多様性は果たして正しいのか? / Diversity right or wrong?

“Kawaii factory” こんな名前のお店を見つけました。明らかに日本語のかわいいから来ているはず。女の子が好きそうなデザインのグッズが並んでいました。生産は主に中国製品が主であったように思えます。- モスクワ中心から北に位置するdesign factory “Flacon”にて

一般的に、グローバル化、多様性といった言葉は奨励されている、ポジティブに捕らえられる「会社が目指すべきあるべき姿」だけれど、それは前提が正しい場合であって、必ずしも正しいとは言えない。世間一般の”流行”に流されることなく、自らの置かれている状況をよく比較した上で目指すべき姿を吟味すべきである、と経験からよく実感しています。

多様性 - その難しさ

ロシアの労働法の93条「Not full time working time」ТК РФ Статья 93. Неполное рабочее времяを見ると、14歳未満の子供を持つ両親は(子供の事情によって)労働時間を短くすることができる権利がある、とあります。たとえばこのようなケース。勤務時間は18時まで、子供を預けている幼稚園が18時で閉まってしまう、家族や親戚を誰も頼れない・・・結局自分で子供を迎えに行くしかない。そのため、17時に退社し、毎日1時間の労働短縮を雇用者に要求する。短縮の分、給与も減るのですが、毎日1時間、週に5時間スタッフが不在となることによる雇用者へのデメリットは予想を上回るものです。

正社員が例えば50人の中小企業では、各部門にそれほど多くのスタッフを雇用できないはずです。それでも従業員がいる分、色々なことが起こります。同僚が病気になってしまってお休み、そんな中もう一人の従業員は17時に退社してゆく。誰も担当者がいなくなってしまう空白の1時間が生まれる・・・。そんなときに1件、2件と問題がおこったりするものです。「なぜ誰もいないのよ!」とストレートに(こちらが日本人マネジメントであるため遠慮してか直接言われることはないのですが、部屋の中でほえているのが間接的にぐさっと来ます)文句を言われることも。また、ロシアでは1年間のうちに連続して14日間の有給休暇を取得することも義務となっているため(知る限り違反したとしても罰則はありませんが)、マネジメントにとってはこの2週間をどのように管理するか、オフィスに残っているスタッフが病気にならずに問題なく出社してくれますようにと、どこかしら意識しつつ過ごすことがあります。

フレキシブル勤務時間 ― これも一概によいとは言えません。小さな会社で、かつまだ会社の基盤そのものの整備が求められているような状況では日々多くの問題が起こります。そんな中で世間の流行に流されて多様化を推し進める。フレキシブルな勤務時間を導入する。スタッフもハッピー、マネジメントもなんだか良いことをしたという感覚に。・・・いざスタッフが自由に出社してくると、朝から急ぎで議論したいことがあっても、スタッフが揃うまでに動き出せません。たとえわずか1時間のフレキシブルであっても悶々として過ごす1時間はなかなか嫌なものです。スタッフの勤務時間を管理することも一層困難となります。

仕事で大切なのはそのアウトプット、成果であって、勤務時間・勤務場所をコントロールすることではない ― これは私自身、真理であると考えています。一方で、小さな会社には小さな社会があり、小さな勤務スペースの中で各人が周りの行動をよく見ています。この小さな社会で、少数の人間が他と違う行動を取り、それによって相手が優遇されているような感覚を持ってしまうこと。人間なので残念ながら十分にあります。「自分自身は遅くまで残って仕事しなければいけないのに、なぜ彼・彼女は遅く来て(早く帰って)仕事もろくにしないの?」そんな気持ちになってしまうスタッフが少なからず出てしまうのを見てきました。上記の真理を説明しても効力はあまり無いようです。

多様性は善でもあり害でもある

お互いに距離が近いので、他人が自分と違う条件がどうしても見えてしまうことにより不公平感、不平不満が出てしまうことがネガティブに影響する。特に小さな会社であり、まだまだ会社の基盤ががっちりと整備されていない企業であれば、皆が一体となって一つのチームとして取り掛かることがより重要であり、このタイミングで多様性はむしろ阻害要因だと感じています。多様性というのは大企業で人材を豊富に揃っている、大企業で同じ会社の中でもそれぞれの部署が一つの社会となって他の部署との不公平さが目に付かない条件であること(それぞれが違う部屋やフロアで勤務している物理的な隔離も重要と思います)、小さな会社であっても会社の基盤がしっかりしておりリモートでもスタッフ同士の連携が取れるような・・・そんな状況で考えるべきなのが多様性だ、と自らの経験を通して学習しています。これまで多様性についてじっくり調べたこともありませんが、きっとどの専門家の話をお聞きしてもこのようなことが書いてあるのでしょう・・・。

本のジャンルが映し出す国民性 / The online book shop shows the national character ?

とある旅行先で乗ったバスの中での一コマ。どこの国でも女の子は同じだな、と微笑ましくなる光景でした。

モスクワのように都会であっても、日本のようにふんだんに本の揃っており手に取ってパラパラと本をめくりながら時間が経つことを忘れてしまうような書店はほぼありません。その分インターネット上のオンラインショップや海賊版がより一般的なのかもしれません。

必要な本はインターネット経由で確認するしかなく、以下のインターネットのオンライン購読を購読しています。きっと他にも素晴らしいサイトがあると思うのですが、これらを好んで利用している現状です。

Kindle(日本語)… 毎月の購読料を支払えば読み放題となるのは嬉しいです、読み放題の本に制限があるのは…ビジネスとして理解できます。

SCRIBD (英語) … ロシア人スタッフに仕事上大切だと思うビジネスの知識を共有しようと思うと、大概の本は英語で発行されているものが多いため、色々と探している中でこのサイトにたどり着きました。購読料は高いな…と感じますが(先月は850RUB、日本円にして約1,500円/月の購読料)、英語で発行されている本を幅広く見ることができ、ダウンロード・Audio bookとして聞くことができるのはよい点です。スタッフのスキルアップに繋げようと、ここで見つける本を適宜共有しています。なかなか英語ではスタッフの理解をがっちりつかむには難しいものがあるな…というのが正直な気持ちです。

ЛитРес(ロシア語)… ロシア語の本を探していて、比較的このサイトを見ることが多いです。といってもロシア語であれば、ロシア人スタッフに尋ねて良いサイトを教えてもらうことが最善でしょうね。

さて、それぞれのサイトにあるジャンルを見ていて、その国の国民性が見えてくるのだろうか、と感じることがあります。

日本

マンガは日本の特徴ですが、それに負けず日本はテクニック向上や会社での対人関係に重きを置いたテーマが特に多いのではないか、と感じています。1日30分を続けなさい!、仕事が早い人は何が違うのか、朝4:30に起きる~、XXの法則、人から好かれて人生成功するためには、雑談力を上げるためには、プレゼンテーション能力の向上、パワーポイント資料の作成方法などなど、このようなジャンルの本が他の英語、ロシア語サイトと比較して多いように感じます。

アメリカ

ビジネス関係といえば、伝記やリーダーシップといったものが目に入ってきます。そして個々人の成長に関するジャンルではHappiness、Psychology…アメリカというビジネスの先端を行く社会に住む人々が疲れてしまっているがゆえにこのようなジャンルがとりわけ必要とされているのでは、と思ってしまいます。

ロシア

物語の本が圧倒的に好まれて読まれているのではないでしょうか、そしてビジネス書に関してはほとんどロシア人著者による良書がないと感じています。大体書店で見る本は欧米系の著者のロシア語翻訳版です。その点で、日本では欧米系の翻訳もあれば、日本人著者によるビジネス書も多くあり、ビジネスジャンルに関しては恵まれているのではないでしょうか。ロシアはせめてもう少しロシア語によるビジネス書、それももっと読者に楽しく読ませるような本の内容構成が必要です。お堅い内容が一層お堅い文章構成となっていれば、どんなに内容がよいとしても自然と本を閉じてしまう…。一方でロシアは世界に誇る長編作品も存在し、そういったものに囲まれて育ってきた人々が主要なロシア企業のポストを担っているとすれば、欧米系や日本のビジネスマンとは異なる感覚を持った人々を中心としたビジネス界に、若き新たな視点を持った若い世代が入り混じってゆく。そんな過程にあるのかもしれません。ロシアの書店を数年間見ているだけでも少しずつ本の質、デザイン、内容が変わってゆくのを見ることができるのは面白いことです。

お礼もお詫びも具体的に / thank-you & sorry for exactly what ?

今年のモスクワの夏は非常におかしなことになっています。連日雨、雨、雨。せっかく唯一太陽を楽しめる季節がまるで日本の梅雨のようになってしまうとは…。束の間の太陽を楽しんだ日曜日。お気に入りの場所にて。

もう数か月もブログの更新をストップしていました。少しでも時間があるならば目の前の仕事に全てを費やす(費やさざるをえない状況にある)― そんな思いがありブログのことも忘れて目の前のことに没頭する日々を送ってきましたが、目の前のこと、将来に実を結ぶ可能性があることに今の時間を費やすこと。この狭間でバランスの取り方について日々悪戦苦闘しています。今日からは、毎日の更新は難しくとも定期性をもって更新してゆこうと気持ちを新たにして書き出しています。

私より後にロシアに赴任してきた方が先に帰国してゆくケースを少なからず目にすることが多くなった今、決して、どんなに努力してもロシア人のメンタリティを理解することは難しいものですが、ふと日本とロシアの違いに気付く機会がふと、生まれてくる瞬間があります。

「ありがとう」― よく口にする言葉ですが、幾度となくスタッフに「XXXさん、ありがとう、というけれど、一体何にありがとうと言っているのか私たち(ロシア人)には分からないです。具体的に言ってもらわないと…」と言われることがありました。なるほど、「ありがとう」というのはとても良い言葉ですが、私が口にする「ありがとう」には、お礼を伝えたい目的語が欠けているのだな、と。

ありがとう(貴重な情報を共有してくれて)                ありがとう(こんな忙しいのに自分の追加の仕事のお願いを時間通りにやってくれて)

「ごめんなさい」― これも同様です。

ごめんね(私がきちんと必要な情報を伝えていなかったので無駄な仕事をさせてしまって)                               ごめんなさい(会議の時間を守れずに会議室で待たせてしまって。前の会議が長引いてしまって、そのことについて連絡ができていなかったんだ)

「ありがとう」「ごめんなさい」をやたらと連発しないこと — この議論もありますが、今日は何事も具体的に伝えることの大切さをここに書き記しておきたく、その例として、ありがとう、ごめんなさいを取り上げました。

具体的に目的語を表現することの大切さ。これは裏を返せばそれだけ日本語での会話の回路に目的語が無くても通じてしまうから、と感じています。「ありがとう」といえば、相手はその「ありがとう」の一言で自らの心の中でその意味することを自分なりに解釈して受け止めます。そこに「何に対してありがとうと言っているの?」という疑問を挟むことはあまりないのではないでしょうか。少なくとも私は日本にいる時にこんな考えをしたことがありませんでした。

この思考回路で現地スタッフと仕事をしてゆくと、自らの仕事の指示も目的語が不足しがちで、指示が曖昧となったまま過ぎ去るために結果としてお互いに一つのことを違った形で理解していて時間が無駄になってしまう、お互いに罵り合う、そんな結果を生むリスクがあります。

私自身もそんな苦い経験を踏まえて、自らの指示の仕方、メールを書く際の指示の曖昧さの排除、そんなことを意識して実践することにより、スタッフとのコミュニケーションが改善されると同時に、自分自身のマネジメントスキルのよき訓練になっている感じています。具体的さが要求されること=自らが具体的に仕事の完成図・スケジュールについてのイメージを持っている必要があることからあやふやなイメージでは相手に仕事を振れず、イメージを明確にしておくべきことの大切さを学んでいます。


いかに唇を制することができるかー成功の秘訣 / Control the lips – key to success to work together with Russian colleagues

すでにモスクワに来てから長い年月が経っているのですが、ついに初めて—今更ながら—クレムリンの中に入りました。クレムリンの敷地内にあるホールで友人とミュージカルを楽しんだ帰りの一コマ。入るのも帰るのも厳重に警察官、軍人の警備に管理されていました。

モスクワで仕事をしていて、限られた交流関係、見分の中ですが駐在員として成功する人、成功しない人、その違いは何だろう?と考えることがあります。 

成功の定義は様々です。海外の現地法人に来て、数年の中で現地のロシア人スタッフとの関係は浅いままに終わり、ロシア人から見れば「そういえばこういった日本人がいたなぁ…」という程度の印象しか残らずとも、売上の実績を確実に上げて本社にとっての成功、ということもあります。ここでは現地ロシア人スタッフとの仕事上のやり取りに関して、ロシア人スタッフにとっても自分自身にとっても人間として共に成長できること、これを成功の定義としています。

そして、結局それはどこで、どんな仕事をしていようと要素は同じ、ということなんだと思います。 

今日は一つだけですが、 

言いたいことをすぐに言い返さないこと。まずは状況理解のために時間を取り冷静になること。そして、いかに自分の口、行動をぐっとこらえることができるか 

これは重要な要素の一つだと経験から言えます。理不尽なことがたくさんあります。この前話しあって合意したはずなのに、数日経って会話したら全く真逆のことを言っているように思えることもあります。「そんなこと聞いていません。」と言われることもあります。 

本当にイラっとします。頭に血が一気に上ることもあります。しかし、後で状況を整理すると、確かに自分の理解と相手の理解の仕方にずれがあってもおかしくない、そんな会話をしていたことが分かるケースが意外と多くあります。なるほど、確かに相手が「そんなこと聞いていません」ということも分かるな…と。 

同じ日本人同士で会話していても誤解していることがありますし、何を言っているのか一度聞いただけでは理解できないこともありますよね。であれば、ロシア人と英語で会話していればなおさらお互いの理解の内容にずれが生じてしまうこと、それをよく理解できるようになりました。 

何で約束した時間に会議室に来ないのか!と10分以上待って本人を少々苛立ちを感じつつ探しにゆくと、席にいて別の仕事をしています。会議招集をAcceptしていたのになぜこないのか?と問いただすと、「部下の女の子から会議の時間をずらした、と聞いていたのでてっきり会議は延期になったものだと思っていました」と。いや、そんなこと言っていないよ、と思いきや、確かに部下の女の子が「その会議の時間は別の要件があって難しい」と言っていたことを思い出します。その彼女と私が探していた部下が話をしているうちに、どうやら私の会議は延期になったようだ、という結論になってしまっていた…。 

私も誰を怒ってよいのか分からず、思わず苦笑してしまいました。私自身が別の会議などで席を不在にすることも多く本人たちが会議室に来ることを待っていたのですが、会議の時間に彼らの席に向かい、一言声をかければよい話です。 

こんなちょっとしたことですが、言いたいことを我慢すること。状況を整理するために冷静になること。怒りと共に発してしまった言葉とそのマイナスの印象、それをスタッフの心から拭い去ることはそう簡単ではありません。唇を制するためには、それだけ自制心がなければならない。自制心を持つためには人間として大きな器をもっていないといけない。 高校生の頃、修学旅行ででかけた沖縄旅行で、約束したルールを守れなかった我々生徒たちを臨時の集会に集められ、そこで熱く一人の教師が「お前らの器はこれっぽちなのか?そんなことないだろ?人間として大きな器を持てよな!」と言われたことを、こうして書いていて思い起こしました。

ロシアの付加価値税 (2) / Value added tax in Russia (2)

今晩の21頃の通りの様子。見えにくいですが、ベンチにはコートにすっぽりとくるまった男性ホームレスがこんなマイナスの寒い中寝込んでいる様子が写っています。観光名所のモスクワ中心街の華やかな様子から離れると、このような光景がちらほらと目に入ってきます。

最近は買い物した時にどの商品がVAT20%だろうか、あるいは10%だろうか、とつい見入ってしまう癖が付きました。システム開発業者もお店のスタッフもシステムへのVATレートの設定に苦労することもあるのだろうか、と想像してみたり。1週間ほど前に日用品雑貨のお店で買い物したときのレシートを見返していたら、VAT%が18%との表示が。ん、待てよ、なぜ18%?今年の1月からこの商品は20%のはずだろうに。設定の更新漏れ?ただの表示間違いだよな…と。すでに2019年も3か月近くが経つ頃。どう考えてもおかしいのでは…。お店に確認に行こうと思ったものの結局まだ確認できていません。

さて、日常業務では、業者から届く請求書(Счет)を一つ一つ確認していますが、ウォーターサーバー用の大きなウォーターボトルはVATが0%です。食料品店で購入するミネラルウォーターは20%。同じ水でもVATが違うのか?不思議でした。

この差は、ロシアの小規模ビジネスの会社、個人事業主によって採用可能なУпрощенная система налогообложения(簡易課税制度、Simplified taxation system、通称УСН)によっています。

この制度を適用できるのは

・従業員は100人未満

・売上が150 Million RUB未満

・固定資産の簿価が150 Million RUB未満

の条件を満たす場合。他にも他人資本が25%以上入っていてはダメ。支社を持っている場合には認められない等、幾つかの条件もあります。 このУСНを適用すると、付加価値税(VAT、Налог на добавленную стоимость)から解放されるため請求書にもVATの金額は0RUBとなっています。

(参考URL)https://www.nalog.ru/rn77/taxation/TAXES/usn/

まだまだこのシステムについても勉強が必要です。今後記載したいと考えています。


ロシア人と日本人のコミュニケーションレベルの違い / The different level of Communication between Russian and Japanese colleagues

本日の20:30。家のすぐ隣にある公園にて。今日は雪が降り、気温も体感マイナス7度。帰宅する頃には通りもうっすらと白くなっていました。その下に張っている氷に完全に足を取られ、尻餅をつくことに。頭の中にまで衝撃が響くほどにきれいにこけました。

今日はチーフアカウンタントと仕事のあとに会話をしていて、「この会社はコミュニケーションに問題を感じる。どうにも(日本人と)メールで会話していると何が言いたいのか理解に苦しむことがある。」と言われてしまいました。

質問をもらい、それに対して回答をするのだが、どうにも自分の回答が相手にとってピントがずれているのでは、と思えてしまうような反応が返ってきて「?」となるようです。ロシア人同士で会話していれば相手の反応から相手が納得しているのかすぐに分かり合えるのに、と。そして、もっとできるだけ自分たちが考えていることを教えてほしい、と。そうすればより相手の欲しい仕方で回答もしやすい、ということ。

何となく言われていることは分かる気もします。各人の性格の違いゆえ、あるいは質問がスタッフとは共有できない事柄に関係している場合もあるので、必ずしも少人数の日本人との業務経験だけをもって“日本人とは…”と固定観念を持たれることは避けたいものです。しかし、彼女曰く「日本人は、どうにも表に現れる表現があまり少ないからだろうか、何を考えているのか分かりづらい。」とのこと。メールにですらそれが表れているのだろうか、とふと我が身を振り返ることに。

私自身を振り返って思い当たる節があるのは、頭で考えていることを指に伝えてメールで文字化する作業の中で、無意識のうちに日本式で文章化してゆくために、抽象的な表現が多くなったり、相手が分かっているだろうとの認識から言葉自体を省いてしまう傾向があること、そう自分自身で理解するようになりました。チーフアカウンタントの彼女から聞くと、そのようなメールが飛んでくると、周りのスタッフと「ねぇ、これって何を聞いているのかしら?こういう意味にも取れるし、違うようにも聞こえるんだけど…」とあーでもない、こーでもないという会話がされるようです。ずばり「無駄に時間がとられてしまう(ので嫌だ)」とのこと。

どんなに意識をしていても、まだまだ抽象的な会話の仕方が染みついているな、と感じます。抽象的-そこから生まれるものは、仮に良さを無視してネガティブに捉えてみた場合には—阿吽の呼吸でお互いが察することを要求する。何となくの文化。よく分からないけれどもとにかく行き詰まったら笑ってごまかす。みんな仲良く。責任の曖昧さ。仕事の方法、期限がぼかされていて自分から確認しないと一言言われただけでは分かりづらい。―そんなことを感じています。

その(its)、これ(this)、あれ(that)、そのような(such)。今日の文章を見ていても頻繁に繰り返されています。これが英語になるとロシア人も私もお互いに母国語ではないためにさらに理解度に溝が生まれてしまいます。忙しいときには、メールを見返す時間もおろそかになってしまいがちですが、自分で書いたメールを送信前に読み返し、重大な文法ミスや、文章の構成におかしな部分がないか、サッとでも確認する時間を取ることが大切でしょうね。

「XXXさんの書いている英語はよく分からない。もっと分かりやすく書いてください。」と直接言われるとさすがに堪えるのですが、やはり時間を置いてから読み返すと、全く自分でも理解ができないことがあります…やはり振り返りは大切だと確信します。

そして大切な原則は、ビジネスメールはポイントを絞り、できるだけ短文で。箇条書きで全く問題ありません。Request、Question、Due date、Contact先など。きれいな英文が必要なく、出来る限り読ませずに、見て理解できる内容を作ること。そして具体的に。ただ、一番よいのは直接面と向かって会話をすることですね。今日もまた一つビジネススキルの改善に向けての訓練を受けた日でした。

やる気がないとき、でもやらなければいけないとき / No motivation… but when I have to job

今晩、空から眺めたクレムリン、赤の広場の眺望。…というのは冗談で、本日集中して仕事をするために訪れたRaddison Hotel, Ukraine 1Fに設置されているジオラマ(diorama)です。写真でパッとみるとそれらしく見えますか?

愛読している複数の方のブログを読んでいて、やる気がないときの対処法について記載がありました。そういう自分も色々と試行錯誤をしてきましたが、その時々に応じて取る方法・順番は異なりますが。結果として同じような内容にたどり着いています。

やる気がないとき(休日)

ぐっすり寝る、何もしない。これが一番の対処法と今は思っています。以前は今日何をするかと、そのために何時に起きるか、どれだけ効率よく多くのことを達成できたか?― こだわりを持っていましたが、実はこれが大きな問題で、一日の中に物事を詰め込みすぎると、それを達成することが目的となり、一つ一つの質がスカスカでした。そして、身体も疲れてしまいそれが翌日のパフォーマンス低下につながり、結果としてよいことがなく…。

2週間前に体調不良で寝込んだ時は、疲れていたこともあったのかもしれませんが、丸一日以上眠り込んでいました。我ながら驚きです。朝7時に目が覚めて具合の悪いことに気が付きそのまま休んでいたらお昼12:000。またそのまま眠り込み、外が暗いな・・と思って時計を見ると19時すぎ。少し軽くおなかに入れてから、再びベッドへ。気が付くと23時。これはもう寝れないだろう、と思いきや翌朝までぐっすり眠りこみ、月曜日は職場へお腹をさすりながら向かうことに。

まだ未経験ですが、もしこの状態が数日続くとすると、それはあまりにも忙しい毎日からくるストレスで鬱状態になっているのかもしれません。そうならないために心身の健康を大切にしたいものです。

やる気がない、でもやらなければならないとき(平日)

このようなことが起こること自体を出来る限り少なくなるよう意識していますが、人間ですからプライベートで嫌なことがあったり、体調不良であったりすると仕事のパフォーマンスに響いてきます。この日はもう”負け試合”なので、いかに負けによる被害を最小限にするかを意識し、最低限のことを行ったあとは速やかに退社するようにしています。スタッフも同様で、明らかに反応が鈍いとき、非常に機嫌が悪そうな様子をみると、これはダメだな、と思いその日は出来る限りそっとしておくようにしています。

また、定期的に職場の中でも仕事をする場所を変えるのは効果的です。自分の定位置ではなくて、会議室に入ってみたり、他に空いている席に座ってみたり、パソコンを持ってビジネスセンター内のカフェにでかけてゆき、そこで仕事に集中してみたり。環境を変えることで人間はスイッチの入り方が違うようです。

最近、おっと思ったのは、軽く走ってみること。ジョギングができないとしても、会社に向かう途中で小走りしてみたり。身体を動かすことがよいのか、なんだか気分が上向いてくることが感じられます。

すきな音楽を聴く、食べたいものを食べる、好きな映画を観る、自分の将来の目標を振り返る、などいろんなノウハウはあるようですが、これも人それぞれなんでしょうね。私自身は今では、“みんな人間。ロボットではないのだからダメなときはダメでいいじゃないか。”と気楽に考えられるようになりました。どうも今の世の中、もっと頑張らなければ、弱音を吐いているんじゃない、とでも後ろから周りから突っつかれているような気がします。そんな世の中で常に生活していると疲労もたまるのは当たり前ですね…。サラリーマンは短距離走ではなく、長距離走ですから長い距離をどうペース配分して結果を出すかを考えること、これも大切なことですよね。

やる気がない、でもやらなければならない(祝日あるいは時間があるとき)

カフェに行って強制的にその場で時間を決めて行うようにしています。甘いものが好きなのでコーヒーや紅茶と共にデザートを食べながら、最高2時間まで集中してタスクを完了させるようにしています。仮に終わらないとしても、全く手の付かなかったことが進展したのを見ると嬉しいです。休日に職場で行う、あるいは自宅で行うでもよいのでしょうが、誘惑も多く色々と手にしてしまい結果が伴わないケースも残念ながら多くありました…。休日は自分自身のプライベートの時間でもありますし、仕事以外のことから得られるインプットも重要なのでいかに集中してやるべきことを効率よく終わらせられるか、この点が毎回勝負となっています。

絶対に避けたいのは、終業時間後や週末の時間まで業務時間として潜在的に考えてしまうことです。どうしても業務量が多い駐在員生活。現実的に毎日全く残業せずに帰宅することは不可能です…が、毎日終業時間を意識し、月曜日から金曜日までの業務時間でどれだけ達成できるか、その締切の意識を強く持つことが一つ一つの業務に対するスピード、取組み方を向上させてくれるものになっています。 といってもなかなか毎日そう高いレベルを保つことはやっぱり人間ですので難しいですね。一番望ましいのは、先を読み、業務量をためないこと。そのためには常に先をゆくこと。そう頭では分かっているのですが…どうにも頭の指令に聞き従わない弱い自分自身とときに闘っています。

外見と現実の乖離 / The gap between appearance and reality

時刻は19:00。クレムリンの方向を眺めて。どんどん日も長くなってきました。まだ連日の最低気温はマイナスを表示していますが、日中の風は明らかに春です。

ロシアは外見をとりわけ重要視する文化と思います。たとえば冬。女性は外に出かける前に鏡の前で入念に帽子の位置をよく確かめる。ロシアならではだろうか、スカーフ(Платок)を頭に巻く場合もあるが、それもきっちり鏡の前で時間をかけてチェック。男性はというとこれが女性とは異なり適当かもしれない。以前、ロシア人女性はどれだけ化粧品にお金をかけていることか…と呆れたようにしゃべったら、「XXXさん、私たちがこんなに綺麗にしようと努力しているんだから満足しなくちゃだめですよ」と部下の女性に軽く怒られてしまった。でも本当に外見に気を遣う点でロシアの女性は素晴らしいと思います。

さて、今回のテーマはこの外見という点ではなくて、プレゼンにしても何かを語る時でも言葉という外見で飾り立てられた外見という綺麗さに惑わされて、現実との乖離をよく考慮しなければならない、という点です。

以前、アメリカを旅行していたときに偶然出会った女学生。彼女はワシントン大学に1年間留学をしているとのことでした。ワシントンで飛行機を降りてからInformation centerで偶然出会い、同じ方向ということで街中へ向かうバスの中で会話をすることができましたが、わずか20歳足らずで「最初は自分の語学力のレベルに躊躇していたが、2,3ヶ月ほど経ってから、アメリカの学生の話はとっても立派で聞こえが素晴らしいことを語るんだけど、中身が無いことに気づいた。長く浪々と語っても内容はほんの大したことのないこと。それが分かってからは自分の語学力や彼らの素晴らしい語り口調について怖気づかなくなった。自分自身は多くを語らずともポイントを突いたコメントをするように心がけている」と。

そんなに若くして、しかもわずか短い期間で真実を見つけたその能力におどろいたことを覚えています。私自身も(もちろんロシア人の全員がそんなことはありませんが)同様のことを数年間の彼らとの業務経験を通して感じています。ロシア人スタッフと一緒に仕事をしていて感じるのは、スタッフの説明の仕方は素晴らしく、語り口調が何だか説得力を持っており、そのまま聞いていれば素直に信じてしまいそうになります。ロシア以外の他国で勤務したことありませんので分かりませんが、欧米やロシアではこのような傾向があるのでしょうか。

日本人の良さでもある、周りとの協調性や自己主張をしすぎない観点はこちらの世界では時としてマイナスに働きます。自分自身もまだまだ苦手です。議論に入っていくために何を言いたいのか考えて英語やロシア語に翻訳し、そんなことを頭の中で考えていると話の流れを聞き失ってしまう、そんなこんなで発言のチャンスを無くしてしまう。そんなことが何度もあります。仕事では上司という立場ゆえに、スタッフもこちらの様子をうかがっているため会話に入ることは容易ですが、社外で一人間として話す場合には自分自身から入ってゆかなければならない。黙っているだけではそのうち視線をそらされ、その場にいないかのように存在を無視されてしまう…。日々よい訓練の場です。

人事面談でこの直近1年だけで20人ほどの採用面談を行いましたが、私が大切にしているポリシーは“きれいな”会話をする人との会話には注意が必要だ、ということです。自分自身も仕事に対してこうありたい、という理想を持っており、そうできるように日々努力しているので、同じ意見を持って語ってくれるスタッフを採用したいと考えるのは当然のことです。実際にそんなスタッフと出会い、これは一緒に現状を打破してくれる、と思って採用したところ、口で言っていることと本人の行動がかみ合わないこと。会社の現実はそんな理想には至らないことが多くあり、そのギャップを理解した上で、一歩ずつその溝を縮めようと努力していきたいのに、「もう我慢できない!私はこんなことをするために入社したわけではない!」とか、自分のことだけ考えた発言をしたり、あたかも裏切られてしまったかのように感じたこともありました。

採用面談では、これまで仕事で失敗したこと、そこから学んだことはありますか?と尋ねていますが、これまで誰一人として明確に失敗したことがある、と述べてその経験を語ってくれる候補者と出会ったことが実はありません。失敗もそれが次につながる経験と思えば失敗とは思わない、という考え方もありますが私は反対です。素直にその時に間違ったことは間違ったと認めて、それを次に生かす。そう素直に語ってくれる人であれば、その人の純粋な内面が見て取れてより信頼がおけるのに、といつも感じています。 一緒に仕事をしていくのですから飾り立てた内面ではなくて、その人の本当の姿を見たい。自分自身もそうあることで相手も自らも嘘偽りない関係でお互いに楽でいられるんだろうな、と信じています。

ВыとТы / “You” and “You”

色取り取りの野菜、フルーツが並ぶ市場。(注:昨年5月に撮影した写真です。時期によって市場に並ぶ野菜、フルーツ類は異なります)

ロシアに来てから、いまだにВы(遠い関係、敬意のこもった”あなた”)とТы(君、お前、親しい間柄での”あなた”)の正しい使用方法が分からずどうしてよいものか悩んでいます。

市場にでかけたとき、Что ты хочешь?(お真似は何が欲しいんだ?)と乱暴に言われると、きっと下に見られているのだな、と感じます。一方で、Здравтвуйте, что вы хотите?(こんにちは、何を入用ですか?)と丁寧に尋ねられると、あっこの人の教養レベルは高いなぁ、と思ったり。

現在の職場に来て本当に間もない頃、会社のドライバーと会話をしていて「これからあなたのことをТыで読んでもいいですか?」と尋ねた瞬間、これまで勢いよく楽しく会話していたドライバーの顔が一気に硬直して少しの間固まっていたことを思い出します。あれは完全に失敗してしまった。親しい間柄だから、という気持ちからの発言だったのだが、どうもそうは取られなかったのかもしれない。

ロシア人の友人にこのВыとТыの使い分けが自分にとって難しいことを伝えると、彼女も「私もそれは分かる。私もお年寄りの方を呼ぶときに親しいのでТыを使っても良いのか、それでも相手を敬うためにВыを使うべきか、悩むことがある」と言っていました。ロシア人でさえもこうなのだから外国人の自分にとってはもっと難しいに決まっている。

さて、今日、ジムのサウナに入っていたら、よくある会話で「(熱した石に)水をかけてもいいか?」と一人が尋ねると、もう一人が「おぉ、いいね、賛成だ(Да, я за.)А ты?(ところで、お前は?)」とこちらに尋ねてきました。ときに、人によってはその質問がВы?になることもあるので人によって違うのですね。

会社で部下に対してТыを使用して会話したときのこと。頻繁にコミュニケーションを取っているスタッフで決して遠い間柄ではないと思うのですが、「職場ではВыではなしてください」と言われてしまいました。相手にはそんな近い関係とは思われていなかったのだろうか…。あるいは上司と部下の線引きを明確にしておく意図があったのかもしれません。かつていた経理責任者(Главный бухгалтер、英語Chief Accountant)は年齢も60歳に近く他のスタッフと年齢も離れていたが皆とТыでコミュニケーションを取っていました。一方、今の経理責任者は年齢も部下からそこまで離れていないもののお互いにВыで会話している様子です。大変皆仲良くやっているけれど、Выで呼び合うところに一定の距離とお互いに対する敬意が感じられます。

また、業務上の取引先の方にメールを書くときには、文中であってもвыではなく、ВыとВを大文字にして書くことがよい、とロシア人スタッフから習いました。相手への敬意を表すことになるようです。また、通常はТыで呼んでいたのに、Выに変えると二人の間に何かあったのでは、ということもあるようです。こんなちょっとした短い言葉、ВыとТыであっても大変深い意味がある。こんな部分からもロシア語の奥深さを学んでいます。 ロシア語の教科書では紋切型のВыとТыの使用方法が書かれているように感じられるのですが、実際に使用する場面では、相手に応じてその人のキャラクターや雰囲気を感じる会話能力、対人関係の感覚能力をもって相応しい選択肢を掴んでゆく力が大切と考えています。教科書で学んだこととは違うことが世の中多く、それを実践中です。

一を見聞きして十を想像する感度を / Being sensitive to be quick on the uptake

永田音響設計(http://www.nagata.co.jp/sakuhin/concert_halls.html)の音響設計家豊田泰久氏によって音響設計されたコンサートホール「ザリャージエ」。とても素敵なホールのデザインでした。気になるのは、この方が設計された有名なハンブルグにあるホール”Elbphilharmonie”の音響が決して高い評価を受けていない、という記事(https://gendai.ismedia.jp/articles/-/60008)。私は音楽に疎いため判断はできませんが、このモスクワの現代的なホールの音響に対する評価はどのようなものなのでしょうか。静寂の中にサーっと走る空調設備の音?が耳障りであったのが残念です。

今晩、2018年9月にオープンしたクレムリンのすぐ横に位置するコンサートホール「ザリャージエ(Концертный зал «Зарядье»)にピアノ演奏を聴きに出かけてきました。

「お客様にお願い申し上げます。携帯電話の電源はマナーモードの設定にしていただけますようよろしくお願いいたします。」

いつも演奏会前には必ず聞くフレーズです。すでに日本での記憶が薄いのですが、少なくとも私の経験からすると、モスクワで訪れた演奏会では最低一回は演奏会中に携帯電話が鳴り出すように感じられます。今日は二回ありました。それも、ピアノが静かに余韻を残して演奏を終える曲の最後の部分でいきなり鳴り出したので周りも失笑…。雰囲気が台無しに。

不思議に思うのですが、なぜ演奏会が始まる前のアナウンスで注意を聴いたときに自分の携帯電話を確認しないのでしょうか?

アナウンスの注意を全く聞いていない。

アナウンスを聞いても自分の携帯は問題ない、と決めてかかっている。

演奏会で自分の携帯が鳴ったとしても演奏の妨げにはならない、という価値観を持っている。

と、いくつか理由がありますが、仕事でも全く同じことが言えます。何度注意しても使用後の会議室ではケーブル、椅子が滅茶苦茶なカオスのままとなっている。昼食スペースがゴミと使用したあとの汚い食器が散乱したままとなっている。総務スタッフが何度注意しても、です。ほんのちょっとした原則、「もし、自分が相手の立場で同じことをされたらどう思うか?」「もし次の人がこの状態で来たらこのカオスを見てどう思うだろうか?」、そんなことを想像してみればよいのに、と思うのです。総務スタッフも立派に、定期的にメールでリマインドをしていますが、それだけでは一向に改善されるとは思えません。罰則規定を設けるべきか?それも根本的な解決とはなりません。根気よく、ことあるごとに目についたときに本人に直接注意し、原理原則を合わせて伝えることで改善されてゆくことを待つしかないと考えています。

少なくとも、私の周りには改善を期待できるロシア人スタッフしかいないので、あとは彼らにきっかけを与えられるように、自分に賛同してくれるロシア人スタッフのサポートを得ながら毎日さらに良い会社となるように闘っているところです。

私自身、数多くの失敗を行ってきました。失敗した後には、なぜもっと前にこの潜在的なリスクを正しく認識していなかったのだろう…あの時にアクションをとっていればこんなことにはならなかったのに…と反省し、悔しく思うことだらけです。自社で起きていなくても他社で発生した問題を耳にしたとき、新聞を読んでいて事件が発生したとき、セミナーに参加してはっと思うことを感じたとき。今はたとえ社内で問題が起こっていないとしても、そのようなきっかけを得たときに、“はて、自社は果たして大丈夫だろうか?”と一歩立ち止まって考え、自分自身で納得するためにも自社の状態を振り返ってみることが大切です。この感度をどれだけ高く保つことができるか、ロシアで働く管理責任者としての重要な能力である、とあらゆる失敗を経て今はっきりと断言できます。不完全な人間なので避けることはできませんが、あの悔しさ、悲しさはできる限りもう二度と経験したくはありません…。