ドアを通じて、その人の人となりが見えてくる /  Through the door, people can see who you are

登録しているロシアを代表する建築物を紹介しているYoutubeチャンネルに、モスクワで私が住んでいたアパートが紹介されていました。古い建物で、決して現代的でもなく配管の古さなど問題もありますが、こんな歴史的な建物に住む楽しみもモスクワ駐在ならではの経験だと思っています。

私の隣の家からは、出入りする度にドアのとてつもない音がします「ドカン!」「バタン!」。決して作りが悪くない集合住宅ですが、多少揺れます。あまりにもうるさいです。一体この人はどんな風に生活しているのだろう、と思います。他の階の住人にも同様の人がいるのか、音が響いてきます。それを感じれば、自分自身のドアを閉める音が周りにどれだけ響いているかを想像できると思うのですが。

とても困っているわけではないので何か批判する気持ちがあるわけではありませんが、そういったドアの開け閉め一つを取っても、この人は自分のことだけ良ければいいと思っていて行動がどのように周りに影響を与えているか考えてないのだろうか、いや考えられないのだろうか、なんて考えてしまいます。仕事にしてもサッカーにしても相手のことを考えずに自分のやりたいことをやりたいようにやっていたらまわりから嫌われてしまう。日頃の自分の行動を客観的に見ることの大切さ。大切です。その一つを取って周りの人間はその人を判断していますし、その判断はあながち間違っていないかもしれません。

最近ふと気が付いたのですが、日本ではドアを譲り合う機会がモスクワの時と比べて低い気がしています。日本のスーパーやショッピングモールは自動ドアの割合が高く、それ以外のものを見たことがありません。一方、モスクワのショッピングモールでは回転式の大なり小なりのドアが回っており、そこに人が順番に入り込んでゆくものが大半。住宅街にあるスーパーでは、常に引き戸です。そして、出てくる人、入る人が交互に譲り合って出入りしています。そのため、お店に入る時には常に出てくる人を優先する文化がありました。それに加えて、女性や年配の方にに対して譲る文化は根付いているようで、常にドアを通して相手に譲る意識を自然と植え付けられていた気がします。それでも、常にそうとは限らないのはモスクワでも同じ。妊娠していたロシア人の友人が地下鉄に乗っていたところ、目の前に若い人が座っているのに一向に席を譲ってくれなかったとのこと。それで、自ら「席を譲ってもらえませんか」と言って場所を開けてもらった、まったく今どきの子供は何なの?昔ならすぐに席を譲るのが当然だったのに、なんてちょっぴり怒っていましたが。

遅らく世代や住む場所も変わると日本とロシアも一般的に見られる人の様子に大差ないのではないかな、と思います。都心に近づくほど人も多くなり、生活リズムも速く、ストレスも多い世界。自己中心的になりがちになってしまい、そんな人と遭遇する機会が増えると、決して少なくないはずの善良な人の善行も見えにくくなってしまう。それで都心はひどい、と判断してしまいがち。モスクワから電車で2時間くらいの郊外に遊びに出かけた小さな町では、すれ違いざまに挨拶してくれたロシア人の少年たち。なんていいところなんだ、と思ってしまう。一つの行動がその人の人となりがおおよそ分かる、ということも正しいと思う一方で、必ずしもそうではない、ということも意識しなければな、と。

何だか最近は、隣の方のドア閉め方が優しくなった気がするのです。何をきっかけにして人は変わるのだろうか…。部下の評価をする時に上司が気を付けるべき評価エラーにもつながるものを感じました。

1円を稼ぐことの難しさが分かるときっと行動が変わる / If you find it difficult to earn 1 yen, your behavior will surely change.

モスクワの路上で演奏している人のすごさ。それしか収入の手段がないからかもしれないけれど、少しでも行動することへの尊敬。演奏のレベルは別として、できる限りお金を置くようにしていました。””Спасибо!(ありがとう)”と笑顔と共に返してくれる言葉に、こちらも嬉しくなってきます。

ロシアに駐在する前にはお金のことをほとんど考えていませんでした。自分のお金の管理もしていませんでしたし、投資活動もほとんど行っておらず、現在までの日経平均株価の推移を見ると、もし日本にいたらどれだけ資産を増やせたのだろう、と考えてしまうことも。過去のチャート推移を観察できる今だからこそ、そう言えるのかもしれませんが。

会社で聞く「これからこのビジネスでマネタイズしてゆきたい」っていう言葉は、本当にお金を稼いだことがない人が容易に使うべき言葉ではないのでは、と思う。これは私の実感ですが、定期的にお金が振り込まれるサラリーマンである自分は、1円の価値の重要性を心から理解できていなかったからこそ、お金に対する理解、認識をきちんと持たなければいけないと痛く感じるようになりました。(と言っても、なかなか自分で稼ぐことを経験していないサラリーマンは、会社のブランドを利用してお金を回してゆくビジネスを経験できるチャンスがある点では恵まれており、損益は仮に赤字としても、収入を得る、という意味では実のところマネタイズは容易なのかもしれません)

先日、初めて約200円の収入を受領しました。このブログを購読してくださった方が、このブログ内で私が紹介した商品をリンク経由で購入してくださったからです。本当にありがたく、感謝の気持ちです。このお金は — 自分のビジネスとは言えるものではありませんが — 少なくとも自分で何かをして、それによってお金の動きが生まれて収入が発生した、というプロセスを通して得た初めての収入でした。サラリーマンである自分自身にはこれまで一度も経験のないことでした。今、お金を得るために路上でパフォーマンスを始める勇気がありませんが、今の自分にできることに挑戦してゆくことから得られる何かがあるのだろうなと思います。

今は駐在生活の頃よりもずっと自分のための時間に費やせる時間が増えたこともあって、以前には考えなかったことにも目を向けるようになりました。自分の仕事に打ち込むことは大切ですが、ふとした時にそれによって失っていた多くのものに気づかされることもあります。お金に対する知識もその一つ。どれだけ自分自身に金融知識が無いか、給与明細に載っている税金の計算ロジックを理解できていないか、自分の貯蓄が増えているとしても価値は相対的に減っていたのかなどを考えさせられます。投資と投機の違い、サラリーマンにとっては投資信託が良い選択肢であろうこと、老後2000万円問題という言葉を心配するよりも、まずは自分自身を知ることのほうがずっと重要であることなど、インターネット上に多くの教えが載っているので読んでみたり、Youtubeを車の運転をしながら聴いてみたり。「日興フロッギー」というチャンネルに載っていたセミナー収録をしたシリーズ(Session1~4)は、それぞれの専門家によって、大切なポイントが凝縮されたよい情報だなぁ、と感じています。

資産を増やす、という点ではテクニックを学習することも大切ですが、何よりも原則(具体的には、自分自身を知ること、経済や金融の仕組みを学ぶこと。そう言っている私のすぐ横には、全く読んでいなかった本が置いてあり、本棚から引っ張り出して読んでいるところです…)を理解することがずっと重要だと考えています。

もし全く自分の資産管理や資産運用を行っておらずこれから始めよう、という方にとってはお勧めしたい内容です。これは仕事もそうですし(マニュアル通りに行うことは大切ですが、この業務の目的は何かを理解すること)、読んだほうが良い本についても同じだと思います(最新のビジネス書やハウツー本から学べることも多くありますが、古典を読んでもっと深い部分を考察するほうがずっと有益だと思っています)

身の回りには、年齢を重ねてきて自分のポジションの限界を知り、給与が伸びないことに少なからず不安や不満を抱いている人もいると思います。それでいて、家計簿をつけずに自分の出費の現状を把握していない方、あまりにも高額の携帯電話料金の契約をしていてもそのままにしていたり、出社すると一日に何本もコーヒーやジュースを購入したり…。そうした一つ一つの行動にその人のお金に対する考え方が表れているのだろうと思うと人間観察が面白くなるかもしれません。

人事部が研修内容を決めて提供すべき、という前提への違和感 / Feeling of strangeness with fixed thinking that the Human Resources Department should decide and provide training content for employee

ロシアの小さな子会社にいても、日本の大企業にいても感じること。それは自分のスキルアップを無意識か意識してか分からないけれども他人任せにしがちな人が多いということ。

「会社は私たちをどんな風に成長させたいのかが分からない。」「会社は人材育成の方針を定めてそれに沿って私たちに必要なトレーニングを提供すべきだ。」そんな声をスタッフから受けていました。まったくその通りだと思います。一方で、よくよく考えてみると、本当にそれが正しいのだろうか?とも感じていました。残念ながら、モスクワで勤めていた会社の人事部はまだまだ発展段階で、会社が最低限提供すべきトレーニングの内容を検討し、制度として整備して試行錯誤しながら進めている段階でしたので、声を大にして上記の意見に反発することはできませんでした。

会社が小規模であれば、スタッフの教育を考えるよりも日本人のトップがいて、その下で家族的な雰囲気を醸し出しながら仲良く日々の仕事を回してゆく。そのような規模の会社もまだ多い印象でしたので、人材教育というものについて深く考える必要がある日系企業も少ないのかもしれません。私の知るところでは、とある会社はアウトソース会社を利用して社員向けの専用サイトを作成し、従業員は年間決められた予算内で用意された訓練を自分で選択できる制度であったり、ロシア企業では、全従業員は週に1時間を必ず自分のスキルアップのための時間に充てることが定められている会社もありました。1年間=52週=52時間は必ず何らかの訓練に費やすこととなっていました。人材育成用の専門部署があり、ちょっとした図書室もあれば、従業員の相談を受けられるような部屋が用意されていました。自分が教育を受けるだけではなく、その1時間を他の社員のためにノウハウを教える講習会を自ら設定することもできます。それによって自分自身の知識を整理して資料を作成し、人前でプレゼンするスキルの訓練となるだけでなく、参加者も同じ社内のスタッフから学習できる。社内人材を活用した良い人材育成制度だなぁ、と感じていました。内容によって得点もつくようで、きっとそのポイント数が評価や昇進の指標に利用されるのかもしれません。

さて、人事部は人に関しての専門家である一方、所詮は一つの部門です。何百人、何千人といる従業員のためにできることは限られています。増して、企業の人事部の皆が従業員全体のことを考えて人材教育を熱心に推し進める人だらけか、というと、きっとそんなことはないはずです。会社全体の必要不可欠な人材育成方針を定めるものの、各人の必要とするスキルアップを深く理解して探し出すことには限界があります、たとえアウトソースの専門家も利用した上でも。これは大小問わずにどの企業についても言えるのではないでしょうか。

上述のスタッフからのコメントについては、最低限のことすら提供できていなかった私たち人事スタッフの責任もあることは否定できませんが、果たして個人でも必要と思う訓練を自ら探して提案していただろうか、と振り返ると疑問です。また、スタッフへのアンケートを取ると要望として挙がってきた訓練内容は最低限の英語スキルの向上、エクセル操作方法の訓練といったもの。そういった内容を会社から提供されることを待っている必要があるのか?自分の業務上必要なことはその場で学び、業務の中で実際に試し、失敗し、修正して学習することで自然と身につくものでしょう…と思う自分がいるのも否定できません。

また、あなたの人生でしょ、自分の成長を考えているのであれば自分の興味のあることを自ら見つけてきて、それを会社の負担でできないのか交渉してみるなどのやり取りができるんじゃないのかな?と。こちらからお願いすると彼らも調べて持ってきます。そういったやり取りをする中でスタッフ自らの力も借りた人材育成制度を皆で作り上げてゆく、そんな形が理想なのかもしれません。

健全なのは各人が自分の成長のために自ら努力してそれを会社がサポートすること。本来、会社はスタッフの成長を引っ張る義務は無いはず。従業員のことを「人財」と表現することは私が新入社員の時代から研修でも、他社のウェブサイトを見ていても目にする言葉ですが、突き詰めてゆくと自分の人生、自分の成長、自分の将来は結局自分で責任を持つしかない。会社は決して期待するほどに自分の必要のすべてをカバーしてくれるわけではないのだから。

これは真実だ、と経験から確信していることは、人は本当に必要だと自分で納得しない限りどんなに学習しても習得できないということ。習得できても期待するほどには成果が出ない。しかし、もし本人がそのスキルを必要だと心から認識するとその成果は莫大なものとなる。言い換えると、会社がどんなに体系的な研修を提供しても多くの人にとっては意味の無いものであって、人事部としてやるべきことをやりました、という事実を積み重ねているだけに終わってしまうのかもしれません。個々の人の心の奥底にある引っかかりをいかに汲み出すか、これは本当に難しいことだと実感しています。

各人が気づいていないのであれば、各人の必要を上司が汲み取り、上司がその必要を人事部にフィードバックをする。と同時にスタッフ個人でも自分に必要だと思う研修内容を調査し、人事部に共有する。人事部は(組織である以上は各人の言う要望をすべて受け入れることは難しいために)一定のルールの中でそのスタッフに研修参加の機会を提供する。人事部が主体となるのではなくて、主体的な人たちを陰で支える。本来あるべき人財育成はきっとそんなスタイルなんだろうな、と思っています。

身近なところで人事業務に携わっている同僚からは「会社の教育制度に不平不満を述べる人に見られる傾向は、会社には色々な制度が用意されているにも関わらずそれらを調べずに、”人事部は何もしてくれない”と受動的な人が多い印象だ。」と聞きました。印象的な言葉です。

今の世の中、待っていても情報が入ってくる世の中、会社でも何となく仕事が回っている世界だとすると、いつの間にか受動的な人を世の中は創り上げてしまっているのでしょうか。人材育成は本当に本当に奥の深い仕事です。

出したら片付けよう。(デスクトップ編)/ Let’s put it back where it was after using. (Desktop)

職場の会議で自分のパソコンを利用して画面共有する場面が幾度となく訪れます。画面がモニターやプロジェクタに映し出されて、その方のデスクトップが見えた途端に、「うっ…」となることがあります。デスクトップ上にあらゆるファイルが散乱していて、「えっとー…」と探すことに。どんなに身なりを整えていても、パソコンのデスクトップがごちゃごちゃしていると、きっとこの人の頭の中はこんな状況でタスク管理しているんだなあ…と思ってしまいます。デスクトップはその散乱の様子を実感することが難しいからこそ、各々のビジネスマンの素の姿を示しているのかもしれません。

デスクトップはあくまで一時的な作業場であること。基本的に何も保存しない。ファイルを使ったら元の場所に戻す。日常生活の中で当たり前に行っていることををそのままパソコン上でも行うだけ。

「使ったら元に戻しなさい!」小さい頃には親に怒られたものです。それを同じように自分の子供にも教えている。でも自分のパソコンのデスクトップは無茶苦茶な状態。子供に見られたら子供に何と言われるか想像するとちょっぴり怖い。パソコンのファイルの恐ろしさは、どんなに容量が大きくてもそれを目に見て感じ取ることができないこと。ファイルデータが重くなってきたらパソコン自体も重くなったり、パソコンの画面から何かが飛び出てくるような可視化ができたら面白いのですが。

デスクトップがファイルで溢れ返っているいるとしても、決してその人がいい加減な人だ、とかではなくて、実はそれで上手く回っているのかもしれませんし、その人が仕事のファイルの整理整頓をどれだけ重要視しているか、という価値観の違いでもあるのかもしれません。あとはただただ業務量が多すぎて抱えている仕事が多すぎる、ということも。

私としては、一週間の業務の中で継続して取り組んでいる仕事ファイルは常にデスクトップにあるとしても、その週が一区切りつくタイミングではデスクトップ上のファイルを整理する時間を取り分けることが重要だな、と考えています。どんなに忙しくても。結局、「ファイルが無い!どれが最新版だっけ?」と後で苦しむのは自分自身。そうであれば、その苦しみを避けるために日頃から定期的にチェックするタイミングを設けておくことで大きな事故を防げる。そのルールを固く守ろうと決意したのは、私自身が数々の失敗を経ているからでもあります…。

とりわけ管理業務で数値を管理する人間としては、仕事道具、持ち物、服装その他のものへのこだわり有無は全く関係無しに、ファイリングのルールは徹底するべき。所定のフォルダにマスタファイルを保存し、作業するときだけデスクトップに取り出して編集工する。更新したものを所定のフォルダに保存して古いものは削除するなり、分かるようにして保存しておくなりして整理整頓を徹底する。そこだけは絶対に崩したくありません。(どうしても忙しくて余裕がないと弱い自分が出てきます、それが人間です…。)

日本語のタイトルは好きになれません。英語のオリジナルタイトルは”The Personal Efficiency Program”とシンプルなもので、仕事の整理の仕方、タスクの管理の仕方などの技術的なことに多くの教訓をいただきました。数多くのハウツー本を読んできた中でこの本は今でも手元に置いています。時代の流れと共に、中身が古くなってきているかもしれませんが、その本質は今でも色あせることはなくお勧めの本です。

残業の真逆の評価スタンダード / The opposite evaluation standard for overtime work

日本の企業で働いている方なら同じことを感じる方が多いと思います。遅くまで残って仕事をしていると上司からの評判がよい、他の人も残っているのだから自分ももう少しだけ残って仕事をしようか、という気持ちです。

残って仕事をしている ⇒ 頑張っている ⇒ 仕事に打ち込んでいる ⇒ 素晴らしい ⇒ 心象も高くなり評価もしたくなる

でも、こんな考え方もあります。

残ってやっている ⇒ 仕事の遂行能力がない ⇒ 仕事が出来ない人間 ⇒ 評価できない

どちらが正しいのでしょうか?— 恐らく、両方とも正解だと思います。実際、私たちは自分の能力のレベルに応じて毎日の仕事を一生懸命に果たそうと努力しています。その人のレベルで一生懸命に努力している。優秀な従業員を基準に全ての従業員を評価すべきではありませんし、優秀な従業員には相応の報酬や立場が与えられるべき。決して処理能力は決して高く無いけれども真摯に努力している人がいる。そのような姿勢は評価されるべきでしょうが仕事の遂行能力がない、ということも事実。現時点ではそれ相応の評価に留まっても仕方ないかもしれません。でも、その努力を継続する時、将来に大きく花開く可能性が十分あります。(その頑張りを絶やさずに継続できること。これこそが大きな能力でもあります)

さて、ロシアで勤務していた当時ですが、終業時間になると、ほぼ残業せずにさっと帰ってゆく経理部門で働く女性スタッフがいました。その女性スタッフの上司は彼女を高く評価していました。仕事が早くて間違いも少なく正確だと。毎日定時で仕事を終えて帰ってゆく彼女に、「もっとできることがあるのでは?」と言うと、

「いつまでも残って仕事をしているのは能力がない証拠だ。早く帰ることは何も悪いことではない。やることをきっちりやっているのだから。」という答えが返ってきました。

全くその通り。

となると、なぜ会社に来て、終業時間までオフィスにいなければいけないのか、そもそもの就業時間の定義にも直結してくるテーマかもしれません。どんなに仕事をこなしても帰れない…いつまでも残らざるを得ないとすれば、これは能力だけではなくて、仕事の業務分担そのものに何か理由があるのも確かでしょう。オフィスにいると、どんなに早く来ていても、周りがまだ仕事をしている中を一人で帰るにもぺこぺこして帰宅する雰囲気。昔ほどではないのでしょうが、今でもそのような雰囲気は残っている気がします。何となくこの時間帯になるとぞろぞろと人が立って帰宅し始める時間帯のラインがある気もします。不思議です。

日本に帰国してタイムカードでの勤務管理に戻り、毎月の給与明細を確認するようになり、こう思います。残業代は重要だと。残業代を日々の生活費の一部として考えている人は少なからずいるだろうなと。その一方で、残業代を無くすと人の働き方はどう変わるのだろう?という関心があります。残業代を目当てにしてしまうと、決して高くもない残業代を得るために二度と帰ってくることの無い自分の時間が失われてゆく、という考えもできます。自分の仕事を終えたら退社する。その分自分への投資のために時間を使うことが有効だ、という主張は理解できます。難しいのは、自分で「投資」をしたとしても、それが将来に確実な報いとして返ってくる保証が無いこと。そのために自分のエネルギーと時間を費やし続けることに疑念を抱いてしまうことだってある。いつもポジティブな意識を保つことはアニメ、ドラマ、映画のようにはいかないのが実世界。どうあっても、最終的には、自分の人生は誰も代わりをしてくれない。自分のものである、自分が納得できる人生を送りたい、そのことを第一にして会社や仕事と向き合うべ木であると今は信じています。そう考えると、日々の仕事へ向き合う姿勢や無用な残業を避けるために集中して仕事に入り込むようになります。いくら同僚とのコミュニケーションが大切だと言っても、生産性のない話を30分以上も続けて、それでいて残業申請をしている人を見ると、会社のお金を盗んでいるのでは、と思いたくもなります。別の言い方をすると、ロシアへ行く前にはいつも周りの帰宅を見計らって帰り支度をしていたような、かつてはそんな受動的な私でした。

ロシアで勤務していた時には、終業時間を過ぎてもなかなか仕事を終えずにパソコンに向かっている部下がいると「さあさあ、もうこんな時間だ、仕事終えて帰ろうよ。」と呼び掛けていましたが、「XXXさん、まだ仕事が終わっていないからダメです。これだけは終えてから帰ります。」そんな回答が来ると感動してしまいました。とりわけ、周りからはミスも多くて仕事が出来ない、と評価されていたスタッフからそんな反応が返ってくると、内心では「偉い、頑張ってくれ、そして周りを見返してくれ」と応援している自分がいました。短期的には評価されずとも、その頑張りがいつか花開く時が来るかもしれません。いや、来ないかもしれません。それは誰にも分かりません。だからこそ人というのは面白いものです。短期的には評価が低くても長期的に見れば努力が実り見違える人もいる。一方で短期的には優秀でも徐々に能力が衰えてゆく人もいる。努力をしているのだけれどいつまでたっても実らないひとも。残業一つをとっても評価が180度変わってくる。結論が無いのですが、人って奥が深い。その一言に尽きます。

仕事のスキル自体は周りと比べれば劣っているとしても、社内に緊張感が張り詰めている時にその雰囲気を和らげる能力を発揮し、難しい場面でも自ら進んで協力してくれる。そんなソフトスキルも含めたトータルでのその人の”能力”が正当に皆に評価されるとステキな会社になりますね。上述の周りの同僚からの評価が低い女性スタッフはそんな女性でした。

※私の知る限り、ほとんどの剤モスクワ日系企業は法律で認められている、Irregular working hoursシフトを採用しており、それは最低3日間以上の有給休暇を従業員に付与することで残業代の支払いを免除されています。ですから、従業員にとっても残業をする意義が日本に比べて全くありません。仕事はあくまで生活を支えるために資金を得るためのもの。仕事をあるべき場所に置いて、それ以上に家族との時間や自分の好きなことに費やり生活を充実させる — これが本来あるべき私たちの生活のはずだと思うのですがいかがでしょうか。

モバイルモニター(UNIQ UQ-PM15FHD モバイル液晶モニター プロメテウスモニター タッチパネル機能付)、おすすめです

家でモバイルモニターを利用しているところ。家の中でもかんたんに第二、第三の仕事場を作れます。ぜひお試しあれ。

今、使用しているモバイルモニターはUNIQ社の15.6インチモニター、UQ-PM15FHD。サイズは決して大きくないのですが重宝しています。モニター用途の一つの重要性は、通常デスクに置く大き目のモニターでエクセルを操作するだけでなく、手元に置き、ノートをめくる感覚で資料をスクロールできること。この点で、モバイルモニターは電源をPCから取るのでケーブル一本だけで済むこと。製品自体も決して重くはないので持ち運びが容易であること。カフェや外でパソコン操作する時にもかさばらずに持って行って利用できます。家の中でも、メインの仕事部屋以外でパソコンをいじっていて外付けモニターが欲しいな、というちょっとした時。このモニターをUSB-Cケーブル一本でつなげると、そこに仕事場が生まれます。

製品スペックの詳細についてはこちら

家では他に大きなモニターも利用していますが、このモニターの使用頻度は高く、とりわけ気に入っています。

この会社のオンラインショップを見ると、ユニークな商品を取り扱っていました。こんなものがあったらいいな、というものがさらにこれからも世に出てくることが楽しみです。

モスクワで勤務していた時には、タッチパネル機能が無いモバイルモニターを購入し、オフィス内で場所を変えながらパソコンと一緒に持ち運んでいました。タッチパネル機能を必要とするかは人に依るものと思います。実際のところ、私の意見ではタッチパネル機能ががあるからこそモバイルモニターの良さが生きるのかな、と感じています。手元で自由に動かせる。ウェブサイトも上下に手で自由にスクロールできる。メールもマウスを使わずにササっとと過去のメールをスクロールできる、便利です。この手元でのノートや本のような操作感覚でモニターを使う、これがポイントです。

この商品の後にも良い商品が次から次へと発売されていますし、他社製品と複数のモバイルモニターを比較したわけではないため、この商品がベストです、と断言することはできませんが、使用してきた経験に基づけばこのモバイルモニターはおすすめできます。画素数も高く、ウェブサイト閲覧やメール、エクセル、ワードといった、仕事で使用するアプリケーションの利用などには十分の機能を持っています。

タッチパネルの有無は人によって重要ではないと思うのですが、モバイルモニターに関わらず、私自身にとってはタッチパネルの機能は重要です。ノートに代わるものであるPCを少しでも直感的に利用するために自分の感覚で画面操作ができ、マウスのカーソルがどこに行ってしまったか分からない時には画面をタッチすればひとまずそこにカーソルが戻ってくる。思うように画面の大きさを拡大・縮小できる。キーボードでの操作もできるし、空いている手でも操作が可能。今のところ個人用として愛用しているMicrosoft社のSurfaceシリーズの画面の綺麗さ、タッチパネル機能を越える他社製品に出会ったことがないのですが、次回の買い替えの時には内を選択するか、今では選択肢も多くなっており楽しみです。

IT機器はYoutubeでも多くの方々がそれぞれの観点でお勧めの商品を勧めていますが、まずは自分のIT機器の活用方法を整理して、自分にとって大切なものはなにか?この点を明確にすることが大切だと感じます。人の意見に流されずに自分にはどんな機能があったら嬉しいだろうか、どのように活用したいか、この点をよく吟味したうえで、相応しいものを選ぶ。どんなに大勢の人が勧めているからといっても、必要のない全く使用しない機能だらけの機器を購入するのは何だかもったいない気がします。また、個人用のパソコンは会社支給のパソコンとは違って自分で選べるもの。所有していて、見ていて、実際に使っていてワクワクする — そんなデザインの部分もけっこう重要だったり。そんなわけで、私自身はデザインも素敵で、タッチパネル機能付きのこのモバイルモニターに買い替えて正解でした。

(ロシア人 + 日本人)/ 2 = 完璧? / (Russian + Japanese) / 2 = Perfect?

最近、ベラルーシの友人とZoomで定期的に会話しています。首都ミンスクから離れた地方都市に住んでいることもあってか、インターネットが不安定なこともあるようですが、今起こっているベラルーシでの現政権に対する抗議行動の喧騒からは離れて、比較的静かな生活を送ることができているのだとか。

ロシアにいて尋ねられる質問の一つに、「中国人、韓国人、日本人の見分けがつくか?」というものがありました。我々日本人が、ロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人の見分けがつくのか?という質問をロシア人にするのと同じかもしれません。外見が似てはいても、国民性が異なるというのは両者で共通するテーマと思います。

ベラルーシ人の彼に言わせると、ベラルーシの人はロシア人よりもおとなしく、直接的な物言いを避ける傾向にあるようです。Ты догадайся о чем я думаю. (こっちがどう思っているか分かってくれよ。)なんてよく言ったりする。相手に言いたいことを直接言わずに、でもこちらの思っていることを分かってほしいために遠回しに言うことがある。ロシア人とベラルーシ人の中間がベストだね、ということでした。これはあくまで個人の意見であるため、これでもって全国民性の定義はできませんので真実は分かりません。ただ、複数の人から同じことを聞くので、決して個人的な思い込みではなさそうです。Youtubeでは綺麗に日本語を操るネイティブの方々が語る様々な動画があるので、きっとそういったネイティブの方の意見も十分な説得力があると思います。私自身、ロシア人と日本人の性格を足して2で割ったら、きっと良いバランスになるだろうな、と思っています。

その友人の妹がドイツに行き、帰国して言ったことは「ドイツは本当に素晴らしい国だ。よく整備された国。けれども、人々は今の経済が悪くなることを恐れている、仕事を失ってしまわないか怖がっている」と。恐らく日本でも同じように大なり小なり同じような認識を持っているのではないでしょうか。私自身、帰国して客観的に自分の生活環境を見て特に感じるのは、今の安定したやり方、環境を守ろうという意識が強いこと。今の状態でも課題はあるけれども、でも大きな問題ではないはず、そんな雰囲気かもしれません。変化、というものに対してなかなか良いイメージがない。きっと日本がというよりも、どの国でも変化というものには敏感でしょうか。とりわけ、「日本は安定していてすごい。」とロシアの人の多くが訴える日本の”良さ”。その安定さを否定的に見ることはよくないのかもしれません。どうしてもその危険性ばかりに目をやってしまうのですが…。

今の状況を問題視しないとすれば、きっと、それはその人の環境がそれだけ整備されているからなのかもしれません。やっぱり日本はすごい。たまにおかしな光景を目にしてショックを覚えることもありますが — つい最近、朝のマクドナルドで座っていたら、注文をしているおばあちゃんの声が向こうから聞こえていましたが、突然声を張り上げて、「こ・こ・で・食・べ・て・ゆ・く・の。私はいつもそうなの!」しばらく沈黙のあと、「あなた今笑ったわね!見えないところで笑うならまだしも、人の前で笑うなんておかしいじゃないの!なぜ笑ったの!」と。その後も冷静に対応している店員とのやり取りの後、そのおばあちゃんのところに店員が注文品を持ってくると、「この400円泥棒!」と捨て台詞を吐き捨てるように浴びせていました。何があったかよく分からないのですが朝から強烈…。赤信号でも関係なくゆっくりと横断歩道を渡るおじいちゃん。それをじれったそうに待つ青信号側のドライバー。高齢化社会の日本は恐ろしい時代に突入してゆくものだと、そんな断片を感じました。 — これだけの経済大国を作り上げた日本。一方で、同じ時間に世界の別の場所で起こっていることとのギャップに少々戸惑いを覚えます。静かに人々が暮らしているように思えた、あののどかな雰囲気のベラルーシで今起こっていること、ロシアでも反プーチンの代表的な人物であるナヴァリニィ氏の呼びかけた反政府活動により各地で大きな暴動が起き(モスクワに駐在している人曰く、デモが起こっているのは局地的なものであり、その場所以外は落ち着いているという)、ナヴァリニィ氏の組織に所属してこの反政府活動を扇動したとして知り合いの息子さんは現在自宅軟禁状況だという。友人の母親はコロナウィルスで亡くなり、お世話になっていたご夫婦や友人の奥さんは共にコロナウィルスで重症となり救急治療室に入っていた、身近なところでもこんな様子を耳にしています。

ロシアはこれまでも、今も、きっと将来も安定、という時代が来るとはとても想像ができませんし、経済的にも家族、親戚同士で助け合わないと生活が難しい状況。だからこそ、今の時代においては逆に強いのかもしれません。元々安定した土壌がない中で、なんとか日々の生活をやり繰りしてゆかなければならず、政府にも頼れず、信じれるのは自分のみ。そんな環境にいれば、これからますます不透明さを増すであろう世界においてもショックも少なく立ち向かえるのかもしれません。これまでは決まったことを一生懸命にやっていれば、会社も成長し、自分の生活が向上し、国も成長してゆくことを実感できたはずが、これからはきっと自ら変化してゆかなければ取り残されてしまう。専門家の言うことも果たしてどこまで信じてよいのかが分からない。自分で考えながら生きてゆくしかない。日本は(世界全体が?)きっとこうなってゆくに違いない。少なくともそんな土壌がロシアには備わっている。その中でたくましく生きている人たちから自分自身も刺激を受けて、自らの環境でできる変化を生み出したいな、とそんな風に友人との会話を通して考える機会となりました。

EACは難しい。その一言に尽きます / EAC is difficult. That’s just one word.

海外で生産した商品をロシア国内に輸入して販売する場合、各商品ごとに定めている技術規則をパスした商品のみ輸入が可能であり、認証されたことを証明するマークとしてEACがあります。このEACは非常に難しい。その一言に尽きます。

ルールは昔からありますが、かつては、ロシアに輸入する商品にあたって必要とされているはずのサンプル品の輸入、試験といったものが徹底されておらず、申請書面だけで認証を受領することもできて無事にEACマークの取得ができた時代もある、と聞きます。今ではどの認証機関でも本来の規定に沿ってチェックするようになった、規制が厳しくなったというよりも、本来あるべき状況にようやくロシアが追いついてきた、とも言えるのかもしれません。

規制の適用範囲が異なる商品群に広がっており、認証対への負担はなかなか実務担当者以外の人には分かりづらい、計り知れないものがあります。認証の専門業者に問い合わせをしても明確な答えが返ってこないことも。専門であるはずの彼らですら、対応すべきことが新しいために前例がなく分からない、あるいは憶測で回答を出すしかない様子。ビジネスを中心に取り扱うロシアの新聞を読んでいても定期的に話題として挙がっていたことを覚えています。「業界団体は当局への規制適用期限の延期を要望している」というくだりで終わっている記事もありました。実際にEACの業務をロシア人スタッフとひたすら行っていた日々を振り返ると、その単調な言葉も「今の状況ではとてもじゃないけど有効期限までに間に合わせることは無理だ!勘弁してくれ!」という、その業界の担当者一人ひとりの叫びが紙面から伝わってきたような、そんな気がしました。

モスクワにはジャパンクラブという法人や個人が会員となって形成されている商工会議所があり、そのメンバーが集まってEACに関する問題を議論する会合が設けられることがありました。日本を代表する企業のモスクワ子会社に勤めるロシア人スタッフたちが集まり、情報交換や、各社からの要望を集めてロシア当局へ伝える、そんな場がありました。私自身の感想としては、EACについて日系企業だけで議論しても、情報の中身が乏しくなりがちで、どうしても有益な議論にならないこともある、そんな印象を持ちました。

欧米系の企業からも幅広く情報収集することが効果的

欧米系の企業が集まっている欧州ビジネス協会(通称AEB)という商工会議所が存在します。この協会も利用して会員である欧米系や韓国系企業との情報交換をすることはお勧めです。

欧米系の会社は日系企業よりも長くロシアのビジネスに関わってきた歴史があると思います。それだけロシアにある子会社の熟練度も違いますし、現地のロシア人マネジャーにも経験のある人々が多いのではないでしょうか。そういった観点で見ると、欧米系の企業と情報交換をすることにデメリットはないと思っています。Working groupが設けられており、異なったテーマで協会のメンバー企業たちがグループを作って定期的に会合を持って情報交換や議論をする場が設けられていました。EACのテーマでは、著名な欧米系企業や韓国系企業のベテランたちが集まり、EACの分野で長い経験を持っていながらにしても、あーでもない、こーでもない、いやきっとこうに違いない、これは質問を当局に投げてみよう、一度ドラフトを書くのでメンバー企業はその内容でOKかチェックしてくれ、うちはこうしている、いやうちはこんな風に対応している、といった議論が続きます。それだけEACの規定というものは、こうにも読み取れるし、いやそこまでは要求されていない。ではどこまで対応すべきなのか?そのバランスの見極めが…難しい。

規定ではないけれども、Recommendation、という形で罰則は無いけれども”かくかくしかじかの対応をされるであろうことが望まれる”というオフィシャルのレターが発行される。罰則はないから必ずしも守る必要はないのか、いや、こうしてレターが発行されたからには対応しておいたほうが良いだろう…そんな風にロシアでもしっかりと忖度の風土が広まっています。

EACを管轄する政府機関を代表する男性がやってきて、今後のEACの展開を話してくれたときのこと。上に立つ人は、実務的な具体的内容に精通していないことはあるとしても、あまりにも曖昧な内容、かつ、酔っぱらっているのかとでもいうかのような呂律が回らない状況。それを聴衆は真剣に聞いています。こんな人に質問を投げかけてもまっとうな回答が得られるわけがない。各企業の現場の人たちは一生懸命に法律への対応に向けて日々努力している中で、当の管轄部門代表者は「詳しいことは今後お知らせできるでしょう」…いや、あなた何も分かっていないでしょう。

どのような形で情報を幅広く取り入れるにせよ — 高額ではあっても会費を払ってAEBの会員となること、認証分野を専門的に勉強してきたスタッフを雇い入れること、信頼のおける認証専門業者に一任すること — それぞれの状況で正解は異なるかもしれません。どのような場合にしても、まだ会社設立から年数がそれほど経っていない、会社規模も中小規模の日系企業が集まるモスクワにおいて、情報収集の幅を日系企業間からさらに外へ広げることが大切、それに見合うだけのメリットがあると思っています。AEBで言えば、個人的に相談できる間柄になれば、日頃からメールでやり取りをして情報共有ができるでしょうし、なかなか聞けない情報も教えてもらえるかもしれません。目の前の課題への対応方法にも選択肢が広がります。EACの対応現場では最終的にロシア人スタッフに頼るしかないので、会社のマネジメントとして出来ることは彼らが活躍できる場を提供して、その中でスタッフに活躍してもらうことになるでしょうか。その場を整備するためにも、自社だけで何とかしようとするのではなく、幅広く外部の企業と情報を共有することが有益であろうと思っています。日系企業に留まらず、幅広く他国の企業に勤める人たちとの交流は日本にいては得られないチャンスでもあり、日系企業とは異なる企業の様子も伺える良い機会になることに違いありません。

経験を振り返ると、EAC業務がどれだけ骨の折れる仕事か、どれほど時間がかかる仕事であるか、それにより会社にどんな潜在的なリスクが生じるのか(EAC認証の取得が間に合わないために商品の輸入が遅れて販売の機会損失を招くなど)といった点を周りの人に理解してもらうことはなかなか骨の折れる仕事です。規制対応の大変さ、その負担の大きさ、懸念されるリスクを見える化して、上司や日本の本社に対して丁寧に説明してゆく地道な努力の積み重ね。それしか方法がないのでは、と思っています。

(この記事は私が駐在員生活を送っていた当時の経験を基に私の主観で記載しております。直近の情報を反映していないため、最新の状況を確認することをおすすめいたします)

これからは、上手に”怒り”をコントロールできる人がますます重要に。/ From now on, it is more and more important to control and make use of “anger”.

どんなに周りが自分の苦労に同調してくれても、どんなに理由があるとしても、会社では手や言葉による暴力をふるってしまった時点でどうしようもなくなることがある。それを駐在生活の間はよく認識しておかないといけない、と思う。ひどいスタッフはそれをこちらを挑発するかのような態度でふるまってくる人がいるのが余計に悩ましい。他の仕事でも負担がかかっている中でそのような場面に遭遇すると、どれだけの人は自制を働かせることができるのだろうか。私自身、感情のコントロールが難しい場面に何度か出会いました。

大企業では往々にして”人間ができている”方が多い気がするので、怒りを誘うような、むしろ挑発してくるかのような人に出会う機会は、全体の組織に所属する人の総数に比べると少ないのだと思います。しかし、外国に出て、小さな規模の子会社ともなると、そのような人間に出会う可能性が一気に高くなる。日本では有名な大会社の子会社と言っても、ロシアに進出している日系企業の多くは従業員が100人にも満たない小さな企業。私が駐在していた時期には、主要な日系メガバンクをはじめ、創立10周年を迎える企業が続くようなまだまだ歴史も浅い日系企業。まだまだ会社の文化やロシアでの管理部門のノウハウも積み上げ中、という会社がほとんどと思われます。そういった所へ、ロシアといってもモスクワ育ちの人もいれば、モスクワとは全く異なる環境の町で生まれ育ちモスクワへやってきたロシア人もいれば、日本の大企業に入社するような家庭環境とは全くことなる環境で生活してきたスタッフもやってきます。一般スタッフの試用期間は3か月と決まっていますが、よし、良いスタッフを見つけたものだ、と思いきや、3か月の試用期間を経て正社員契約をしてからは手のひらを返したように全く使い物にならない、そんな悩みも耳にしたことがありました。

今となってはすっかり業務の負担も減り、ずっと気持ちが穏やかに過ごすことができていますが、人間というものは毎日何かに追われ続けていると、ちょっとしたことにもイラっとしてカチンと来ることがあるようです。

「もう今の状況じゃ出来ません、あまりにも仕事が辛すぎます。人が足りません!」と部下の経理マネジャーに言われた時には、思わず机をバンっと叩いてしまいました。相手もびっくりした様子で引いていた様子だったことを思い出します。「いや、こっちだって大変なんだ。できることは出来る限り手伝うけれども、まだ改善の余地はあるでしょう、できることがあるでしょう」と。それからどれだけ経った頃だろうか、急に呼び出されて「実は、転職先が決まったので辞めます。私には今の立場が向いていない。私はマネジャーは務まりません。」と言って彼女は去ってゆきました。机を叩いた頃から関係に亀裂が入った、ということはなく、その後も彼女が退職を切り出すまでの間も、彼女が退職したのち、私が帰国したのちも連絡を取り合ったり、という間柄なので、今でも、そう、今でもあの行動が原因ではなかったはずだよな、と思っているのですが。とにかく、私も彼女もあまりの膨大な業務量に疲れ切っていた…それだけは確かです。

敢えて怒りを誘う場面に遭遇する訓練が必要とは言わないけれども、そのような場面に遭遇した時、自分の心拍数がどうなるか、どんな表情をして、どんな風に顔の筋肉がひきつって、どんなに呼吸が乱れるのか、自分を客観的に観察することは重要と思っています。私自身は、外国に出てみて自分自身がかなり感情に流される傾向があるな、と。メールの言葉にも出るし、態度にも言葉にも感情が乗り移ってしまう(だからこそロシアでロシア人相手に喧嘩できたのかも)。後で後悔することもあります。まだ赴任して1、2年目の頃でしょうか、本社のコンプライアンスから、「現地スタッフから、上司のXXXさんによって言葉の暴力を受けている、との通報があった」ということで、私が書いたメール文章すべてが送られてきたこともありました。

「日本語だととても言えないことも、なぜか英語だとつい言ってしまうんだよねぇ…」とつぶやいていた知り合いの方の言葉を思い出します。言葉というものは恐ろしいものです。その方にとってはそれが一つの怒りのコントロールだったのかもしれません。きっと、言われた側のスタッフも、英語はネイティブではないのでそこまで強烈に受け止めなかったのだろう、と解釈することにしました。

私は今の会社の中だけで日本国内を転々とし、それからロシア勤務を経て今に至りますが、今日本の職場でこう感じます。同じ環境で似た者同士が集まり、同じ場所でずっと過ごしていると、自然と自分の枠組みが決まってゆき、自分自身の思考の型がいつの間にか凝り固まってしまう危険が限りなく高い、と。それが当たり前と思ってしまい、その枠から飛び出すことがいつの間には難しくなっている。国内を転々として現場にいた頃の大きなメリットは、その土地でしか出会えない人との出会いによって自分自身の常識が揺さぶられること。朝からお酒の匂いを漂わせてやってくるおじさん。彼女と同棲を始めてしばらくしたら、自分の貯金が空になっていてどうにもならなくなってしまった話を自嘲気味に話してくれた男性。暇な時間があれば職場で自分の彼氏の悩みを打ち明けだす女性社員。生まれてからずっとその土地から出たことがない人たちと打ち解ける大変さだったり、知識だけは持っていて実務経験のない、外部からやってくる新人たちを受け止める熟練社員たちの気持ちなどを実感として経験したり。周りにも同じような環境の人たちに囲まれていて、会話の内容も仕事のことが中心になってくると、考え方も考えそのものも自然と同じようになり、結果的に多様性を大切にするはずが多様性がなくなってゆく。そして、怒りへの対処方法を学ぶ場所も自然となくなっていってしまうのではないだろうか。

怒りのコントロールを上手にできる人はますます重要になってくるだろうということは間違いない。怒りのコントロールは日頃から自分のメーターを管理して、自分の怒りのポイントを学んで、それをどうしたら改善できるのかを学ぶこと。次にその場面に遭遇する時にも自分をコントロールしやすくなる。怒りを感じる時はけっこう急にやってくるものだ。あと、自分の思っていること、感じていることは素直に外に出したほうがよい。それを溜めてしまうと、その反動はあまりにも大きいだろうから。人によっては暴力に訴えてしまったり、精神的な病を患ってしまうのかもしれない。

昔、学生時代にバックパッカーとして旅していた時のこと。顔を見るなり、あっちにいけ、という身振りでモノを売ってくれなかった人もいましたが、私が日頃感じる怒りのレベルは、世界で迫害されてきた人種、民族の歴史と比べたら本当にちっぽけなもの。今もこれからも、自分の出会う範囲の中で感じる感情の起伏と向き合い、感情、特に怒りのコントロールを上手に次への原動力に変えられるようになりたいものです。これからもきっと見つかるであろう、自分の感情の新たな発見を想像しながら。

今でも日々の業務で思い起こす上司の教え / The lectures of my boss that I still remember in my daily work

これを読んでいる若手の皆さんも、これまで出会ってきた上司のもとで、その上司ならではの教えを受けてきたことと思います。それを人によっては苦労を重ねてきた、というのかもしれませんが。私も異なるタイプの上司の元で過ごしてきました。どちらかと言えば、私は怒鳴られたり、「お前はなっとらん!」と言われて育ってきたタイプです。今の世の中で見られる、褒めて育てる、出来る限り厳しいことは言わずにことを荒立てずに部下を上手く育てる、雑談で雰囲気づくりをして…といった風潮とは縁が無い世界で育ってきました。それで、今の職場でそのような環境に身を置くと何とも落ち着かない気持ちになります。人の成長にはその人それぞれにふさわしい方法があり、世の中で正解と言われる方法が決して全員に当てはまらないこと、自分が相対する相手の成長にとって何が最も効果的な方法であるか、自分で考え、判断することが求められています。何だか、日本の部下のマネジメントはロシアよりもずっとずっと複雑で難しいことかもしれません。表面上は良いのですが、内面では何を考えているのか、ロシア人スタッフと接する時よりも察することが難しく感じられます。

さて、こんな私がこれまで接してきた上司から学んできた教えの中で、特に今でも日常業務の中で意識させられる大切な教訓を書き出してみました。

報告書の書き方

毎月作成する実績レポートのコメントを書く時にはその言葉の背景にいる人を考えること。例えば、「部品の供給不足により目標生産台数の未達。」これは事実以外の何物でもないのですが、それを読んだ上の人がどう思うか考えてごらんなさい、私の書いたコメントによって、それを読んだお偉い方がその部品供給のために尽力している担当者を非難していることにならないだろうか?その担当者は一生懸命にやっているものの不可抗力のために供給が間に合わない状況かもしれない。自分の書く一文が与える影響、背景を考えながら文章を書くように、ということを学びました。ここで私が理解したのは、コメントを書くスペースは限られており、上記の事実以外を補足出来る要素もない。そうだとしても、その上司は他の担当者が努力している姿を知っているからこそ、何も知らない私が一言が”部品供給をしてくれない部門が悪いのだ”とも読み取れる、そんな一言を簡単に書くことの危険を指摘し、その背景にある事情まで汲み取る努力をするように、という点を指摘をしたのだと理解しました。

コメントを書いたら声に出して読んでみること

これは今でも忘れがちになってしまうけれど、守りたいとても大切な教えです。頭の中で反復して確認。よし、このコメントで大丈夫。そう思っていても、声に出して聞いてみると、あれ…何か変だな、と思うことってあります。一人であれば自分で声に出すしかありませんが、それに加えてさらに良い方法は、隣にいる同僚に自分の書いたコメントを読んでもらって、意味の通らない部分がないか?分かりやすいか?を尋ねてみることです。

メールの宛先はToとCCを正しく使い分けること

複数の人が宛先に入っているメールを送る時、メールのあて先はToとCCを正しく使い分けること。メール送るときには、各相手のメールアドレスを必ずToとし、それ以外の人のアドレスはCCに入れるように。これを厳しく指導されました。受信メールを確認する時には、CCで届ているメールを読む優先度が下がる、時には内容チェックする無視することもある。Toで届くメールとCCで届くメールとではその重さが違う、ということを教えていただいた気がします。

自分が提出したレポートの中身を深く追及されたときの私の曖昧内答えに「ふざけるな!明日の朝一番に来なさい!」と言われ…50人くらいが陣取るオフィスの目の前で、気が付けば3時間くらいだろうか、説教されたこともありました。今となってはいい思い出です。「あなたの価値はなんなのか?今の仕事のやり方をしていたら、いつの間にか使われるだけの人間になっちゃうよ。」

そんな上司とも、私が次の部署に異動する時には送別会を開いていただき握手してお別れしました。つらい期間と思ったことも、今は教えられたことが自分の軸になっている。今は辛い、と思えることでも、後で振り返ると「今は出来るようになっている。何であの時はあんなに苦労していたんだろう?」なんて言っている将来の自分がいます。人生その繰り返し。終わりなき成長への道をひたすら歩んでいるようです。とある日には、帰宅途上の車の中で悔し涙が自然と流れてきたこともありました。「なんでこんなこともできないんだろう…」あの悔しさが成長への原動力となっていた気がしています。

上司が指摘する内容は、きっとその上司が先輩から受けてきた教育であったり、自身が失敗から学んだことを踏まえたものであるはず。その上司の仕事人生の価値観が詰まっているとも言えそうです。今の世の中、単に部下を虐げる上司もいるので、すべてに置いて上司は正しく、いつも私のことを思って言ってくれているんだ、という考えは危険なのかもしれません。ただ、もし上司の言うことに、部下のことを思って言ってくれている愛を感じる部分があれば、きっとそれは上司の期待に応える良いチャンスかもしれません。