モバイルモニター(UNIQ UQ-PM15FHD モバイル液晶モニター プロメテウスモニター タッチパネル機能付)、おすすめです

家でモバイルモニターを利用しているところ。家の中でもかんたんに第二、第三の仕事場を作れます。ぜひお試しあれ。

今、使用しているモバイルモニターはUNIQ社の15.6インチモニター、UQ-PM15FHD。サイズは決して大きくないのですが重宝しています。モニター用途の一つの重要性は、通常デスクに置く大き目のモニターでエクセルを操作するだけでなく、手元に置き、ノートをめくる感覚で資料をスクロールできること。この点で、モバイルモニターは電源をPCから取るのでケーブル一本だけで済むこと。製品自体も決して重くはないので持ち運びが容易であること。カフェや外でパソコン操作する時にもかさばらずに持って行って利用できます。家の中でも、メインの仕事部屋以外でパソコンをいじっていて外付けモニターが欲しいな、というちょっとした時。このモニターをUSB-Cケーブル一本でつなげると、そこに仕事場が生まれます。

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家では他に大きなモニターも利用していますが、このモニターの使用頻度は高く、とりわけ気に入っています。

この会社のオンラインショップを見ると、ユニークな商品を取り扱っていました。こんなものがあったらいいな、というものがさらにこれからも世に出てくることが楽しみです。

モスクワで勤務していた時には、タッチパネル機能が無いモバイルモニターを購入し、オフィス内で場所を変えながらパソコンと一緒に持ち運んでいました。タッチパネル機能を必要とするかは人に依るものと思います。実際のところ、私の意見ではタッチパネル機能ががあるからこそモバイルモニターの良さが生きるのかな、と感じています。手元で自由に動かせる。ウェブサイトも上下に手で自由にスクロールできる。メールもマウスを使わずにササっとと過去のメールをスクロールできる、便利です。この手元でのノートや本のような操作感覚でモニターを使う、これがポイントです。

この商品の後にも良い商品が次から次へと発売されていますし、他社製品と複数のモバイルモニターを比較したわけではないため、この商品がベストです、と断言することはできませんが、使用してきた経験に基づけばこのモバイルモニターはおすすめできます。画素数も高く、ウェブサイト閲覧やメール、エクセル、ワードといった、仕事で使用するアプリケーションの利用などには十分の機能を持っています。

タッチパネルの有無は人によって重要ではないと思うのですが、モバイルモニターに関わらず、私自身にとってはタッチパネルの機能は重要です。ノートに代わるものであるPCを少しでも直感的に利用するために自分の感覚で画面操作ができ、マウスのカーソルがどこに行ってしまったか分からない時には画面をタッチすればひとまずそこにカーソルが戻ってくる。思うように画面の大きさを拡大・縮小できる。キーボードでの操作もできるし、空いている手でも操作が可能。今のところ個人用として愛用しているMicrosoft社のSurfaceシリーズの画面の綺麗さ、タッチパネル機能を越える他社製品に出会ったことがないのですが、次回の買い替えの時には内を選択するか、今では選択肢も多くなっており楽しみです。

IT機器はYoutubeでも多くの方々がそれぞれの観点でお勧めの商品を勧めていますが、まずは自分のIT機器の活用方法を整理して、自分にとって大切なものはなにか?この点を明確にすることが大切だと感じます。人の意見に流されずに自分にはどんな機能があったら嬉しいだろうか、どのように活用したいか、この点をよく吟味したうえで、相応しいものを選ぶ。どんなに大勢の人が勧めているからといっても、必要のない全く使用しない機能だらけの機器を購入するのは何だかもったいない気がします。また、個人用のパソコンは会社支給のパソコンとは違って自分で選べるもの。所有していて、見ていて、実際に使っていてワクワクする — そんなデザインの部分もけっこう重要だったり。そんなわけで、私自身はデザインも素敵で、タッチパネル機能付きのこのモバイルモニターに買い替えて正解でした。

(ロシア人 + 日本人)/ 2 = 完璧? / (Russian + Japanese) / 2 = Perfect?

最近、ベラルーシの友人とZoomで定期的に会話しています。首都ミンスクから離れた地方都市に住んでいることもあってか、インターネットが不安定なこともあるようですが、今起こっているベラルーシでの現政権に対する抗議行動の喧騒からは離れて、比較的静かな生活を送ることができているのだとか。

ロシアにいて尋ねられる質問の一つに、「中国人、韓国人、日本人の見分けがつくか?」というものがありました。我々日本人が、ロシア人、ベラルーシ人、ウクライナ人の見分けがつくのか?という質問をロシア人にするのと同じかもしれません。外見が似てはいても、国民性が異なるというのは両者で共通するテーマと思います。

ベラルーシ人の彼に言わせると、ベラルーシの人はロシア人よりもおとなしく、直接的な物言いを避ける傾向にあるようです。Ты догадайся о чем я думаю. (こっちがどう思っているか分かってくれよ。)なんてよく言ったりする。相手に言いたいことを直接言わずに、でもこちらの思っていることを分かってほしいために遠回しに言うことがある。ロシア人とベラルーシ人の中間がベストだね、ということでした。これはあくまで個人の意見であるため、これでもって全国民性の定義はできませんので真実は分かりません。ただ、複数の人から同じことを聞くので、決して個人的な思い込みではなさそうです。Youtubeでは綺麗に日本語を操るネイティブの方々が語る様々な動画があるので、きっとそういったネイティブの方の意見も十分な説得力があると思います。私自身、ロシア人と日本人の性格を足して2で割ったら、きっと良いバランスになるだろうな、と思っています。

その友人の妹がドイツに行き、帰国して言ったことは「ドイツは本当に素晴らしい国だ。よく整備された国。けれども、人々は今の経済が悪くなることを恐れている、仕事を失ってしまわないか怖がっている」と。恐らく日本でも同じように大なり小なり同じような認識を持っているのではないでしょうか。私自身、帰国して客観的に自分の生活環境を見て特に感じるのは、今の安定したやり方、環境を守ろうという意識が強いこと。今の状態でも課題はあるけれども、でも大きな問題ではないはず、そんな雰囲気かもしれません。変化、というものに対してなかなか良いイメージがない。きっと日本がというよりも、どの国でも変化というものには敏感でしょうか。とりわけ、「日本は安定していてすごい。」とロシアの人の多くが訴える日本の”良さ”。その安定さを否定的に見ることはよくないのかもしれません。どうしてもその危険性ばかりに目をやってしまうのですが…。

今の状況を問題視しないとすれば、きっと、それはその人の環境がそれだけ整備されているからなのかもしれません。やっぱり日本はすごい。たまにおかしな光景を目にしてショックを覚えることもありますが — つい最近、朝のマクドナルドで座っていたら、注文をしているおばあちゃんの声が向こうから聞こえていましたが、突然声を張り上げて、「こ・こ・で・食・べ・て・ゆ・く・の。私はいつもそうなの!」しばらく沈黙のあと、「あなた今笑ったわね!見えないところで笑うならまだしも、人の前で笑うなんておかしいじゃないの!なぜ笑ったの!」と。その後も冷静に対応している店員とのやり取りの後、そのおばあちゃんのところに店員が注文品を持ってくると、「この400円泥棒!」と捨て台詞を吐き捨てるように浴びせていました。何があったかよく分からないのですが朝から強烈…。赤信号でも関係なくゆっくりと横断歩道を渡るおじいちゃん。それをじれったそうに待つ青信号側のドライバー。高齢化社会の日本は恐ろしい時代に突入してゆくものだと、そんな断片を感じました。 — これだけの経済大国を作り上げた日本。一方で、同じ時間に世界の別の場所で起こっていることとのギャップに少々戸惑いを覚えます。静かに人々が暮らしているように思えた、あののどかな雰囲気のベラルーシで今起こっていること、ロシアでも反プーチンの代表的な人物であるナヴァリニィ氏の呼びかけた反政府活動により各地で大きな暴動が起き(モスクワに駐在している人曰く、デモが起こっているのは局地的なものであり、その場所以外は落ち着いているという)、ナヴァリニィ氏の組織に所属してこの反政府活動を扇動したとして知り合いの息子さんは現在自宅軟禁状況だという。友人の母親はコロナウィルスで亡くなり、お世話になっていたご夫婦や友人の奥さんは共にコロナウィルスで重症となり救急治療室に入っていた、身近なところでもこんな様子を耳にしています。

ロシアはこれまでも、今も、きっと将来も安定、という時代が来るとはとても想像ができませんし、経済的にも家族、親戚同士で助け合わないと生活が難しい状況。だからこそ、今の時代においては逆に強いのかもしれません。元々安定した土壌がない中で、なんとか日々の生活をやり繰りしてゆかなければならず、政府にも頼れず、信じれるのは自分のみ。そんな環境にいれば、これからますます不透明さを増すであろう世界においてもショックも少なく立ち向かえるのかもしれません。これまでは決まったことを一生懸命にやっていれば、会社も成長し、自分の生活が向上し、国も成長してゆくことを実感できたはずが、これからはきっと自ら変化してゆかなければ取り残されてしまう。専門家の言うことも果たしてどこまで信じてよいのかが分からない。自分で考えながら生きてゆくしかない。日本は(世界全体が?)きっとこうなってゆくに違いない。少なくともそんな土壌がロシアには備わっている。その中でたくましく生きている人たちから自分自身も刺激を受けて、自らの環境でできる変化を生み出したいな、とそんな風に友人との会話を通して考える機会となりました。

EACは難しい。その一言に尽きます / EAC is difficult. That’s just one word.

海外で生産した商品をロシア国内に輸入して販売する場合、各商品ごとに定めている技術規則をパスした商品のみ輸入が可能であり、認証されたことを証明するマークとしてEACがあります。このEACは非常に難しい。その一言に尽きます。

ルールは昔からありますが、かつては、ロシアに輸入する商品にあたって必要とされているはずのサンプル品の輸入、試験といったものが徹底されておらず、申請書面だけで認証を受領することもできて無事にEACマークの取得ができた時代もある、と聞きます。今ではどの認証機関でも本来の規定に沿ってチェックするようになった、規制が厳しくなったというよりも、本来あるべき状況にようやくロシアが追いついてきた、とも言えるのかもしれません。

規制の適用範囲が異なる商品群に広がっており、認証対への負担はなかなか実務担当者以外の人には分かりづらい、計り知れないものがあります。認証の専門業者に問い合わせをしても明確な答えが返ってこないことも。専門であるはずの彼らですら、対応すべきことが新しいために前例がなく分からない、あるいは憶測で回答を出すしかない様子。ビジネスを中心に取り扱うロシアの新聞を読んでいても定期的に話題として挙がっていたことを覚えています。「業界団体は当局への規制適用期限の延期を要望している」というくだりで終わっている記事もありました。実際にEACの業務をロシア人スタッフとひたすら行っていた日々を振り返ると、その単調な言葉も「今の状況ではとてもじゃないけど有効期限までに間に合わせることは無理だ!勘弁してくれ!」という、その業界の担当者一人ひとりの叫びが紙面から伝わってきたような、そんな気がしました。

モスクワにはジャパンクラブという法人や個人が会員となって形成されている商工会議所があり、そのメンバーが集まってEACに関する問題を議論する会合が設けられることがありました。日本を代表する企業のモスクワ子会社に勤めるロシア人スタッフたちが集まり、情報交換や、各社からの要望を集めてロシア当局へ伝える、そんな場がありました。私自身の感想としては、EACについて日系企業だけで議論しても、情報の中身が乏しくなりがちで、どうしても有益な議論にならないこともある、そんな印象を持ちました。

欧米系の企業からも幅広く情報収集することが効果的

欧米系の企業が集まっている欧州ビジネス協会(通称AEB)という商工会議所が存在します。この協会も利用して会員である欧米系や韓国系企業との情報交換をすることはお勧めです。

欧米系の会社は日系企業よりも長くロシアのビジネスに関わってきた歴史があると思います。それだけロシアにある子会社の熟練度も違いますし、現地のロシア人マネジャーにも経験のある人々が多いのではないでしょうか。そういった観点で見ると、欧米系の企業と情報交換をすることにデメリットはないと思っています。Working groupが設けられており、異なったテーマで協会のメンバー企業たちがグループを作って定期的に会合を持って情報交換や議論をする場が設けられていました。EACのテーマでは、著名な欧米系企業や韓国系企業のベテランたちが集まり、EACの分野で長い経験を持っていながらにしても、あーでもない、こーでもない、いやきっとこうに違いない、これは質問を当局に投げてみよう、一度ドラフトを書くのでメンバー企業はその内容でOKかチェックしてくれ、うちはこうしている、いやうちはこんな風に対応している、といった議論が続きます。それだけEACの規定というものは、こうにも読み取れるし、いやそこまでは要求されていない。ではどこまで対応すべきなのか?そのバランスの見極めが…難しい。

規定ではないけれども、Recommendation、という形で罰則は無いけれども”かくかくしかじかの対応をされるであろうことが望まれる”というオフィシャルのレターが発行される。罰則はないから必ずしも守る必要はないのか、いや、こうしてレターが発行されたからには対応しておいたほうが良いだろう…そんな風にロシアでもしっかりと忖度の風土が広まっています。

EACを管轄する政府機関を代表する男性がやってきて、今後のEACの展開を話してくれたときのこと。上に立つ人は、実務的な具体的内容に精通していないことはあるとしても、あまりにも曖昧な内容、かつ、酔っぱらっているのかとでもいうかのような呂律が回らない状況。それを聴衆は真剣に聞いています。こんな人に質問を投げかけてもまっとうな回答が得られるわけがない。各企業の現場の人たちは一生懸命に法律への対応に向けて日々努力している中で、当の管轄部門代表者は「詳しいことは今後お知らせできるでしょう」…いや、あなた何も分かっていないでしょう。

どのような形で情報を幅広く取り入れるにせよ — 高額ではあっても会費を払ってAEBの会員となること、認証分野を専門的に勉強してきたスタッフを雇い入れること、信頼のおける認証専門業者に一任すること — それぞれの状況で正解は異なるかもしれません。どのような場合にしても、まだ会社設立から年数がそれほど経っていない、会社規模も中小規模の日系企業が集まるモスクワにおいて、情報収集の幅を日系企業間からさらに外へ広げることが大切、それに見合うだけのメリットがあると思っています。AEBで言えば、個人的に相談できる間柄になれば、日頃からメールでやり取りをして情報共有ができるでしょうし、なかなか聞けない情報も教えてもらえるかもしれません。目の前の課題への対応方法にも選択肢が広がります。EACの対応現場では最終的にロシア人スタッフに頼るしかないので、会社のマネジメントとして出来ることは彼らが活躍できる場を提供して、その中でスタッフに活躍してもらうことになるでしょうか。その場を整備するためにも、自社だけで何とかしようとするのではなく、幅広く外部の企業と情報を共有することが有益であろうと思っています。日系企業に留まらず、幅広く他国の企業に勤める人たちとの交流は日本にいては得られないチャンスでもあり、日系企業とは異なる企業の様子も伺える良い機会になることに違いありません。

経験を振り返ると、EAC業務がどれだけ骨の折れる仕事か、どれほど時間がかかる仕事であるか、それにより会社にどんな潜在的なリスクが生じるのか(EAC認証の取得が間に合わないために商品の輸入が遅れて販売の機会損失を招くなど)といった点を周りの人に理解してもらうことはなかなか骨の折れる仕事です。規制対応の大変さ、その負担の大きさ、懸念されるリスクを見える化して、上司や日本の本社に対して丁寧に説明してゆく地道な努力の積み重ね。それしか方法がないのでは、と思っています。

(この記事は私が駐在員生活を送っていた当時の経験を基に私の主観で記載しております。直近の情報を反映していないため、最新の状況を確認することをおすすめいたします)

これからは、上手に”怒り”をコントロールできる人がますます重要に。/ From now on, it is more and more important to control and make use of “anger”.

どんなに周りが自分の苦労に同調してくれても、どんなに理由があるとしても、会社では手や言葉による暴力をふるってしまった時点でどうしようもなくなることがある。それを駐在生活の間はよく認識しておかないといけない、と思う。ひどいスタッフはそれをこちらを挑発するかのような態度でふるまってくる人がいるのが余計に悩ましい。他の仕事でも負担がかかっている中でそのような場面に遭遇すると、どれだけの人は自制を働かせることができるのだろうか。私自身、感情のコントロールが難しい場面に何度か出会いました。

大企業では往々にして”人間ができている”方が多い気がするので、怒りを誘うような、むしろ挑発してくるかのような人に出会う機会は、全体の組織に所属する人の総数に比べると少ないのだと思います。しかし、外国に出て、小さな規模の子会社ともなると、そのような人間に出会う可能性が一気に高くなる。日本では有名な大会社の子会社と言っても、ロシアに進出している日系企業の多くは従業員が100人にも満たない小さな企業。私が駐在していた時期には、主要な日系メガバンクをはじめ、創立10周年を迎える企業が続くようなまだまだ歴史も浅い日系企業。まだまだ会社の文化やロシアでの管理部門のノウハウも積み上げ中、という会社がほとんどと思われます。そういった所へ、ロシアといってもモスクワ育ちの人もいれば、モスクワとは全く異なる環境の町で生まれ育ちモスクワへやってきたロシア人もいれば、日本の大企業に入社するような家庭環境とは全くことなる環境で生活してきたスタッフもやってきます。一般スタッフの試用期間は3か月と決まっていますが、よし、良いスタッフを見つけたものだ、と思いきや、3か月の試用期間を経て正社員契約をしてからは手のひらを返したように全く使い物にならない、そんな悩みも耳にしたことがありました。

今となってはすっかり業務の負担も減り、ずっと気持ちが穏やかに過ごすことができていますが、人間というものは毎日何かに追われ続けていると、ちょっとしたことにもイラっとしてカチンと来ることがあるようです。

「もう今の状況じゃ出来ません、あまりにも仕事が辛すぎます。人が足りません!」と部下の経理マネジャーに言われた時には、思わず机をバンっと叩いてしまいました。相手もびっくりした様子で引いていた様子だったことを思い出します。「いや、こっちだって大変なんだ。できることは出来る限り手伝うけれども、まだ改善の余地はあるでしょう、できることがあるでしょう」と。それからどれだけ経った頃だろうか、急に呼び出されて「実は、転職先が決まったので辞めます。私には今の立場が向いていない。私はマネジャーは務まりません。」と言って彼女は去ってゆきました。机を叩いた頃から関係に亀裂が入った、ということはなく、その後も彼女が退職を切り出すまでの間も、彼女が退職したのち、私が帰国したのちも連絡を取り合ったり、という間柄なので、今でも、そう、今でもあの行動が原因ではなかったはずだよな、と思っているのですが。とにかく、私も彼女もあまりの膨大な業務量に疲れ切っていた…それだけは確かです。

敢えて怒りを誘う場面に遭遇する訓練が必要とは言わないけれども、そのような場面に遭遇した時、自分の心拍数がどうなるか、どんな表情をして、どんな風に顔の筋肉がひきつって、どんなに呼吸が乱れるのか、自分を客観的に観察することは重要と思っています。私自身は、外国に出てみて自分自身がかなり感情に流される傾向があるな、と。メールの言葉にも出るし、態度にも言葉にも感情が乗り移ってしまう(だからこそロシアでロシア人相手に喧嘩できたのかも)。後で後悔することもあります。まだ赴任して1、2年目の頃でしょうか、本社のコンプライアンスから、「現地スタッフから、上司のXXXさんによって言葉の暴力を受けている、との通報があった」ということで、私が書いたメール文章すべてが送られてきたこともありました。

「日本語だととても言えないことも、なぜか英語だとつい言ってしまうんだよねぇ…」とつぶやいていた知り合いの方の言葉を思い出します。言葉というものは恐ろしいものです。その方にとってはそれが一つの怒りのコントロールだったのかもしれません。きっと、言われた側のスタッフも、英語はネイティブではないのでそこまで強烈に受け止めなかったのだろう、と解釈することにしました。

私は今の会社の中だけで日本国内を転々とし、それからロシア勤務を経て今に至りますが、今日本の職場でこう感じます。同じ環境で似た者同士が集まり、同じ場所でずっと過ごしていると、自然と自分の枠組みが決まってゆき、自分自身の思考の型がいつの間にか凝り固まってしまう危険が限りなく高い、と。それが当たり前と思ってしまい、その枠から飛び出すことがいつの間には難しくなっている。国内を転々として現場にいた頃の大きなメリットは、その土地でしか出会えない人との出会いによって自分自身の常識が揺さぶられること。朝からお酒の匂いを漂わせてやってくるおじさん。彼女と同棲を始めてしばらくしたら、自分の貯金が空になっていてどうにもならなくなってしまった話を自嘲気味に話してくれた男性。暇な時間があれば職場で自分の彼氏の悩みを打ち明けだす女性社員。生まれてからずっとその土地から出たことがない人たちと打ち解ける大変さだったり、知識だけは持っていて実務経験のない、外部からやってくる新人たちを受け止める熟練社員たちの気持ちなどを実感として経験したり。周りにも同じような環境の人たちに囲まれていて、会話の内容も仕事のことが中心になってくると、考え方も考えそのものも自然と同じようになり、結果的に多様性を大切にするはずが多様性がなくなってゆく。そして、怒りへの対処方法を学ぶ場所も自然となくなっていってしまうのではないだろうか。

怒りのコントロールを上手にできる人はますます重要になってくるだろうということは間違いない。怒りのコントロールは日頃から自分のメーターを管理して、自分の怒りのポイントを学んで、それをどうしたら改善できるのかを学ぶこと。次にその場面に遭遇する時にも自分をコントロールしやすくなる。怒りを感じる時はけっこう急にやってくるものだ。あと、自分の思っていること、感じていることは素直に外に出したほうがよい。それを溜めてしまうと、その反動はあまりにも大きいだろうから。人によっては暴力に訴えてしまったり、精神的な病を患ってしまうのかもしれない。

昔、学生時代にバックパッカーとして旅していた時のこと。顔を見るなり、あっちにいけ、という身振りでモノを売ってくれなかった人もいましたが、私が日頃感じる怒りのレベルは、世界で迫害されてきた人種、民族の歴史と比べたら本当にちっぽけなもの。今もこれからも、自分の出会う範囲の中で感じる感情の起伏と向き合い、感情、特に怒りのコントロールを上手に次への原動力に変えられるようになりたいものです。これからもきっと見つかるであろう、自分の感情の新たな発見を想像しながら。

今でも日々の業務で思い起こす上司の教え / The lectures of my boss that I still remember in my daily work

これを読んでいる若手の皆さんも、これまで出会ってきた上司のもとで、その上司ならではの教えを受けてきたことと思います。それを人によっては苦労を重ねてきた、というのかもしれませんが。私も異なるタイプの上司の元で過ごしてきました。どちらかと言えば、私は怒鳴られたり、「お前はなっとらん!」と言われて育ってきたタイプです。今の世の中で見られる、褒めて育てる、出来る限り厳しいことは言わずにことを荒立てずに部下を上手く育てる、雑談で雰囲気づくりをして…といった風潮とは縁が無い世界で育ってきました。それで、今の職場でそのような環境に身を置くと何とも落ち着かない気持ちになります。人の成長にはその人それぞれにふさわしい方法があり、世の中で正解と言われる方法が決して全員に当てはまらないこと、自分が相対する相手の成長にとって何が最も効果的な方法であるか、自分で考え、判断することが求められています。何だか、日本の部下のマネジメントはロシアよりもずっとずっと複雑で難しいことかもしれません。表面上は良いのですが、内面では何を考えているのか、ロシア人スタッフと接する時よりも察することが難しく感じられます。

さて、こんな私がこれまで接してきた上司から学んできた教えの中で、特に今でも日常業務の中で意識させられる大切な教訓を書き出してみました。

報告書の書き方

毎月作成する実績レポートのコメントを書く時にはその言葉の背景にいる人を考えること。例えば、「部品の供給不足により目標生産台数の未達。」これは事実以外の何物でもないのですが、それを読んだ上の人がどう思うか考えてごらんなさい、私の書いたコメントによって、それを読んだお偉い方がその部品供給のために尽力している担当者を非難していることにならないだろうか?その担当者は一生懸命にやっているものの不可抗力のために供給が間に合わない状況かもしれない。自分の書く一文が与える影響、背景を考えながら文章を書くように、ということを学びました。ここで私が理解したのは、コメントを書くスペースは限られており、上記の事実以外を補足出来る要素もない。そうだとしても、その上司は他の担当者が努力している姿を知っているからこそ、何も知らない私が一言が”部品供給をしてくれない部門が悪いのだ”とも読み取れる、そんな一言を簡単に書くことの危険を指摘し、その背景にある事情まで汲み取る努力をするように、という点を指摘をしたのだと理解しました。

コメントを書いたら声に出して読んでみること

これは今でも忘れがちになってしまうけれど、守りたいとても大切な教えです。頭の中で反復して確認。よし、このコメントで大丈夫。そう思っていても、声に出して聞いてみると、あれ…何か変だな、と思うことってあります。一人であれば自分で声に出すしかありませんが、それに加えてさらに良い方法は、隣にいる同僚に自分の書いたコメントを読んでもらって、意味の通らない部分がないか?分かりやすいか?を尋ねてみることです。

メールの宛先はToとCCを正しく使い分けること

複数の人が宛先に入っているメールを送る時、メールのあて先はToとCCを正しく使い分けること。メール送るときには、各相手のメールアドレスを必ずToとし、それ以外の人のアドレスはCCに入れるように。これを厳しく指導されました。受信メールを確認する時には、CCで届ているメールを読む優先度が下がる、時には内容チェックする無視することもある。Toで届くメールとCCで届くメールとではその重さが違う、ということを教えていただいた気がします。

自分が提出したレポートの中身を深く追及されたときの私の曖昧内答えに「ふざけるな!明日の朝一番に来なさい!」と言われ…50人くらいが陣取るオフィスの目の前で、気が付けば3時間くらいだろうか、説教されたこともありました。今となってはいい思い出です。「あなたの価値はなんなのか?今の仕事のやり方をしていたら、いつの間にか使われるだけの人間になっちゃうよ。」

そんな上司とも、私が次の部署に異動する時には送別会を開いていただき握手してお別れしました。つらい期間と思ったことも、今は教えられたことが自分の軸になっている。今は辛い、と思えることでも、後で振り返ると「今は出来るようになっている。何であの時はあんなに苦労していたんだろう?」なんて言っている将来の自分がいます。人生その繰り返し。終わりなき成長への道をひたすら歩んでいるようです。とある日には、帰宅途上の車の中で悔し涙が自然と流れてきたこともありました。「なんでこんなこともできないんだろう…」あの悔しさが成長への原動力となっていた気がしています。

上司が指摘する内容は、きっとその上司が先輩から受けてきた教育であったり、自身が失敗から学んだことを踏まえたものであるはず。その上司の仕事人生の価値観が詰まっているとも言えそうです。今の世の中、単に部下を虐げる上司もいるので、すべてに置いて上司は正しく、いつも私のことを思って言ってくれているんだ、という考えは危険なのかもしれません。ただ、もし上司の言うことに、部下のことを思って言ってくれている愛を感じる部分があれば、きっとそれは上司の期待に応える良いチャンスかもしれません。

自分の今の仕事、自分の価値観を”否定”し続けること / Keep “denying” value of your current job and a sense of values

自分の今行っている仕事の価値や価値観を”否定し続ける”ことの大切さ。ロシアにきてこのことの大切さをより強く感じるに至りました。日本に戻っての業務を通じて、この感覚は一層確信となっています。

今の変わりゆく世界にあって、自分自身のやり方がそぐわない場面がやってくる。

かつてはよし、とされていたこと、自分ではこれが適切だ、と思っていたことが今となっては否定されること。それはまるで自分自身を否定されているかのように感じることがあるのではないでしょうか。例えば身の回りのちょっとしたことで言えば、入社当時には日経新聞をよく読み、記事の切り抜きを取ってノートに保存していたり。興味のある記事があればファイリングして本棚に保管してみたり。それが今ではOneNote、Evernote, Notionといったオンラインノートを活用することで切り抜きも不要、棚スペースも節約できる。後からの検索も容易。メールでは細かいニュアンスが伝わらないので会話して要件を説明すべきと思ったところ「誤解が生じるといけないので、まず先に要件を書き出したメールを送ってください」とあしらわれてしまったり。実際に日本に帰ってくると、日本人同士で同じ日本語で会話しているにも関わらず、これでもか、というくらいに小さな誤解が日々生じます。会話しているのになぜこうもお互いに理解が異なるのか…苛立ちを越えて、むしろ言葉というものの面白さを感じます。

大きな流れの変化で言えば、コロナウィルス流行によりリモートワークが導入され、それに応じてますます電子化が進み、社内のコミュニケーション、営業スタイルも変わり…。

それに対してどのように備えることができるか?日頃から自分で自分の価値観や仕事の方法を否定し続けることが大切ではないだろうか。

モスクワで出会う駐在員の任期は、一般的に3~5年くらいでしょうか。日本との行き来を繰り返して累計10年以上ロシアや海外ビジネスに従事している駐在員もいますし、現地採用としてモスクワにとどまって勤務している人もいます。

そんな中で面白いなぁと思うのは、どれだけ長くロシア、海外に滞在していても日本の価値観を正しいと考えてロシアを否定的に見る人。一方で短い期間としてもロシアの良さを認めて客観的に日本とロシアの良さをそれぞれバランスよく観察できる人。その違いは何だろうか、と考えるのが楽しくもあります。

わたしは、物事にこだわりを持たないこと、常に新しいことへの好奇心をもつこと、よい意味での”テキトーさ”、がその違いを生み出すと思っていますが、それらをひっくるめて上手に一言で表現すると「謙虚さ」。この言葉にたどり着きました。

日本がなぜかつて世界2位のGDPを達成し、今もって世界3位に居続ける国力を持っているのか、日本の凄さを実感することができましたし、日本人が自国の文化を否定的に語るのを聞くととても悲しくなります。ー 「今の日本は、日本人一人ひとりが自分たちの幸せを犠牲にして成り立っているんじゃないって思うの」、そのロシア人の言葉は今でも印象的です ー また、日本にはないロシアの良さをよく学習しました。

「今の日本は、日本人一人ひとりが自分たちの幸せを犠牲にして成り立っているんじゃないって思うの」このロシア人のコメントを皆さんはどう思いますか?

私自身は標準的な駐在期間を超えてモスクワにとどまり、一般的な駐在任期のバランスを逸脱してしまったのではと思いますが、今後の人生において広い考え方に触れる機会を現地で得たこと、現地で考える時間を持ち自分なりの価値観を持てたことは一生の財産です。そして、それは今後も新たな出会いによって変わってくるのかもしれません。

自分自身の価値観を持ちつつも、他方では”否定できる”感覚ももっておく。このためにも自分自身にとってこだわりとなるレベルをどの高さに置いておくか?これをじっくりと考えて理解することが大切であろうと。

自分のポリシーを持っておくことは大切だけれども、他人もかかわってくる仕事においては自分の意志を押し通すこと、自分のやり方を貫くことといったこだわりは弊害となることばかり。

例えばオフィスの家具を入れ替える際、デスクの足は円形か四角か?机の色、椅子の色…これらをロシア人スタッフにお願いするのか、そこまで自分の意志を押し付けるのか?自分が会社のマネジメントの立場におり、自分が決定権を持っていて、自分なりのオフィスへのこだわりがあれば、きっと細かい部分まで決めたくなるかもしれません。

資料のまとめ方をとっても、自分の発言一つがどれだけその下の人間の時間と労力を奪うことになるのか?そして、自分のそのこだわりが本当にそれだけの時間と労力を費やすに価値があることなのか?

私は絶対にオフィスには誰よりも早く来る。週末は必ずオフィスに来て仕事をする、仕事のやる気を高めるためにランチは必ずこれを食べる、頑張ったご褒美として夕食は日本食レストランに行く。そういった個人のこだわりは大歓迎ですが、

いかに全体にとってベストの解決案を見つけて決定できるだろうか?

いかに関係者の時間を最小限にして最大の結果を導けるだろうか?

自分自身のこだわりが全体の仕事に影響を与える時、自分の持っているこだわりを否定できる軽快さ— きっとこれが謙虚さだと思います — を示す用意ができているだろうか。これは大切な要素だと思っています。

仕事の定義そのものを揺るがすような大きな変化の波がやってくる時にも、自分の存在価値のちっぽけさを感じることで、自分の価値観や過去の偉業を過大評価しない(周りの誰も、わたしたちの過去の成功話を喜んで聞きたいという人はきっといないだろうから)。自分に求められる役者を舞台で演じること。こだわりを持つのであれば、今の自分の仕事でどれだけ周りの人を幸せにできるか(仕事を楽にするために貢献できるだろうか)?これに徹すること。そこに常に子供の頃に抱いていたような好奇心を加えて、何事も肯定的に未知に接してゆくことの大切さ。

きっと、その根底にあるものが、自分の今の仕事、自分の価値観を”否定”し続けること、なのだと思っています。

新入社員の頃、いつも遅くまで仕事をこなす、他の部署の管理部門長のおじさんが社員がいました。その方の部署では営業マンが所定の経理書類の提出を忘れてしまったり、よく伝票作成を間違えたりで、怖い経理のベテラン女性から怒られることも日常茶飯事。そんな中でも文句ひとつ言わず笑顔で接してくれる方でした。

「〇〇〇さんから見て、この会社の社員に足りないものがあるとすれば何でしょうか?」

そう尋ねたことがあります。しばらく「う~ん…」と考えたあと、

「この会社の社員がとても優秀だ、うん、それは間違いない。ただ、ほとんどの人は一定のレベルまで来るとそこで止まってしまうんだよなぁ。なぜだか…そこに何か足りないものがあるんだよね」

これまで、ずっとこの答えの意味を考え続けていますが、きっと、恐らく、その”何か”には、今の自分の仕事を肯定して日々を過ごしているか?あるいは否定して物事を考えているのか? — そこには謙虚さや好奇心という要素も影響しますが — この、今の自分の仕事や価値観に対する接し方が成長曲線の向きを決めているのではないかと思うように至りました。

モスクワは本当のロシアじゃない / ”Moscow is not real Russia”

「モスクワは本当のロシアではない。」ロシア人と会話していてモスクワのことを語ると大概このフレーズを耳にします。恐らく、「モスクワは本当のロシアではない」って本当?と尋ねると大半のロシア人が頷くはずです。駐在期間の間、休暇になると多くの駐在員の選択肢は、日本食の買い出しも兼ねて日本に帰国する、あるいは距離が近い西欧や、海のある南の地域に出かける、そのいずれかがほとんどであったように思えます。ロシアとは所縁の無かった日本人がモスクワに来ると、それはもうハードシップの高さを訴えると思いますが、お金さえあれば基本的には何不自由なく生活ができて、他人には全く笑顔を見せないと思われていたロシア人も今では笑顔で接客してくれる。街の中でも嫌な思いをすることがほとんどない(むしろ、中央アジアから来ている同じアジア人が露骨に差別されている様子を何度も目にしました)。道を尋ねても特に嫌なこともなく教えてくれる。(逆に、明らかにロシア人ではないこちらに道を尋ねてくるロシア人も何度か遭遇しました。地方からやってきたロシア人なのでしょう。ロシア人にモスクワの道や地下鉄を教えてあげる。何だか不思議な気分でした)ずっとモスクワは住みやすくなったと思います。ただ、ロシア語がどうしても必要となり英語が必要な場面は私はソビエト時代の大変さを知らないので、ソ連・ロシアと長年同じ畑を歩んできた報道、商社マンのようなビジネスマンの方々が持っているであろう数々の面白愉快な話は残念ながら語ることはできません。大学時代に教授がソ連時代の小話を語ってくれたのを一つ覚えているのは除雪車の話。大通りを除雪車が道端の雪を除雪していたそうです、ゆっくり車が動きながらかき集めた雪を後ろに吐き出しているのですが、その吐き出した雪が除雪車が通った後の除雪した場所に降り注いでいるので、結局その除雪車が通った後は再び雪が積もったままになっていた、という話。これがソヴィエトだ。なんて面白く語ってくれば話を覚えています。多少話に尾ひれが付いているかもしれませんが、何だか納得してしまいました。

混沌とはかけ離れた、街も綺麗で国もロシアに比べれば整っているであろうイギリスやドイツ、日本に憧れるロシア人もいれば、「ドイツに行ったけれど、あんなに(何もなくて)つまらない国には住めたもんじゃない!」というロシア人もいる。かつてナチスとの市街戦を繰り広げたヴォルゴグラード(当時はスターリングラード)を訪れた時には、穴だらけの車道がありタクシーも前方要注意。「ここではまだ戦争が続いていて道路が穴だらけなんだ、ハハハ!」と陽気な運転手。自分の街を愛している人でした。なんだかんだロシアのことを悪く言うロシア人がいても、やっぱり自分の祖国を愛している。程度の差はあれどもその愛を、身の回りのロシア人から感じたロシア生活でした。

ロシア生活の間には本当に貴重な旅行ができました。コロナウィルスが拡大して外出規制となる直前までに出かけたモスクワ近郊への小旅行ではモスクワとは違うロシアの別の顔を見ることができました。一生残る大切な思い出です。それ以外にも、ロシアが併合した後のクリミア。空港のかつてのパスポートコントロールがただの無人のボックスとなり、昔は列をなした場所を何も無いかのように通り過ぎて空港をあとにしました。かつては町が完全に崩壊した場所が見事に復興しヨーロッパ最大級の美しいモスクが立っているチェチェン共和国のグロズヌイ。ロシアとの衝突が続き、路上には戦車が並ぶ道路を進んで向かったウクライナのオデッサ。2014年のウクライナ騒乱で数多くの人が無くなったキエフの独立広場、未承認国家である沿ドニエストル共和国やアブハジア共和国、チェルノブイリ原発事故で誰も住まなくなった町へのツアーなどなど。ロシアには中央部には広大な世界遺産の大自然が広がっていますし、極東地域には世界最低気温を記録したサハ共和国の首都ヤクーツク、美しい自然、美しい富士山のような山を構えるカムチャッカ半島。まだまだ出かけたことの無いロシアの魅力がまだまだ残っています。

日本語でロシアの一般生活の様子を探そうとするとリソースに限られると思います。一方でロシア語のサイトとなると検索のハードルが上がります。英語の勉強も兼ねて、英語で紹介されているロシア紹介サイトを訪問することをお勧めします。

偶然見つけた極東に住むこの女性のサイト。”Yeah Russia”

https://www.youtube.com/channel/UCWf43GShTqMDdJN9pICYd2Q

モスクワとは全く異なる極東の街の様子を見ることができます。モスクワを一歩離れると、モスクワ近郊でもこのような風景が車窓に広がります。極東だからこんな様子、ではなくてモスクワとそれ以外の町の落差を見る上でもとても参考になります。

彼女のページでは、他にもお勧めのYoutubeページが紹介されていました。

例えば、こんな以下のページ。”Different Russia “

https://www.youtube.com/channel/UCFFG4euAS7ZoAUYJFQETouA

モスクワの様子やモスクワ近郊での生活を実感することができます。上記のサイトと比較すると日常生活を紹介する点ではテーマが近いように思えますが、また違った都会の雰囲気を存分に感じることができるビデオがたくさん紹介されています。

ロシア人も日本人も、みんな人間、同じ仲間。 / Russians and Japanese are all human beings, the same companions.

日本に帰国すると、モスクワでの駐在生活では上司として部下のロシア人スタッフに言いたいことを言い放題であった身分も、日本では一スタッフの身分。同僚のことをおもうのだったらなぜ言えないの?友達でしょ?といっていた自分がいるけれども実際には難しい。上司だったら言えるのだろうか、いや、そうとも限らない。日頃から言えるだけの関係であったり、”言える”という能力も持ち合わせていないといけない。少なくとも、指導できる正当な立場にあるのは確かだけれども。年齢を重ねれば重ねるほどに周りはこちらについて思っていることを言わなくなる。近頃は、ますます大切なことだなぁ、と感じることは、常にもう一人の自分を少し離れた所に置いて自分自身を客観的に見つめること。すぐ傍にもう一人の自分がいて、その状況での自らの振る舞いについて観察する — 単なる自己中心的な言動になっていないだろうか?今の状況を良い方向に向かうためには何ができるのか、すべきなのか?— ことが重要だな、と思っています。多くの人が心の中で思っていることを伝えてくれないわけですから自分で感じるしかないのでは…

そういえば、ロシア人スタッフもお昼を食べたり、何気ない生活の話をするときには大いに盛り上がって仲良くしていたけれども、いざ仕事のことで正すべき振る舞いについては、上司である自分のところに来て「あれは良くないと思う、仕事では困ってるんです、何とかしてもらえないでしょうか…」なんてことがあったな、と思い出します。

日本に戻ってすでに半年以上が経ちますが、思うことがあります。”ロシアはYes、Noがはっきりしていて相手の考えていることが分かりやすい、その一方で日本では人が何を思っているのか分からないこと多くて悩んでしまう” ― 「ロシアと日本の違いで感じることは何?」とロシア人から聞かれるときには、こんな風にロシアと日本を表現していました。この傾向は今でも否定しませんが、例えば、上記のように職場で感じるような同僚へ考えを伝えるのか、伝えないのか?そんな点になるとロシアも日本もほとんど変わらないのではないだろうか、ということ。そして、日本では、会話の中で感じる微妙な緊張感、使う言葉のちょっとした違いから感じるバチバチとした雰囲気。声のトーン。そんな本当にちょっとしたところからお互いに何を考えているのかを推測できます。だからこそお互いに言わなくても、お互いが見えない会話が成立している。それを日本語文化の中で育ってきた私たちは瞬時に感じます。

一方、ロシア語で同じ会話が繰り広げられている場合には激しい応酬になることも。例:「サーシャ、何でこのディーラーへの出荷先住所が登録されているところと違うって言わなかったの!信じられない!」「いや、言ったじゃないか?」「いや、聞いてない!これでもうXX回目よ!」こんな大きな声が聞こえてくると、明らかにトラブルがあって、両者が自分の正しさを主張し合っていて、これは問題だ、と。そこまではロシア語が分からずとも感じとれそうです。しかし、そのトラブルの主要な原因は何なのか?お互いに何か反省すべきところがあるのでは?きっと何かがあるはず。(オフィスで生じる問題には、大概どちらかが100%悪いというものよりも、お互いの意思の疎通の問題や情報共有不足、指示の曖昧さ、そんな双方に原因がある理由がほとんどを占めている気がしています。)自分の何が足りなかったのか?どうすればよかったのだろう、改めてほしいのだろう?そんな点になると、なかなか本質的な議論にまで発展する機会はなかったような気がします。本人たちの上司であるマネジャーに話しても「それは別に大したことではない、彼らの性格もあって言い合いになっているように見えるけれど、よくあることなので」と深刻に捉えてはいませんでした。日本のオフィスで私が見かける光景とは違い、はっきりとした言い合いになるほうが、本人たちも周りの人たちも起きている問題や、当人たちの改善すべき点に気が付く機会となる点では良いのかもしれません。そうであっても、当人たちが自らの正当性の主張をし続ける限り、その機会は有効に生かされないことになりますが。

自分とは関係のないと思う外部の人間だからこそ強く言えることもあれば、自分の大切と思う仲間には嫌なことを言いたくないからこそ黙っていることもある。黙って相手の足りない点を我慢して受け入れることも仲間をおもうことの表れ。いや、相手の将来を考えるからこそ、相手に直してもらいたい点を今伝えよう。それもまた思いやり。何が正解なのか分からなくなってきましたが、私の経験から言えることは、

・日本と比べると感情を出して議論するロシア人スタッフの様子を見て、なんでもかんでもロシア人ははっきりと物事を話す人たちだ、という思い込みを避けること(根幹部分ではみな同じ人間。同じことを感じている、考えているのだから)

・自分自身の直すべきところを指摘するほうも、指摘される側も、共にそれを直接相手に向かって口に出すことはいいものではない。だからこそいつも自分を客観的に見つめて謙虚に修正してゆく努力が大切

・生まれ育った環境はそれぞれ異なり、それぞれが違う考えや固定を持つのは当たり前。自分の良さを客観的に観察して、それを最大限に発揮できる場所を見つけること。(「なんか変わってるよね」なんて言われる分野があれば、それは多くの人と異なる自分の強みがある場所なのかも)よく言われていることだと思いますが、周りの人間ができていて自分が叶わないなぁ、と思うことをいくら追いかけても、一定のレベル以上を目指して追いつこうとする心が伴わない労力は努力に見合わなく疲れてしまうだけだから…と自分自身の経験を通してそう信じています

あまり人種、文化の違いを考えることなく、あくまで一人の人間として感じる通りに行動すること。日本人だから~、ロシア人だから~、そういった杓子定規に物事を捉える必要はなし、そういうことなんでしょうね。

商品レビュー:Dell ウルトラシャープな27インチモニター、U2720Q を購入して使ってみてすっかり気に入った / Review: Dell UltraSharp Monitor U2720Q

テレワーク。決して広くはない家ですが、家の中で部屋と場所を移動しながら仕事をしています。同じ部屋でも座る椅子や向きを変えるだけでも多少雰囲気が変わります。仕事用の机を置いている部屋は日当たりが悪く、太陽の陽が入ってきません。冬場はこの部屋にいると体の芯から冷え切ってしまいそうな。でも、夏場はこの部屋の湿度がぐっと下がり快適なので、逆にこの部屋にこもって仕事をする時間が多くなります。去年は引っ越してきて、エアコンが無い期間の辛さはモスクワ生活では経験したことのない、久々の日本の湿度を思い出させるうなだれる夏となりました。冬のモスクワでのアパートメント生活がどれほど快適であったか…冬でも部屋の中ではTシャツ一枚で、シャワーを浴びるにも全くもって快適に寒さも感じることなく過ごしていた、というと同僚は驚いています。

モニターはパソコンと同じくらいにこだわるべきものだろう、と思います。管理部門で働くならば絶対に、それ以外の部門でもエクセル、パワーポイントなどの資料、OutlookのEメール、検索をするブラウザを開いて作業するにはモバイルノートパソコンのディスプレイだけでは苦しいものがあります。サイズはオフィスでも利用していた同じサイズで良いのか、あるいは自分の業務内容を考えたうえでそれなりのものを揃えるのか、よく吟味することが必要です。家で勤務する時間がオフィスでの時間より増えているのであれば、それだけ家の仕事環境を整えることが自分自身の仕事のアウトプットに直接響いてくるのであればなおさら…。

今、部屋には43インチ(LG社 43UN-700B)、モスクワ勤務時代に購入して仕事で利用していた34インチ(Dell ウルトラワイドU3419W)、どこでもデュアルディスプレイの環境を作れるようにと購入した15.6インチのモバイルモニター(タッチパネル)、そして今回購入した27インチのモニターがあります。メインで利用しているモニターは34インチ。初めてスイッチを入れて利用し始めたときの感動はそれは大きなものでした。しかし、今回購入したU2720Qを使ってみると、あれほどに画質が綺麗と思っていた34インチの画質も画像が荒く見えてしまう。U2720 Qの画像の密度の細かさはさらに上を言っています。それほど技術の進展は着々と進んでいるのだな、とつくづく実感しました。

今の時代、紙を利用することが減ったからこそ、モニターの重要性が高まっています。将来のモニターのあるべき形を想像すると、大きなサイズも丸めて収入ケースで持ち運びできる軽いモニター。指でサクサクっと画面をなぞればページを前後できる。モニターはタッチパネル必須。SF映画で描かれているモニターがきっと近い将来に実現する日を楽しみにしています。

Dell U2720Q

さて今回購入したDell社のモニター、U2720Q。きめが細かく、それだけ画面がきれい。USB-Cケーブルで画像をモニターに映し出せると同時にパソコンへの電源供給もできるという優れモノです。パソコンについているUSB-Cが他の用途で埋まっていない限り、ケーブル一本で映像と電源をカバーできるので、ケーブル周りがだいぶスマートになります。

個人的な意見ですが、27インチというサイズはサイズと重さ、コストのバランスに優れているモニターだと思います。高さと横のバランスがちょうどよいレベル。決して満足できる大きさではないけれど、ほどよい大きさでファイルを2つ画面上に並べても両者を見比べるのに耐えうる大きさ。1つのエクセルファイルを開いて作業するのであればほとんどの場合事足ります。私としては高さはこのままで、横をもう少し広いサイズのものがあればなおよいのですが。家の中でモニターを持ち運ぶにしても適度な重さ。会社として備品を揃える時に、これ以上のサイズ、これ以上の金額のモニターを標準として準備してくれるか、というと分かりません。ロシアで勤務しているときには22インチモニターを標準としてスタッフに提供していました。後で考えたら、22インチは小さすぎたなぁ、と思っています。それが会社で提供する標準サイズであるからか、スタッフからは文句は聴きませんでしたが、コストと生産性を考えるのであれば、管理部門などの常時数値とにらめっこするスタッフにはもう少し大きなものを — 24インチか27インチ ー を検討すればよかったな、と。

Amazonで販売されているこのモニターのモデル名は”U2720QM”となっていますが、その違いをインターネット上で検索すると、「U2720Qは、Dellオフィシャルサイトで購入するモデル、U2720QMはAmazonで販売されるモデル名称。商品自体は同じで、付属するケーブルが異なるだけ」とありました。(私はDellオフィシャルサイトで購入しました。確かにDell社のマニュアルをダウンロードすると、両者の違いが説明されていました)

https://downloads.dell.com/manuals/all-products/esuprt_electronics_accessories/esuprt_electronics_accessories_monitors/dell-u2720q-monitor_user’s-guide_en-us.pdf?dgc=SM&cid=243878&lid=spr3110429999&linkId=82087367

27インチと34インチの間のサイズを私は利用したことがないのでコメントすることができないのですが、このDellの27インチのモデルを購入した一番の理由は、メインで利用している34インチワイドに1つのファイルを表示させる必要があることが多く、隣に別のファイルを並べて見比べたいことが多くなってきたからでした。かつ、34インチのモニターはあまりにも重い一方で、27インチは容易に持ち運びが可能。家の中で移動して仕事をするときにはこの27インチを一緒に移動して活用しています。ウルトラワイドなモニターの世界には34インチを通り越して、49インチという巨大なモニターがありますが(これまた私は1度も49インチの圧倒的な大きさや使い勝手を経験したことがなく、評価をできる立場にありませんが)基本的には34インチのモニター1つで十分。そして、そのサポートとして27インチを併用するセットが今の時点ではベストかな、というところで落ち着いています。

メールはすぐ返信、即返信、良いこと尽くし / Reply email quickly – it can be only good thing for you

昔に読んだノウハウ本に書かれていたメールの使い方。急ぎの場合にはメールを送ったあとに電話を一本入れること、受け取ったメールには24時間以内に返信すること、そんなことが書いてあった気がする。今、はっきりと言えること、それは”届いたメールにはすぐ返信”。すべてのメールの内容にすぐ返信できないものもあるけれど、返信できるものはすぐ返信。実際にすぐ返信することを進めるビジネス書を見るけれども、その中身を読んだことはないけれども、その正しさを実感しています。

今では本当に急ぎの時、Teamsのチャットや電話機能で呼び出し、会話することが増えてきました。携帯電話でTeamsにログインしていると社外にいても簡単に仕事の会話ができる。それでは、通常の電子メールで届く内容は急ぎではないのか?というと、そうでもないんだけど、でもそうでもある、という答えになりそうな。

メールを送信してきた相手は、聞きたいこと、お願いしたいこと、相談したいこと、何らかの用があってメールしているので、それに対する答えが来ることをいまかいまかと待って期待している。それが早ければ早いほど嬉しいに違いない。それだけ早く自分の欲しいものが手に入るのだから。自分だって、メールで何かをお願いしたらすぐに答えをもらえたらそれは嬉しい。そのようにして、一つ一つのメールに対してすぐ返信を心がけていると、想像していなかった効用がありました。― 自分が頼りたいときに相手にお願いをすると快く対応してもらえること。仕事の処理スピードが明らかに上がること。

相手に喜んでもらえることを ー 届いたメールにはすぐ返信 ー 習慣にすると、自分が困った時に相手に頼りやすくなる。きっと相手もこちらの日々のスピードある対応を好意的に感じているからだと思う。いつも”すぐ返信”ができるわけではない。会議もあれば、他の急ぎのことに時間と心を集中しなくてはならないことだってある。それでも可能な時には常に意識してすぐの返信を心がけているときっとプラスに働きます。

すぐ返信することで、その次のアクションが始まるので、自然と物事が動き出す。多くの事を同時に処理することには無理があるけれど、まずは自分のところにきたものを手放す。その間にやってくるものを受け返す。手元で滞留するものが減ることで、結果的に仕事の処理スピードが上がる、その繰り返し。ロシアで勤務している時には、提出締め切りがまだ1週間後の資料でも、「XX日までにまとめて報告してね、そこで議論して資料を固めてしまいましょう」、という上司。なぜまだ時間があるのにXX日までにやらなければならないのか?他にも片付けなければならない仕事があるのに…そう思うことも確かにありました。忙しいスケジュールで他に時間を取れない、という理由もあったようですが、その要求の根幹には、早く解決できることを今解決してしまいたい。次の課題が嫌でも降ってくるから、少しでも今片づけられるものは今やってしまおう。というものがあったようです。”すぐ返信する”ことはこの考えにつながります。今できることは今解決してしまう。今すぐに返信できるものはすぐに返信をする。シンプルなルールでその効果は絶大。やってみない手はありませんね。

ロシア人スタッフを見ていつも驚いていたことが一つ。とにかく、同僚が持ってきた出張や休暇先からのお土産のメールへの反応が瞬時だということ。メール受信と同時にどどどっとスタッフがキャンティーンにワイワイ言いながら向かってゆく。メールの受信ボックスを見ると、出張から帰ってきたスタッフが「みんなにお土産を買ってきたから召し上がれ!」というメール。キャンティーンでワイワイガヤガヤ盛り上がる。そしてしばらくするとまた席に戻ってゆく。仕事のスピードは速くしてくれ!と言いたいこともあるのだけれど、あの、”お菓子をどうぞメール”への反応スピードには驚きだ…。

最後に。自分の中で何が何でも早く返信しなきゃ、というルールを決めてしまうと、今度は自分の仕事が断片的になり生産性が落ちてしまう。今行っている業務で切りのよいところを決めること。エクセルファイルのメンテナンスをいろいろと行わなくてはならない中で、この数式メンテだけはすべてやり切ってしまおう、とか。まずはこの資料を作成するところまでは終わらせてしまおうとか。そんな見極めが大切です。