「安定」それがどれだけ貴重で重要なものか。/ “Stability” how precious and important it is.

モスクワで勤務しているときの採用活動において、応募者に志望動機を尋ねてみると頻度高く返ってくる言葉がありました。「日系企業は安定しているから。」とのこと。そのことを上司と会話すると、「いや安定しないでしょう、ビジネスの先行きなんて実際にどうなるか誰にもわからないんだから…なんでこうも安定、安定というのだろうね…」と苦笑い。また、賃金の交渉の段階になって手取り額について交渉するときには、— これはあくまで私の経験上に基づく感覚ですが — ボーナスがおよそ何か月分は支払い見込みです、それも含めて月平均でこのくらいは保証できます。と伝えても、志望者は実際に幾ら保証されるのか(ボーナスは会社の業績次第でカットされる可能性もあるので信じられないということだろう)を特に意識していることを感じました。ロシア人の人事スタッフにその点を応募者に対して丁寧に説明してもらい、納得してくれたスタッフが会社の一員として加わってくれました。

今現在、ほぼ毎日のように連絡を取り合っている友人がウクライナに住んでいます。モスクワで知り合い、後に彼はキエフに移住。ロシアとの戦争が始まってからはキエフを逃れてウクライナ西部フメリニーツキー地区に逃れています。その彼と一緒にウクライナ国内で避難生活を強いられている人たちへのサポートを自分たちのできる範囲で行っています。その友人から入ってくる情報は大変な状況の中で何とか毎日を過ごしている人たちの様子です。毎日決まった時間に起きて、食べて、仕事して、また食べて。リラックスした時間を過ごし、風呂に入り眠りにつく。そして目が覚めたら再び翌日がくる…。そんな当たり前のことがどれだけ貴重なことなのかを考える機会になっています。

聞いた話によれば、爆撃により8歳のとても可愛らしい息子さんを亡くしたお父さんもいます。薬の高騰で財政的な苦しさ、大好きだったロシア語を学校で教えて26年、ずっと続けてきたものの戦争でロシア語の仕事を失い無職になってしまった女性。ガスが止まってしまったので差し入れを行ったガスコンロで調理を行う家の様子。生まれ育った思い出の詰まったアパートが今では無残な形に変わり果てた故郷。マリウーポリから脱出したのちキエフへ、そして海外に避難したものの現地の生活に馴染むことができずに再びキエフに戻った女性。空襲警報が鳴り始めて非難するための一番安全な地下鉄駅までは15分かかるとか。精神的に疲れ果ててしまう生活を強いられている女性。知る限りの情報から彼らの日々の生活を想像するだけでも、それらがどれだけ辛いものであるか。少なくとも想像することはできます。

安定、という言葉の響きはネガティブに捉えることもできるかもしれません。成長がない、変化がない、と言った感じで。当時モスクワで働いていた時には、とにかく新しいことにチャレンジするように、自らその姿勢を見せることが良い評価を得るために必要な要素だ、という点を私は強調しすぎていたかもしれません。物流部門で働く若い女性スタッフは毎日の商品の出荷手配に追われ、ミスなく確実に客先へ届けるために働いている。安定した仕事の質を保つことが大切であり、そのこと自体が高い評価に値する仕事である。IT化も満足に出来ていない状況の中、チャレンジしたくてもチャレンジする余裕がない。そんな中でチャレンジが足りない、なんて言われてしまうとそれはもうがっかりだろう…評価面談の時に彼女がぼろぼろと泣いてしまった時、ようやくその気持ちを理解できた気がしました。

安定という言葉の意味をじっくりと考えてみると、安定 — 心に安心が得られるしっかりとした土台 — があるからこそ次に向かうゆとりや力がが得られるのだろう。他方、そこに安寧としてしまいチャレンジすることを止めてしまう人もいるのは事実ですが。

以下のリンクは上記の友人が教えてくれたロシア軍による攻撃の動画です。彼の住む街の郊外に降ってきたという。突如として静寂を破る爆発の音。果たしてこんなものが家の近くに落ちたとしたら誰が平静でいられるのだろうか…まるで広島・長崎に投下された原子爆弾を思い起こさせるようなキノコ雲。

自分の境遇は人それぞれで生まれた瞬間にすでに決まっているものもある。文句を言いたいことはいくらでも見つかる。人と比べて自分の立場を意識することを推奨するわけではないけれど、自分自身が得ている今の安定(少なくとも空襲警報が突如として鳴り響くことはない)を生かさない手はない。意味もなくYoutubeを見たり、見終わったあとに一体今の時間は何だったのだろう…と思ってしまうテレビ番組に多くの時間を捧げることに意味があるだろうか。(それができる環境にあるということ自体がどれだけ幸せなことか!)

今年の元日。金融の世界で大いに名を馳せた山崎元氏、大江英樹氏の死去。これもまた2024年のスタートとしては北陸の地震、羽田空港での日本航空と海上保安庁の機体衝突事故と並んで衝撃的なニュースとなりました。大江氏による未投稿となっていた言葉が日経新聞に掲載されていましたが(マネーのまなびの水先案内人 追悼・大江英樹氏の遺稿)、そこには”自分が病気になり、一時は死を意識したこともあったが、その時に考えたことは「結局、人生の最後に残るのはお金ではなく、思い出しかないんだな」と。”ということでした。果たして2024年を振り返ったときにどんな思い出が心の中に残っているだろう。世界の様子を見ると事態が益々混乱してゆく様子しか見えてきませんが、コントロールが可能な自分について言えば、着実に成長した別の自分が2025年を迎えていることを願いたいものです。ロシア語は需要が無くなれど、語学に触れることは大好きです。生涯学習のテーマとして、限られた時間ではありますが毎日勉強してゆきます。

さて、どんなに苦しくても、いや苦しいことがあるからこそやっぱり冗談は大切。笑うと楽しくなるもの。ウクライナの友人から時々送られてくる笑える動画は一体どこから見つけてくるのでしょう。日々そんな動画でも見て笑ってみるとどんなに今は辛い状況にいる人たちも少しは明日への元気をもらえるのかもしれません。

Мама читает книгу анекдотов. Приходит маленькая дочка и спрашивает;(お母さんがアネクドート(滑稽な小話、Russian joke)の本を読んでいます。幼い娘がやってきて尋ねます。)

– Мама, а где ответы?(ママ、どこに答えがあるの?)

– Какие ответы?(何の答え?)

– Ну ответы к анекдотам.(ええっとね、アネクドートの答え。)

– Зачем к анекдотам ответы?(どうしてアネクドートに答えが必要なの?)

Мама, ну как ты не понимаешь? А если не знаешь, где надо смеяться?(ママ、じゃあどうやってアネクドートを理解できるの?もし答えを知らなかったら、どこで笑っていいのか分からないじゃない。)

まさに私の気持ちを代弁してくれている会話。これもロシアで購入した小話集から取り出した会話例です。

ロシアで食事をしていると大抵耳にするアネクドート(小話)。これを100%理解できるようになれば、あなたはすでに完全にロシア人。アネクドートを理解するには言葉の使いまわしを理解したり、ニュースで見聞きする世間の情報に通じていないといけないため高難度と思います。悔しいですが、皆が笑った後に丁寧に説明してもらってようやく理解できる、そんなことばかりでした。今でも覚えているけれど、昔にサンクトペテルブルクの語学学校でロシア語を習っていた時に先生が話してくれた小話:

ある夜、突然に電話がかかってきてこう尋ねました。

「もしもし、車のタイヤが欲しいですか?」

「いえ、必要ないです。(自分の車には4つのタイヤがすでに付いているので。)」

「わかりました。」といって電話が切れました。

翌日…、出かけるために自分の車のところにいくと、4つのタイヤが無くなっていたとさ。

という、そんなお話。ロシア語で聞くとこれまた面白く。”欲しい”という言葉をどう捉えるかでこうも話が何倍にも面白おかしくなる、言葉って面白いです。

年の初めに今得ている命と自由への感謝の気持ちを考えてみる / At the beginning of the year, think about gratitude for the life and freedom we have now.

皆さんは新たな年を迎える年末年始で必ず行うように心がけていることはあるでしょうか、NHK紅白歌合戦、除夜の鐘、年越しそば、初詣など…。

モスクワに駐在していた7年間を振り返ってみると、全ての年で出来ていたわけではありませんが、年の初めには今こうして持っている命や自由について感謝の気持ちを実感できる場所に足を運ぶようになっていた、ということがあります。

自分が置かれている今の環境は決して理想的でないとしても、命があり自由があることに感謝の気持ちを持つ機会を持つこと。それを新たな一年の初めに行うことをお勧めしたいです。― 私の周りにいる大変な家庭環境の中で一生懸命に逞しく生活している友人のことも考えると、生きていること自体が苦しいことがある、ということも事実です。死ねるものなら死にたい、という人もいます。― それでも、何かを行える命があること、自分の意思で行動できる自由があること。そんなことを考えると、毎日の生活で感謝できることを見つけ前向きに努力しよう、と思う気持ちが高まってきます。

私にとってのそれは第二次世界大戦での出来事、特にホロコーストに関係する博物館に出かけてゆっくり時間をかけて展示物を見て回ることでした。気が付けば駐在中に以下の場所を訪れてきました。まだまだ知らない、出かけたこともない場所が幾つも存在すると思われます。出かけてゆき、直接目にして手に触れることが一番良いと思います。しかし必ずしもそうはゆかないもの。それは博物館に出かけることでなくてもYoutube、本を通しても出来ることと思います。大切なことは何かを題材にして自分の頭で心で考え、感じること。そんな時間を年末年始に取ることができるのであればぜひお勧めしたいです。

米国ホロコースト記念博物館

Youtube channel => Link

ワシントンにあるアウシュビッツ博物館。合計3回は訪れました。初めて出かけた時には午前中に入り気がつけば閉館時間に。涙が頬を伝わって止まりませんでした。オンラインでも充実した内容が取り扱われているようですが、もしも、仮にワシントンに出かける機会があるとすれば、何卒この博物館に立ち寄ることをお勧めしたいです。人間とはいったい…?また、自分が今こうして自由に自分の意志で生活できることがどれだけ幸せなことなのか…そんな気持ちを感じることができる場所です。自分自身の記憶が正しければ、ホロコーストを生き残った生存者の中には、ついに自由を得た外の世界に戻れたにも関わらず、自分の場所を見つけることができず自殺をした人がいた、という事実に衝撃を覚えた記憶がずっと心に残っています。

常時展示(Link)が始まるフロアへ上がるエレベータを降りて扉が開いた、その目の前に広がる衝撃的な写真からこの博物館の見学が始まります。

ニューヨークにも実はちょっとしたユダヤ人に関する博物館があります。

ユダヤ人遺産博物館

ワシントンにあるホロコースト記念博物館と比較すると小規模であり、当時としては、ここに展示されているものは既に見たことがあるものが多いなぁ、そんな印象でした。ひっそり静まった館内。そこではこの建物にたどり着くために歩いてきたニューヨークの喧騒からは切り離され、静寂とした建物の窓からは青々とした空の下にニューヨークの海が広がっていました。ニューヨークにいるはずなのに、まるで別世界にいるかのような不思議な感覚に囚われる時間、空間でした。

Yad Vashem

Youtube channel => Link

イスラエルのエルサレムにあります。聖書のイザヤ書から取られている名前を持つこの記念館は、まさにホロコーストでナチスとその協力者達によって殺害された6百万人のユダヤ人たちを記憶に留めるために設立されたもの。エルサレムという場所にある、この場所で見るからこそ、また他の博物館とは異なる感覚に浸ることができたのかもしれません。隣にいた団体グループでは、”ナチスが収容所にいるユダヤ人たちに与えられた食事がどれだけ悲惨なもので、死んでも代わりはいるので問題なく、死ぬことを前提とした栄養レベルの食事が与えられていた”、と熱く語っているガイドがいたことを記憶しています。

″And to them will I give in my house and within my walls a memorial and a name (a ΄yad vashem΄)… that shall not be cut off.″

(Isaiah, chapter 56, verse 5)

Yad Vashemの名前が取られたという聖書のイザヤ書の言葉

モスクワにも規模は大きくありませんが、映像を駆使したユダヤ人博物館があります。アンネ・フランクに関する特別展示を行っているときもあり、駐在中は何度か訪れていました。

モスクワのユダヤ人博物館

モスクワにある他の博物館も訪れましたがいずれも設備が古い。そんなイメージだけが残っていますが、このユダヤ人博物館はそれとは異なり現代のIT・映像技術を駆使しているように思えました。内容は別として、設備は欧米の博物館にも匹敵するような、そんな印象があります。

ポーランドのワルシャワ蜂起博物館

これはホロコーストとはテーマが異なります。正直に言うと一つ一つの展示についてはほとんど記憶に残っていないのですが、ソ連赤軍がワルシャワ蜂起を傍観したままに蜂起が失敗に終わることを許していた、という事実も含め、戦争というものの残酷さ、人間とはいったいなぜこうも…そんな感情が沸き上がったことは心の中に残っています。

この他、学生時代に訪れたポーランドのアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所。これはホロコーストを語る上ではなくてはならない場所。…当時燦々と太陽が降り注ぐ晴天の中を歩いた敷地内。イスラエルの国旗を掲げたユダヤ人団体グループが静かに見学していた光景を覚えています。ここに詳細を書きませんが、他にも休暇を利用してでかけた場所 ― ロシアの都市スモレンスク近くで起こったカティンの森事件、北オセチア共和国にあるベスラン学校占拠事件、ウクライナのチェルノブイリ原発事故 ― このような場所一つ一つに足を運んで心に感じること。それもまたモスクワに駐在していたからこそ訪れることができた場所であり、人間とは…考えさせられる経験となりました。

広島の平和記念資料会館

今年の年末は広島に行き、幼い頃に一度だけ訪れたことがある平和記念資料会館に出かけてきました。わずか一つの原子爆弾だけで、1945年末までに約14万人もの命を奪ったという事実。ナチスによるユダヤ人虐殺とは異なる種類の残虐な殺戮。今の広島の街中に広がるゆっくりと流れる川、きれいに舗装された通り、たくさんの人、モノで溢れかえったアーケード街。街中を走っている路面電車のレールの所には、当時大やけどを負ったおびただしい被爆者たちがレールの上に頭を載せて横たえられていたそうです。川沿いを散歩していると、いくつもの記念碑が設置されていました。

スミソニアン航空宇宙博物館(エノラ・ゲイ)

広島の原子爆弾といえばエノラ・ゲイ。ワシントン中心街から離れた場所にあり、当時は公共バスでたどり着きました。この飛行機が1945年に広島上空から原子爆弾を投下したB-29爆撃機。この機体を実際に目の前にして当時のことを振り返ることができたことも貴重な経験です。

さて、すでに2024年1月2日。今年も自分に与えられた命、自由というものに改めて感謝の気持ちを感じ、自分の立てた目標を達成できるように一日一日を精一杯生きよう、努力しよう思いをもらって良いスタートを切ることができました。仮にこの文章を読んでくださる人がいれば、皆さん一人一人にとっても目指しておられる目標に向かって着実に前進できる素晴らしい年となりますように。

(なお、この記事では私の記憶に基づいた記載があります。歴史の事実と全てを正確に照らし合わせることができていないことをご了承ください。当ブログでは、万が一にも生じる掲載内容で生じた損害に対する一切の責任を負いません。)

“本物の”パンが日本にはない? / There is no “real” bread in Japan?

ロシアの生活と比較して異なるのは、パンそのものの味を味わえるパンがないこと。どのお店にいっても大抵のパンにはミルク、マーガリンなどが入っていて甘い。そんな印象です。そういえば、初めて日本に来たロシアの友人も「どこで買ってもパンが甘い」と言っていたことを思い出します。ロシアにいる時には好んで食べていた黒パンが懐かしい…。

私はパンに詳しいわけでもなく、強いこだわりがあるわけでもないのですが、あえて言えば食パンは何も甘いものがはいっていないものが好きです。日本の食文化のレベルの高さからすると、パンもきっとこだわりを持って作るお店が多く、そのどれもが美味しいに違いないと思います。実際に高級食パンのブームが話題になったこともありました。確かに美味しいのですが、どうしてもこうも甘いのだろう?と。今朝も近所で話題のパン屋さんへ出かけて中に入ってみると、ありとあらゆる菓子パンが並んでいました。

そもそも、”本物の”パンなんて存在しないのかもしれません。日本のお寿司も海外に行けば違うネタがのっていて、それはそれで美味しいですし、日本の本場のお寿司屋さんで提供されるものが本物か、というと必ずしもそうではないのかも?パンも日本に入ってきて、日本の食文化の中で日本の人々が好む形に合わせて発展を遂げてきたということなんだろうと。

時々利用しているパン屋に出かけたときのことです。ちょうどお客さんも少なく、前から気になっていたことを率直に尋ねてみました。「ライ麦パンっていうんでしょうか、自分は黒パンが好きなんですが、そういったパンをお店に置いたりしないんでしょうか?仕事で外国に行っていたことがあるんですが、帰国して思うのは、どのパン屋さんのパンも甘くて素朴なパンの味がするものがないんですよね…。どれも甘くて…。お店にあったら絶対に買うんですけどね。」

そうすると、思ってもみなかった反応があり、滔々と胸の内を語ってくれました。決して長い時間の会話ではありませんでしたが、パンに対する思いやビジネスとしてお店を経営すること難しさも言葉から伝わってきました。

「パンを作る側としては作りたいものがあるの。でも、多くのお客さんが菓子パンを好むこと。できるだけパンも柔らかくて甘いものを好むこと、そしてパンには具がたくさん入っているように、という要望があって。お客さん(私のこと)が言うようなパンも以前は作っていたことがあるのだけど、買ってくれるのはほんの一部のお客さんだけで難しい。結局今店頭にあるものを作るしかない。本当は作りたいんだけどね。こちらも商売でやっている以上お客さんが求めるものを作っていかないと…。」

という内容を繰り返し語ってくれました。

もうずっと昔のこと、学生の頃にはロシアへ語学留学にでかけて、当時は(味を覚えていませんがきっと美味しくはなかった)黒パンを買って、これがロシアだ、なんて思っていましたが、実際のところ、今のモスクワ(私がいた数年前のモスクワのパン屋)で販売されている黒パンはむしろ高価でとても美味しいものでした。

冒頭に張り付けたYoutubeの動画は、たまたま見つけたロシア生活を紹介する動画のパン屋さん編。パン屋と言ってもたくさんの種類がありますが、この動画に写っているパンの種類はモスクワでも必ずと言っていいほど目にするものたちばかり。ロシアのパン文化は、国が南はカフカス地方、東は中央アジアなど異なる文化と接しており、それだけ多様な種類のパンと出会えるのがまた独特なのかもしれません。動画にも出てくるハチャプリ(ジョージア発祥のパン)、ラバッシュ(アルメニア発祥の薄い生地のもの。これをパンというのか分かりませんがアルメニア人のお宅に行ってご馳走になる時には大体これがテーブルにあったように覚えています)。中央アジアの方面でいえばлепешка(単数形:リピョーシュカ)。当時は、職場近くにある市場によく買いにでかけていました。なかなか上手く発音できず、お店の若者によくからかわれていました。通ううちに完璧に発音できるようになり「おっ、お前ちゃんと言えるようになったな」と褒められたり。

人の数だけある物語を乗せて走るシベリア鉄道 / The Trans-Siberian Railway runs with every own life story of passengers

日頃、定期的にロシアや旧ソ連にまつわるニュースをチェックするのに欠かせない、お気に入りのニュースサイト、Настоящее время(英語:Current time)。その別チャンネルでドキュメンタリー動画を流しているНастоящее время.Док。ここでまた一つ素晴らしいシベリア鉄道に関する動画を見つけてしまいました。ウラジオストクを出発してモスクワまでの7日間の旅のドキュメンタリー。そこに居合わせた人々が語るそれぞれの人生の話を伝えています。

この動画の一番頭にあるコメントに全く同感です。「どれだけの多くの人に…その一人一人に自分の物語があるのだろう、想像もできない。 これは素晴らしい! すべての人が幸せでありますように。」

Получается правда что жизнь только в столице?(良い生活ができるのは首都(モスクワ)だけというのは本当?)というと問いかける男性。とても深い質問だなぁと。モスクワで働いている時、地方から出てきて勤務していた若い女の子が退職してゆきました。「これ以上モスクワで生活は出来ない、地元に帰りたい…。」と言って。金銭的に生活が厳しかったのか、モスクワでの生活リズムや人に疲れてしまったのかは分かりませんが、当時、彼女の言葉からは後者のように感じ取りました。このドキュメンタリーに出てくる車両で働く若い女の子は、初めての首都モスクワを訪れることについて「気に入る人もいればそうでない人もいる。私は全く好きになれない」と。別の女の子は、「今の時代、ほとんどの人は飛行機を使う中、まさか自分の休暇を7日間列車でモスクワへ向かうとは考えもしなかった。純粋に(モスクワの)赤の広場を見てみたい。とても興味がある。」良い生活とは?幸せとは?…答えはそれぞれの人によって異なります。ライフステージも変われば自分自身の中での定義も変わってきます。モスクワを見た後の彼女たちの人生はこれからどのように動いてゆくのでしょうか?

ウラジオストクよりも東に位置する日本からモスクワへ行くにしても飛行機であっという間の約10時間。そんな中、7日間かけてモスクワへ向かうというのは、飛行機が苦手な人、航空券が高いので少しでも安く移動したい人(ウラジオストクーモスクワ間の列車チケットの現時点での値段を調べてみたところ、一番安いものでは約10千RUB(今のレート換算で約15千円)となっていました。)国の福利厚生制度の一環で無料で座席を提供される軍人や鉄道関係の従業員、そして列車ならではの旅の醍醐味を満喫したい人といったところでしょうか。「自分の家族は今日、モスクワに飛行機で到着している。家族は飛行機が好きだけど俺は列車の旅が好きなんだ。美しい自分の国をみることができて、多くの人たちとの交流を楽しめるから」

列車の旅となると、自分の空間というものは無くなります。トイレ、シャワーは共同、食事は持ち込んだものや途中で止まる駅で食事を販売する人たちや、駅のキヨスクで調達したり。周りの人たちと打ち解ければ夜は宴会に。静かに眠りたい時でもどこか別のところでは騒がしい所も。といってもロシア人=全員がよくしゃべるわけではなく、この動画に出てくるのは快く応じてくれる人付き合いの良い人たちだろうと思います。それでも、相手の懐に入ってくるまでの時間、距離感は日本よりもずっと短いもので、大概話題に挙がることの中には「給料はいくらだ?日本の年金はいくらか?お前の名前にはどんな意味があるんだ?日本人、中国人、韓国人はどうやって見分けるんだ?日本製品はどれも最高だ!」こんな話で盛り上がることが多かった気がします。昔も今もJapanブランドはまだ高いものがあります。この点では、ロシア人との会話では、日本を売りにして現地の方々と親しくなるチャンスです。最近では私も全くついてゆけない日本のアニメをロシアの友人が知っていて逆に教えてもらうことも…。

飛行機では各自がイヤフォンをして映画を見たり眠ったり本を読んだり。合間に食事がありうとうとしていたら気が付くと「この飛行機は間もなく目的地のモスクワに到着します。必要な方は今のうちにトイレを済ませておき、席にお座りください。」とアナウンス。一方の列車の旅は、乗っては去ってゆく人々との出会いと別れ。そこで聞ける話から”本当の”ロシア、多くの一般のロシア人の生活が垣間見えるなぁ、とつくづく思います。

鉄道関係で12年間働いていた男性は、肉体的にも大変な仕事で給与は30千ルーブル(今のレート換算で約46千円)。「辛い仕事だった」と。その隣に座っている女性が「今、仕事のパートナーとぶつかっている。私にとって仕事は1番目でもなく、2番目に大切なことでもない。旅行したり、人と交流したり、精神的にも成長したりしたい。彼はよく”まず仕事、(他の)生活のことはその次だ”というフレーズを口にする。けれども、それがうまく行かないことは分かってる!」駐在員として働いていた頃、就業時間になると「じゃあ、また明日!」といってササっと帰ってゆくスタッフ。当時の私が、この動画の女性が不満をもらしている男性と重なってきました。あの経験があって今の自分がいます。仕事も重要ですし、仕事も充実していますが、仕事を人生の第一、と断言してしまうとすると、それは危険ではないでしょうか。

1年半前に父親が亡くなり、間もなく40歳を迎えるという女性は「(父親の死を経て)生活を一変させた。今現在を生きないといけない。なぜ明日に延ばさないといけないの?明日は来ないかもしれないんだから。」と断言。長いこと鉄道での旅をしていなかったのでシベリア西部にある都市チュメニに旅行することにしたようです。

ノヴォロシースクへ移動することにしたという夫婦は、「子供たちが成長して巣立っていった。それでとある日、朝起きて考えた、全て投げ捨ててしまおう、全て売り払って後にしてきた。どうして一つの場所に留まっている必要がある?(ロシアの)土地は広大だし、子供は育っていった、どうして自分たちは前に進まない?神様が人間に土地を与えてくれた、ほら、全部の土地は人間のもの、と。一つの場所に留まっていてどうする?菜園を持ち、アパートを保有し…。それがどうした、(列車の窓から)幾つもの村落を見てきたけれど、そこに住んでいる彼らは何か(新しいものを)見ているか?何も見ていない、まだ人生があるのだから(違う土地に行って人生前に進もう)」自分自身を鼓舞するための言葉でもあるように感じられますが、幾つになっても新たなことに挑戦し続けようというこの精神にはただただ勇気を奮い起されます。過去に築いてきたものを守る気持ちではなく、常に新しいものにチャレンジし続けられる精神でいたいものです。

こんな一コマだけでも、あらゆる人の物語を乗せて走るシベリア鉄道の魅力が伝わるのではないでしょうか?言葉は分からないとしても同じ人間。その考えていることは私たちと大きく変わらないようです。(旧ソ連圏とロシア間のように国境をまたぐ移動も決して珍しいことではないことを考えると、行動するときの移動の規模は日本とはけた違いですごい…)この動画を見ていて私自身、ずっと昔の学生時代に同じように旅をしたウラジオストクーモスクワ間の往復二週間の旅を再び振り返る機会となりました。あの時に出会った家族、夫婦、おばあちゃん、今頃みんな幸せに生活しているのだろうか…そんなことを想像しながら当時の写真を取り出してきて眺めていました。

様々な人生と思いが交錯するシベリア鉄道の旅を懐かしんで / Recalling the journey of the Trans-Siberian railway running with people’s life and thoughts on various things

”Onliner” https://www.youtube.com/user/onlinerby

最近お気に入りのYoutubeチャンネルです。チャンネルの説明文にはこうあります。「こんにちは、これはOnlinerチャンネルです。 「小さな」人の運命について物語る映画を作っています。 群衆の中に隠れてしまって見えないかもしれないけれど、彼らのストーリーは常に痛々しいほど自分たちに親しみやすく、近しいもの。 私たちはそのことについて考えたことや、切望したこと、問題にぶつかったり、克服してきたり、できれば避けたいと思っていることがあります。 これらすべては私たちの映画にあります。

このチャンネルでは上記のテーマに相応しい登場人物が取り上げられていて、その内容は重くも感じられます。しかし、そこで話される話を聞いていると、単にロシアと聞いて全く異なる世界、外国の人々というイメージが変わって、私たちは皆同じ人間で同じようなことを感じ、考え、同じように悲しみを感じ、それを乗り越えて今を生きている。そんな姿を見るとロシアが今までよりもずっと近い世界に感じるかもしれません。

駐在している頃は、職場のロシア人スタッフとは仕事の話がメインで、なかなかお互いの本音を語り合う機会は少なかったのですが、仕事の利害関係とは離れて付き合う友人や旅先で出会うタクシードライバー、地元の人々とのとりとめのない会話。そんな会話の中に仕事とはまた別に、人としての重要な学びがあったと感じています。これこそ日本を離れて海外で生活し、人々と触れ合うことから得られる醍醐味かもしれません。

冒頭に貼付されているシベリア鉄道の旅物語。そこで働く女性たちや乗客たちの言葉。一人ひとりがいろんなものを抱えて列車に乗っている様子が映し出されています。学生時代に初めて訪れたロシアは、富山県から船でウラジオストクへ渡り、ウラジオストクからモスクワまでのシベリア鉄道でした。行きのモスクワまでの道は一週間ノンストップの旅。帰りは途中下車しながらの旅となりましたが、合計2週間のシベリア鉄道の旅は楽しく、あっという間に過ぎてゆく時間。ロシア語単語を一つ一つ教えてもらったり、子供たちとトランプをして遊んだり。ウォッカを飲んで盛り上がる夜の時間。出会っては別れを繰り返して目的地までの過ごす日々はあっという間でした。この動画を見ると、すっかり車両は新しくなっているようで、当時のおんぼろな鉄道と比べたらずっと快適そうな様子。一週間シャワーを浴びないためにツーンと鼻にくるロシア人のあの独特の匂い…さすがにそこまでは画面からは感じられませんが、あの匂いが少し思い出されました。

ここに登場するシベリア鉄道で働く女性の言葉によれば、給与は決して多いものではなく、2週間の勤務で20,000ルーブルの収入(現時点の為替レートで日本円に換算すると約3万円)。そこから2週間分の食事など必要なものを差し引くと手元に残るのは約14,000ルーブル(約2万円)。「年金は17,000ルーブル(約2万5千円)、アパートの家賃を支払い、少し他に必要なものを購入すれば…お金は足りたものではない。働かないと。人に何かをあげたり、欲しいものを買いたいじゃない」と。別の女性は、「息子を亡くしてしまい家には自分ひとり。鉄道で働くと家から遠く離れることができて、出会う人たちと談笑できる」という。さらに別の女性の話では、「今はどこもかしこもお金お金お金…(笑いながら)プーチン大統領のせいで物価が上がっている」と。「問題はお金が足りないこと。家族を置いて働きに出ないといけない、家には奥さんや子供が置いてゆかれ、彼らは寂しがっている、これが問題だ」と。

友人曰く「人は生まれた時の環境ですでにその将来が左右される」と言います。確かにその通りだと思います。たまたま自分自身は日本に生まれたけれど、もしかしたら、例えば北朝鮮に生まれていたかもしれない。自分ではどうしようもできない枠組みの中で自分の人生が閉じ込められていたかもしれない。動画にも出てくる若者が言っているように、(ロシアにはネガティブな部分もたくさんあると思いますが)「我々ロシアの人々は素晴らしい。ロシアは世界で一番大きな国、豊かな歴史を持つ国。詩もあれば偉大な作曲家もいてバレエもある。人々はお互いに助け合いながら生活している。」良い面を観察して、そんな風にポジティブな見方をする人もいれば、自分の国や環境を悲観的に見る人もいる。そもそも人は皆平等で、不公平さが無い世界で生きることが本来の姿であるはず、と思いますが、今の世界ではどうしようもできないことが多くある。そんなことよりも、自分でコントロール可能なところに目を留めることの大切さ。今の自分が得ているものを当たり前と思わずに感謝できる気持ちを大切にしたり。また、家族との絆を強くしたり、いざという時に頼れる友人を持つこと。自分自身が没頭できる好きなことを持つこと。そのように自分のすぐ周りにこそ、ー その規模は決して大きくないとしても ー 自分で物事を何とか好転させることができる要素がまだまだあるのかもしれない。そんなことをモスクワでの生活を通して、またこのような動画から感じることができました。

モスクワのアパートのルームツアー / Как живут другие

モスクワでアパートメントを借りる時には家具付きのアパートに入り、数限られた候補の中から間取りや、気に入った家具があるのか、最低限これを、あれを足してくれないかと交渉して追加してもらったり。自分好みにぴったりの物件に当たることは少ないのかもしれませんが着任してから1~2か月の間に決めてアパートに入居することになるのが一般的かと思われます。駐在している間に計3つのアパートに住んだ経験からすると、オーナーによっては日常生活の中で発生するトラブル対応が異なりますので生活のしやすさも変わってきますし、隣人は選べない。集合住宅ならではの難しさも感じました。きっとこれはどの国に行っても同じことかもしれません。

私がモスクワにいた時には日系企業でアパートメントを紹介、契約をサポートしてくれる仲介業者がいて日本語で対応するサービスを展開していました。ロシアにも同様の企業がいますし、インターネット上でアパートメントを探すのも非常に容易となっています。日系企業のサービスには残念ながら満足できず(アパートの契約延長時期が過ぎてしばらく経ってから「そろそろ契約更新の時期ですがサポート必要であればご連絡ください。」との手紙。こちらはすでに直接オーナーと連絡して契約更新済みなんだけど…。別の時には駐在員アパートを契約解除する際、契約書に明記されているにも関わらずデポジットの返却に一向に応じないオーナーとトラブルが生じました。期待していたサポートもいただくことができず、結局自らオーナーとやり取りすることに…。ドイツにいるというので、きちんと時差も考えて早朝を避けて電話したつもりが「こっちは朝の何時だと思っているんだ!いい加減にしろ!」と怒鳴れたことも思い出されます。こっちだってお金を返してくれと言ってるんだ、それだけだ、ちゃんと契約書に記載があるじゃないか!と言い返してみたり。ドキドキしながらも度胸試しの良い訓練となりました。)、結果的にアパートメントを探すのは、可能であれば自分で直接行い(どんな物件があるのだろう、と楽しみながら行うのが重要です)、会社スタッフのサポートを得ながら契約を進める。これが一番満足のゆく、効率的な方法であったな、と感じています。

モスクワに住んでいてのトラブルの例としては、以下のような出来事がありました。

すでに眠りにつこうとしてベッドに横になっていた23時過ぎ。いきなり上の階から部屋の中でバンドの練習か?!、と思われる音が。明らかにマイクを通した女性のボーカルの歌が聞こえてくる。しばらくすると別の隣人と思われる女性の怒り狂った声。どう考えてもこの時間にこのボリュームで遠慮なく…それは無いよな、と。ロシア人の友人宅に遊びに行った時には、上の隣人が夜中に大音量で音楽をかけていて、歌詞もとても子供に聞かせたくないようなものだったと。ということで数回警察を呼んだことがある、と言ってました。その家族はモスクワ生活にうんざりの様子で今ではすでに別の国に引っ越しましたが、同じロシア人と言ってもモスクワに憧れてやってくる者もいれば去る者もいる。モスクワに対する反応は様々です。引っ越した2件目のアパートメントでは部屋に入るには、まず隣人との共通の扉があり、それを抜けると左右にそれぞれの住人が住む部屋への扉がありました。お隣のおばあちゃんは、初めての挨拶で緑茶を渡すと大変喜んでくれて、いきなり自分の部屋の中をくまなく案内して見せてくれました。「ここはキッチン、こっちはリビング。いつもここの椅子に座ってゆったりしているのよ…」どんな会話があったか具体的には忘れてしまいましたが、ロシアではよく見かけましたが、冷蔵庫には旅行先の街で購入した(あるいはお土産でもらったであろう)マグネット、所狭しと並んでいるモノの数と少し匂うキッチン。そんなロシアの庶民的なといっていいのでしょうか、そんな生活を垣間見たものでした。その後はすっかり顔を合わせることもなく1,2年後だったか過ぎました。とある日、友人を連れて部屋に戻ると、いきなり「(共有の入り口の扉を指して)ドアが壊れた、どうしてくれるの、あんたがやったに違いない!どうしてくれるんだ!」といったすごい剣幕で罵倒されました。かつてニコニコして部屋の中を見せてくれたおばあちゃんとは思えないくらいに怒り狂った様子です。友人が「まあまあ落ち着いてください。」といって何とかなだめていましたが、こちらもいきなり言いがかりをつけられると怒りたくもなります。「気にしちゃダメだ、こういうのはどこにでもいるから落ち着け」と。私たちはその場をうまく切り抜けましたが、その次の更新時には次のアパートに出ることにした一つのきっかけともなりました。

新たな仕事に不慣れな中、同時並行でアパートを探すことは決して容易なことではありませんが、せっかくのロシア生活。可能であれば色々な物件をチェックしてみることはモスクワのアパート事情を知る上でも貴重な経験となるに違いありません。

私の勝手な見解ですが、街中で綺麗な恰好をしている男性、女性、スタイルも良いので普通に見てもとても素敵に見えますが、彼らの一体どれだけの人たちが本当に裕福に生活しているのかはいつも疑問に思っていました。劇場で綺麗に着飾った様子の人たちを見ても、その大半は家に帰ると貧しい部類の生活をしている人が多いのではないかと、そう思ってなりません。私も付き合っているロシア人の大半は決して裕福ではなく、仕事もない、という人も少なからずいましたが、それでもたくましく生きている姿が印象に残っています。むしろ裕福に生活している不自由のない日本人の生活よりもずっと彼らの毎日の生活がたくましく見えることもありました。

以下は時々チェックしているロシアのルームツアーのYoutubeチャンネル。

この動画は一例です。庶民的な内容でやり取りが面白くて見入ってしまう。なんだか微笑ましいです。限られた予算の中でどれだけ自分好みのスタイルに整えたかを伺えます。

一方、以下のYoutubeチャンネルはエレガントな様子。ここまでお金を出せる人は少ないに違いありません。果たしてこんなアパートメントを購入するにはどれだけの収入が必要なのか、どれだけのローンを組む必要があるのだろうか…限られた人に許された選択肢ではないかと想像しながら眺めています。

このチャンネルオーナーの夫婦のルームツアーの様子。とても素敵なアパートメントの様子が紹介されています。

大都市モスクワの中でも近い距離で他社の様々な人と付き合えるメリット / The merit of getting to know various people who work at other companies in Moscow

モスクワならではの近い距離で他社の様々な経歴を持つ方たちと付き合える機会は駐在生活の中のメリットの一つです。他社の駐在員や現地採用で勤務している日本人との交流を通して得るものがたくさんありました。これはモスクワに限ったことではないのだろうと想像ができます。会社の業態は様々で顧客は多岐にわたるとはいっても、管理部門は同じ悩みを抱えるケースが多くあります。もしかすると、営業スタッフは各社固有の問題があり、他の会社と相談しても同じ土台で会話することが難しい場合もあるのかもしれませんが管理部門は違います。与信管理をどうするか、人材の採用はどうするか、どうしようもないスタッフに去ってもらうためにはどうすればよいか、人事制度はどうしているか、近々導入されることになった法律への対応方法はどうするかなどなど、会社の管理部門の課題はどの会社も共通して抱えている悩みでもあります。

日本に勤務していれば、勤めている会社事務所が東京に集中していないこともあれば、社内の付き合いが中心となることも多いはずで色々と制約が多く、他社の方々と広く付き合う場を得るには自らの努力が求められます。その一方で、モスクワでは多くの企業がモスクワ中心部に事務所を構えており、社内の立場上自らの仕事をコントロールできる権限も広まり、集まりあうことも容易になります。インドからそのまま異動して着任した方、中国、アジア地域その他の国々での駐在を経験してきた方々、ロシアに定住して10年以上もロシアビジネスを見ている方の話、ソ連時代から仕事をしてきてソ連、ロシアと国家の変遷を見てきた方の話などなど。ベテランの方たちが多い中で交流を通して自分自身の仕事の方法、考え方のずれを是正するよい機会ともなりました。なお、全く違う思考回路と出会い、自分自身の視野を広げ、もしかすると完全に考え方や価値観を変えるにはロシア人との交流がピッタリです。それは時に日本社会への適用能力が下がってしまう危険もはらんでいますが…。

会計事務所や銀行主催の管理系のテーマであるセミナーに出席すれば、概ね同じメンバーが揃う。そこに出ると、あぁこの会社の管理担当者もついに帰任して後任の方と交代する時期なのか、それにしても自分はここにいる顔ぶれの中でも随分と長くなったものだなぁと客観的に振り返ってみたり。中には、ほとんどそういった場に出てこない人もいるけれど、それは、毎年のように同じような内容でロシア駐在初心者向けの内容である場合もあり、出席しても無駄…と思う人がいても仕方がないのかもしれません。日本を代表する日系企業という一枚岩で考えるならば、自分の知識を新しくきた人に分かち合い、同じ問題で足踏みしてしまわないように助け合うことも大切な要素だと思っています。日本にいる時にはそういった意識はなかったけれど、世の中にはたった一人の行動でもって「日本とは」「日本人とは」というレッテルをいとも簡単に貼ってしまうしまう人間が存在する中、「日系企業はやっぱりすごい」そう思わせられるように、各企業が一人で苦しみ、闘うよりも、できる部分では皆で協力して毎日の仕事を少しでも楽しくできるほうがずっとよいではないだろうか。そんな風に思います。日本で仕事をしていても「自分が苦しんだこの経験を他の人にも理解してもらいたい。」そんなネガティブ思考に出会うことがありますが、自分が苦しんだこの経験を他の人が味わうことがないように知見を共有し、伝えてゆくことがポジティブな、あるべき姿であると信じています。

話が変わりますが、休暇でイギリスのロンドンに出かけてミュージカルを鑑賞したときのこと。私の購入したチケットの場所は左右の通路からちょうど真ん中くらいで鑑賞するには特等席。が、会場に入るのが遅く、既に席についている方々に申し訳なくも足元の狭い間隔を通してもらいながら自分の席にやっとたどり着く。ぱっと見たところ隣には中年の女性日本人二人組。「おっ、日本人だ」と思い、挨拶しようと思って構えたところ、「せっかくここまできて周りが日本人だらけ。ほんといやになっちゃうよね」と二人で会話している声が。こちらを意識しているとは信じたくないけれども、確かに周りには日本人らしき人が多かった。それでも、別に海外で同じ国の人と出会っても悪いことではないのではないかと思うですが、そこまで嫌悪する理由って一体何なのでしょう。情報交換できることもあるだろうし、大げさではあるけれども、同じ日本からやってきて異国の地で出会ったのだから、そこまで悪いことを言わないでもらいたい…少しばかり悲しくなりました。

ロシアの道路事情 / Road condition in Russia

最近見つけたYoutubeのサイトで面白い動画がありました。ロシアの道路がいかにひどいかを映し出しているものです。1分以内の短い動画です。0:30頃から見ていただければ、ロシア側の悲惨な道路事情からベラルーシ領土に入った途端に綺麗に舗装された道路へ様変わりする様子が一目で分かります。ロシアが — あれだけの広大な国土を持つ国 — ロシア全国の道路を良い状態に整備し維持できるお金のゆとりがあるとも思えず、きっと日本と比較してはいけないのかもしれません。

モスクワの道路事情は地方と比べれば申し分ありませんが、車で移動しているときに、スタッフとドライバーが道路の話をしていて、「XXXの幹線道路はとても状態がよい。ドイツ人が整備したものだから今でも十分走れる」なんて話をしているのを何度か聞いた覚えがあります。(実際のところ、Yandexでも調べてみましたが、モスクワ近郊でそれらしき道路が存在する情報は見つかりませんでした。この会話の背景を確かめることができていないので本当のところは分かりません。もしかするとモスクワとは別の地域のことだったのかもしれません。)

第二次世界大戦でドイツ軍に勇敢に立ち向かい、英雄都市という称号を与えられたヴォルゴグラード(旧スターリングラード)を戦勝記念日に訪れたとき。タクシーに乗るとあまりにもひどい穴だらけの道路。タクシー運転手曰く「ボルゴグラードではまだ戦争が終わってない!」なんて冗談も。生活が苦しくても、街のインフラが決して恵まれているとは言えなくとも、それを笑い飛ばす冗談で盛り上がる。そこにまたユーモアを感じます。先ほどの動画のコメントの中には

「ロシアではアスファルトは定着しない、ロシアの大地はアスファルトをはねつけてしまうから…」

「どうして綺麗に舗装された路面を走れるかい、危ないじゃないか、眠ってしまうよ」

「自動車パーツを販売するお店で働いているけど、(このビデオを見て)なぜ部品パーツの注文が多いのかよく分かったよ」

なんてものがありました。

なお、国土交通省のウェブサイトで発見できた2012年時点の日本とロシアの道路事情データによれば、日本の道路の長さは1,207,867km。対してロシアの道路は982,000kmという。日本に存在する道路の距離の方がロシアの道路よりも長いということになりますが、ロシアの国土と日本のそれとをパッと頭に浮かべるとどうにも信じがたいものがあります。ロシア的な皮肉を交えて言えば、「ロシア人担当者は道路が存在しているのに、穴だらけの道を見て道路だと分からず集計に含めなかったので、結果的に実際よりもずっと低い数値を公式数値として発表してしまった」ということにしておきたいと思います。

参考資料:

https://www.mlit.go.jp/common/001381832.pdf

モスクワは本当のロシアじゃない / ”Moscow is not real Russia”

「モスクワは本当のロシアではない。」ロシア人と会話していてモスクワのことを語ると大概このフレーズを耳にします。恐らく、「モスクワは本当のロシアではない」って本当?と尋ねると大半のロシア人が頷くはずです。駐在期間の間、休暇になると多くの駐在員の選択肢は、日本食の買い出しも兼ねて日本に帰国する、あるいは距離が近い西欧や、海のある南の地域に出かける、そのいずれかがほとんどであったように思えます。ロシアとは所縁の無かった日本人がモスクワに来ると、それはもうハードシップの高さを訴えると思いますが、お金さえあれば基本的には何不自由なく生活ができて、他人には全く笑顔を見せないと思われていたロシア人も今では笑顔で接客してくれる。街の中でも嫌な思いをすることがほとんどない(むしろ、中央アジアから来ている同じアジア人が露骨に差別されている様子を何度も目にしました)。道を尋ねても特に嫌なこともなく教えてくれる。(逆に、明らかにロシア人ではないこちらに道を尋ねてくるロシア人も何度か遭遇しました。地方からやってきたロシア人なのでしょう。ロシア人にモスクワの道や地下鉄を教えてあげる。何だか不思議な気分でした)ずっとモスクワは住みやすくなったと思います。ただ、ロシア語がどうしても必要となり英語が必要な場面は私はソビエト時代の大変さを知らないので、ソ連・ロシアと長年同じ畑を歩んできた報道、商社マンのようなビジネスマンの方々が持っているであろう数々の面白愉快な話は残念ながら語ることはできません。大学時代に教授がソ連時代の小話を語ってくれたのを一つ覚えているのは除雪車の話。大通りを除雪車が道端の雪を除雪していたそうです、ゆっくり車が動きながらかき集めた雪を後ろに吐き出しているのですが、その吐き出した雪が除雪車が通った後の除雪した場所に降り注いでいるので、結局その除雪車が通った後は再び雪が積もったままになっていた、という話。これがソヴィエトだ。なんて面白く語ってくれば話を覚えています。多少話に尾ひれが付いているかもしれませんが、何だか納得してしまいました。

混沌とはかけ離れた、街も綺麗で国もロシアに比べれば整っているであろうイギリスやドイツ、日本に憧れるロシア人もいれば、「ドイツに行ったけれど、あんなに(何もなくて)つまらない国には住めたもんじゃない!」というロシア人もいる。かつてナチスとの市街戦を繰り広げたヴォルゴグラード(当時はスターリングラード)を訪れた時には、穴だらけの車道がありタクシーも前方要注意。「ここではまだ戦争が続いていて道路が穴だらけなんだ、ハハハ!」と陽気な運転手。自分の街を愛している人でした。なんだかんだロシアのことを悪く言うロシア人がいても、やっぱり自分の祖国を愛している。程度の差はあれどもその愛を、身の回りのロシア人から感じたロシア生活でした。

ロシア生活の間には本当に貴重な旅行ができました。コロナウィルスが拡大して外出規制となる直前までに出かけたモスクワ近郊への小旅行ではモスクワとは違うロシアの別の顔を見ることができました。一生残る大切な思い出です。それ以外にも、ロシアが併合した後のクリミア。空港のかつてのパスポートコントロールがただの無人のボックスとなり、昔は列をなした場所を何も無いかのように通り過ぎて空港をあとにしました。かつては町が完全に崩壊した場所が見事に復興しヨーロッパ最大級の美しいモスクが立っているチェチェン共和国のグロズヌイ。ロシアとの衝突が続き、路上には戦車が並ぶ道路を進んで向かったウクライナのオデッサ。2014年のウクライナ騒乱で数多くの人が無くなったキエフの独立広場、未承認国家である沿ドニエストル共和国やアブハジア共和国、チェルノブイリ原発事故で誰も住まなくなった町へのツアーなどなど。ロシアには中央部には広大な世界遺産の大自然が広がっていますし、極東地域には世界最低気温を記録したサハ共和国の首都ヤクーツク、美しい自然、美しい富士山のような山を構えるカムチャッカ半島。まだまだ出かけたことの無いロシアの魅力がまだまだ残っています。

日本語でロシアの一般生活の様子を探そうとするとリソースに限られると思います。一方でロシア語のサイトとなると検索のハードルが上がります。英語の勉強も兼ねて、英語で紹介されているロシア紹介サイトを訪問することをお勧めします。

偶然見つけた極東に住むこの女性のサイト。”Yeah Russia”

https://www.youtube.com/channel/UCWf43GShTqMDdJN9pICYd2Q

モスクワとは全く異なる極東の街の様子を見ることができます。モスクワを一歩離れると、モスクワ近郊でもこのような風景が車窓に広がります。極東だからこんな様子、ではなくてモスクワとそれ以外の町の落差を見る上でもとても参考になります。

彼女のページでは、他にもお勧めのYoutubeページが紹介されていました。

例えば、こんな以下のページ。”Different Russia “

https://www.youtube.com/channel/UCFFG4euAS7ZoAUYJFQETouA

モスクワの様子やモスクワ近郊での生活を実感することができます。上記のサイトと比較すると日常生活を紹介する点ではテーマが近いように思えますが、また違った都会の雰囲気を存分に感じることができるビデオがたくさん紹介されています。

ちょうどよい駐在期間はどれくらい? / How long is the right period of working as an expat in Russia?

駐在の経験を経て今思うこと。会社の規模、内容に依るのですべてのケースに当てはまりませんが、管理業務に従事する駐在員の場合、モスクワに長く駐在することはビジネスパーソンとしての価値を上げるには限界がある、ということです。海外での業務経験、ロシア人スタッフと勤務して感じる文化の違い、言葉や育った背景も全く異なる部下や同僚たちとぶつかりながらもどのように仕事を進めてゆくか、仕事以外の日常生活で体験する初めてのこと、どれもが日本の環境では決して得ることができない体験です。

駐在員として本社から派遣されてきた契約形態であれば、金銭面での待遇は日本で生活するよりも高く、日本の生活水準よりも高くなることがほとんどだと思います。(中には現地のモスクワの子会社で現地採用された日本人もいます。その待遇は駐在員に比べると決して恵まれているわけではないと思われます)給料も貯蓄できて、よい生活環境が保証される生活。しかしそれが七年ともなると、徐々にそこでの業務経験もただ繰り返してゆくことが増えてきます。確かに会社は成長し、それに伴って組織が変わってゆくことを目の当たりにできることは貴重です。新しいポジションを作り、新たな人を採用して仕事を覚えてもらう。徐々に自分自身が抱えていた仕事をロシア人スタッフに委譲してゆく…そういったやりがいは確かにあります。しかしながら、日本の本社でできる仕事はモスクワで経験するやりがいとはまた違った内容の意味でもっともっと大きなものです。駐在員としてモスクワで経験した苦しいこと、辛いことを踏まえて、それをどうしたら改善できるだろうか、どうすれば全世界にいる駐在員や現場で働くローカルスタッフたちのサポートができるだろうか、そんなことを考え、実際に提案して喜んでもらえる。自分の働きが幾つもの海外の子会社の業務改善に役立つことを実感できる喜びがあります。この観点で言うと、自分自身の成長にとってモスクワでの勤務経験は、長すぎると、ある地点を境に自分の成長をストップさせる、そう感じています。大きな理由の一つは、モスクワにある日系企業の規模そのものは小さいものがほとんどであり、その会社で経験できる仕事の規模もそれだけ小さくなってしまうからです。

3年という一定の切りの良いスパンがありますが、3年は大変短すぎました。一通りのことがわかって、自分のやりたいことをできる体制づくりもようやくできつつあったタイミングが来た時にはすでに3年が経過。毎年厳しくなる本社からの管理体制の強化への対応に追われて社内の規定を整備したり、新たに要求されるレポートの整備に追われたり。人事で言えば会社の組織作り、制度作り。人が安定しないことから採用活動が続く。ようやく採用したとしても定着に時間がかかったり、税務調査や社会保険関係の監査が入り対応に追われてしまう。人が不足している期間は自分自身も業務に入ってゆかないといけないためにまた仕事が停滞する…そんなことの繰り返し。自分の思うようにうまくいかないことが多々ありました。現地でお世話になっていた人事部を知る方曰く「あまり長いこと現地にいると本社から忘れられてしまう。自分の会社でのキャリア形成も考えるのであれば子会社に長くいることは決して良いことではない」という言葉が真実を物語っていると思っています。もし会社の土台が整えられている会社であれば、3年という期間が満足できる充実仕事の期間となるかもしれません。他方、私のように苦労の連続の中で経験した7年間というのは、ある意味では長いと言いつつも、会社の底からようやくゼロ地点にたどり着き、そして成長してゆく。そのプロセスを経験する点では適切な期間だったのかもしれませんが…。

自分自身の価値観の軸を何に置くか ー とにかくロシアに関わっていたい、ロシアに居続けたい、あるいはロシアでの業務経験は自分自身の視野を広げるための一期間であり、その間に小さな規模の子会社でマネジメント経験をして更なる自分の成長につなげるなど — これに左右されると思います、そしてこの考えは人それぞれです。正解はありません。あくまで私の主観ですが、一般的な管理業務を担う管理人材で、かつロシアの子会社が小規模のものであるならば、どんなに良い待遇を得るからといって、目の前の待遇ばかりに注目してはならない。そして、将来の自分の成長を忘れてしまうことがないように定期的に今の自分を客観的に観察することを怠ってはいけない。ということだけは言えだろう、と考えています。