447.html

北海道芽室町:”現時点において制度化の考えはありませんが、メリットやデメリットなどを含め、今後、機会を通じて町民の皆さんの御意見を聴いてまいります。”

https://www.memuro.net/administration/kouhou/hotvoice/2021/06/082.html

東京都北区:”生ごみについては、まず、なるべく食べ残し・調理くずを出さないよう工夫することが大切です。また水分をしっかり絞るというだけでも一定の減量効果が期待できます。環境に優しい方法でもあり、多くの区民の方々に実践していただくことにより、ごみの減量に大きく寄与するものと考えております。”

https://www.city.kita.tokyo.jp/r-seiso/faq/kurashi/gomi/go006.html

長崎県佐世保市:平成24年度末に廃止した「生ごみ処理機器設置奨励金交付制度」の再開についても検討しているところです。しかしながら、問合せ件数も少ない中で新たに予算を確保するのは困難な状況であり、一朝一夕にはいかない状況です。

一方、上記のように「生ごみを減らす」ことの重要性は強く感じており、生ごみのたい肥化を主眼にした「ごみ減量アドバイザー制度」に加えて「ダンボールコンポストによる生ごみたい肥化」のご案内に着手しております。また、生ごみの「かさ」を減らし、焼却しやすくするために生ごみの水切りや濡らさないことなどについてごみ収集カレンダーにも掲載し啓発を図っているところです。

さらに、ごみを減らすという観点から、食品ロス削減のために食べ残しなど生ごみを増やさず、食材の過剰切除を減らすこと、まだ食べられるのに捨てられてしまう食品・食材を減らすためにフードドライブについても発信し、市内のこども食堂に食品・食材を提供する体制づくりを構築しております。”

https://www.city.sasebo.lg.jp/soumu/hishok/iken_10914.html

武蔵野市:”生ごみ処理機の使用は生ごみの資源化・減量に有効ですが、処理機の使用は新たな環境負荷を生み出してしまうことと、過去に補助金交付を受けたかたを対象に使用状況を調査した結果、6割以上が資源化処理をしていないという理由から、平成20年度で購入費補助制度を廃止しました。”

http://www.city.musashino.lg.jp/faq/faq_seikatsukankyo/faq_gomi/1004137.html

生ごみ処理を行っても、処理されたものを堆肥として利用せず、ごみとして処分するだけでは十分ではないようです。

生ごみリサイクル技術資料

この上記のリンク先にある資料も内容が豊富でした。「全国土の会」という組織があるようですが、その会長である東京農業大学名誉教授の後藤逸男氏による説明です。「3坪(10 ㎡)程度以上の家庭菜園や庭があれば、誰にでも簡単に、全く費用のかからない生ごみリサイクルができます。」という説明が新鮮でした。つまり、高額の生ごみ処理機を購入する必要もない、ということですね。残念ながら我が家には存在しませんが…。

”家庭用や業務用生ごみ乾燥機では、ごみ焼却炉と同様に化石エネルギーを浪費するとの批判もありますが、焼却炉から出る焼却灰はやっかいな産業廃棄物です。それに引き替え、生ごみ乾燥機で乾燥された下の写真のような生ごみ(左が、10mm 目のふるい通過物)は資源として再利用できます。”(技術資料の中から抜粋)

環境省関連リンク

環境省:食品ロスポータルサイト

ロシア人が見た日本人ー日本の礼儀正しさについて / The Japanese through the eyes of Russians – about Japanese politeness

NHKロシア語ラジオ講座の6月号の中で、日本人講師と一緒に講座を担当しているロシア人パートナー、「イリーナさんに質問」というコーナーで「おっ、自分が帰国して感じていることがまさにここにある。」と感じたコメントがありました。(なお、6月号の「ロシア人が見た日本」は、1861年に箱館のロシア領事館に赴任して、約半世紀を日本で過ごした宣教師ニコライ氏の日記が取り上げられていました)

「日本の礼儀正しさ…は、極端に、丁寧すぎるくらい丁寧なのですが、その丁寧さは機械的に身に付いたもので、心がこもっていないのです。…その礼儀正しさにはとてもいらだつし、からかわれているようにも受け取れます。」

私が感じるのは、大概のお店の店員の態度は、言葉そのものは丁寧さがあるものの、その言葉には感情がこもっていない。どこかしら早く行ってくれという雰囲気すらある、というもの。 

近所のスーパーのレジに並んでいても、決まった動き、決まった「ありがとうございました。またお越しくださいませ。」の言葉。お辞儀をしながら体勢はすぐに次のお客さんのもとへ。何かを期待するわけではないけれど、ロシアのスーパーで淡々とレジでモノをさばく接客のほうがずっとシンプルな気がする。支払いでこちらが戸惑ってしまうと迷惑そうな顔。ポイントカードの提示が遅いと(といってもそこまで遅くはない)イライラ度が募っているような雰囲気こちらにも伝わってくる。 

意外にも、時として日中に利用するファストフード店で接客をしてくれているレジの高齢の女性。スピードがとても速いとは言えないけれど、温かみをずっと感じる接客に微笑ましくなることがある。 その接客にはお店の接客マニュアルに収まらない、人生経験の豊かな人のどんなものをも包み込んでしまう大らかさがそこにあるように感じられます。

以前にモスクワで勤務していた時、モスクワJALによる“日本のおもてなし”の講習会を開いていただいたことがありました。日頃から利用いただいている日系企業の皆さまに無料で提供しています、ということでオフィスまで来ていただき、広い会議スペースで社員を集めて日本のおもてなしとは、を学びました。日本の文化に触れる点では価値があったことに間違いありません。お辞儀には角度があり角度が大きくなるほどより敬意を示す度合が大きくなること。お店でお客さんが購入してくださったときに袋の口をふさぐテープの掛け方。テープをかける際にはお客さんがあとで取り出しやすいように片側の端は接着面を重ねて止める。そのような細かい配慮が日本のおもてなしだという。率直な感想を話すならば、そのような形にこだわるよりもそこの感情が伴っていなければどうなのだろう?と。形だけのおもてなしで中身がなければ、余計にがっかりしてしまう点で日本のおもてなしは紙一重なのかもしれない。

ところで、ファストフード店でも牛丼屋でも注文したものが運ばれてきたときの店員の言葉は「ゆっくりお過ごしください。」しかし、お客さんにずっと長居されると困るのが本音であることは周知の事実。そうであれば、「出来立てです、どうぞ熱いうちにお召し上がり下さい。」といった別の言葉にしたほうがずっと正直で良いのでは?と思うのは私だけでしょうか。言葉の意味を考えてしまうと違和感を感じてしまいます。 

モスクワの中心、赤の広場に接するレストランで大切なお客様を接待したときのこと。テーブルを担当するウェイターには、全てがうまく運ぶように事前にお願いをしておき、実際に食事の場は我々の会話が大変スムースにはずむ素晴らしい接客を行ってくれた。支払いの時、この若い男性は「今日、自分は出来る限りのことをしたのでその点も考慮してください。」と耳元で伝えてきた。ここまで直接的に言われたことは初めてで一瞬戸惑ったけれど、それだけのことをしてくれたことに対して直接訴えてくるほうがずっと潔いのかもしれない。実際にそれだけのことをしてくれたことに対して感謝を示したいと思うのが自然だと思うし、そこには顧客のために仕事を全うするプロフェッショナルな姿勢と感情もあった。

そういえば、こうして書いていて思い出されるのは、夜に外のテラスに座っていた別のレストランでのこと。照明も少なく暗い中でパソコンを開いて仕事をしたのだが、何も会話していないのにも関わらず、ウェイターがわざわざ別の場所からライトのスタンドを運んできて明るく照らしてくれる配慮もあった。すべてのレストランで常にベストの接客に接するとは限らないし機嫌の悪い人は悪い。それでも、今回はどんな接客が待っているのだろう、とハラハラドキドキ(?)の接客のほうが、安定してはいても機械と化した人間の接客を受けるよりもずっとよいのかもしれません。

日本人の礼儀正しさは…、極端に、丁寧すぎるくらい丁寧なのですが、その丁寧さは機械的に身に付いたもので、心がこもっていないのです。

NHKラジオ講座6月号 p.120より(ロシア人パートナー、イリーナさんの言葉)

レストランの接客と一般のスーパーでの接客を同じ土俵で比較することは間違っているのかもしれませんが、接客ももっと自由で会話のある自然で人間的なものになれば良いのに、と日頃感じていることを書き連ねてみました。自分自身を客観的に振り返ってみて、自分自身にも出来ることがあるのかな、とも思います。会話はそもそも苦手ですし、なかなかその余裕もないとしても、こちらが感情を込めてしっかりとお礼を言う。今すぐにでもできることから日々努力中です。

日本の安全性がなんだかんだ言っても高いことの素晴らしさ / It ’s wonderful that Japan ’s safety is still high.

(この体験は大都市から離れた郊外に住む私の生活環境を前提にしたもので、決して日本の全ての場所が同じ状況ではないことを前提に、あくまで私の体験に基づいた主観を書いています)
カフェに座っていてふと思うことは、周りの人がお店に入って席を取ると、自分の鞄を椅子に残して席を立ち注文をしにいったりトイレに行ったり。横に座っていた人が立ち上がり人の気配が無くなった。しばらく経つので帰ったのだろうという意識でいたが、ふと目を横のテーブル下にやると鞄が置いてある。そして持ち主は何事もなかったかのように戻って再び席についた。こんなことが自然に行われていることはきっと異常なんだと思う。モスクワで生活していて、席を離れる時に荷物を置いて席を離れたことは一度たりとしてなかったし、友人の誰もがそんなことをするところを聞いたこともない。一人でカフェに座っている人が席を立つときには荷物も一緒に離さずに立つ。これが世界的な標準なのかな、と。自然にこのように、自分のモノを身から離し、席においたまま離れても自然な感覚でいられる環境で育つのって素晴らしいと思う。

モスクワで勤務していたスタッフには、モスクワで生まれ育ってはいるものの、モスクワの常識が身についていないのか、この良き日本文化が行き渡った日系企業の文化に触れて感覚が日本仕様になってしまったのか、とあるカフェに一人座っていて、時間にして10分くらいだろうか、鞄を椅子に置いて席を外していたという。戻ってきたらパソコン、パスポートの入ったリュックが無くなっていた…。防犯カメラを確認すると犯人らしき人が映っていることを確認したものの、結局取り戻すことはできなかったようだ。仕事はとても優秀で、タスク管理にも秀でいた彼も自分の持ち物管理には長けていなかったのかも。

モスクワの常識を覆される出来事に心を救われることもありました。モスクワから休暇でソチに行く飛行機に乗った時のこと。ソチの空港に到着し、いつもの場所に財布がなく、鞄の中に手を突っ込んでごそごそと財布を探るも財布らしきものに当たる感覚がない。いつも財布とパスポートだけは絶対に紛失してはいけないと、常に鞄の中の場所場所を決め、意識して盗難にも注意していたにも関わらず、海外で初めて財布を紛失したことに愕然としたものだった。カードをストップして手続きを終え、モスクワを飛び立った時の陽気な気分がソチの快晴の空とは対照的に、心の中は一気に陰鬱な雨模様と様変わりの様子はご想像の通り。

…ところが、ホテルの部屋で仕事のパソコンを開くと、見慣れないロシア語のメールが見知らぬ人から入っていました。「あなたの財布を空港のチェックインカウンターで見つけたので、空港の落とし物預かり所に預けておきました。空港に戻ったらその場所に取りにいくように。」との内容です。どうやら、財布は空港のチェックインの際に忘れたようです。早朝で頭もあまり働いていなかったからか、財布を鞄にしまい忘れてその場を立ち去り気が付いたらソチにいた…。この方は財布の中に名刺をいれていたことから、仕事のメールアドレスにメールをくれたようです。ソチで気分はどん底に落とされていたところに、このような善人がいることを知り一気に晴れやかな気分へ再び舞い戻り。こんな想像していなかったことを経験し、善良な人がいることに深く感謝し、何とお礼を言ってよいのか…メールで感謝の返信。数日後、空港で落とし物預かり場所を訪れると、確かに財布が保管されていました。中には日本円に換算して1万円以上のルーブルがありましたが全額そのまま。この方にはオンラインバンクでお礼のお金を送金したことを覚えています。モスクワにはこのような善人に出会えることが非常に珍しい、というつもりはなく、どこにでも同じように善良な人がいて、悪い人もいる。人は自分が体験した経験に基づいて「モスクワは~」「日本は~」「東京は~」と決めつけてしまう傾向にあると思います。そうありたくないけれど、気が付けばこの傾向が出ていることがある。気を付けたいですし、一方でこういった傾向を人が持っているからこそ、海外では日本人ブランド向上のために自分の出会う人たちに善いことをする、そんな気持ちを一人ひとりの日本人が持って実践してゆけば、世界での日本ブランドはまだまだ輝き続けるはずです。

そういえばこんなこともありました。モスクワに駐在中に、新年の休暇を利用してアメリカに出かけ、空港のベンチでフライトを待っていた時のこと。まったく見知らぬアメリカ人女性がやってきて、「ねえちょっと、私の荷物見ていて。すぐに戻ってくるから」といって、自分のスーツケースを私に預けてどこかに行ってしまいました。私もまだその場所にいるので別に問題もなく、戸惑いつつも「OK」と返事。彼女の急ぎの案件と、万が一にもアジア人の見知らぬこの男性にスーツケースを持ってゆかれるリスクを天秤にかけて決めたのか、ただちょうど良いところに何だか問題なさそうな男性が座っていたので好都合だったのか。それはそれで信頼された、ということであれば嬉しいものですが、こんなこともあるんだなぁと面白い体験の一つとなりました。

これからもきっと善人との出会いに救われることもあればその反対もあるはず。私たち個人個人の”常識”は、その出会いの中で形作られて、変化してゆくのかもしれません。日本がなんだかんだ言っても安全性が高い、という”常識”も一人ひとりの行動が積み上げてきたもの。いつの時代でも、自分の荷物を気にせずにカフェの席を立って注文に行き、気兼ねなく荷物を置いてトイレに行ける国であったら…素晴らしいですね。

(ロシア人 + 日本人)/ 2 = 完璧? / (Russian + Japanese) / 2 = Perfect?

最近、ベラルーシの友人とZoomで定期的に会話しています。首都ミンスクから離れた地方都市に住んでいることもあってか、インターネットが不安定なこともあるようですが、今起こっているベラルーシでの現政権に対する抗議行動の喧騒からは離れて、比較的静かな生活を送ることができているのだとか。

ロシアにいて尋ねられる質問の一つに、「中国人、韓国人、日本人の見分けがつくか?」というものがありました。我々日本人が、ロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人の見分けがつくのか?という質問をロシア人にするのと同じかもしれません。外見が似てはいても、国民性が異なるというのは両者で共通するテーマと思います。

ベラルーシ人の彼に言わせると、ベラルーシの人はロシア人よりもおとなしく、直接的な物言いを避ける傾向にあるようです。Ты догадайся о чем я думаю. (こっちがどう思っているか分かってくれよ。)なんてよく言ったりする。相手に言いたいことを直接言わずに、でもこちらの思っていることを分かってほしいために遠回しに言うことがある。ロシア人とベラルーシ人の中間がベストだね、ということでした。これはあくまで個人の意見であるため、これでもって全国民性の定義はできませんので真実は分かりません。ただ、複数の人から同じことを聞くので、決して個人的な思い込みではなさそうです。Youtubeでは綺麗に日本語を操るネイティブの方々が語る様々な動画があるので、きっとそういったネイティブの方の意見も十分な説得力があると思います。私自身、ロシア人と日本人の性格を足して2で割ったら、きっと良いバランスになるだろうな、と思っています。

その友人の妹がドイツに行き、帰国して言ったことは「ドイツは本当に素晴らしい国だ。よく整備された国。けれども、人々は今の経済が悪くなることを恐れている、仕事を失ってしまわないか怖がっている」と。恐らく日本でも同じように大なり小なり同じような認識を持っているのではないでしょうか。私自身、帰国して客観的に自分の生活環境を見て特に感じるのは、今の安定したやり方、環境を守ろうという意識が強いこと。今の状態でも課題はあるけれども、でも大きな問題ではないはず、そんな雰囲気かもしれません。変化、というものに対してなかなか良いイメージがない。きっと日本がというよりも、どの国でも変化というものには敏感でしょうか。とりわけ、「日本は安定していてすごい。」とロシアの人の多くが訴える日本の”良さ”。その安定さを否定的に見ることはよくないのかもしれません。どうしてもその危険性ばかりに目をやってしまうのですが…。

今の状況を問題視しないとすれば、きっと、それはその人の環境がそれだけ整備されているからなのかもしれません。やっぱり日本はすごい。たまにおかしな光景を目にしてショックを覚えることもありますが — つい最近、朝のマクドナルドで座っていたら、注文をしているおばあちゃんの声が向こうから聞こえていましたが、突然声を張り上げて、「こ・こ・で・食・べ・て・ゆ・く・の。私はいつもそうなの!」しばらく沈黙のあと、「あなた今笑ったわね!見えないところで笑うならまだしも、人の前で笑うなんておかしいじゃないの!なぜ笑ったの!」と。その後も冷静に対応している店員とのやり取りの後、そのおばあちゃんのところに店員が注文品を持ってくると、「この400円泥棒!」と捨て台詞を吐き捨てるように浴びせていました。何があったかよく分からないのですが朝から強烈…。赤信号でも関係なくゆっくりと横断歩道を渡るおじいちゃん。それをじれったそうに待つ青信号側のドライバー。高齢化社会の日本は恐ろしい時代に突入してゆくものだと、そんな断片を感じました。 — これだけの経済大国を作り上げた日本。一方で、同じ時間に世界の別の場所で起こっていることとのギャップに少々戸惑いを覚えます。静かに人々が暮らしているように思えた、あののどかな雰囲気のベラルーシで今起こっていること、ロシアでも反プーチンの代表的な人物であるナヴァリニィ氏の呼びかけた反政府活動により各地で大きな暴動が起き(モスクワに駐在している人曰く、デモが起こっているのは局地的なものであり、その場所以外は落ち着いているという)、ナヴァリニィ氏の組織に所属してこの反政府活動を扇動したとして知り合いの息子さんは現在自宅軟禁状況だという。友人の母親はコロナウィルスで亡くなり、お世話になっていたご夫婦や友人の奥さんは共にコロナウィルスで重症となり救急治療室に入っていた、身近なところでもこんな様子を耳にしています。

ロシアはこれまでも、今も、きっと将来も安定、という時代が来るとはとても想像ができませんし、経済的にも家族、親戚同士で助け合わないと生活が難しい状況。だからこそ、今の時代においては逆に強いのかもしれません。元々安定した土壌がない中で、なんとか日々の生活をやり繰りしてゆかなければならず、政府にも頼れず、信じれるのは自分のみ。そんな環境にいれば、これからますます不透明さを増すであろう世界においてもショックも少なく立ち向かえるのかもしれません。これまでは決まったことを一生懸命にやっていれば、会社も成長し、自分の生活が向上し、国も成長してゆくことを実感できたはずが、これからはきっと自ら変化してゆかなければ取り残されてしまう。専門家の言うことも果たしてどこまで信じてよいのかが分からない。自分で考えながら生きてゆくしかない。日本は(世界全体が?)きっとこうなってゆくに違いない。少なくともそんな土壌がロシアには備わっている。その中でたくましく生きている人たちから自分自身も刺激を受けて、自らの環境でできる変化を生み出したいな、とそんな風に友人との会話を通して考える機会となりました。

ロシア人も日本人も、みんな人間、同じ仲間。 / Russians and Japanese are all human beings, the same companions.

日本に帰国すると、モスクワでの駐在生活では上司として部下のロシア人スタッフに言いたいことを言い放題であった身分も、日本では一スタッフの身分。同僚のことをおもうのだったらなぜ言えないの?友達でしょ?といっていた自分がいるけれども実際には難しい。上司だったら言えるのだろうか、いや、そうとも限らない。日頃から言えるだけの関係であったり、”言える”という能力も持ち合わせていないといけない。少なくとも、指導できる正当な立場にあるのは確かだけれども。年齢を重ねれば重ねるほどに周りはこちらについて思っていることを言わなくなる。近頃は、ますます大切なことだなぁ、と感じることは、常にもう一人の自分を少し離れた所に置いて自分自身を客観的に見つめること。すぐ傍にもう一人の自分がいて、その状況での自らの振る舞いについて観察する — 単なる自己中心的な言動になっていないだろうか?今の状況を良い方向に向かうためには何ができるのか、すべきなのか?— ことが重要だな、と思っています。多くの人が心の中で思っていることを伝えてくれないわけですから自分で感じるしかないのでは…

そういえば、ロシア人スタッフもお昼を食べたり、何気ない生活の話をするときには大いに盛り上がって仲良くしていたけれども、いざ仕事のことで正すべき振る舞いについては、上司である自分のところに来て「あれは良くないと思う、仕事では困ってるんです、何とかしてもらえないでしょうか…」なんてことがあったな、と思い出します。

日本に戻ってすでに半年以上が経ちますが、思うことがあります。”ロシアはYes、Noがはっきりしていて相手の考えていることが分かりやすい、その一方で日本では人が何を思っているのか分からないこと多くて悩んでしまう” ― 「ロシアと日本の違いで感じることは何?」とロシア人から聞かれるときには、こんな風にロシアと日本を表現していました。この傾向は今でも否定しませんが、例えば、上記のように職場で感じるような同僚へ考えを伝えるのか、伝えないのか?そんな点になるとロシアも日本もほとんど変わらないのではないだろうか、ということ。そして、日本では、会話の中で感じる微妙な緊張感、使う言葉のちょっとした違いから感じるバチバチとした雰囲気。声のトーン。そんな本当にちょっとしたところからお互いに何を考えているのかを推測できます。だからこそお互いに言わなくても、お互いが見えない会話が成立している。それを日本語文化の中で育ってきた私たちは瞬時に感じます。

一方、ロシア語で同じ会話が繰り広げられている場合には激しい応酬になることも。例:「サーシャ、何でこのディーラーへの出荷先住所が登録されているところと違うって言わなかったの!信じられない!」「いや、言ったじゃないか?」「いや、聞いてない!これでもうXX回目よ!」こんな大きな声が聞こえてくると、明らかにトラブルがあって、両者が自分の正しさを主張し合っていて、これは問題だ、と。そこまではロシア語が分からずとも感じとれそうです。しかし、そのトラブルの主要な原因は何なのか?お互いに何か反省すべきところがあるのでは?きっと何かがあるはず。(オフィスで生じる問題には、大概どちらかが100%悪いというものよりも、お互いの意思の疎通の問題や情報共有不足、指示の曖昧さ、そんな双方に原因がある理由がほとんどを占めている気がしています。)自分の何が足りなかったのか?どうすればよかったのだろう、改めてほしいのだろう?そんな点になると、なかなか本質的な議論にまで発展する機会はなかったような気がします。本人たちの上司であるマネジャーに話しても「それは別に大したことではない、彼らの性格もあって言い合いになっているように見えるけれど、よくあることなので」と深刻に捉えてはいませんでした。日本のオフィスで私が見かける光景とは違い、はっきりとした言い合いになるほうが、本人たちも周りの人たちも起きている問題や、当人たちの改善すべき点に気が付く機会となる点では良いのかもしれません。そうであっても、当人たちが自らの正当性の主張をし続ける限り、その機会は有効に生かされないことになりますが。

自分とは関係のないと思う外部の人間だからこそ強く言えることもあれば、自分の大切と思う仲間には嫌なことを言いたくないからこそ黙っていることもある。黙って相手の足りない点を我慢して受け入れることも仲間をおもうことの表れ。いや、相手の将来を考えるからこそ、相手に直してもらいたい点を今伝えよう。それもまた思いやり。何が正解なのか分からなくなってきましたが、私の経験から言えることは、

・日本と比べると感情を出して議論するロシア人スタッフの様子を見て、なんでもかんでもロシア人ははっきりと物事を話す人たちだ、という思い込みを避けること(根幹部分ではみな同じ人間。同じことを感じている、考えているのだから)

・自分自身の直すべきところを指摘するほうも、指摘される側も、共にそれを直接相手に向かって口に出すことはいいものではない。だからこそいつも自分を客観的に見つめて謙虚に修正してゆく努力が大切

・生まれ育った環境はそれぞれ異なり、それぞれが違う考えや固定を持つのは当たり前。自分の良さを客観的に観察して、それを最大限に発揮できる場所を見つけること。(「なんか変わってるよね」なんて言われる分野があれば、それは多くの人と異なる自分の強みがある場所なのかも)よく言われていることだと思いますが、周りの人間ができていて自分が叶わないなぁ、と思うことをいくら追いかけても、一定のレベル以上を目指して追いつこうとする心が伴わない労力は努力に見合わなく疲れてしまうだけだから…と自分自身の経験を通してそう信じています

あまり人種、文化の違いを考えることなく、あくまで一人の人間として感じる通りに行動すること。日本人だから~、ロシア人だから~、そういった杓子定規に物事を捉える必要はなし、そういうことなんでしょうね。

とある日の朝、マクドナルドでお金のことを考えてみた / One day morning, came to my mind at McDonald’s about the money in Japan

今朝、マクドナルドにて朝マックを。モーニングセットでいつも250円。「はい、300円になります」…あれ?以前ならあまり50円の差を気にすることも無かったし、そもそもマクドナルドはあまり身体の健康に良くないという印象がある…のだが、気軽に入れて安く済むこともありマクドナルドは貴重なリモートワークの拠点の一つ。それらの点を考慮に入れながら、モスクワでは週末朝には大抵McCafeのコーヒーとクロワッサンやパイなどを注文して仕事をしていた、そんなあの頃が懐かしい。

帰国してからのマクドナルドでは、こんな気になったこともあった。単品で注文した際にスタッフによっては何も言わないとMサイズになっていて、値段が思っていたのと違っていたり。Sサイズで良かったのに…。いつも注文していた時にはSサイズが何もいわずとも出てきたのでそんなものかと思っていたらどうやら違うようだ。それとも若いあの店員は、お客がサイズを言わないことを賢く利用してマクドナルドの店舗の売上に貢献しようとしていたのか?

冒頭のマクドナルドの店員は、その後もドライブスルーで受ける注文のミスもしていたようで、もしかすると店員さん自体に問題があるのかも。メニューには¥250と書いてあるのに店員さんが打ったレジは¥300を表示したまま。たかが50円、されど50円。以前のMサイズ事件を思い出し、「コーヒーのサイズはSでよいですよ」と念押しをする。そのうち、「店長~」と、キッチンにいるらしきスタッフへの助けを呼び出した。こうなるとレジのメニュー登録に何か誤りがあるに違いないと納得。…が、「あっ、250円でした。」…それってただ単に別のモーニングメニューを選んでいただけじゃないでしょうか、と心の中でつぶやく自分がいたのはご想像の通り。声に出して文句を言わないだけ立派な大人です。

さらに、クレジットカードのタッチ式で支払を使用とマシンの上にカードをかざすと「お客様、ICチップ付カードはICチップが付いている方から機械に挿していただかないと…」と言われて、「そうですね」と言いながら(いや、ちがうんじゃないかな、と思いつつもこれ以上は店員さんと円満なままにお別れしたいと思い)挿そうとしたらレジからレシートがジー…っと出てきて「あっ、(精算が)できていますね…」と。

こんなちょっとした短いやり取りの中から得られる教訓が。

一つは、日本に帰国してからというもの、自分自身の払うお金に対して意識が高まったこと。モスクワで生活していた時には意識していなかった自分の払うお金の意味。モスクワではお金を払うことから得られる貴重な経験、という口実を元にあまり家計を気にすることもなく支出を重ねていた気がする。今、日本に帰ってきて感じること。サラリーマン。自分の受取っている給料は一体自分のどんなスキルに対して頂いているお金なのだろう?例えば、同僚との話に多少花が咲いて30分間、”業務時間”が増えた。オフィスでの円満な人間関係のためにも会話は大切だし、それは不可欠。でもその頻度が高く、積りに積もって毎月何時間もの”残業時間”が生まれそれに対して時間外手当を頂く。もしそんなことがあるとすれば、そのお金って自分のどんな”仕事”に対価として支払われるものなのだろう?意外に会社の経費を削減する要素ってこんな簡単なところにあるんじゃないかって思う。いや、きっとみんな分かっていることなのかもしれない。もちろん口で簡単に経費削減といっても簡実際には難しいに違いないのだけれど。

モスクワで現地採用として働いていたとある日本人の方曰く「大企業の人は全く世間の人と感覚が違いすぎる!」そしてきっと大企業の方からすれば会社の環境が自分たちの”世間”であり、そこで成り立つ世間で大部分の時間を過ごしているが故に、それ以外との交流が少なく、その方が述べていた意味を理解するにも苦労するかもしれない。まとめると、自分の頂くお金の意味を考えると、実は自分の言う”仕事”というのは会社を出て勝負するにはあまにも心細い”仕事”であり、これらに対する対価として頂くものなのかもしれない。「給料ってのは、仕事で苦しむことに対する対価としてもらうんだよ」と、新入社員の夢を壊すような悲観的な発言をしていた上司がいたけれど、確かに社内での物事の調整役に追われたり、ひたすら決まらない会議に出席することなどが続くと、その上司のコメントの意味も理解できるような気がする。

また脱線してしまったのだが、自分自身の頂くお金は相当特殊なものであり、かけがえのない、貴重なものだということ。本当の”世間”に出たら、今の自分の行っている”仕事”にお金を払ってくれる人なんていないのかもしれない。そう考えたら、50円でも1円でも自分の払うお金の意味を考えることに。そして、自分自身が謙虚になる必要をいつもリマインドしてくれる。一方で自分の投資になるために使うべき時を逃さないことも大切で、自分の使うお金の意味を考え続けていると投資に躊躇してしまう自分がいてそれもまた見極めが難しい。

2つめの教訓は、”お金 in ジパング”。日本人はお金に対して云々といったテーマは数多く語られているのでここではそれは止めておいて、ロシア人と日本のことを会話すると「日本は世界の最先端の技術がある夢の国。ぜひとも行ってみたい!」という強い憧れを持っている人が多い印象。日本はなぜあれほど高度に発展して豊かなのだろう、和食は大変健康的で美味しい、平均寿命も長い、温泉、富士山などなど、かつて日本に来ることにあこがれたヨーロッパ人のように目を輝かせるロシア人が多い。実際に自分の生まれ育った日本に戻ってきてみると、「なぜこれほどまでに現金主義の人が多いのだろう?お店でも現金しか受付けないお店も多い。また、なぜ店員はあれだけ何時間もレジで働いていてタッチ式の支払方法があることを知らないのだろう?(つまり、それだけ多くの人が現金や通常のICチップ方式の支払方法を多用しているということだろうか?)」ー そんな風に思えたり。モスクワでの生活で現金で支払う光景を目にするのは、高齢のおばあちゃんおじいちゃんが細かいコインを何枚も順番に、ゆっくりポケットから出すのを後ろで並んでいる人たちが若干イライラしながら眺めている、現金を見るのはそんな場面だけです。…なんてことはさすがにありませんが、現金で支払っている人の方が少ないことは確か。世界に誇るモノづくりの国ではお金に関しては他の先進国の国々の基準とは異なった文化が育っている - 大量のポイントカード然り - のでしょうか。そんなことが不思議でもあり、ますます世界の人を魅了する日本文化なのかもしれません。

ポイントカードのトリック。1円の節約と思考と時間を失うリスク / The trick of Point card. Saving 1 yen and the risk of losing time to invest for future

帰国して日本の生活に戻る中で感じること。それは、あまりにも電子マネーの種類が多く、どれを選んでいいのか悩ましいことです。調べて行くとどれもメリットはあるのは事実ですが、果たしてそれだけ多くの種類が乱立していても顧客にとってどれだけのメリットがあるのだろうかと感じています。

ポイントカードのトリック

選択肢があることは良いことでありますが、一方で選択肢があることにより余分な時間を取られてしまうことの非効率さを感じます。スーパーマーケットはそれぞれのお店のポイントカードを発行し、使える電子マネーの取り扱いを増やすことでお客さんを固定客にしようとしています。お客さんはそのポイントが溜まった時にそのポイントを使うことでお得感を感じ、一層その店で購入する意欲が高まります。お客さんは購入するお店に応じて電子マネーの使い分けを考えて賢く利用しています。量販店やスーパーマーケットなどのお店(ここでは小さな個人商店ではなくて、大手家電量販店などを念頭に置いています)が発行しているポイントカード使っていて面白いことは、実はポイントが付与されるからといって、それは決して真にお得ではないという点に気づいた時です。

これはロシアで生活していた時にも感じたことですが、モスクワの駐在員ならば誰もが利用するであろう上位にランキングするスーパーマーケット「アズブカ・フクーサ」。

https://av.ru/

とあるサバの缶詰を購入したとき。このスーパーよりも価格は安く、サービスや取り扱い商品も劣るのですが、健康志向でモスクワっ子にも人気がある「フクース・ヴィル」

https://vkusvill.ru/goods/

でも同じ商品が(きちんと覚えていないので具体的な値段を記載できないのですが)明らかに安い値段で販売されており驚いたことを覚えています。アズブカ・フクーサでは、一定の累計ポイントを溜めると、1か月間お店に立ち寄ってコーヒーや紅茶を無料で受け取れる還元も行っており、そのポイントを溜めようと思う十分なインセンティブにもなります。ポイントが溜まり、一定のポイントが貯まった時にそのポイントで商品を買うと何だか得をした気分にもなりますし。しかし、このサバの缶詰の件以降、このポイント貯めようとアズブカ・フクーサに通うことに何かメリットがあるのだろうか?そもそも同じ商品を安い値段で提供しているお店で買うほうがよっぽどメリットがあるのではないかと。そう思いました。

日本に帰ってきて同じようなことが。冬を迎えるにあたって電気ストーブをビックカメラのオンラインショップで購入し、ポイントも10%付き、お買い得感が満載です。とある日、近所にある日曜大工のお店で同じ商品を見つけた時、値段が明らかにビックカメラでゲットした10%のポイントを考慮しても、もう少し安く販売されていました。お得感を与えるためのポイント制度。でもよく考えてみたら、お店はそのポイントを考慮した値付けをしていることは当たり前で、そのポイントに購買客は”踊らされて”また次の電化製品を購入する時には再びビックカメラにやってくる。非常に上手くできている仕組みです。ポイントカードはそのお得感を非常に顧客に訴えてくるものがありますが、そもそもその商品の販売価格がいくらで市場で売られているのかを一度考えてみるのがよいかもしれませんね。

1円の節約を意識して思考と時間を失うリスク

主婦は1円でも安い所にかけていく、と以前に聞いたことがありますがその気持ちは、日本に帰ってきて分かります。駐在生活とは異なり、日本の現実の給与水準で生活をすることになると自分自身のお金の管理もよく注意するようになりました。初めて家計簿なるものをつけ始めています。記録してゆくとだんだんと自分の生活スタイルが分かってきます。そうすると同じ商品でも近隣の異なるお店で異なる値段で売られているものを見ると、より安いものを購入しようとか、特別お買い得セールを行う日まで購入を控えようなどといった意識が働くことがあります。それは正しいことだと思うのですが、そういったお金の金銭感覚を常に重要視することと同時に、お金では買い取れない貴重な時間が失われることの危険性も感じます。頭の中で潜在的思考がお金のことに占有されてしまい、将来に向けた自分自身への投資のために意識する集中力や払うべきお金を躊躇してしまう、そんな感情も湧いてきます。1円を常に考えた日々の生活を行うことも重要な一方で、自分自身の思考回路はより大切なことに意識を向けて集中できる環境を整えておくこと。節約術を覚えることは大切ですが、ポイントカードや電子マネーの種類は多くあれども、それらのメリット・デメリットには決して大きな大差がないであろう、と想像すると(細かく検証はしていないのですが)、自分自身の生活スタイルを把握し、自分自身の生活圏で有効だと思える支払い方法を選択し ー クレジットカードや電子マネーでのお金の使い過ぎリスクをきちんと管理できることを前提とすれば、今の時代に現金だけで生活することはとても賢いことではないと思います — その方法をを採用する、新たな情報は収集しつつ、比較しつつ、今の支払い方法の正しさを確認しつつ。そうであれば、1円のために自分の大切な投資となる時間を倍取られかねないような節約の仕方を避けて、かつ「あっ、1円損をした。どうしてこの方法で支払わなかったのだろう…」といったネガティブな思考を出来る限り取り除きたい。人間というものは損をしたことに対するショックは必要以上に大きく、後に残るといわれていますし、それを実感しています。ロシアで為替暴落により数十万円の価値を一気に失ったショックは思い出す度にやっぱり凹みます。

家計簿+エクセルスキルアップ

家計簿をつけることによって自分自身のお金を使う指向性であったり、キャッシュフローや自分自身の資産のポートフォリオを見ることができること。なおかつExcel ファイルで作成しているので、自分自身のエクセルの勉強にもなります。いつかこのファイルをブログの中でも紹介していけたらとファイルを整備中です。

一番の節約術は、ポイントのお得感に惑わされずに不要なモノ・サービスを購入しない。毎月定期的に出てゆく固定費を可能な範囲で下げること。ー 大変シンプルな法則かもしれませんね。そんな風に思えてきました。

日本って面白い / Japan is interesting when I watch out carefully what I though it is normal

長いこと日本を離れて生活し、ロシアでの経験を踏まえた上で自分の生まれ育った国を見ると、不思議に思うことに遭遇しました。

冒頭にアップロードしたこの写真。レジで見かけたコメントです。これは普通の日本語でしょうか?あまりに丁寧に伝えようとして、結果的に何を言いたいのかが分からなくなっているのでは…外国人で日本語を勉強していてもこれは全く理解できないと思います。フロアの責任者もこのようなものを見ておかしいと思わないのか…あるいはこの表現は今の時代には普通なのでしょうか?

また、「~をしてもらう」の尊敬語として「いただく」を利用する場合には、頂く、と漢字で書くことは誤りのようです。紙のスペースを節約できるので漢字を利用したくなりますが、それでも正しい日本語を利用したいものです。

レジの支払いにて

レジ店員「お店のポイントカードxxxカードの利用はございますか?」

私「いえ、持ってないです。」

レジ店員「失礼いたしました。」
それにしても、利用はございますか?という日本語も不思議です。また、なぜ失礼しました、と謝るのか分かりませんでした。

平常時にもマスクを着けている人がたくさんいること

黒やグレーまでも。形も怖い。(このメモを書いていたのは2020年1月。まだコロナウィルスも流行る前で、ロシアでは「なぜ日本人はマスクを着けているのか?」なんて笑われていた頃。コロナウィルスが流行するようになってから、すっかりロシア人もマスクを着用するように様変わりしました。今現在ロシアにいる友人に尋ねると、ロシア人はマスク無しの通常のライフスタイルに戻っているようです。)また、平常時にマスクをつけるのはできるだけ自分の表情を人に見られたくない、という心情もあるのでは、と聞いたことがありますが真実はどうなのでしょうか。

サラリーマンが集う新橋にて

(2020年1月に散歩したとき)だいぶお疲れの会社員の方々がいます。その一方、夜の飲み屋街で働く人たちのほうが元気で礼儀正しい人が多いのでは?近くにあった蕎麦屋で蕎麦とかつ丼を食べながら出入りする人たちの人間観察をしていてそう思いました。サラリーマンとして大きな組織に所属すればするほど、個人としての戦闘能力が気が付かないうちに奪われてゆくように感じられるのは気のせいでしょうか…

日本の電車やバス

アナウンスがやたらうるさい人がいませんか?。自動音声で次の駅名を伝えるのは分かります。しかし、アナウンスに続けて、運転している方が繰り返しだみ声で続けるあの音声。無用としか思えないのですがいかがでしょうか?スピーカーの音質もよくないですし、耳が痛いです。あなたの個人的な楽しみのために乗客はその騒音に頭を痛めています。

日本は街のデザインのセンスが低いのでは

そう思って一緒に旅行したロシア人の友人に伝えると、逆に統一感がない街のデザインは良い、という違う反応が返ってきました。見方を変えると、自分にとっておかしなものも実はよいものであったりするのですね。統一されたデザインをきれいと見るか、乱雑さの中に美しさを見出すのか。どちらも異なる美の観点で、どちらも正解なのかもしれません。

公共バスの料金支払いシステム

私は自分自身の地元しか知らないので比較感がありませんが、乗った地点でパスカードをチェックし、下りた時点で必ず前方の運転手横にある機会にて支払いをして降車する。乗り降りの効率さの視点で見ると非効率的ではないかと感じることがあります。載った距離に応じて課金されてゆく方法と一回ごとに運賃が固定のケース、そのどちらが適切なのかは分かりませんが…。モスクワやそのほかに出かけたことのある町の様子しか分かりませんが、ロシアでは距離に関係なく、一回乗ると固定の金額を支払います。それにしても田舎の町に行くと、現代でも、乗客から料金を回収する恰幅の良いおばさんが乗ってい回収して回っている。料金を支払うとチケット代わりに紙切れを手渡す。こんなシステムが生き残っています。

日本旅行記 其の2:日本人、決して”おもてなし”の国ではありません / Travel to Japan Part 2: Japanese people are not a country of “hospitality”

そもそも、日本人~ではありません、というタイトル。これこそステレオタイプでよくありませんね…。言えることは、偶然に自分自身がそのような人に多く出会うことでその国の評価を悪く言うも、良い出会いが重なってその国のことを良く伝えることも自分次第ということ。決して自分の体験したことで全体を判断してしまうことは避けたいところです。

さて、すでに2020年も10月ですが、今年1月に約1週間の短い日本旅行で遭遇した、これはないよね…と感じたことを書いています。

当時はまだモスクワ勤務でしたので、約1年半ぶりに日本に”一時帰国”したわけですが、新鮮な目で自分の生まれ育った国を観察できた休暇となりました。おもてなしの国、と言われる日本でありながら、まったくもってそんなことがない。一番の問題点は、おもてなしが形式的であって、そこに心がこもっていないケースに出会うことが多かったこと。そして想定されるマニュアルから外れるやり取りが生じると、そこに何となく嫌な雰囲気が生じる(顔や態度、声にその方の本質が出てくる)ことも。だからこそ形としておもてなしを示してくれてはいても、それが本質的ではないものを感じ取る場面に幾度も接すると、一体この国が言う”おもてなし”とは一体なんなのだ?と思ってしまうわけです。

数年前、日系航空会社が無料で行っているという「日本のおもてなしセミナー」をロシア人スタッフのために開いていただきました。例えばお辞儀の角度の違い、日本で買い物をすると袋の上を留めるテープの端はテープの内側に織り込んで留めることで、お客様が後で簡単にテープをはがすことができる、そんな日本の礼儀作法の説明があったことを覚えています。

もしかすると、日本は”おもてなしの国”と強調しているものですから、このおもてなしの精神をどの場面においても期待して(そんなことはあるはずがないのに)、その期待を裏切られた気持ちになりがっかりし、残念な気持ちを過度に味わうのかもしれません。一方、日本語を理解しない外国人にとっては、目に見える形でのお辞儀や袋のテープ、そういった”おもてなし”をもって日本をポジティブに捉える方もいるのかもしれませんね。(ロシア人の友人に聞いた日本の良いところは?で、大体耳にするのは「公共トイレの綺麗さ」でした。あくまで私の交友範囲に限ります)

成田空港:パスポートコントロールのところで交通整理をしているおじいさん。日本国籍と外国籍とで進む窓口が異なりますが、私の前のほうには明らかにロシア人と思われる女性が「日本旅券所有者」専用の方向に歩き出しながらも、どちらにいってよいのか悩んでいる様子。それを見たおじいさん「あなたこっちは日本旅券専用だよ、あんた日本のパスポート持っているの、持っていないでしょ、あっちだよ」といいながら手でしっし、というような手振りであっちにゆけと女性に案内しています。国際線の到着側で働くのであれば、せめて簡単な英単語を少しだけ覚える。笑顔と腕の動きで”あなたはあっちですよ”と示す。そんな程度で十分におもてなしになる。それにしてもあの態度には驚きました。

フジテレビの展望店のレジにて:自分の思っていること以外のことが起こったときに違う人柄が出てるくるというか…逆にこちらが驚いてしまった。ロシア人の友人が購入するものを選び終え、レジで支払いの際クレジットカードをトレーに提示したのですが、そこで時間が経過する中でバッグや店内を見渡して目を離している間に支払いを終えたと勘違いしてしまったようです、どうやら店員がカードの支払い処理を済ませる前に財布にカードを商品の入った袋をとってレジをあとにしようとしました。私もその後ろに並んでいたのですが、他の友人と会話をしていてよく見ておらず。とすると、先ほどまで淡々とレジ作業をこなしていた女性。目の玉が飛び出るかのような非常事態の顔で、「お客さん、お金払ってないよ。Pay money, pay money!」と大きな声で騒ぎました。こちらも一体何事かと驚き振り返りました。その友人も状況を理解し、カードを再提示して支払いを終えることができました。

この場合に限ったことではなく、レジスタッフの業務を見て感じるのは、レジの作業には一定の流れがあるようです。いらっしゃいませ、商品お預かりいたします、お支払い方法は?ポイントカードはありますか?ありがとうございました。その流れを少しでも乱すような作業が入ると、あたかもお客さんが敵であるかのような怪訝な顔。おもてなしの精神がない形骸化した接客業。それであれば、マニュアル化が必ずしもされていないロシアで時として出会う素晴らしい接客。こちらも決して期待をしているわけではないので、良い接客に出会うとよい印象が強く残るのかもしれません。モスクワの店員の接客は、今日は機嫌が悪そうだな、と様子がよく伝わってきます。ずっと自然で、笑顔もありますし、こちらがむにゃむにゃ自身が無さそうに会話すると「もう一度いってください」と怪訝な顔をする、でも伝われば笑顔になる。そう、自然。おもてなしの精神も礼儀やマニュアルがあり、それを土台として対面する相手に合わせた応対をすること。それがまず原則のはずです。

おじいちゃん、それはないでしょう:エスカレータで一方の側に立っている人にぶつかっても何も言わずにエスカレーターを降りてゆく。それはないでしょう。きっとその人の問題でしょうが、ふと、日本では、お年寄りでずいぶんとひどい振舞いの人が増えている、とどこかで読んだ記事を思い出してしまいました。お年寄りの絶対数が増えているので、そのようなケースが増えてゆくのは必然ではないでしょうか。

浅草の売店:創業百年以上の小さなお土産店でしたが、そんなお店の中で、「部長、社長から電話です」こんな小さな従業員がいないであろうお店でこんなタイトルでのやり取りがあるのかあ、と。それはよいとしても、この部長である高齢の女性の接客がひどいこと。お客をさばいている、早く買って帰ってちょうだいね、といった様相があからさまに感じ取れました。

ロシア人の友人がしばらく時間をかけて孫への着物を選んでいました。その間に彼女が商品を包んでレジのそばにおいておきました。その間にその方が着物を紙に包んでくれました。ようやく会計です。時間が経過していることもあり友人がレジにやってきて何を購入したかもう一度再確認したがっています。部長さんは紙包みの上に色をかいてくれていましたが、私は本人に商品をもう一度見てもらうほうが確実で安心できると思い、「もう一度商品を見せてもらえますか?」とお願いすると、あからさまに嫌な顔をして「創業百年以上ですから。信頼してください」と。それでも包みを開いてくれましたので感謝ですが、ただ一つテープをとるだけです。それに、私は色を確認したく、友人にも今一度確認してもらおうとの気持ちからであり、お店の商品の質などを信頼していないわけではないのですが…。自分自身の思った通りに物事がすすまないときに余計なことにピリピリしている様子がはっきりと見て取れる。これで接客業かぁ…と。もちろん、毎日ありとあらゆるタイプのお客さんが来るのでいつも良い客ばかりではないはずですので、面倒だな、と感じることもあるのでしょうが、それを言っていたら接客業は務まらないのではないでしょうか。

芦ノ湖の売店にて:レジのカウンターにアジア系(おそらく中国か韓国の方)購入客が置いた荷物を邪魔な様子で手の甲でどかす。その人の態度にはどこかしら中国人や韓国人のお客さんに対する見下したような様子を感じてなりませんでした。そして、「このレジ間もなく終了します。買い物をお済ませでないお客様はお早めに会計をお済ませください!」店内に日本語で大きな声でアナウンスしています。そんなこと日本語で、どれだけ大きな声で言ってもその場にいる外国人に伝わるでしょうか?芦ノ湖には日本人だけではない外国からの観光客が来ているのですから…

小田原行きのバス運転手対応がひどい:ロシア人の友人たちを芦ノ湖の宿へ送ってお別れ。そこから私は滞在する実家に向けて帰路につきました。小田原駅に向かうバスが到着。口をあけたままの牛乳パックを手にもって乗り込もうとすると、「お客さん、それをもったまま乗ってもらっては困ります。それを持っては乗車できません」と、ぶっきらぼうな態度。その場で処分して乗り込みました。小田原駅で降車の際、支払い方がよくわからず、お札をどうしてよいのか少しの間試行錯誤していたら、お札はこちらね、といってお札専用の入れ口を示してくれました。そんなこと最初から言ってくれてもよいのでは、と内心思いつつ、「あ~すみません・・ありがとうございます」と。彼もその日は仕事でお疲れだったのかもしれませんね。日本の友人に話すと「う~ん、バスの運転手だったらありえるかな、運転手はあまりよくないよね」とのことでした。これもステレオタイプですよね。確かに蓋のついていない飲料を車内に持ち込むことはよくなかったかもしれません。